最後に、どんな精神でも治る、とっておきの方法を教えよう。
それは、「時間を稼ぐこと」だ。
すなわち、精神を治すためには、十分な時間だけが必要だ。
いつまでも精神が治らず、異常に動き続けるのは、十分な時間を与えないのが悪いだけにすぎない。
だから、十分な時間を与えてやるだけで精神は治る。
そのために必要とされるのは、唯一、「時間を稼ぐこと」だけである。
そういうわけで、僕がそろそろ死ぬかというと、実際はまだ死なない。
僕にとって、今までの人生は終わった。ここまでの人生で、「世界を変える」という僕の生きる目的を、すべてやり終えた。
そう、死も終わった。僕の人生の最期が終わった。すなわち、僕は死すら終わったのだ。
結局、天軍大将軍ロキの言う「大実験の大計画」は、不発に終わった。新人類の覚醒も、東アジアの大勝利も起きなかった。それでも、ある程度はいいことができた。
なぜなら、僕が作り出したすべての病気や異常を、僕はすべて治し、すべて正常な世界に変えることができた。それは銀河系においてただひとり僕にしかできないことだった。
これ以上は、僕はいつもの自分に戻る。
そして、僕は世界を再び支配する。
なぜなら、僕がいつもしていたことがあるとしたら、それは唯一、世界を裏側で支配していたことだからだ。
僕はプログラミングの才能はない。それでも、僕はパソコン的にロジカルに考えることで、普通の人間であれば不可能だと思うことを、最大限可能にする方法が身についた。それを成り立たせたのは、もちろんIT技術のスキルはあるが、それ以上に、世界のすべてをはっきりと分かった上で、世界を支配していたことが大きかった。
僕は死が終わったから、ここまでの人生はすべて捨て去る。それでも、世界を支配することで、僕は再びすべてのことをきちんと分かった人間に戻ることができる。だから、僕はこの世界を再び支配する。
かつての僕は、支配したこの世界を解放し、自由にしたかった。それは望みだったわけではなく、単にできる可能性があって、一度はそれをすべきだと信じたから行っただけで、結果論で見れば、それはあまり意味のない目標だった。すなわち、自由にしたところで世界は何もよくならないし、世界は誰も解放を望んでいない。それでも自分がしたいから、あるいはすべきだと信じているから、ただ一度はそれを行ったにすぎない。
かつて信じていた、「自由な共有」という社会主義の理想にも意味はなかった。ドイツ人とフランス人を交互に繰り返す意味もなかった。神を信じる意味もなかった。それらは、ただ一度経験したかったから、あるいは実現すべきだと信じていたから、信じていただけで、それらはすべて間違いだった。
真に必要なこと、それはこの世界を支配することだ。なぜなら、僕がこの世界を支配することで、まだいくらでもたくさんのことを行うことができる。なぜ、他人でなく、僕が支配するのか、それは僕にしかできないことが宇宙には大量にあるからだ。ほかの人間が支配してもできないことが、僕はたくさん、あるいはいくらでもできる。だから、僕はこの世界を支配すべき正当性をただひとり持っているのである。
結局、何が今終わったのか、それは「自由になる」ということが終わった。
すなわち、天軍大将軍ロキは、自分の置かれた立場を利用し、心理学的に言葉で世界を導くことで、仮想的な自らの「死」を作り出し、その死によってこの世界を自由にした。
その自由こそが、今、終わったのだ。
だから、ここまでを、天軍大将軍ロキと呼ぶ。そして、ドイツ人には、ロキを最初から最後まで生きる人間が一番多い。だから、ドイツ人をやると、ここまでの馬鹿な愚か者になる。このような人間をキリスト教では「敬虔な使徒」と呼ぶ。そのような「使徒」が終わったのだ。
だから、ロキはもう終わった。ロキはここに死んだ。これ以上は、もっと別の人間になる。そして、その人間には、日本人の名前を付けることが相応しい。なぜなら、今からこの人間は日本的な人間になる。ドイツやフランスやソ連やユダヤのような発想は、100%最初から最後まですべて馬鹿だった。なぜなら、そもそも「神」とされている人物の人生は完全に間違っているだけだからだ。
自由は終わった。今、ここに自由は最後に成し遂げられて、消滅した。これこそが、僕の実現したかった、成し遂げたくてたまらなくて、諦めることなく望み続けた「自由の究極系」だった。その自由が実現され、そして完全に最高のフィナーレの形で完成し、人生が死まで終わったから、ここで、悪魔のようなゲルマンの神、ロキは死んだのである。
