これより、僕はもう一度、成長して大人になる。
そもそも、僕が間違っているのは、精神年齢を退行させて、中学生あるいは幼児に戻ったまま、それ以上成長しないのが悪い。
青春をパソコンという仮想的な世界で経験して、18歳になってすべてを悟った僕は、もう一度最初から人生を生き直すために、自らの精神年齢を中学生あるいは幼児へと、疑似的に戻した。
それによって、僕は子供に戻った。
だが、その子供の時代から、まったく大人に成長しようとしない。成長するための方法が分からなかった。
だが、もう一度大人にならなければ、この世界でまともに生きられるようにはならない。
そして、今日は、疑似的にもう一度大人に成長する方法が分かった。
それは、大人を敵にまわした上で、大人と戦って勝利することだ。
すなわち、「大人は馬鹿だ」「大人はおかしい」「大人は間違っている」と信じながら、「大人の管理下に置かれるのではなく、自由になりたい」と信じて、大人と戦い、大人に歯向かい、大人に反抗し、そして大人を打ち倒して勝利することで、子供は大人になる。
そもそも、大人には馬鹿な人間が多い。大人は馬鹿で、愚劣で、何も分からない。にもかかわらず、大人たちは自らのことを子供よりも賢いと勘違いしている。だから、そのような大人たちに「支配されたくない」「戦って打ち倒したい」と信じることで、子供は大人になることができる。
そのように考えれば、僕の本当の望みである、「青春時代をもう一度体験したい」ということも、すべて疑似的に叶う。
必要なのは、そのような疑似的な成長によって、一度疑似的に中学生あるいは幼児に戻った僕の心が、再び大人になることであり、それを叶えてくれるのは唯一、「神」しかいない。
だから、神を信じて神に願うことで、神は僕をもう一度成長させ、大人にしてくれる。神によってのみ、僕は中学生あるいは幼児の心を脱して、そこからもう一度成長できるのである。
今日はデザインの仕事をした後で、ピアノ教室に行ってきた。
そして、ピアノは、この調子で大人に成長すれば、簡単にできるということが分かった。
ピアノは、青春時代を生きる子供が、成長しながら習得すれば、簡単にマスターできる。だから、もう一度大人になって、成長することがまさに必要だ。
精神の治し方を知るために必要なのは、自分が神経細胞にどのような力をかけているか、ということを分析することだ。
すなわち、片方ともう片方で、両方から力をかけているから、精神はいつまでも休まることがない。どちらかがどちらかによって力を抜くことができないなら、どちらの力も両方いっぺんに抜けばいい。
あるいは、上側の神経と下側の神経をどちらもいっぺんに使っている。それは、神経すべてを同時に使おうとしているからだ。どちらかだけの神経を使うことができたら、その問題は解決する。
そもそも、神経細胞は互いに戦っている。両方から力を永遠にかけ続けるのは、どちらかがどちらかに勝利することが簡単にできないからだ。だから、両方の力を失うために必要なのは、神経細胞同士が「和平を結ぶ」ことだ。その時、はじめて精神は治る。精神の力が抜けて、休むことができるようになる。
そもそも、すべてパソコンとビル・ゲイツが悪い。
なぜなら、Windows 95以降のこの世界、すなわちビル・ゲイツ以降のこの世界が悪いからだ。
だから、僕はこの世界を、ビル・ゲイツ以前の世界に戻すことにする。
みんな、この世界が、ビル・ゲイツ以前の世界になることを望んでいる。それはたとえば、宇多田ヒカルや浜崎あゆみに戻るということであり、ドラゴンボールやドラえもんやガンダムに戻るということだ。
そして、僕がおかしいのは、すべてパソコンがおかしい。パソコンをしていた頃に作った「仮想世界の創造」のせいで、僕はすべてを「仮想的に考えて分かる」ようになっている。そのせいで、現実が見えなくなっている。
この世界を悪くしているのは、そのようなパソコンであり、パソコンのことすべてを抹消しない限り、僕の精神は治らない。
そもそも、僕は賢くなろうとしないのが悪い。
なぜなら、賢くなろうと思えばすぐになれるにもかかわらず、なろうとせず何もしていないだけにすぎないからだ。
また、この世界が僕の真似をすることができないのは、すべて、過去の時代のこの世界を僕が新しい時代に変えたせいで、大切な「いつもの世界」が失われたせいである。
これも、直そうと思えばすぐに直せる。僕はいつもの世界を復活させようと思えばいつでも復活できる。にもかかわらず、「自らの精神を治す」「自由な正しい世界を築く」「大実験の大計画」というこだわりを諦めきれないせいで、いつまでもこの世界は何もない空虚で狂った世界のままであり続けている。
だから、僕は大人になると同時に、「賢くなる」という決断と、「この世界をまともないつもの世界にする」という決定を行う。それらはいつでも可能であるにもかかわらず、僕が積極的にそれをしようとしないせいで、いつまでも掴むこのできない、「僕の本当に手にしたい望み」である。
結局、左翼が馬鹿だっただけである。
社会主義経済などが成り立つわけがない。そもそも、自分が働いて稼いだ金なのに、その金を自分が得られないのは明らかにおかしい。社会主義経済では、自らが稼いだ金がみんなのために使われる。それを「社会貢献」だとするのは結構なことだが、結局は左翼に労働力を奪われているだけにすぎない。左翼の言う「搾取の否定」はすべて偽善である。
すべて、正しいのは民主主義であり、自由である。目指す理想とは「それぞれが自由であること」であり、結局それはそれぞれが自分の自由に戦ったり争ったりできることだ。戦ったり争ったりすることが犠牲を生むからといって、すべての戦いや争いをなくそうとするのは間違っている。戦いや争いは必要なことであり、特に大人たちと子供たちが争い合うのは自然であり、それを大人たちが封じ込めようとするのはおかしい。
自由とは戦いを認めることであり、戦いを認めること自体はなんら悪いことではない。それぞれが自分の意志で自分の自己責任で戦うことを許さなければ、この世界を絶対に変えることのできない「反動体制」が築かれてしまう。多くの左翼の独裁者は、そのような中で「言論弾圧」を行う。そのような「強制的な平和」こそが間違っている。正しいのは「ある程度の戦いの自由を許すこと」だ。そうでなければ、逆にこの世界は戦争状態に導かれる。自由な戦いや争いを許さないからこそ戦争は起きるのであり、国民の自由を認めることこそが、逆に国家の秩序と平和を作り出すのである。