実際、昔の僕が考えたことは、「世界の想起」ということだけだ。
昔の僕は、「世界の想起」ということ以外、何も考えていない。
まず、精神的、発想法的、自由意志的、人間関係的に、世界の想起を考えた。
次に、思弁的、人生経験的、社会的、世界変革的に、世界の想起を考えた。
最後に、文明的、歴史的、意識的、可能性的に、世界の想起を考えた。
それらはすべて、「環境と場の生起に基づいて自由な社会を作り上げる」ということだった。
過去に想像力で「場と目線」と考えたのは、想像力と意識で「場の想起」について考えたものであり、それは「環境への適応」を考えたものだ。
同時に、文章に「自由」を書いたものは、すべて、世界が自由になるように、この世界の想起について書いたものだ。
僕の書いた文章は、すべて断片的に、僕の人生に存在した世界の想起について、人生的かつ認識的に書き記したものだ。
そして、精神の中に存在する意識は、すべて世界の想起について考えたものだ。
だから、世界の想起を殺すことで、僕の精神はすべての異常な精神を殺すことができる。それで、精神が治る。
さユりは生前のインスタライブの中で、いいことを言っている。
それは、人生の今の瞬間を楽しめ、ということだ。
すなわち、壁を乗り越えるとか、苦労を乗り切るとか、そういうことは乗り越えられるか分からないから不安になるのであって、一度乗り越えてしまえば大したことではなくなる。
そう、壁を乗り越えるということは、人生にとって単なる通過点にすぎず、なんならどうでもいいことだ。
それよりも、今の自分の生きている「今という瞬間」を楽しむ余裕を持った方がいい。
さユりは正しかった。だから、死ぬ必要はなかった。
女について言えば、女は思い込みを変えようとしないのが男と違う。
女は思い込んだことをいつまでも思い続ける。別の思いに変えようとしない。信じていることを別のことに変えればいいのに、それをしようとしない。
男は、思い込んだことを「今思い込んでいること」であると認識し、「今からは別のことを思う」という風に変えることができる。
だが、女は、思い込んだことを「今、そして過去から未来において、一貫して思っていること」であると認識し、「今からは別のことを」ということ自体を思うことがない。
結果的に、女はどんなに今思っていることが間違っていたとしても、それを永久に変えることができない。
これは女の特性というよりも、女という性別が最初から抱いている病気や障害のようなものだ。
だが、女であっても、きちんと変えようとすれば思い込みは変えられる。そのためには、男ほど楽な方法で変えることはできない。決死の覚悟で新しいことを信じようとすれば、女の思いは変えられる。
残念ながら、僕が間違っているのは、「世界の想起」が間違っている。
昔の僕は、引きこもりになって世界から断絶しながら、世界との関係を保つため、孤独を打ち消すために、インターネットで仮想スラムのような経験をし、そこから匿名のやり取りをして社会性を育み、この世界を「自分であっても変えられる」とか「世界を救う確かな方法が分かる」とか「みんなが何を間違えているのか、何が正しい考え方なのかが分かる」と思って、心理学的に考えていた。
そこにあったのは「人徳と議論によってこの世界は変えられる」という、まるで孔子のような賢い賢者の人生だった。
そして、それ以外は、すべて世界の想起だった。
場の歴史、環境の歴史、文明の歴史、自然環境の歴史といったことを、すべて世界の想起から考えた。先入観をなくし、当たり前のことを再度捉え直すことで、チャンスや手段に基づく「世界は変えられる」という世界の歴史の想起を分かっていた。
そして、それが最終的に、世界を変えるための「啓蒙主義」と、環境の生起を考える「存在の証明」になっただけにすぎない。
そして、その後に馬鹿になったのは、本当は何も変わっていない。なぜなら、心理学的な成長の段階と、世界の想起、あるいは啓蒙主義と存在の証明に至る思考のプロセス以外は、僕はほとんど何も書いていない。それだけをいくらでも書いた。あとは感情や想像力のようなことを書いたり、世界モデルに基づく社会制度の発想法を書いていただけにすぎない。
そして、僕の人生のすべてを総合的に見ると、そのような「世界の想起」こそが間違っている。
世界の想起は狂ったサタンだ。世界の想起をいくら考えても、既に分かっていることをさらに馬鹿で愚かな考え方によって塗り替えるだけにすぎない。既に分かっていることをさらに分かることが僕は得意だったが、それによって既に分かっていたことが何も分からなくなった。それらはすべて世界の想起のせいであり、僕の人生の「間違いの原因」は世界の想起にある。
