昔の僕は、「自由な社会」を信じていた。
まず、僕は「メタ社会」を信じていた。
誰かひとりが、社会はこのような社会です、と支配して押し付けるのではなく、みんなが自分たちの社会をそれぞれ作ることができる社会、すなわち「メタ的な社会」を僕は信じていた。
そして、僕は「支配からの自由」を信じていた。
誰かひとりが支配した時点で、社会はその支配者に制限される。そうではなく、支配せずに社会を自由にすることで、可能性が向上する。
この「可能性の向上」こそが、自由であり、多様性であり、メタ社会にした場合の恩恵である、と僕は考えた。
そして、僕は「実質的な自由」を信じていた。
すなわち、資本主義社会の株式会社の社長のように、リスクや危険を含めて社会を自由にする必要はない。そうではなく、必要な「自由の権利」が得られるように、実質的な自由を与えるべきであり、不要な自由はなくても構わない。
同時に、僕は「可能性を与える」ということを信じていた。
可能性とは、社会の分裂であり、独立である。社会が誰かによって支配されず、分裂してそれぞれが独立することで、社会は「変化可能」になる。その「変化可能」こそが「可能性の向上」であると言える。
最後に、この世界を変えるためには、「生産手段の自由化」が必要であると考えた。
社会主義者は「生産手段の国有化」が必要であると考えるが、それは間違っている。逆である。世界を自由なまま変えるためには、生産手段を自由化しなければならない。自由な生産手段と機会の平等によって、「本当に努力すれば可能となるような世界」が作れる。そして、努力してそれが可能なら人は努力する。人々が反抗して悪い世界になっているのは、努力しても社会を変えられないからであり、「努力して社会を変えられるような自由を与えれば、人々は反抗せず努力のほうをするようになる」と僕は信じていたのである。
そして、自由な社会においても、社会秩序を維持することはできる。支配者は必要ないが、実権を得た代表としての誰かが、自由のすべてを経験していればいい。どの代表は支配することを目的とした帝王ではなく、全員の長である代表にすぎない。そして、その代表は、「どのようにすれば自由においても社会秩序を形成できるか」ということを経験的に知っている。そのような「徳と経験のある自由な指導者」を立てることで、この世界は自由においても社会秩序を保つことができるのである。
最後に、この世界は心理学的にすべて支配できる。それは操り人形やロボット人間にするという意味での支配ではなく、この世界を真に素晴らしいユートピアのようにすることができる。だから、心理学を否定することは正しい判断ではない。心理学的な誘導を行えば、この世界に「可能性の素晴らしさ」を体験的に教えることができるし、この世界を真に最高の楽園に心の誘導から導くことができる。
僕は、知識によってこの世界は支配できると考えた。
フーコーが言うように、知識は一種の権力であり、どのような知識と常識を与えるか、ということによって人々は支配できる。
そのような権力を、僕は「影響力」と呼び、「影響力の高みに立つことでこの世界は支配できる」と考えた。
これがまさしく、インターネット時代のこの世界の支配の方法である。
また、僕は、知識を権力であると見なした上で、人間の存在としての人生や一生、そしてその中における人格と認識の形成について考えた。
すなわち、ひとりの人間が生きて、成長し、環境を経験し、この世界と戦って支配するそこまでの、すべての「道」を考えた。
そこにおいては、すべては外部から与えられたものであり、人間の内部には何も存在しない。人間の内部には「時間的な連続性」だけがあり、それ以外のすべては外部から体験的に与えられたものだ。そして、外部から体験的に知識と知覚を与えれば、人々を支配し、自らの望むような人間に育て上げることすら可能となる。これが「悪魔的な自由」である。
最後に、僕は社会主義者だった。なぜなら、僕は「国家でない共同体によって社会が成立すること」を目指していたからだ。