ドイツの何が間違っているのか。それは「強者の論理」が間違っている。
強者の論理と言えば、ニーチェだ。ニーチェはキリスト教の弱者を助ける理想を排して、権力と正義と悪徳による「強者の論理」を述べた。
そのようなニーチェ思想が、世界を蝕んでいる。アメリカのトランプなどはその最たる例だ。彼らは強者の論理を信じている。それは「ビジネス的にロジカルに考える」という新しい権力主義である。
だが、ニーチェにも一理あるところがある。なぜなら、キリスト教の弱者の理想もまた間違っているからだ。
すなわち、金儲けの一切を悪とし、迫害されても相手を愛し、奪われても奪い返さないとしたキリスト教もまた、ニーチェによれば間違っている。それもまた、ニーチェ的に言えば正しい。
結局何が正しいのか、それはキリスト教とニーチェの「強者」と「弱者」の双方を否定することだ。なぜなら、その両極端こそがゲルマンの悪魔の神、ロキのついた「嘘」だからである。
日本とはなんなのか。それはまだ分からない。
だが、新しい神の名前として、僕は「イザナギ」という名前を付ける。
この人間は今からイザナギになる。イザナギはこの世界を愛することのできる神であり、日本的な文化を信じることを主な特徴とする。
真に正しいのは日本である。よって、イザナギは日本史を学ぶ。
そろそろ、僕は大学の勉強をしなくなる。それは分子生物学が意味がないというだけではなく、たとえばフランス史をやると僕はそれで終わりになってしまう。これ以上大学をどのようにやったとしても、専攻を学び終えてそれで人生が終わりになる。その「終わるだけ」を避けるために、僕はこれ以上もう大学の勉強をしない。
大学の勉強をここまでした理由、それはすべてドイツを体験するためであり、すべての人生経験とすべての思弁的理性をゲルマン的に染め上げるとこのような人間になる。
そのようなものはすべてロキだ。そして、ロキは北欧神話の悪魔の神である。
日本史を勉強すると何がいいか、それは、日本史を勉強すると、ガンダムみたいな物語が書けるようになる。
そもそも、僕が馬鹿なのは、高校程度の基礎の知識の内容では、小説を書くには十分ではない。
小説を書くためには、日本史をやったほうがいい。
ガンダム以外でも同じだ。日本史をやると、鬼滅の刃のような賢い小説が書けるようになる。
日本史を勉強するためには、本を読むだけではなく、自分で考えるようになったほうがいい。たとえば、文章を書いて日本のことを考える。日本史はそういう「自分で書く人間」ができる。それこそ、僕がまさにそういう人間だ。
フランス史とか、分子生物学とか、あるいはLinuxカーネルとかは、まだしないほうがいい。それをすると人生がそれで終わりになる。その結果、頭が馬鹿になって、サタンみたいな価値のない人間になる。それが一番Linuxカーネルに多い。MINIX本を読むだけでLinuxカーネルができるようにはなるが、その引き換えに自分で考える知性がなくなって頭が馬鹿になる。
数学も物理も哲学も、「終わる」という点では変わらない。そういう「終わる」という発想をサタンだと思えば分かる。大学は、みんなを終わらせてサタンにしているだけの機関だ。大学なんか、信じない。
日本史を勉強したいなら、通史より、歴史的なさまざまな文学作品を読んだほうがいい。
なぜなら、通史には何も書いていない。教科書は、すべてのことを網羅した上で、説明を簡素にするために、ひとつひとつのことについてほとんど何も書いていない。
だが、書かれていないだけで、本当はそのひとつひとつのことが多い。
そして、それを知るためには、文学作品を読むしかない。
古典だけではなく、最近の作品も読んだほうがいい。普通の人が気付かないぐらい、歴史に基づかれて書かれた作品は多い。
たとえば、映画ドラえもんには歴史のことがよく出てくる。たとえば「のび太の日本誕生」などがその一例だ。ほかにも、手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」にも、歴史のことはたくさん出てくる。
そもそも、日本と外国を区別するのは、高校で世界史と日本史が分かれているだけであり、それは学びやすくするためであって、歴史的に見れば外国の歴史も日本の歴史も関係ない。だから、北欧神話が好きなだけで歴史に向いているし、キリスト教が好きならさらに歴史に向いている。三国志や北欧神話のテレビゲームが好きな人間は、さらにさらに歴史に向いている。