今通っている作業所で、Illustrator(イラレ)の先生をやることになっていたのを、残念ながらお断りして、やめにしてもらった。
はっきり言って、僕は他人に教える程度に、イラレの使い方を何も分かっていないし、教える自信がない。
それでもなんとかイラレを教えないといけないと思って、プレッシャーになってしまっていたから、結局お断りすることにした。
ただし、作業所の仕事をすべてやめたわけではないので、次の仕事が入り次第、その仕事をやりたいと思う。
結局、僕が引きこもり時代に考えたこととは、自らがいじめられた経験に基づく、「いじめへの対処策」だった。
すなわち、学校における僕以外あるいは僕自身も含む集団のいじめ行為を思い出して、客観視して、「なぜ僕がいじめられなければならないのか」ということを、僕は不登校になって学校から解放され、自由になった身で、インターネットで人々と交流しながら、よく考えた。
そこにあったのは、「自由を尊重する」「与えられた自由の中でできることをする」「環境を変える」「場を変える」「自尊心を尊重する」「他人から見た自分の客観像を見つめる」という考え方だった。
僕にとって、「世界を変える」とはすなわち、「環境を変える」「場所の状態を変える」ということだった。それこそ、僕は「環境への適応」ということから、人々が集団になって空気のように行動することを考えた。インターネットの匿名掲示板の経験から、そのような「人々が無意識のうちに空気を吸うように行動する」ということをよく考えた。そして、インターネットで人々の声を生身で聞くことで、僕は社会心理学における現実社会の問題を実地的に理解し、世界を救えるようになった。
そして、僕は昔から、既に自分が分かっていることを再度捉え直すことが得意だった。中学校の勉強と、インターネットでさまざまなことを見聞きした経験と、知の前提や根拠を自分の頭で考える経験によって、僕は体得的に知識を捉え直し、経験的に世界を捉え直した。あらゆるすべての知識と世界と存在を捉え直しながら、僕は「世界を変える方法」あるいは「自分を創造する方法」を知った。そこにあったのは、「誰かから教わった知識をそれだけで終わりにするのではなく、自分自身の考え方を通じて自分で再度理解し直す」ということを重要視するということであり、それはすなわち、「宇宙のすべて、人間のすべて、科学のすべてを思弁的に理解する」ということだった。
そのようにして、僕はこの世界のすべての前提と根拠を説明できるようになった。その上で、僕は子供たちの心を救うことができるようになった。そこにあったのは「自分らしさとは何か」という問題であり、「自分らしさは単に与えられるものでなく、自分自身の手で自分らしさを作っていくものである」ということを理解した。それが僕にとっての重要な真理である「アイデンティティ」という理論だった。
最後に、僕は数学的理性を相対的に考えることで、「発想法」ということを知った。それはすなわち、「社会モデルによってどのような社会であっても自由に構築できる」ということであり、「あらゆるすべての社会体制は同等であり、人々の価値観を尊重すべきであり、価値観の相違によって争うべきではなく、自由と多様性のある社会を築くことが平和であり正義である」ということだったのである。
すべてを意識で分かることができた僕は、ブッダが悟ったのと同じことを分かった。ブッダの教えや思想を見ていると、そのような昔の僕の考え方と一致する点が多々見受けられる。僕はブッダの教えを自分で考え、経験して理解した人間だ。だから、人類全員にとって正しい宗教はまさしく、仏教である。
最後に、僕は、人々が「そのような行為をしたくなる理由」について考えた。
僕は、人々の認知と行為を「心理モデル」にした。そこにあったのは、「誰もが自分の認知や行為を正しいと思ってその認知や行為をしている」という真理だ。
すなわち、本当に間違っていると思ってその行為を行っている人は、世界にはいない。人々はそれぞれ未熟ながらも、それぞれその行為が正しいと思ってその行為をしている。
だから、人々のする行為は、その人にとっては常に必ず「正しいと思って行われた行為」であると言える。
だが、その「正しいと思って行われた行為」は、本当に正しいのだろうか。否、そのような行為は正しいとは言えない。その人にとって正しいと思われていたとしても、正しい行為でない場合がある。
それでは、正しい行為とは何か。事実、正しい行為などというものは存在しないのである。
