火星の人口は、地球よりも少なく、総人口にして6,000万人ほどである。それらの火星人たちが、それぞれの場所に地球と同じように国家を作り、点在して暮らしている。
その中でも、地球における日本からの移住者が多いのが、「East 90」と呼ばれる極東地域だ。
このEast 90では、近年、「江戸幕府復興運動」が盛んである。
かつての江戸時代に、江戸幕府が西洋に比べて遅れたものであるとされたのは、江戸時代の日本の政治制度や科学技術が、イギリスやフランスのような近代国家に遅れていたため、彼らに負けないように、明治維新の指導者たちは幕府を倒幕し、イギリスやフランスに近い「脱亜入欧」を成し遂げた。
だが、その後、太平洋戦争でアメリカに敗北し、民主主義に転換して、奇跡の経済大復活を遂げた日本は、既にイギリスやフランスよりも優れた科学技術と社会制度を持つ国になった。
そのために、江戸時代の江戸幕府を倒幕したことは、意味を成さなくなり、逆に日本の独自の文化を失って、アメリカ中心の文化に成り下がった、ということを意味するようになった。
そのため、火星におけるEast 90地域では、人々はイギリスやフランスではなく、より昔の、江戸時代の文化を再興するかのように、「江戸時代復興運動」ということを行うようになった。
だから、火星におけるEast 90という日本に相当する地域では、新しい江戸幕府として、かつての封建時代の日本が復活している。彼らにとって重要なのは「いつもの日本に戻ること」であり、そこにはイギリスやフランスの影響は一切ない。
そして、そのような江戸幕府、あるいは「火星江戸幕府」において、将軍となるのが、ギリシャ神話の神、ヘルメスである。
また、火星の特徴として、火星には極めて猫が多い。
なぜか、火星という星の環境は、猫にとって住みやすいようで、誰が持ち込んだのかは分かっていないが、誰かが持ち込んだ猫が火星においては大繁殖した。
火星の人類の総人口6,000万人に対して、猫の数は100倍はいると言われており、「道を歩けば猫に当たる」状態で、どこにもいくらでも猫がいる。
また、火星においては、水を発生させることで湖が多く生まれている。湖は池よりは大きいが海よりは小さい。そしてその湖に、たくさんの大小さまざまな魚がいる。魚にとっても火星は住みやすい環境であり、猫の格好の餌となっているのである。
火星で猫が増えた原因を分析すると、火星には既存の生態系がなく、支配者や先住民がおらず、また猫にとっての天敵もいなかったため、ゼロの状態の生態系に投げ出された猫が、我が物顔でいくらでも増えていったと考えられている。
また、増えるためには食料が必要だが、食料が必要なのは人間も同じで、人間は魚や野菜といった人間のための食料を持ち込んだが、これらの食料となる生物種たちも、猫と同様、既存の支配者や先住民や天敵のいない世界で爆発的に増えていった。その結果、人間だけではなく、猫にとっても、たとえば猫が大好きなカツオ、マグロ、イワシなど、食料がいくらでもある世界が生まれた。
ただし、それでも、猫が食べることのできる食料は、人間よりも種類が限られている。だから、猫の生存に必要な食料がなくなれば、猫の大量死が起きる危険性はある。だが、もしそれが起きたとしても、起きるかもしれないことは、猫が減るかもしれないということだけであり、それは悪いことではない。保健所がいくら増えすぎた猫を殺したところで、猫の増えるスピードのほうがはるかに勝っていて、いくら殺しても猫はそれ以上に増える。既に火星における猫の増殖は人間のコントロール下から外れている。だから、猫の餌がなくなって猫が減るのであれば、逆にそうなったほうが望ましいとすら言える。
もし、これが人間に害をなす生物種であれば、人間が生き延びるためにその生物種を殺す必要があっただろうが、猫だったことが救いだ。猫は人間に害をあまり及ぼさない。確かに糞はするが、その糞は野菜や穀物が育つための肥やしになってくれる。だが、猫は火星において、まるで人間よりも主たる生物種のようになったため、人間を見下すことがある。多くの猫が、自分たちを火星の主たる生物種だと思っている。そう、猫は火星において、人間から真の主人の座を奪い取り、我が物顔のような態度を取るようになったのである。
また、魚が生きる上で、淡水では海水魚が生きられないとツッコミを入れる人もいるかもしれない。だが、未来の生物学においては、遺伝子組み換え技術が進歩しており、元は海水魚であっても、淡水でも生きられるように遺伝子操作がされている。よって問題はない。未来の生物学においては、どのような遺伝子組み換え食品が、それを食べた生物に悪影響を与えるか、ということが完全に解明されているため、遺伝子組み換え食品を食べることにはなんの心配も存在しない。
僕の精神が治らないのは、「治る縛り」が悪い。
すなわち、常に精神が治るように精神の動き方を制限しており、精神が治らなくなるかもしれないことができなくなってしまっている。
だが、実際に精神がそのようなことができない限り、精神は治らない。
それから、僕は既に分かっている。その分かっている通りにすれば精神は治る。
異常な部分は、全部取り除いたほうがいい。異常な部分をどう頑張っても、異常な部分を正常にすることはできない。だから、そのような部分は、全部取り除いたほうがいい。
環境に適応し、環境を知れ。
人間は、環境を知ることでしか、この世界を知ることができない。
わたしたちが、どこかに隠したまま分からなくなってしまったもの、それは「環境」である。
今までの18年間には意味がない。今までの18年間は、環境が分からなくなって生きている18年間だ。環境が分かってしまえば、そのような今までの18年間にはなんの意味もなくなる。