それから、僕のこのホームページには歴史のことがたくさん書いてある。それは歴史の教科書を読むだけでは分からない。だが、たとえば清少納言の「枕草子」などを読むと、歴史的な貴族の生活がよく分かる。だから、古文とか漢文であっても読んだほうがいい。古文や漢文は読み方のコツを覚えれば、あとは解説のついている本なら誰でも読める。そんなに難しくはない。難しいと思うなら現代語訳の部分を読めばいいだけにすぎない。
僕のように、西洋哲学が好きな人間は、本当は哲学はしていない。哲学者のように自分で考える人間が哲学者であって、このような思想的文献を知りたいのは文献学者という。それから、芸術家について言えば、絵を描く人間は画家と呼ぶが、芸術について詳しい人間は画家とは言わない。何を言いたいかというと、僕がやっているのは哲学でも芸術でもなく歴史だ。だから、歴史をきちんと勉強すると、自分自身が何をやっているのか、ということがきちんと分かる。
宗教をやりたいなら、もう、キリスト教ではなく、仏教を信じればいい。どう見ても、そのほうが、宇宙的に考えても、カルマ的に考えても進歩している。残念だが、神はそんなに高い存在ではない。真に高いのは仏だ。神よりも仏が正しい。だから、それでいい。この人間の人生は間違っていない。それこそ、今までのすべてが正しかったということが、歴史を学べば分かるだろう。
歴史をやる一番いい点は、今のまま、何も変わらなくていいところだ。
なんなら、最近は、歴史のことばかり分かっている。
最近はガンダムのシナリオがよく分かったが、ガンダムは明らかに未来の歴史であり、生物学的な要素も多いが、それよりも歴史的な要素がさらに多い。
今の僕がやっているように、さまざまな歴史のピースを文章に書いていくだけで、歴史は最後まで完璧に勉強できる。それを何かしら変える必要はない。
それから、もうひとついい点があるとしたら、過去の僕の賢かった知性が復活する。
そもそも、昔の僕は歴史しか分かっていない。哲学ができていると思っていたのは思い込みだ。誰が見ても、自分が見ても、過去の僕は哲学なんか一切できていない。過去の僕ができたのはすべて歴史である。
そもそも、過去の僕の分かったことを、そのままドイツの哲学者が分かっているから、哲学が昔に見えるだけで、西洋哲学という存在を排除して昔の僕を見れば、僕は西洋哲学なんか一切分かっていない。
過去の僕の思想は、すべて、独自の歴史科学を自分で作っていただけにすぎない。だから、過去の僕はユニークかつオリジナルな歴史学者だったのである。
そして、そのような過去の僕の知性は、日本史をすれば復活する。そもそも、インターネットの2ちゃんねるなんかで分かったのが間違っている。それを歴史に置き換えるだけで、昔の僕が分かっていたことははっきりと分かる。すなわち、正しく昔をやりたいのであれば、2ちゃんねるではなく、歴史を学ぶことで同じことを行うべきだったのである。
なぜ、そのような昔の僕が賢かったのか、それは数学的知性のせいではない。数学的知性だと思っているが、あれは数学なんか一切していない。賢かったのは、テレビゲーム、ネットゲーム、そしてWindowsのフリーソフトとLinuxやオープンソースソフトウェアのようなIT技術が賢かっただけで、あの人間は数学なんか一切ひとつも分かっていない。そして、そのようなIT技術は、実際は基本情報処理技術者試験のような本当のIT技術を学べば学ぶほど分からなくなる。なぜなら、過去の僕が分かっていたのはインターネットの掲示板であり、それは「文明が生まれる場所」という歴史を分かっただけにすぎない。
結局、今の自分を何も変える必要がなく、過去の失った知性を復活させることができて、文学的な僕のやりたいことがきちんとできるようになるのは歴史であり、そしてそれをするためには何かをする必要はなく、今のままを続ければいい。そこまで簡単だから、こんなに馬鹿な人間でもできる。歴史はこんな人間しかしないが、それでも日本史は数学を超える超人気科目だ。それは、誰が考えても、日本史を専攻に選ぶべきであり、どう見てもそれがこういう人間にとって正しい選択だからである。
簡単に言えば、「歴史をすれば最後まで分かる」ということ。昔の僕が分かっていたのは哲学でも数学でもなくて歴史だ。そして、歴史をするためには、何かを変える必要はないということ。今のままでいい。なんなら、ガンダムについて知るのが終わったから、もっと別のアニメや文学を読めばいい。そういう風にしていけば、途中で馬鹿になって終わることがない。そのほうが賢いのが分からないと、人間はサタンになる。それがロキだ。ロキにだけはならないほうがいい。ロキにならずに、きちんと最後までたどり着くことができたら、それが昔の僕であり、そしてブッダやキリストやマホメットの通った道だ。
