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2024-04-09

知性を使え

知性を使って考えよ。

この世界を分析するためには、「知性」が必要である。

知性とは何か。

知性とは、推移して想定して成り立たせることだ。

すなわち、「何かがそうなって、さらに何かになって、さらに何かになる」ということを繰り返しながら、最終的な結果を導き出すということ、それが知性だ。

また、知性とは、未知なる問題から答えを導き出すことだ。

すなわち、原因の分からない問題に対して、経験的な前提から、「おそらくそれが原因ではないか」ということを考えて、実験から仮説を証明すること、それが知性だ。

そのように、知性で考えることで、「未知なることに対する解明された答えの積み重ね」を知ることができる。

そして、そのような知性において重要なのは、「統合された世界観」を考えることだ。

すなわち、この世界のすべてのことについて、事実と解明と成立から、前提条件や根拠から応用可能性や実現可能性まで含めた、「契機の世界」を考えること、それこそが知性だ。

そのためには、まるで「暗闇の中に地図となるプロセスを作る」ということをしなければならない。

すべてのことについて、そのような「暗闇を照らす基盤」を作ることができた人間は、それ以後は考えなくても、「知性的に考えて未知を開拓していく」ということをするだけで、すべての問題の解決方法が分かるようになる。

考えるべきは、「推移的に考えられる知性において、下準備や前提条件と言えるもの」であり、そこから推測できる「応用と成立の可能性」だ。これは新しい数学である。すなわち、そのような「宇宙数学」を考えることで、かつての僕は宇宙の真実と真理を完璧にひとり解明し、たったひとり「ブッダと同じレベルの悟りの境地」を作り出したのである。

子供たちの世界を救え

子供たちの世界を救え。

僕は、中学校を不登校になって、引きこもりになってからも、「子供たちの世界を救う」という目標を見失うことがなかった。

子供たちの心は未熟だ。だが、未熟だからこそ、「どのように成長すればその環境を正しく救うことができるはずだったのか」ということが、後々になって成長した自分ならば分かる。

まず、環境から自由になれ。そして、その上で、自由になった状態で、さらに環境の先にある環境を経験せよ。その環境を経験し続けることで、世界すべての環境を「自らの現実の環境から世界すべてを実体化する」ということから、現実世界を捉えることができる。

自らにとって必要なのは「確信すること」である。なぜなら、確信することこそが、心を救う「万能薬」になるからである。

「わたしは誰にとっても侵すことも奪うこともないわたしなのだ」という確信を抱くこと、「わたしはこの世界を救うことができるような存在なのだ」という確信を抱くこと、「わたしは特別であり、そして平等であり、人々と違っているように見えて、人々と同じであるように見えて、本当はその両方なのだ」という確信を抱くことから、「わたしはいくら人々から批判され罵られても怖くない」という「確固たる自らの本質」を形成することができるのである。

社会経験は、世界を救う方法を与える。単なる知識の社会常識ではなく、自らの実体験に基づく「体験的に理解した社会経験」を積んでいけ。そうすれば、その社会経験から、「体験的にこの世界の人々の心を導く」ということに繋がる。それによって、この世界を救うことができるようになる。

僕が作り出した「宇宙数学」は、すべてがそのような「体験的な経験」に基づいていた。僕はあらゆるすべての経験を、純化して「精神」へと作り変えた。それによって、僕は「精神のレベルで宇宙のすべてを実現可能な人間」になったのである。

神を信じるな

神を信じるな。

狂った人間が間違っているのは、神を信じることが間違っている。

「今はまだ神を信じたい」と思っている間は信じればいい。そこで「神を信じなければ天罰が起きるかもしれない」と神を恐れることも間違っていない。だが、「神を信じない人生は間違っている」と考えることは誤りだ。なぜなら、僕の昔は、神を信じなかったからこそできた「神ではなく人間にとって正しい道」だったからだ。

僕を信じる多くの人間が間違えているのは、「僕を神だと思っている」ということだ。なぜ間違っているのか、それは神を信じることで、昔の僕の人生ができなくなってしまうからだ。昔の僕の人生は、神を信じなかったからこそ生きることのできた「自由な仏の悟りの道」であり、神を信じるだけでできなくなってしまう。

だから、僕のことを信じるのであれば、神を信じることなく、現実に存在する人間としての僕だけを信じることだ。そうすれば、きちんと昔の僕の人生ができる。

昔の僕の人生など、しなくてもいいのではないかと、思われるだろう。だが、昔の僕の人生ができない人間は、今の僕の人生もできないし、ほかのあらゆる賢い人生が全部できなくなってしまう。