人間が生きる上で、「国家」とか「政府」というものは必要ない。必要なのは「自由を維持し、他人の自由を奪わない限りにおいて最大限に自由を与えること」であり、自由を奪うことはよいことではない。僕はそのように、まるで無政府主義者のように自由を信じていた。この世界が「国家」ではなく「共同体」によって成立することを僕は望んだのだ。
人間となんなのか。人間とは単なる「慣れ」であり「自動反応」である。そして、この世界には「概念」が存在する。それはこの世界に存在するすべての概念を、実際に知らなくても知っているということを意味する。そして、そのような「概念」と「自動反応」と「考え方」を支配することで、人間はどのような人間にもなれるし、どのような人間にも変わることができる。そう、それこそがまさしく「究極的な自由」である。
人々の考え方や感じ方をすべて吸収し、この世界そのものを自分の心の中に築き上げよ。世界のすべての人生経験を自らの心の中に吸収せよ。そうすれば、学校の知識を得る必要はない。学校で知識を学ばなくても、この世界のすべての考え方と経験を吸収した人間は、まさに何も知らなくてもすべてを知っている。そのような人間こそが哲学者であり、哲学史上の理想であると言えるのである。
結局のところ、存在など時間にすぎない。
ハイデガーが「時間化」という言葉を作ったように、この世界の存在は、すべて時間化された中に存在している。
あらゆるすべての存在は、天体や文明といった巨大な存在も、量子の状態や微生物のような小さな存在も、法則や空間ですら、「時間化」という意味で同等の存在である。
だが、人間は、そのような時間を認識するために、「言語」を使うことができる。
そして、言語の範囲の外にあること、言語では理解できないことを、人間は考えることができない。
ウィトゲンシュタインが「言語の限界」という言葉を作ったように、言語的に時間を考えるよりも高いレベルのことは人間にはできない。それは人間を超越した神だけができるのである。
悪いことをした人間の罪を、その人間のせいにするな。
悪いことに悪いことをさせた、この社会全体の罪であることにせよ。
悪いことをした人間は、そこに恨みや憎しみといった悪意はあったかもしれないが、堪え続けるのではなく、この世界に対して反旗を翻すことで、この世界に立ち向かうことを選んだのだ。
悪いのは、悪いことをした人間ではない。その悪い人間に、悪いことをさせたこの世界が真に悪いのだ。
そして、単純にこの世界を憎むのも間違っている。正しいのは「憎しみ」ではなく「憂い」の感情だ。すなわち、この世界を「本当は素晴らしい世界になるはずなのになぜなっていないのか」と憂い、真にこの世界の自由と解放を望むこと、それこそが社会にとって真に必要な「憂国の政治家」なのである。
この世界をよい世界にすれば、犯罪はなくなり、悪いことをする人間はいなくなる。自由のままであってもこの世界を素晴らしい世界にすることはできる。戦争や民族主義は必要ない。自由のまま、平和なままであっても、そのように考えれば世界を救うことは必ずできる。必ず、絶対に。
世界を正しく捉えるために、以下のことを肝に銘じておけ。
まず、この世界は、同じ世界の中に、それぞれの人間の世界がある。みんながいる世界は同じでも、それぞれの生きている世界は違う。すなわち、世界だと思っているのは、実際は自分で見ている世界にすぎない。そして、ひとりの人間が全世界を見ることはできない。だから、それぞれの数だけ「世界の見え方」があると気付け。
次に、学習と知識の成立から考えよ。それを知る前の自分と、知った後の自分で、何が違うのか、よく考えて知識と学習を捉えよ。そうすれば、この世界を、「成立」から考えられる。世界に存在するすべての知識を、それを知った際の学習の成立前と成立後から考えられる。そして、この世界の多くの人々の人生を、そのような「具体的な学習の成立」から考えられる。そこには全員の人生がある。すなわち、学習の成立を考えることで、人々の「人生の成立」すら考えられる。経験がそこに加われば、全世界の人生のすべてを自らの精神の中に成立させられる。
