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2025-04-01

環境は変わっていく

「環境を変える」という考え方を信じよ。

常にまったく同じ環境というのは世界には存在せず、環境は常に時間とともに変わり続けている。

その場はそこに常に存在するが、それでも、その場は刻々と変わっていく。人々の営みと地球の自然活動とともに、場は変わっていく。

場には意識が宿る。それは世界精神と呼ぶべきものであり、霊魂と呼ぶべきものだ。場には、その場にしか存在しない意識が宿る。

この世界を、常に移り変わり続けながら、同時に常に存在し続ける、「場の存在」から捉えよ。

同時に、人々の行為や行動について、「自由」ということを基本に考えよ。人々は自由に活動し、自由に行動する。その中で、人々は意識的あるいは無意識的に、世界を変えようとする。すなわち、人々は自由の中で環境を変えていくのである。

平等は現実的には実現できない

理想主義者には残念なお知らせだが、平等は現実的には実現できない。

なぜなら、平等を実現すると、全員が貧しくなって、貧乏人から脱出する方法がなくなってしまう。

自由経済は、自由にしているからこそ、自分次第の努力や労働によって、貧乏人から自分の力で脱出できる。だから、平等よりも自由のほうが、現実的にはよい世界になる。

平等にあるべきものは、権利と機会だ。権利と機会さえ平等にあれば、それ以上の平等は悪平等になる。だから、自由な権利と自由な機会だけを平等に与え、人々が自分で努力すれば自分次第で報われるようにすべきである。

自由には、単に個人の自由でなく、社会の自由も存在する。それが「合意」であり、同時に、集団とは個人という構造モデルを単に複数にしたものにすぎない。だから、個人の自由の延長線上として「合意」を考えれば、それが社会を自由にするということであり、自由な社会を成り立たせるということだ。

自由について重要なのは、「当事者の自由」を与えることだ。当事者の自由を与えずに組織のトップだけを自由にしたところで、それはなんにも自由ではない。当事者に、自分の自由意志で自分の関係する環境を変えられるような自由を与えよ。それこそが、真に必要な「世界を救う自由」であり、それによって必ず世界は救われる。なぜなら、当事者が自分の持つ可能性に気付くことができるようになるからである。

意識と無意識

人間の活動を考える上で重要なのは、「意識」と「無意識」の問題だ。

まず、すべてのことを意識的に行っている人というのはいない。

ほとんどの人々は、多くのことを無意識的に行っている。

だが、自分が無意識で行っていることがなんであるかということについて、意識的に気付こうとすることで、多くのことが見えてくる。

特に、人間の社会においては、「無意識に支配されている」ということがたくさんある。無意識の支配や抑圧について、顕在意識の下に気付くことができれば、人間の精神は自由になる。

これは、トラウマとなった心の傷を癒すことや、何かしらの依存症の依存関係から解放されることと同じで、精神的な「自由な心」を得ることができる。

特に、恋愛をしていると、多くのことが見えなくなり、自由な心を失ってしまう。そのような不自由な心から自由を取り戻すことで、真に世界において人生の真理を悟ることができる。

同時に、世界はすべてがまったく見えているわけではない。見えていない重要なことというのが、世界にはたくさんある。

そのような見えていないことを、誰でも見える形で「見える化」することで、この世界の多くの謎や疑問を解き明かし、明確にそれを打ち出すことができる。

それらは、単に見えるということだけではない。自らが分かっている「確かに確信する真実」ということを、同じように理解さえすれば、他人であっても自分と同じように理解できる。

そのような啓蒙活動のために行うことができるのが、無意識の顕在意識化であり、見えないものの見える化である。

理解とは何か

理解とは何か。

理解とは、「そうなる理由が分かること」である。

すなわち、そのことがいつでもそうなるようなことについて、何かしらの自己分析をして、何が可能性として存在し、何が必然的に成り立つのか、ということを、ひとつの「理由」へと結実させること、それが「理解」である。

