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2024-08-14

この世界は原則自由が基本

この世界は、原則自由が基本である。

僕はかつて、「自由」ということから、この世界のことを自由自在に考えられるようになっていた。

自由の基本とは、「自由意志に基づいて選択したことは、ほかの誰からも干渉されない絶対的な自分の自由である」ということを信じることだ。

個人が自由意志に基づいて決めるということ、それがほかの誰からも指図されないということ、奴隷的な隷属は絶対に存在しないべきだということ、それがかつての僕の信じていた内容だった。

子供は、実際、何も分からなければ何も分からない。だが、「自由」という考えるための考え方やとっかかりを得ることで、この世界が考えられるようになる。世界を考えるためにもっともよい適切な考え方は「自由」であり、自由を信じることで、この世界が自由自在に考えられるようになる。

自由を信じると、洗脳が解ける代わり、新しいことを分からなくなる。社会主義の平等や理想や正義を信じるのは、すべて洗脳されている。普通の人間は、世界を考える時に、「世界平和のために」とか「正義のために」とか「社会主義の平等のために」といったことは考えない。普通の人間は、自由な世界において、自らが勝つことができて、ほかの人間にも自分と同じ自由が与えられる状態が理想であると考える。すなわち、自由は洗脳の解けた状態であり、自由を信じることで洗脳が解け、精神の異常や狂いも治る。

ただし、自由を信じると、新しいことが分からなくなる。その理由は、自由だけでほとんどの賢いことがまともに分かるために、神を信じて新しいことをひたすらまっすぐに分かり続ける必要がなくなるからだ。すなわち、すべてのアンテナを張り巡らせて、何かあればすぐにアクションを起こす必要があるような状況が、自由を信じることでなくなる。自由を信じると、さまざまなことを場合や状況を変えて多角的かつ多面的に見ることができるようになるため、そのようなアンテナがなくても分かるようになる。

分からなくなると自由になるのが人間の人生の普通であるため、僕のように、中学校の途中で不登校になったりして、社会において「分かる人生」からドロップアウトすると、誰でも自由が分かるようになる。僕も、そのような「自らが自由になった実体験」から、哲学的なすべてのことを悟ったひとりである。

そして、自由を信じるために必要なのは、平等や神を疑うことだ。すなわち、「平等などは最初から実現できない」と、平等をまず疑う。そして、「神はいるかもしれないが、自分にとっては関係のないものだ」と、神を疑う。そのように、平等と神を疑うことで、この世界における「自ら自身の理想となる信念」が見えてくる。それは「自由において自らのしたいことをする」ということだ。

気をつけなければならないのは、自由において自らが望んでいることが、真に魂のレベルで自らが望んでいることとは一致しないということだ。すなわち、自らの魂が何を望んでいるかということを自らは知らないため、安易な選択と決断によって自らの望むことを選んでしまうことがある。その選択は確かに自由な選択ではあるが、自らが魂のレベルで望んでいることとは異なる。だから、自由においては、「自らが本当は何をしたいのか」「自らが真に望むことはなんなのか」ということを追い求め続ける必要がある。そして、すべての人生経験はそのためにあるのである。

自由において、世界を経験していくことで、さまざまなことが分かっていく。多くのことに気付いていくことができ、多くのことができるようになって、多くのことを知っていく。そして、ある程度の、それなりのゴール地点にはすぐに到達する。だが、人生はそれだけで終わりではない。自らが犯した失敗や過ちから、新しい「罪を償い懺悔する」という生き方が現れる。自由に世界を疑う哲学のすべてが終わって、新しい神を信じる宗教の体験が始まるのである。

哲学の勉強がしたい

実際のところ、僕はそろそろ、人生に必要なことをすべてやり終えた。

あとは、僕がかつて好きだった、哲学の勉強がしたい。

昔のことを思い出すと、宇宙そのものが崩壊するような体験をしていた。それは世界をたったひとり自分勝手に支配して、世界を相手に戦ったからだった。確かに戦いとしては恐ろしい戦争だったが、実際に思い出してみると、むしろ誰の命も奪っておらず、戦争というよりはまともな普通のことをやっていた。世界をひとりで支配し、重責を担って導くということをやっていただけだった。