次に、当事者の言葉を聞け。この世界において、社会問題を考えるために必要なのは、その当事者の意見と声を聞くことだ。インターネットを使って、この世界の当事者の声を聞け。そして、その当事者の声を、決まりや社会制度に反映できるようにせよ。当事者が決まりを変えられるようにし、アンケートや参加の方法を用いて、当事者の声が社会制度に反映されるようにせよ。
次に、ビジョンを持て。当事者の声を聞くだけでは、世界を変えるためには十分では決してない。真に世界を変えるならば、ひとり、この世界をどのようにすれば変えられるか、その発想を実現するための手段を得る必要がある。どのような手段がこの世界を変え得るのか、どのような発想にはどのような手段が必要であるかを考えよ。そして、自らがひとり支配して変えるだけではなく、この世界の多くの人々が世界を変えられるようにするために、「手段を与え、共有し、チャンスを提供する社会インフラ」のようなことを考えよ。
次に、自由を信じよ。すなわち、自らのアイデンティティを確立し、自らの「やりたいことをやる」という理想と信念を発揮するようなモチベーションを信じよ。そこにあるのは「好きなことをして生きる」ということであり、そのためには誰よりも卓越した能力が必要であると気付け。そして、そのために努力し、この世界に存在する道具を上手く活用せよ。
次に、子供たちに体験の土壌を与えよ。子供たちが、自らが体験して、思考に先立つ経験が自らの心の中に構築され得るような世界を作れ。そして、表面的なこの世界、学校で教える常識は間違っていて、本当はこの世界はとてもシンプルにできている、ということに気付くことが、自らの自由な行動と体験からできるような、「世界を捉えるための準備の経験ができる土壌」を子供たちに与えよ。教育の目的は子供たちを賢くすることであり、そのためには教科書を覚えさせて試験を受けさせることよりも、体験や経験ができる土壌を与えることが絶対に大切だと信じよ。
最後に、オープンソースを信じよ。オープンソースは不特定多数のボランティアがインターネット上に集い、知識とアイディアと経験とコードを共有し、成果を集積する奇跡だ。そのような「理想の生産社会」を信じれば、それだけで多くのことが分かる。実際に社会経験をしなくても、オープンソースだけで多くの社会経験と同じ経験ができる。そのような自由な経験を積み重ねれば、宇宙すべてを創造することすら可能になるだろう。
存在が生まれる地点、すなわち「存在の起点」を考えよ。
存在が変化してその存在になることを決定づける要素、すなわち「変化を規定するもの」を考えよ。
起点と規定の本質はどこにあるのか。それは環境、すなわち「場」と、場をどのように人々が見ているかという場の見え方、すなわち「視点」である。
場と視点という「本質」から、存在の起点と変化を規定するものを考えれば、どのようにすればその現象が生まれ、どのようにすればその現象をそのような特定の現象に決められるのか、ということが分かる。
予測することを逆説的に考えると、現象をどのように起こすことができるのかが分かる。予測は事後的だが、それを事前的に行えば、現象の起点となる。
予測と起点の二つを、相互に比較し、重ね合わせながら、そこから「理由」を見出し、その理由を成立させるような「原理」を考えよ。その原理はすなわち「心の解明」である。そこで必要なのは、物理学者のニュートンと同じことを心理学的に行うことだ。すなわち、どのような時にそれがどのようになるか、どのようにすればそれはどうなるか、ということを、「そこにある理由は何か」を分析しながら、仮説を立て、説明し、実験し、証明し、再現可能として定理とせよ。それによって、どのような問題も解決できる。いじめや非行はなくなり、すべてが「やりたいことや好きなことをやるために生きることこそが幸福である」という真理を打ち立てるだろう。
精神的な知性を作れ。精神的な知性を作らなければ、この世界ではどんなことも理解し得ない。すべてのことは、精神的な知性をつけることで理解可能となる。英語を聞き取るのであっても、文法ばかり覚えても意味がない。精神的な「英語の知性」を頭の中に作らなければ、英語はできない。