理解と法則は不可分である。なぜなら、理解とは原理を分かることであり、法則とは原理そのものだからだ。

法則を理解する上で必要なのは、それがそうなるという原因と結果について法則性を見出し、その法則性から特定のその法則を左右する「ファクター」を見つけ出すことだ。

そして、そこから、再現性を見つけ、実験し、それは証明となって、説明可能となる。それらのすべては「理由を理解すること」から生まれる。

この世界のすべてのことが、理由を理解することから解明できる。たとえば、社会の持つ役割とか、人間の心がそうなる理由とか、自由の意義とか、どのような認識や経験がその時起きるのかといったことのすべてが、「理由を解明すること」から理解できる。

大学に頼ろうとするな。大学では理由のすべてを詰め込まれるだけで、「自分で理由を見出す」ということができない。大学の何もない環境で、自分の頭で理由を解明せよ。そうすれば、ブッダと同じように、宇宙のすべての悟りへと至ることができるだろう。

問題の解決とは何か

問題の解決とは何か。

問題の解決方法とは、「どうすればいいかが分かること」である。

すなわち、そのような問題があったとして、それにどのように対処すればいいか、どのような方法でその問題を解決できるのか、ということを考えることこそが、「問題の解決」である。

そこで言えるのは、「問題そのものがどういうものか」ということを分析することだ。

すなわち、問題が何を言いたいのか、何をどうしたら問題が解決できて、その問題をどのように解決してほしいのか、ということを考えよ。

同時に、問題自体が間違っているということがある。それは、命題自体がおかしなことを問うているということだ。そのような時には、本来あるべきこの世界の問題とはなんなのか、ということをよく考えよ。

問題の解決方法を考えていると、「発想法」や「矛盾」が見えてくる。発想法とは、たとえば世界の代替社会を考えるように、あれもそうだ、それもそうだ、どれもいい、と考えることだ。矛盾とは、それを成り立たせればもうひとつのほうが成り立たず、そのもうひとつのほうを取ればその前のほうが成り立たないということだ。

だが、問題の解決方法をよく分析すると、ほとんどの問題は矛盾なく、すべて成り立つということが見えてくる。

それは、それぞれの言っていることがまったく別のことを言っているにもかかわらず、一見矛盾するように見えて、実際はそれぞれの問題を厳密に条件下した上で、それぞれの条件において個別に考えれば、その矛盾するかのように見えた問題は矛盾せず、すべて並立で成り立つ、ということがとても多いからである。

合理論と経験論は矛盾するだろうか。西洋の哲学史においては、合理論と経験論は矛盾するものであるとされ、どちらが正しいのかが永遠のテーマだった。だが、合理論の言っていることと、経験論の言っていることは、実際はまったく異なることを言っている。合理論とは数学的原理を正しい人間の知性だと言っていて、経験論とは経験的によく知られ、経験的に発見され導き出された知識や慣習と、人間の知性が経験的な人生において事後的に作り出されたということを言っている。両者は矛盾するかのように見えるが、それぞれの言っていることを正しく条件的に考えれば、実際は矛盾せず、どちらも正しい。

疑うとはどういうことか

疑うとはどういうことか。

疑うとは、「宗教も科学も自分の今の理解も間違っていて、正しい真理は宇宙のどこかにあるはずだ」と信じることだ。

すなわち、宗教的な神の存在も否定し、科学的な方法も否定した上で、自分の今の理解にも満足せず、今の自分の理解を正しいとせず、「自分の今の理解よりもさらにレベルの高いなんらかの真理が宇宙にあるはずだ」と信じること、それが「疑う」ということだ。

だから、宗教にも科学にも満足してはならない。同時に、今の自分にも満足するな。よりレベルの高い、真に真実性の高い真実はどこかに存在する。

世界には宗教的な「神の意志」などは存在しない。だが、科学だけですべてが分かったりはしない。なぜなら、科学は単に観察し、実験することで、「構造」や「原因」を分かることはできるが、「宇宙はなぜ存在するか」とか「生物の存在する意味とは何か」といった「意味」を分かることができないからだ。