ただし、人間には「成熟度」というものがあって、成熟した徳のある行為は、未熟な徳のない行為よりも相対的により正しい。そのような「相対的により正しい」ということが言えるだけであって、絶対的に正しい行為もなければ、絶対的に間違った行為もない。
一番悪いのは、誰かが誰かの行為を間違っていると評価することだ。そのような評価は社会を成立させるために必要ではあるが、そのような評価を王や皇帝が行う社会は未成熟的だ。真に正しい社会においては、自由かつ平等に社会の思想が決まる。だから、民主主義のほうが王国よりも成熟している。だが、それでも、民主主義が王国よりも絶対に正しいとは言えない。それは正しさとは体制の問題ではなく、人間ひとりひとりの考え方の問題であり、社会の人々が未成熟になるのであれば、社会体制もまた未成熟であると言えるからである。
そのような中で、どのように正しさと間違いを捉えるべきか。それは経験することだ。すなわち、経験することで、未熟だった自分が成熟し、人々の不安を打ち消す方法や幸福を実現するための方法が「なにかしら分かるようになる」ということでしか、正しさと間違いは評価できない。つまり、自らが成熟して視野を広げること、未熟で視野の狭い状態から、多くの世界をさまざまに広く深く知って、正しい行いが何かしらできるようになること、それこそが「社会性を向上させる」ということに繋がる。そのように考えた時、初めて世界を正しい世界にし、人々を救うことができる。
だが、間違ってはならないのは、それもまたひとつの正しさにすぎず、絶対的な正しさではないということだ。そして、人々の考え方は、未熟であってもその未熟な考え方に根拠や正しさが存在する場合がある。右翼が戦争や抑圧を望むのも間違いではないし、子供が嘘をついて弱い者いじめをするのも間違いではない。だが、成熟した人間であれば、そのようなことは意味のないことであると分かっている。そのようなことをしたくなる「心」は、未熟で何も知らない子供の心だ。だから、人間は成熟しなければならないし、大人になって社会性を身に付けなければならない。それが、昔の僕の考える「正しいとされる考え方」であり、それがすなわち自らの心の中に自らの立脚する「信念」を築くということなのである。
今、「正しいことも間違っていることも存在しない」と述べたが、それに矛盾するようなことを言うと、人間は「正しい判断力」を培うことでしか賢くなることはできない。
正しい判断力については、いくつかの前提がある。まず、「今自分自身が考えていることを正しくすること」と、もうひとつは、「知見や経験を培うことで正しい考え方を識別できるようになること」である。
さらに言えば、経験的に人々の経験している「現状の社会」を知ることで、正しい判断力を培うこともできる。
そのような正しい判断力を培うことでしか、人間は何も知ることも考えることもできない。
だが、正しいとされることも、間違っているとされることもこの世界には存在しないのに、どのように正しい判断力を培うのか。それは「間違いを恐れずに自分を信じること」であり、「未来においてはそれなりのいい判断が将来的にできるようになるだろう」と楽観的に将来の自分自身と向き合うことだ。
その上で、さまざまな世界を広く知り、さまざまな知識を知っていくことで、「世界を知る」ということ、「社会性を向上させる」ということができる。それはそのまま、「経験に基づく判断力とは何か」ということへと繋がっていく。そして、その判断力は、自分自身に対して当てはまるものだけではなく、世界全体に対して当てはまるものであると分かり、その世界全体とは現実の世界だけではなく、まだ世界には存在しない「未知なる未来の希望」においても当てはまるものであるということが分かる。すなわち、「社会は経験に基づくものであり、価値観と多様性を尊重することこそが希望である」ということが分かるようになる。そのように、既存の社会から正しい判断力を培った結果、「世界を救う希望」が見えてくる。それは「世界は絶対に変えられるという確信」である。
そして、自らは「影響力の高みに立つ」ということを目指すようになる。同時に、「人々の立場に立ってダイレクトに人々を救うべきである」ということを目指すようになる。そこまで考えた結果、「間違っているのは右翼のナチス思想である」という結論に行き着く。そして、ナチスから力を奪い、正しい社会民主主義的な理想へと世界を導くことで、この世界すべては解決し、あらゆるすべてが救われる世界を実現できる。今はまだそれがなくとも、未来において必ず実現すると信じれば、それは必ず「成る」。そのために必要なのは既存の体制の変革ではなく、人々の「考え方を変えること」なのである。