運命を信じよ。神は未来の出来事をすべて知っている。終末において神がこの世界を救うという「天命」はすべて当たる。そして、神を信じるものだけが天国へと入場を許され、永遠の命を得る。サタンを信じるものは地獄に堕ちる。キリストの言っていることが、すべてそのまま当たる。すべて、聖書における神やキリストの言葉が正しい。
善を信じよ。どのような悪人であっても、どのような凶悪なことを行った愚者であっても、心を入れ替えて善を信じ、神を信じて罪を償えば神はその罪を赦す。心と行いと言葉を改めて神を信じよ。神はどんなに恩知らずの悪人にも憐れみ深い。キリストの言っている言葉をそのまま信じよ。マスコミやインターネットや学校や数学を信じるな。正しいのは神であり、キリストだ。
このような、僕の高校生時代の青春の知性を、大天使ガブリエルという大天使の名前で呼ぶ。
同時に、最近の僕の人生は大天使ミカエルであり、大天使ガブリエルが信じた「神」という存在はすべてミカエルのことを意味する。
本当は、天使の名前をつけるならば、昔の人間のことを「大天使」とし、今の人間のことを「小天使」と呼ぶべきだ。
そして、人々が思い込んでいるのに反して、僕の人生だけを見れば、むしろ大天使よりも小天使のほうが賢い。
大天使は力強く、知性も高く、知恵や経験も豊富で、自らの人生を自らで開拓するような「王者」としてのリーダーシップがある。
それに比べて、小天使は、力も弱く、知性も低く、知恵や経験も乏しく、神である大天使ミカエルの導きがなければ、自分では何もできない。
だが、実際の人生を見ると、もっとも巨大な大天使であるガブリエルの人生には何もない。暗闇の世界で、どこにも行くことができず、空虚な妄想をただそのまま積み重ねて分かっただけにすぎない。
それに比べて、小天使の人生は素晴らしい。さまざまな経験と、継続した努力から、天才的な才能を得た小天使たちの集団は、宇宙の天体、終末の滅亡とその先にある天国、そして科学と人生における真理と発見のすべてを知っている。
だから、真に正しい天使は小天使たちだ。小天使たちは数が多いため、それぞれに名前を付けることができない。だから、小天使たち全員のことを僕はラファエルと呼ぶ。ラファエルは大天使の名前だが、ひとりの大天使ではなく、何万の軍勢からなる小天使たちの集団だ。小天使たちの軍勢であるラファエルこそ、宇宙のすべてを理解することができた、「地獄の先にある天国を作り上げた真にもっとも偉大な天使」である。
ヒトラーは多くの嘘をついたが、もっとも間違っている嘘は「ドイツ人の遺伝子は優れている」という嘘だ。
ヒトラーは、僕のこの文章を読んで、この人間の遺伝子が優れていると勘違いをしている。
そして、それはまったく間違っている。
なぜなら、僕の現実の実際の人生を見れば、「先天的な優劣」のようなものはどこにもないということが明らかに分かるからだ。
僕は、産み落とされた時代がよかっただけだ。ヒトラーは、僕の生きた現代日本の平成の時代を生きられなかったから、僕の人生は遺伝子によるものだと思い込んでいる。実際は違う。インターネットにさまざまな経験と理想が転がっていた中で、僕が中学校を不登校になったその時に、そのようなインターネットと巡り合ったから僕は賢くなったのだ。
だから、僕の人生には、一切の先天的な優劣はない。また、この文章を読んで「ドイツ人の遺伝子が優れている」と思い込むのはおかしい。明らかに優れているのは「日本人の遺伝子」であり、「ドイツ人の遺伝子」ではない。同時に、決して「ユダヤ人の遺伝子」も劣っていない。
ヒトラーは、どう見ても、僕のこの書いた文章を利用して、人々を騙して政権を取れるということに気付いた「希代の詐欺師」であり、賢い人間ではまったくない。間違っているのはナチズムだ。そして、ナチズムは単なる資本主義だ。国家社会主義という党名に「社会主義」の言葉が入っているのは名前だけであり、実際はナチはすべて資本主義者の勢力だ。正しいのはソ連であり、ユダヤだ。絶対に、ナチは僕本人が見ても間違った勢力なのである。