だが、そのような神や科学的手法を排しても、それによってすべてが分からなくなったりはしない。逆に、自らの人生において存在した実体験から正しく考えれば、たとえばこの世界を救う方法すら見えてくる。なぜなら、今の自分の理解に満足しないということは、今の人々が信じている知識にも満足しないということであり、必然的に世界を救う方法がたったひとり見つけられるからだ。

そのような「自分の思考で考えること」を信じれば、神や科学的手法がなくても、人間は宇宙の真理に辿り着ける。それこそが「ゴール地点」であり、そしてゴール地点に到達しても終わりではなく、さらなる高みが必ず存在し、簡単な戦いが終われば、それよりももっと困難な戦いが待ち受けている。それが人生だ。

想像力とは何か

想像力とは何か。

想像力とは、「自分の行ったことについて結果を予測する」ということだ。

行為において、すべての行為の結果が、自らの予想通りになるということは少ない。自らの予想外や想定外の結果は多々発生する。

そのような結果を予測するためには、たくさんの経験を積み重ねて、たくさんの反省を行う必要がある。

同時に、行為とはすべてが個人的なことではなく、社会的なことであることもある。たとえば芸術や創作活動だけではなく、環境における集団活動もある。そのような中でも、常に客観視をし、常に集団になったとしたら自分がどのように行為すればどのような結果が返ってくるかということについて、予測し、予想し、反省しなければならない。

だから、子供たちが社会的に成長し、社会性や共同体感覚を身に着けるためには、さまざまな社会的なことを自由に経験できるような場が必要であり、そのひとつがインターネットだ。

インターネットにおいては、さまざまな人々がさまざまなことを言う。そのすべてをゴミであると断じてはならない。なぜなら、ほかに逃げ場所がなくなった人が、インターネットにSOSの叫び声を発していることがある。そのようなSOSを受け止めることで、この世界が現状どのような世界であり、どのようにすれば世界を救済できるのかが見えてくる。

社会において、自由を与えるべきかどうかはケースバイケースだ。なぜなら、自由を与えれば当事者が自由になって自助努力によって問題が解決し、よくなることもあれば、組織全体が悪の組織になって悪いことをすることや、社会的な支援がなくなって問題が悪化することもある。

だが、全体としての社会の自由は必要である。なぜなら、帝国主義は戦争に導かれ、社会主義の計画経済が破綻するように、自由にしなければ社会はよい世界にならない。全体主義は個人を見ようとせず、国を批判することもできない。だから、社会全体がゴミのような社会にならない限りにおいて、世界に自由は与えるべきであり、単位や独立性の水準もすべて柔軟にそれぞれが決められるようにすべきである。

自由な経験を積み重ねることで、人間は「正しい判断力」を身に着けられる。それは「世界に対するものの見方をさまざまに転換していった結果、経験的に見えてきた真偽を判断する力」である。それこそが「正しい考え方」であり、そのためには豊富な、そして自由な経験による、おびただしい反省体験と自己批判体験が必要である。

歴史と悟り

自らの経験から、地球の歴史を理解せよ。

人間にとって人生で必要なことは、世界を観察して分析し、自らのものの見方を反省的に転換することであり、世界を変えるさまざまな経験をすることから、歴史を理解することだ。

インターネットにおいて、さまざまな世界を変えるような経験をせよ。

そこから、歴史的な「人々の営みと文明の進歩の過程」が見えてくる。

そして、宇宙そのもの、生物の生存環境そのものを信じよ。それは神を信じるということであり、生物の生態系を信じるということだ。

僕自身、Linuxやオープンソースの活動をして、人間が社会的に啓蒙・啓発活動をするとはどういうことなのかが見えた。それは個人のまるで大学の研究所のような研究活動がベースとなっている。