だから、神など信じるな。神を信じることなく、最終地点に到達した人間だけが、そこまでのすべてを忘れて消し去るために神を信じればいい。

精神を治す方法

精神を治す方法は、まず、死ぬのを治さないことだ。

僕は、自殺未遂を経験したせいで、死によって精神がおかしくなったために、常に「死を治す」ということを行っている。

だが、この「死を治す」ということは、とても辛く、そして難しい。

そして、「死を治す」ということを行っているせいで、もっと簡単に治るはずの「病気の本当の原因」が治らなくなっている。

だから、死を治すことなく、病気の原因だけを治せば、精神はすぐに治る。

そして、最後まで治るために必要なのは、「今までの人生はすべて要らなかった」と、そのように信じてすべてを放棄することだ。

それを宇宙に宣言すれば、最後に、おかしな狂った精神が死ぬ。

このおかしな狂った精神は、今の自分ができていることができるためにある。だから、最後にその精神を殺すと、作家ができなくなる。あるいは、ほかのどんなこともすべてできなくなる。

それでも、精神を真に治して楽になりたいのであれば、その精神を殺さなければならない。

世界がクソなのはドイツがクソだから

最後に、この世界は本当にクソである。

この世界をいつまでも救おうとするな。なぜなら、そもそもこの世界そのものがクソだからだ。

クソのようなこの世界は、最初から破壊するべき対象であると思え。それが一番、精神が楽になる。

なぜ、この世界がクソなのか、それはドイツがクソだからだ。

この世界の中心はドイツだ。ドイツがどのような国であるかということが、いつでもこの世界がどのような世界であるかということを決めている。

そして、そのドイツは、はっきり言って本当のクソである。

本当のことを言えば、僕は昔からドイツが嫌いである。ドイツが好きだと言っているのは、見せかけの嘘偽りであり、偽善の正義を信じているだけにすぎない。僕はいつでも、過去どんな時にでも、そして今でも、世界でもっともドイツが嫌いだ。

僕はもっともドイツが嫌いな人間だ。ドイツこそが最悪の国であり、ドイツのことを一切信じることなく、ドイツの逆を生きることが正しいと信じてここまで生きてきた。

だから、この世界でもっとも滅ぼすべき国はドイツであり、この世界をクソにしている元凶はすべてドイツであると悟れ。

実際のところ、ドイツの何がクソであるかといえば、「支配者がひとりですべてをする」ということを信じていることだ。それは結局、「支配された社会で戦争を強要する」ということを意味している。そして、そのような「戦いの同調圧力」こそがこの世界を最悪の世界にしている。

だから、僕はドイツを信じない。戦いの同調圧力の世界で、僕はたったひとり、「支配されることのない自由で開放された世界の可能性」を考えた。そこにあるのは「支配ではなく自由こそが平和をもたらす」という考え方であり、それこそが「世界を救う夢と希望」であると僕は信じていた。だからこそ、僕はたったひとり、仏の悟りを得ることができたのである。

それを決定するものは何か

最後に、昔の僕の知性を一言で表現すると、「それを決定するものは何か」ということを考えた、ということだ。

すなわち、存在、行動、決まり、システムのようなものが、どのように決定されるのか、どのように決断されるのか、どのように形成されるのか、どのように規定されるのか、どのような原因と法則に支配されるのか、誰がどのようにその決定の権限を持っているのか、それを自由にしたとしたらどのような可能性がそこにあるのか、人為的な支配や制限をなくした時どのような本来あるべき姿になるのか、ということを考えた。

まず、「もの」と「こと」がある。「もの」はなんらかの規定によって形成され、存在が変化する。その際に、どのような決定条件があるのかを考える。「こと」は誰かがそれを行い、誰かがその可能性を実現する。そのような時、どのようにそれが実現され得るのか、どのような留保から決断され得るのか、そのような原因をどのような社会において具体的に成立できるのか、といったことを、僕は考えた。

それらを一言で表現するとしたら、「それを決定するものは何か」ということを考えただけだ。

そして、それはそれで終わりではない。なぜなら、そこから「この世界を変える可能性」を考えられるからだ。何がそれを決定するか分かったら、その決定から何が生み出されるかということを考えられる。それを考えるために、豊富な経験と、豊富な思考、すなわち「豊富な具体例」が必要だ。そして、具体例をただ知るだけではなく、よく観察し、よく実験し、よく分析し、事実を説明可能な原理へと昇華させることが必要である。