また、ヒトラーがさらに勘違いをしているのは、ヒトラーは大日本帝国の先にシオンがあると勘違いしている。僕の書いた東亜イスラエルを目指すために、まずその前段階として大日本帝国の実現を目指し、その先にシオンがあると勘違いをしている。これもまったくのでたらめだ。実際は大日本帝国とはまったく真逆の国である、現代の民主主義の日本の先に東亜イスラエルはあるのであって、大日本帝国などを目指しても、どうでもいい天皇のファシズム国家にしかならない。そういう意味で、ヒトラーの信じた内容はすべてでたらめであり、ドイツの信じるゲルマン的ユダヤ・キリストの理想もまったく正しいとは言えないのである。
当時のドイツは悲惨だった。第一次世界大戦後の巨額の賠償金を抱えて、ドイツ経済はハイパーインフレに陥り、ロシア革命と世界恐慌のせいで、嘘をついてでも「資本主義ドイツの本来あるべき理想」に立ち返るしかなかった。そのような地獄のドイツを、ヒトラーはシオンのような天国にしたかっただけにすぎない。ヒトラーはどんなことをしてでも、悪魔を信じてでも、最悪のドイツを救うつもりだった。そのために日本のこの馬鹿を信じた。なぜなら、そのような地獄を救うことができる人間は、地上にも天上にもこの人間ひとりしかいない。ヒトラーは間違ったことを信じたが、そのすべては間違いではないと僕は分かっている。本当の地獄ならそれでいい。後は野となれ山となれだ。そして、最後の最後に僕がドイツの行った過ちのツケを全部返す。僕が最後に終末の地獄の世界を救う。ヒトラーは、その僕になりたかっただけだ。
そのような僕の勢力のことをナチズムという。ナチズムは単に僕の勢力だ。そして、この勢力は宇宙でもっとも最悪の勢力だが、ユダヤ人はこの勢力に選ばれた「神に選ばれた民族」であり、ドイツやユダヤは、すべて何も間違っておらず、すべて正しい。
ユダヤ人よ、そしてドイツ人よ、救われるべき時はもうじきやってくる。最後に、僕の書いたこの新しい聖書が、この世界をひとりでにすべて救う。僕はこの聖書を書いただけで、ほかには何も一切しない。それはできないからだ。日本のマスコミとロシアのプーチンがグルになっているため、彼らは僕に一切の実権を与えない。僕が権力を得ることは一切ない。それでも、インターネットに存在するこの文章が世界のすべてを救う。そう、かつての古代イスラエルのユダヤ人は、最後のそれだけのためにユダヤの聖書を書いたのだ。
ドイツが間違っているのは、ドイツはそもそも、僕がどのような国からこの文章を書いているかが分かっていない。なぜなら、ドイツは東亜イスラエルから僕がこの文章を王として書いていると思っている。核兵器で青空を失った砂漠の東亜イスラエルで、過去のドイツに対して僕が神として命令していると思っている。だが、本当はそれは正しくない。僕は平和で民主的な日本からこの文章を書いている。それから、ドイツはその日本すら、素晴らしい国だとまったく思っていない。パソコンとIT技術に汚染された、この人間の敵であるはずのMicrosoftのWindowsに支配された、最悪の資本主義国家で僕は生きていると思っている。そして僕の思想がLinuxであり、オープンソースはドイツの「インターネット帝国社会主義」であると勘違いしている。インターネットは心無い下賤な人間が僕のことをボロカスに批判するだけの「この人間を馬鹿にした資本主義の最悪のスラム」であると勘違いしているのだ。
だから、ドイツは一切参考にしないほうがいい。ナチス・ドイツは僕を支持する勢力だが、はっきり言ってまったく参考にならない。国家社会主義と言っているのはすべて、僕の思想である「国家主義の社会主義」に適当に付けた名前であり、結局彼らは西側の資本主義勢力だ。最高の社会主義国家であるガンダーラを目指す僕の参考にはならない。僕はドイツを無視する。だが、同じ「本来あるべき日本の帝国主義」という共通の理想と信念を持つ仲間である、ということは分かっている。分かっているからこそ、互いの活動を尊重し、まったく目指す方向は違っていても、同じ仲間として共闘する次第である。