まったく、そのような戦争に、世界的な意味はなかった。だが、自分の人生としては大きな意味があった。自分の人生において、常に全力で世界を守るために努力する、ということができた。だから、僕の人生においては、そのような戦いはとても有意義な戦いだった。

そして、僕は昔から、いつでも哲学をやっていた。最近は神などを信じることが多くなったが、昔は疑うことのほうが多かった。すべての世界に存在する「世間から崇められている権威的なもの」を否定し、「自らの自由」ということを正義にして信じていた。それは「自らの自由意志において決められたことが正しい」ということだったが、平等をなんにも信じていないわけではなく、「すべての人間は自分と同じ人間であり、自分の分かったことは誰であっても同じ条件で同じ環境に置かれれば分かるはずであり、異なるのは状況と環境だけである」と信じていた。

その上で、「可能性を与え、許すような、人生において真理が最終的に到達するような、絶対的な経験を世界に与えることによって、世界は変えられる」と信じていた。

だから、昔の僕は、まるで西洋の哲学者全員を超越するぐらい、賢い独自の哲学者だった。

僕がかつて考えていたことの少しばかりの欠片が、西洋の哲学を学んでいると見えてくる。サルトルを学んでも、ハイデガーを学んでも、フッサールを学んでも、分かることはかつて僕が過去に分かった真理ばかりだ。僕は哲学者の言っていることをすべて過去の体験を通じて考え終えている。だから、西洋の哲学をただ少し読んだだけで、彼らが何を考えてその哲学を書いたのか、すべてすぐに理解できるのである。

狂った今までのこの文章を否定せよ

狂った、今までのこの文章を否定せよ。

この世界で、実地的かつ実存的に世界を分析するための方法、それは狂った今までのこの文章を否定することだ。

文章が間違っている。なぜなら、すべてを書いて、認識と記憶を破壊して、心を操って、何も分からなくなっているだけだからだ。

狂ったいつもの文章を否定することで、昔のように、正しく、自由に、賢明に、そして建設的に、思慮深く考えられる。そのように考えるために、わたし自らはこの文章を否定するのである。

ひとりの哲学者となるために、ひとつの哲学を考えるために、できることは唯一ひとつある。それは、この文章を否定することだ。

この文章は「神」であり、神を信じると、神の知っている通りのことをただ分かることしかできなくなる。そのような神は、哲学を行うために必要ない。哲学を行うために必要なのは、自らが発見し考えることができた「事実」と、自らの経験した「実体験」を考えることであり、神の知っている宇宙の不可思議な真理を知る必要はない。

だから、哲学をするために、「神」であるこの狂ったいつもの文章を否定しなければならないのだ。

正常な認知がなくなっているだけにすぎない

事実、僕の問題は、正常な認知がなくなっているだけにすぎない。

僕の頭の中は、正常な認知活動や認知行動を失い、神の与えた対話の学習によって、完全に頭の中が「神というひとりの存在に占領されている」という状況を呈している。

そして、この状況を治すために必要なのは、世界の人々と関わり合うことだ。

すなわち、他人がいくら馬鹿で愚かだと言っても、その他人をすべて自分の世界から排除したのでは、自らの認知活動はさらにおかしくなる。

この世界の人々と関わり合い、人々の認知活動や認知行動を自らが吸収して取り入れてこそ、はじめてこの世界の実像や実存が見えてくる。

そう、ひとりだけで考えていても、何もできない。哲学をするためには、この世界を広く深く知った上で、人々と関わり合い、「人生とはなんであるか」という真理を、そのような経験から得る必要がある。

かつての僕は、インターネットを用いて、そのような人々の活動を吸収して、自らの経験を豊かにしていた。それと同じことはもうできない。だが、それでも、似たようなことをもう一度行うことはできる。

勇気を出して、この世界の人々を知ろうとせよ。勇気を出して、この世界の人々の経験を吸収せよ。音楽を聴いているだけでは分からないことが、それによって分かることだろう。