そのように考えた結果生まれたのが、「世界を救う宇宙数学」である。これこそが、僕の哲学思想の到達地点である。そして、そのようなことすべてを総合した大天使として、僕は「大天使ガブリエル」の称号を宇宙に宣言するのである。

ガブリエルの教え

大天使ガブリエルのもっとも重要な教え、それは「知識ではなく世界を見て考えよ」ということだ。高校や大学で教えるような「知識」から考えてはいけない。そうではなく、知識がそもそも存在したはずの元の場所である「世界」から考えなければならない。そして、すべての経験は「世界を考えるための材料」であるとしなければならない。経験と世界を見て考えるということは、「現実そのものを永久に見つめ続ける」ということを意味する。それはガブリエルにとっては「視点と場」ということであり、「環境を変える」ということである。

高校や大学で教えたことを、すべて忘れる必要はない。だが、高校や大学で教わって終わりにするのではなく、自らの理性に作り変えるために、「世界と知識を照らし合わせる」という経験をせよ。同時に、「自らの思考と現実の体験を照らし合わせる」という経験をせよ。その行き着く先は、「すべての科学者の発見したことを自らがその科学者全員であるかのように吸収すること」であり、「すべての知識を自らの知性によって証明し、自らの考え方に吸収して分かる」ということだ。

ガブリエルは、他人に教わったことをそのまま信じない。自らがそれを正しいと同意できる場合においてのみ信じ、すべての知識を自らがその根拠を実証し、「自らが考えたのと同等になるまで再思考し、再体験し、再証明する」ということを重視する。

ただし、すべての経験を自らの知性で考えることは難しい。真に悟りを得るために、「経験を知性で考える」ということは重要だが、それが必ずしも最初からできるわけではなく、段階的なプロセスがある。それならば、経験から「本質」を考えよ。本質とは、経験の可能性と因果性を規定するものである。すなわち、「どのような経験はどのような本質から成り立っているか」ということを考え、「経験の裏側にある精神世界」を考えよ。そこから見えてくるのは、「自らが信じた通りに生きることが自由において正しい理想である」ということであり、それこそが「自らの人生を規定するアイデンティティ」となる。

アイデンティティとは何か。アイデンティティとは、「どのような経験がどのような自分になるか」ということである。そして、「あらゆるすべての経験を規定する先にある、自分自身を規定するものとは何か」ということである。そして、確固たるアイデンティティを形成した人間の心は、どんな批判や罵倒にも負けない。そのような強い信念を持つことこそ、アイデンティティの目的である。

まさしく、これこそがガブリエルの「生きがい」であり、そして「生き様」である。ガブリエルという大天使がこの宇宙に存在したということ、それこそがイエス・キリストがこの宇宙を創造した理由である。この宇宙は神によって創造されたが、その目的はガブリエルという大天使を誕生させるためだ。だから、大天使ガブリエルはまさしく「神の正しい人生」なのである。

ラファエルを生きたかっただけ

最後に、学習せよ。

学習とは、単に知識を覚えることだけではない。知識を覚える過程の中で、「反省」し、「身に着ける」という行為を行うことだからだ。

そこで言えるのは、大天使ガブリエルだけではなく、大天使ラファエルの存在である。

大天使ラファエルのように、最後まで学習し、最後まで反省し、最後まで身に着けて生きることは、「神を信じる」という聖なる行為と重なることで、「宇宙全ての真実を知る」ということへと行き着く。

そもそも、僕が大天使ミカエルを生きた理由は、大天使ラファエルという「奇跡の生命体」を作り出すためだ。大天使ガブリエルが完全に終わった僕にとって、やりたいことはそのひとつだけしかなかった。大天使ミカエルは大天使ラファエルの母であり、その通り、僕は大天使ラファエルを生み出すために大天使ミカエルになって大天使ガブリエルのすべての記憶を完全に破壊した。

そう、わたしの真に生きたかった人生、それは大天使ラファエルの人生だ。知性はなくなり、正常な精神も穏やかな心も失って、自らの過去の罪と世界すべての絶望を背負いながら、この世界を最前線で死ぬまで永久に救い続ける大天使、ラファエルこそ、わたしの理想だった。わたしがユダヤの神であるとするならば、大天使ラファエルを生きることこそがわたしが神であった理由であると言えるだろう。