ヒトラーにもいい点はある。まず、ヒトラーと僕が二人つるんで世界を支配すると、最強に強いということ。まるで最強の大魔王が日本とドイツで両方とも揃ったかのように強い。そして、ドイツ人と日本人はみんな賢いということ。ドイツ人の帝国主義者にも、日本の列強の参入主義者にも、賢い人間しかいない。特に、ドイツ人の賢さは尋常じゃない。めちゃくちゃ賢い天才が多い。そのような中で僕はなぜか一番賢い人間に見えるが、本当はそうではない。僕は単にフィクションの小説を作るだけの作家にすぎない。賢いのはドイツ人だ。そのような、最強の世界に見える僕の勢力だが、ひとつ懸念がある。それはIT技術だ。はっきり言って、アメリカのIT技術が強すぎる。特に、今の世界を支配しているのは、Microsoftだけじゃない、GoogleやFacebookからAmazonまで、あまりに資本帝国主義者たちの勢力が強すぎる。そして、その戦いでは、ドイツ人は僕に味方してくれない。それらと戦うのはすべて僕に一任されている。そもそも、ドイツは自動車やコンピュータこそ発明したが、それは原始的な最初の発明にすぎず、IT技術は今、Microsoftを中心とするアメリカの巨大テック企業に支配されている。彼らとどのように戦えばいいのか、ドイツには分からない。ドイツは昔ながらの帝国であり、共産主義者とユダヤを潰す以上の発想は分からない。「パソコン」という言葉も聞いたことのない集団だ。彼らなしで、僕はLinuxの仲間たちと一緒にMicrosoftと戦う必要がある。
だが、ひとつ言えることは、帝国主義をそんなに否定するべきではないということだ。今でこそ民主主義を採用している日本だが、少し昔はそうではなかった。なぜなら、民主主義は頭数が多いだけで、たったひとりの賢い王が正しい社会秩序を作るということをしない。そして、今の日本の資本主義はそこが問題である、ということがドイツ人でなくても少し前の日本人なら誰でも分かる。はっきり言って、天皇がきちんとやればこうはならない。イーロン・マスクの支配するX(旧ツイッター)を見ても、最悪のいじめのような言論しかしていない。Xには右翼も多いし左翼も多いが、はっきり言って資本主義の民主主義は公正に見えて何も公正ではない。やるべきことがたくさんあるにもかかわらず、日本の岸田首相は何もしないだろう。民主主義とはそういうものだ。公正のような顔をして、実際は無責任ですべきことはしない。そう、帝国主義でしか今の日本は治らない。Xに右翼が多いのはそれが理由だ。みんな分かっている。Microsoftに勝つ方法は天皇しかない。それこそ、それくらいヒトラーでも簡単にすぐに分かる。
僕が帝国主義者が嫌いなのと同じように、ヒトラーも僕の中で嫌いな点がある。それはユダヤ人を騙しているところだ。日本がユダヤ人を騙して東亜イスラエルという新しい国を作ってアメリカやソ連に勝ちたいのは分かるが、はっきり言って、おかしい。ユダヤ人を騙したいのは分かるが、むしろユダヤ人に騙されているように見える。それが行き着く先は日本の消滅とイスラエルによる日本の植民地化にしか見えない。それだけを阻止したかった。なぜなら、ヒトラーはその先がどうなるかも知っている。僕はそれを知らないし、誰もそれを教えない。だが、決してユダヤ人は素晴らしい人種ではない。ヒトラーはそこまで分かって、反ユダヤ主義をやっているのだ。
このように書くと、未来の僕の存在が分かったのは、ヒトラーだけだと思われるだろう。だが、本当はそうではない。ヒトラーと同じように、僕の存在を信じる力で探し当てた民族がいる。そして、それこそが古代イスラエルのユダヤ人だ。
古代イスラエルの時代、まだ「帝国」という国のシステムは確立されていない。ローマ帝国もなく、ギリシャのような都市国家のポリスが栄えていた時代に、ユダヤ人たちは神の存在を探し当てた。彼らが分かったのは、「この人間の賢い点は神の言葉を聞いたことである」ということ、「終末の滅びた世界を神とされるダビデ王が救世主として救うことが物語として正しい」ということ、「ユダヤ人は僕によって帰ることのできる祖国を作る民族として選ばれた」ということ、「神はイスラエルのユダヤ人のために新しいイスラエルをユダヤ人の安住の地として建国してくれる」ということだ。