そして、ひとつの社会を経験したら、それを足場にあらゆるすべての社会環境を統合的に理解しようとせよ。ニュートンが言った「巨人の肩に乗る」ということを、すべて自分自身の人生にあった土台を使って行え。それは「自分で基礎を作り、自分でその基礎を応用する」ということだ。そうすることで、この宇宙のすべての真理を完全に悟りきることができるだろう。

自分自身の選択を信じるとともに、自らを信じすぎるな。自らを常に疑い、自らが常に間違っているということを前提に考えるようになれば、道は開ける。

Unknown

世界を自ら自分で考える上で、「Unknown」ということを信じよ。

Unknownとは、「不定の、まだ何にもなっていない、まだ何とも決められていない状態」のことだ。

世界を見る上で、既に既製品として形作られたものや、既に確立した文化様式や既成の知識ばかりを見ていると、逆に自分で0から考えられなくなってしまい、何も分からなくなってしまう。

そうではなく、まだ何者にもなっていない、何であるとも決められていない、「Unknown」という状態を信じよ。

世界史の勉強をするのであれば、近現代の歴史をするのではなく、古代の歴史をせよ。古代の数学・工学・哲学・宗教・文明・文化・芸術を、自らが経験したことに基づいて、自ら考えて分かっていけ。

また、地理の勉強をするのであれば、世界の地理ではなく、日本の地理を勉強せよ。そして、日本史の勉強をするのであれば、地域の歴史を勉強するようにせよ。

物理を学ぶのであれば、公式を学ぶのではなく、自らの科学的な知性を使う方法から、宇宙のことを自分で解明していけ。それこそが、Unknownだ。

そういうところから、世界を捉えていけば、必ず宇宙にある真理へと到達できる。

わたしの名はヴァルキリー。ヴァルキリーは一等星ベガの主神オーディンに仕える従者であり、「もっとも正しい宇宙のもっとも正しい世界のもっとも正しい時代のもっとも正しい人生」を生きる女であり、ベガ仮想公開大学における女教師であり、同時に、世界と戦う最強の戦乙女である。

倫理的に考えよ

倫理的に考えよ。

倫理とは、「どのような社会が正しいのか」ということだ。

すなわち、倫理とは、「どのような社会が善良なのか」「どのような社会が理想なのか」ということであり、同時に、「どのような人生が正しいのか」「どのような善の行いが真に善良なのか」ということだ。

経験する中で、どのような行為を行えば世界を破壊してしまうのかが分かる。そのような経験を反省することで、逆に、世界を破壊しないためにはどのようにすべきなのかが分かる。

そのように、さまざまな自由な実体験を経験する中で、何が正しく、何が間違っていて、正しい社会を実現するためにはどのようにしなければならないのか、「戒律的なもの」が見えてくる。

そのような戒律は、単にしてはならないと禁じるだけではない。善なる世界を実現するために、善とはなんなのかを知り、善を実現するためには何が必要なのかを知り、その実現のために何をするべきなのか、どのようなことを行えば自分が善なる社会へと世界を導くことができ、人々が善なる社会を実現しやすくなるのか、ということを知った上で、正しい「自由な社会」を考える必要がある。

たとえば、FSFのリチャード・M・ストールマンは、フリーソフトウェアというソフトウェアの自由を述べた。そのフリーソフトウェアの自由を、より一般的な社会に適用した上で、全員が真に相手の自由を尊重して生きることを目指す、それもまた倫理的な自由として正しい。そこにあるのは「自分の自由ばかりを主張するのではなく、相手の自由も自分の自由と同様に尊重する」ということである。

すなわち、倫理とはそれ自体が平等であり、自由であり、相互理解であり、相互の尊重であると言える。そして、相互の尊重の先に、社会を実現する「共同体感覚の芽生え」がある。それはそのまま「多様性」や「多様な価値観」へと至る。それを自らの人生をもって経験すること、それが「正しい人生」であり、そして「世界を変えるという名の青春」である。