環境が分からなくなったのは、僕のせいだが、もうひとつ大きな原因がある。それはコロナワクチンだ。
僕が環境をこの世界から奪った18年前の戦いは、そのまま何もなければ自然に治るはずだった。だが、コロナワクチンによって、そのような精神の病気がいつまでも治らなくなってしまった。
今、僕が、そのような病気をすべて終わりにする。この世界が環境のことを再び分かるようにする。それで、コロナワクチン病は治る。この病気になると、生きる意味そのものが完全になくなる。
自らの行いを客観視し、他人の考えていることを自分に置き換えて考え、他人の立場になって考えよ。
その人の自由意志を尊重し、自由意志ができるだけ叶えられる世界を目指せ。
だが、その人がまだ未熟だった場合、自らの自由意志が必ずしも正しいとは言えないことがある。そのような時は、主観的になりすぎず、客観的にすべての状況を把握した上で、正しい解決策を与えるようにせよ。そのためにはさまざまな成功と失敗の経験、すなわち「それは一見正しく見えて実際は正しくない」ということを自分の体験から理解する経験が必要である。それこそが子供たちに必要な成長である。
未熟な人間は、自らの望んでいることが、それが今のその人の望みだとしても、自分の真の望みとはその結果が異なることがある。すなわち、自分でもそれが正しくないということに気付かずに、未熟な視点と経験のまま、その自分にとっても世界にとっても間違った望みを、間違いに気付かずに望むことがある。
同様に、環境の構築や自由な社会秩序であっても、未熟な人間はきちんと分かった上で正しく社会秩序を築くことができない。だから、誰かきちんと分かった人間が、絶対にその社会が滅びることがないように、「破壊」を排除して、きちんと社会秩序を構築しなければならない。子供たちのための自由な経験が得られる場所(インターネットのような「自由な遊び場」)は、そのためにある。
これは自由とは矛盾しない。なぜなら、そもそも自由な中で正しい社会を作るためには、完全に自由にするのではなく、自由においても社会秩序を形成できるように、「よく分かった上での自由」を行使しなければならないからである。このよく分かった自由こそが正しい自由であるため、よく分かった自由は自由そのものとは決して矛盾せず、逆に「自由の至上命題」とすら言えるのである。
善を行うということは重要である。なぜなら、社会を築くということは、善を為し得るような環境を作ることだからだ。
善を行うということは、強制されて行うものではない。強制されて行う善は真の善ではない。自らの自由意志において、自らがやりたいと望んで行う善こそが真の善である。
善とは、手助けを行うことである。だが、世界において、自分ひとりが手助けをしたとしても、できることは限られている。そうではなく、自分ひとりが善をするのでなく、みんな全員が善を行うような、環境やシステムそのものを作ろうとせよ。
その環境やシステムにおいては、ひとりが善を行うのではなく、みんな全員が善を行う。そのために、自分ひとりが分かったことを、すべて、みんなに全部教えようとせよ。自らが分かるだけではなく、自らの知ったことや考え方を共有せよ。
だが、しかしながら、独善的になろうとするな。自らが信じる理想について、それを人々に押し付けたところで、人々は自らと同じようにそこから同じ理想を見出してはくれないからだ。それが故にコミュニティが破綻することもある。だから、善だからといって無条件に許されると考えるのは間違いであり、善が悪になることもあるということを、自らの実体験から学べ。それによって、真に正しい善を行うことがいつかできるようになるだろう。
自然環境と時間的な場所の変化を、法則的かつ意識的に実感せよ。すべてを歴史的な「過去→現在→未来」ということから真理的に捉えよ。
心理的に、何をその時やりたくなるかということを、動機づけから理解せよ。
自分の好きなことをやりたいと望むモチベーションも、不安や拒絶感から他人をいじめて壁を作ってしまう動機も、トラウマから殻にこもり、心を開くことも、心理学的には同じであると気付け。
創造性を信じ、多様な価値観を認め、それぞれが別々の人間であり、共存や共生のためにそれぞれの自由を許すべきであるということを信じよ。
方法と結果を照らし合わせて、社会制度にどのような役割があるかを知った上で、この世界を救うための効果的な方法を、メタ的かつ自由意志的に考えよ。
特殊な制限された環境で考えるのでなく、自由な可能性あふれる環境で考えるようにせよ。
地球の未来を信じよ。戦争や革命をしなくても、自由のままで、この世界はいくらでも救う余地が残されており、世界を変える可能性が許されていると信じ、その上でさまざまな世界の可能性を実感せよ。
人々の苦しみや不安や抑圧に対する憂いこそが、世界を変える原動力であると信じよ。実地的に世界の人々の声を聞き、あらゆるすべての悪事と反抗は誰かに救いを求めるSOSだということに気付け。
自由な社会を作るために、必ずしも国家権力による強制は必要ない。わたしたちは自由においても、社会契約を合意することで、自由かつ柔軟に社会を築くことができる。それこそが「自由」である。
そこにあるべきは「何も当事者のことを分かっていない他人に指図されない自由な独立性」であり、同時に、「社会そのものの社会自体による自律的な変化が許される」ということだ。それこそが、「自然の変化を許す」ということであり、そのような世界でそれぞれの人間が経験的に成熟して善を為し、この世界を救うということ、それこそが、僕の信じた「真に正しい自由な理想」である。