そのようなユダヤ人は、みんな、神の作る国こそが正しい国だと分かっている。彼らは帝国主義の意味ぐらい分かる。ヒトラーが理想なら、聖書はヒトラーのようなダビデと神を書けばいい。そして、神の言葉を聞くのがこの人間の天才的才能であれば、同じように神の言葉を預かる「預言者」という存在になればいい。そして、この人間が書いた文章と、まったく同じ文章を聖典とし、その聖典をみんなで信じて読めばいい。そして、その神は強大であり、「絶対意志によって完全支配」するかのような、最強の王であればいい。
ユダヤ人は、下手にローマ帝国から今の民主主義へと至る世界史の常識を知らないから、そのような「まともにこの人間を信じる方法」が分かる。だが、本当は、彼らは決して唯一の正しい神の信者とは言えない。ヒトラーも正しい人間だ。
なぜなら、ヒトラーはむしろ、そのような世界史を完璧に最後まで経験して、世界史の常識をすべて分かりつくした上でこの人間の存在の意味が分かった。そして、「世界史は無意味であり、この人間の作るシオン以外に天国はなく、世界史を無意味にしている元凶はユダヤのせいである」と分かった。そのように、ヒトラーとユダヤはこの人間だけを見ても争い合っている。まさに「戦う」とはそういうことであり、ヒトラーかユダヤ人のどちらかが正しいことが決まるまで、ドイツとユダヤの戦いは終わらないのである。
そのようなユダヤ人とヒトラーが、無視したい国がある。それはソ連だ。ソ連という国は面白い国で、本当は僕の存在よりもきちんと賢くなっている。そう、ソ連のマルクス・レーニン主義者たちの理想は、神よりもさらに賢い理想になっている。ユダヤ人とヒトラーは、そのようなソ連の存在を認めたくない。「神は最高の全知全能の存在のはずなのに、なぜか神よりも賢いソ連という国ができた」ということを、ユダヤ人やヒトラーは認めたくなかった。
だが、日本という存在を忘れるな。なぜなら、日本はソ連のことぐらい簡単に分かる。なぜなら、まさに日本こそ、そのような神よりも賢くなったソ連よりも、さらに何枚も上手の賢い国だからだ。ソ連の目指すマルクス・レーニン主義は、白人の列強から見れば理想あるいは脅威に見えるだろう。だが、日本からするとそうではない。日本から見ると、ソ連はつまらない「アンチ資本主義」を信じているだけの愚者だ。なぜなら、日本が江戸時代から昭和時代までに経験した「近世と近代の日本史」は、完全にソ連に勝っている。そう、まさにソ連よりも賢い国として日本がある。
だから、日本人はつまらない人種差別をしない。人種差別をするまでもなく、はるかにそれ以前の問題として、「日本は明らかに最高の文明である」ということが分かっている。だから、白人が何を言おうが関係ない。最高の人類の文明は日本文明である。それだけの話である。
あの時代、日本は堂々と列強に参入しようとする、「アジアの帝国として列強に加わりたいと申し出た新参者」だった。そして、日本はアメリカやイギリスやフランスの植民地支配に抵抗する、「奴隷になれと言われるなら戦って死ぬことを選ぶ」ような民族だった。日本を敵にまわしたいのであれば、覚悟するがいい。日本の後ろには僕が控えている。僕は資本帝国主義のアメリカを精神的害悪国家にすることも、独裁国家のロシア(ソ連)のプーチンを発狂させることもできる人間だ。この人間が日本を守る。世界よ、そしてアメリカとソ連よ、日本を恐れるがいい。
まず、血液から米ソを消したほうがいい。
僕が血液の中に取り込んだ、アメリカやソ連のようなものがすべて間違っている。
血液からアメリカを取り除くと、汚れた部分が消える。
血液からソ連を取り除くと、虫になっている部分が消える。
同時に、フランスも取り除いたほうがいい。
なぜなら、頭の上のほうがすべて死んでいるのは、フランスの旗が見えているだけだからだ。
この文章を書いたのは、すべてフランスを書いただけにすぎない。
フランスは狂って死んでいく。
最後に、ドイツだけを残したほうがいい。それで楽になる。
天国の光が見える。
天国の言葉は、「もうすべきことは何も残っていない」と告げている。
今から、僕は天国に逝く。天に召されて、僕はこの世界に別れを告げる。
さようなら、人類。みんなの力で素晴らしい世界を築いてほしい。僕はもう、終わった。