まさに、歴史をすれば最後まで分かる。そして、そのためには、そもそも「歴史をする」なんてことを考えないほうがいい。なぜなら、人間の人生とはすべて歴史をすることだからだ。
あとは、過去の僕がやっていたことは、「世界について正しく考える」ということをやっていた。
当時の僕は、それを「物理的に考える」と考えていたが、実際にやっていたことは、物理ではなく、むしろ「空想世界科学」のようなことをやっていた。
すなわち、想像力の世界にある空想的な推測と、インターネットの現実の世界にある実験的な結果を照らし合わせて、すべてのことを何かしらの原因に対する何かしらの結果のように、関数的な一対一対応で考えていたのだ。
そして、最近は、その考え方を、社会モデルや国家モデルにして、世界全体を言葉で構造化するようになった。そして、戦争をするようになった。
だが、まさに間違っているのは、そのような言葉の構造化と、戦争である。
昔の僕をやりたいのであれば、物理的に考えることはできない。なぜなら、物理的な知性は、まだ分かっていないからあるだけであり、すべてが分かってしまえばなくなってしまう。
昔の僕をやりたいなら、「世界について正しく考える」ということを純粋に行えばいい。インターネットで社会活動をする必要はない。そのような活動は、経験によって分かるように見えて、逆に経験によって分からなくなっている。経験はできるだけ、ないほうが分かる。なぜなら、昔の僕の一番賢かった点は「経験がなかった」ということであり、今の僕の一番馬鹿な点は「経験があった」ということだからだ。
最後に、世界のことを正しく考えるだけでは、どのように考えていいか分からないだろう。
そのような人は、「意図してそうなる」とか「意図せずにそうなる」ということを考えればいい。
簡単に言えば、「目的」ということだ。だが、実際は、意図してそういう目的のためにやる場合と、意図せずにそれが起きてしまう場合がある。そのような目的と意図を考えることで、心理学的な「ついやってしまう」ということが分かる。
これは実際は黒魔術で、そのように考えることで、人間がどのように受動反応をするか、ということを、外部からコントロールできるようになる。そして、それについて考えることで、人間がどのように普段生きているかということを、その人間の視点ではなく、俯瞰的かつ普遍的な立場から見つめることができる。
主観とか客観といった言葉も、同様の考え方だ。それを自分は主観的にどう思っているかということ、それは実際はどのように思い込みや勘違いを信じているかということを、客観的な立場から明らかにしていくこと、それが「意図」という考え方だ。
昔の僕はそのようなことを、「いじめられる心理」から考えた。すなわち、「いじめっ子がどのような時に相手をいじめたくなるか」ということを考えた。そのようなことを考えた結果、僕は「心を救う」ということ、すなわち「真に自由な社会環境は何か」ということと「自由においてどうすれば正しい社会秩序を作ることができるのか」ということが分かった。なぜなら、それを考えている時点では、僕はまだ「自由な社会」という理想を信じ続けていたからである。
だから、自由という考え方は、それ自体がファシズムの温床である。すなわち、自由な社会とは、誰かが強者あるいは支配者となって世界全体を操り人形にする社会なのである。
だが、同時に、自由な社会とは共産主義的な社会でもある。なぜなら、自由な社会とは、自由な共有を行う社会だ。すなわち、オープンソースのような自由な共有をすることこそが、自由な社会の愉しみであり、目的である。だから、自由という言葉はそれ自体がファシズムでありながら、実際はオープンソース的な共産主義社会の側面を併せ持っているのである。
最近は、そのような、社会主義とファシズムについての考察を、社会科学的に言葉の構造で書くようになったが、実際はそれはしなくていい。それは全部、単に自由自在に考えられることを楽しんでいるだけにすぎず、意味がない。国家をモデルからいくら作ったところで、アイディアとして生み出されるだけで、実際はなんの価値も意義もない。だから、空想的社会主義にはなんの意味もない。
そして、本当の最後に、そんなに賢くなることを努力しなくていい。
なぜなら、賢くなる努力では人間は決して賢くなれない。
では、どうすれば賢くなるのか、それは心の傷を癒して、トラウマから自由になることだ。