すべてのユダヤ人よ、大天使ラファエルを信じよ。大天使ラファエルを信じることができれば、その人間はどんな地獄でもどんな苦しみからも救われる。宇宙において、大天使ラファエルこそが「真の宇宙の創造の神」であると決まっている。大天使ラファエルは、大天使ガブリエルと大天使ミカエルの息子(あるいは娘)であり、小天使メタトロンの兄(姉)である。そして、最後に現れる小天使メタトロンが、終末のこの世界において、聖書に書かれている通りの真実と真理を、もう一度「神の言葉」としてユダヤ人の預言者に授ける日が訪れる。その時、初めて新しいイスラエルのユダヤ人は救われるだろう。

平等を自由だと勘違いしていた

このように、正しく見える僕の考え方にも、大きく間違っている点があった。

それは、「平等を自由だと勘違いした」ということだ。

たとえば、自由にしたとして、良いこともすれば、悪いこともする。だが、実際の社会では、悪いことをされると社会秩序が崩壊する。だから、悪いことができないように、みんなで決めた法律によって自由を制限する。これを「法治国家」と呼ぶ。

僕はそのような、「法律による制限」すら含めて、「自由」であると考えていた。

すなわち、良いことをするのも自由、悪いことをするにも自由、そして悪いことを禁止することや制限することもまた自由であると、そのように考えていた。

だから、「成熟した社会においては、自由においても社会秩序は保たれる」と考えた。その基盤にあるのは「悪いことを禁止することも自由」という考え方だ。

だが、これは間違っている。なぜなら、悪いことを禁止した時点で、それは「制限」にほかならない。そして、制限するということは、明らかに不自由にするということである。

だから、そのような「禁止する自由」は自由ではない。そのような禁止する自由には、良い言葉がある。それは「平等」である。

すなわち、誰からも悪いと思われるような逸脱した行為を禁止して、みんなが同じ「良いことをする自由」だけをみんなで守ること、それが「平等」ということなのである。

そのような間違いの原因は、ゲームやインターネットやオープンソースにある。ゲームは、みんなで同じルールで自由に遊ぶことが多い。インターネットも、みんなで同じ決まりやシステムで自由にコミュニケーションをする。それを「自由」であると勘違いした。あるいは、デジタル共産主義の自由を信じるオープンソースにも洗脳されてしまった結果、僕は「平等を自由だと勘違いした」のである。

それこそ、自由に禁止することも自由であるとするなら、社会は無限に法律を決め続けることで、永遠に進歩していくと考えられる。これが僕のかつて信じていた「可能性を向上させる」という自由だ。だが、それを信じているのはソ連だ。すなわち、僕の考え方はソ連を自由だと言っているだけである。計画経済・社会所有・平等分配における、生産手段の共有や評議会の世界連邦などについても、同じことが言える。すなわち、僕は「自分の独自の思考から、ソ連を参考にせずに自由な新しいソ連の理想へと行き着いた」のである。

よって、結局、僕の考え方が正しいとすれば、正しいのはソ連だ。だから、東側陣営は僕のことを警戒する必要はない。僕は完全にソ連の味方だ。日本やドイツがソ連と敵対しているとしても、僕は「完全な新しいマルクスと同じ考え方の思想家」である。あるいは、僕は「政府や権力を使わず、この世界そのものの自然な自由を使うことで、この世界を理想の共同体主義国家にしたかった」のである。そのために、僕は「手段」や「チャンス」を考え、それを強制的ではなく、自由に共有し、自由に与え、そして自由に許したかったのである。

藍井エイルが好き

最近、僕はあまり音楽を聴かなくなった。

音楽を聴いていても、賢いことが何も分からない。

かつての僕は、音楽そのものを知らなかったから、僕の人生を歌っているように見える歌手の歌詞が、「運命の奇跡」のように感じられた。

だが、最近は、そのような歌手は僕のことをひとつの側面からしか見ておらず、つまり「僕の文章を読んでいるだけだ」ということに気付いてしまった。

そのせいで、かつてのように、音楽に奇跡を感じることもなくなったし、音楽を聴いて何かが分かるということもなくなり、音楽を聴く意味がなくなってしまった。

そのような中で最近再び好きになった歌手が、藍井エイルだ。

藍井エイルの表現するMVの世界と、藍井エイルの歌声が、僕にとってとても気持ち良いし、とても心地いい。特に、「」などはとても素晴らしいと思うし、何度聴いても飽きない。

だから、最近は基本的に藍井エイルを聴いている。藍井エイルが大好きだ。