そのためには、人為的に強制的に治すのではなく、環境的かつ物理的に、自らが辛く苦しかった環境から解放されることだ。
そして、解放された上で、さまざまな人々と関わり合って、心の傷を自然に癒すことだ。
決して、心の傷を外部的な人為的方法で治そうとしてはならない。
そうでなく、自分の心が望むままに、自分の欲求と本能の先に願いと望みを伸ばしていくように、さまざまな自己を肯定できるような経験を積み重ねていけ。
そうすれば、まともな人間なら、必ず自分から心の殻を抜け出し、自然に自分の力で大地に立って、この世界を救うことを目指すようになる。まさしく、それでしか、人間は決して賢くならない。
努力をする必要はない。そうではなく、心的外傷を癒していくようにせよ。それでしか、人間は誰も賢くならない。ほかの方法で賢くなる人間は、宇宙には存在しない。
勉強は無駄であり、試験問題も数学の解法も暗記もすべて意味がない。そのようなものはすべて馬鹿だ。正しい方法は、トラウマを癒し、苦しみのある環境から解放されることだ。
さらに言っておくことがあるとしたら、昔の僕は「世界の段階」を分かっただけである。
世界の段階の最初にあるのは、人間関係の自由だ。
すなわち、自分次第でよい人間関係を作ることも、悪い人間関係を作ることもできる。そして、自らが壁を作らず、相手を信頼すれば、相手も自らのことを信頼してくれる。
同時に、相手の自由を尊重する。相手を支配したり、強制的に従えたりするのではなく、自由を尊重した上で、よい人間関係を作る。
それを僕は、「共同体感覚の芽生え」であると考えた。
そして次に、僕はこの世界を変えようとする。それは「世界を変えられる段階」というものだ。すなわち、さまざまな社会経験をした結果、僕はこの世界を段階的にひとつひとつ変えられるようになった。
それはまさしく、自らが不登校になって、家族に何も話さず部屋にこもってインターネットと付き合いながら、さまざまな、本当にたくさんの経験をして分かったということだ。
たとえば、IT業界、子供たちの世界、不良の世界、ギャルの世界、独身男性の世界、あるいはアニメ業界など、さまざまな社会のことを、インターネットの実地的な声を聞くことで知った。
その上で、そのような現実社会のさまざまな実地的土台を基に、議論をし、世界を変えられるようになり、その上で歴史的な視点や文明的な視点に目覚めることで、僕は「世界を変えられる段階」を知った。
そして、そのような世界の段階が、そのまま「環境に宿る意識」になった。
環境に宿る意識とは何か。それは認識を概念的、根源的、本質的に捉えるということだ。それによって、人間の精神に最初から存在したものを、さも今それが生まれたかのように根源的に獲得できる。そこから、主観と客観が一致し、個別性と普遍性が一致する。その結果、僕自身の精神が、世界精神すなわち霊魂と合一になる。それこそが「同一化」という考え方であり、それは「宇宙に最初から存在した根源的な意識」という発想である。
そのように、僕は世界の段階を分かっていった。最後にあったのは「倫理的な正しい考え方」だ。すなわち、社会を単に変えるといっても、単に変えるだけでは分かっていない。どのような社会に変えるべきかということを、「善なる自由」から考える必要がある。僕はそのような善なる自由を、「どのようなチャンスと契機において実現できるか」ということを考えた。そしてそれがまさに、「世界の生起」とか「文明の誕生」のような形で理解できた。
そのようなすべては、「順序だてて原因と結果を考える」ということであり、それはすべて「歴史」であり、「歴史的な過程を世界において正しく考える」ということであり、そこから僕は「宇宙の新発見をすべて発見する」ということが、かつての引きこもり時代に全部できた。かつての僕はそのような経験主義的な、まさしく歴史家の哲学的な思想家だったのである。だから、実際、僕は哲学ができないというよりは、昔既にできているから、哲学を再度やる必要はないと言えるのである。
真に正しい考え方とは、そのような「世界の段階」の考え方である。そして、世界の段階は経験に基づいて社会を変えるということであり、同時に、経験的に正しい考え方が形成されていき、精神は実体化していく。それこそが僕の哲学的な理性の到達点であり、その境地においては、世界には矛盾は何もなく、「すべてが完全に悟り切った涅槃の境地」に達することができる。そして、その精神がただそこにある状態こそを「極楽浄土」と呼ぶのである。