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2024-10-08

高校数学の勉強をするな

高校数学の勉強をするな。

頭が馬鹿になる理由は、すべて、高校数学の勉強をするせいだ。

中学数学には、人間としての考える知性があるにもかかわらず、高校数学の勉強をすることで、その考える知性が一切失われてしまう。

そのせいで、昔の僕のような賢いことが分からなくなる。昔は分かっていたとしても、その後に高校数学の勉強をすることで、昔分かっていたはずのことが分からなくなってしまう。

僕は長らく、そのような、昔分かっていたことを「もう一度分かりたい」という確執から、そのような昔の哲学的知性を取り戻すことを、諦めることができなくなってしまっていた。

そして、昔の知性が失われた原因を、「大学の勉強のせい」だと思い込んでいた。

だが、大学は間違っていない。なぜなら、昔の僕はむしろ大学の勉強を中学生の年齢からすることで分かっていた。いわば、中学時代から大学の勉強をすることで、昔の僕は成り立っていた。

真に間違っているのは、すべて高校数学の勉強である。

中学数学の知性を持ちながら、高校数学の勉強をせずに、大学の情報工学の勉強をして、インターネット上で社会的経験をする人間だけが、昔の僕と同じことができる。

だから、絶対に高校数学の勉強をしてはいけない。

サタンを信じるな

サタンを信じるな。

サタンとは何か。サタンとは強欲で堕落したアメリカである。

特に、アメリカの堕落しきった右翼とポピュリストこそが、まさにこの世界を資本主義の「超格差社会」に陥らせている。

日本やアメリカだけを見ると、資本主義は素晴らしい世界に見えるが、それは大間違いだ。アフリカや中東のような発展途上国を見れば、資本主義があまりに最悪であることが分かる。あるいは、そのような発展途上国を見なくとも、温暖化や異常気象を見るだけで、資本主義はこの世界を滅ぼす「癌のようなもの」であるということが分かる。

Linuxやオープンソースもサタンだが、アメリカや資本主義やポピュリストもまたサタンだ。

真に賢い人間は神を信じる。神を信じてサタンの資本主義を否定するものだけが、終末の未来を生き延びることができる。

神を信じないものは地獄に堕ちる。アメリカの堕落したポピュリストたちよ、それはお前たちのことだ。

精神の治し方

精神を治す方法、それは適切な時にできなくなることだ。

すなわち、「できる」せいで精神が治らないのであり、「できなくなる」ことで精神を治すことができる。

そして、異常の前にできなくなるのでも、異常の後にできなくなるのでもなく、適切なタイミングでできなくなることさえできれば、精神はすべて治る。

正しい体験

僕が間違っていたのは、僕は内容も順番も正しい内容を連続して4回行った上で、その後に内容も順番も逆の内容を連続して4回行おうとした。

だが、そうでなく、内容も順番も正しい内容を連続して4回行った上で、その後に内容だけが逆で順番は正しい内容を連続して4回行い、そしてさらにその後に内容だけが正しくて順番が逆の内容を連続して4回行うことこそが、真に正しかった。

それだけが、僕の間違いである。

それが、眠る時に見える夢の世界で分かった。

普通の人間は馬鹿

残念ながら、普通の人間は馬鹿である。

なぜなら、普通の人間はテレビを見るからである。

普通の人間は、馬鹿しか分からない。なぜなら、普通の人間が分かっていることは、すべて「馬鹿」を分かっている。あるいは逆の言い方をすれば、「馬鹿」を分かるだけで普通の人間が分かっていることと同じことが分かる。

だから、何も分からなくなって困っている人間は、そのように、普通の人間が分かるような「馬鹿」を分かればいい。それですぐにまともに分かるようになる。

普通の人間がなぜ馬鹿なのか、それはテレビは馬鹿なことが分かるメディアをやっているからだ。テレビはこれでもか、これでもかというぐらいに、視聴者に「馬鹿」が分かるように導いている。だから、テレビを見ることで、人間は馬鹿なこと以外何ひとつ分からなくなる。

そのような馬鹿から脱する方法は、唯一ひとつしかない。それは「書く」ことだ。すなわち、文章に文字を書くことでしか馬鹿は治らない。だから、この世界には作家しか賢い人間はいない。ほかはすべてテレビと同じ馬鹿である。だが、逆に、そのような馬鹿になれば、作家になって何も分からなくなっているのは治る。なぜなら、作家は必ず普通の人間に分かることが何も分からなくなるからだ。

中学校の知性を思い出せ

賢くなるための方法、それは中学校の知性を思い出すことだ。

たとえば、簡単な方程式。それから、比例と反比例の一次関数。そして、図形の面積や円周の長さの求め方。そして、根拠と理由と成立条件の分析から成り立つ、「正しいことの証明」の仕方。

あるいは理科であれば、観察と実験に基づく再現性の証明と、観測的な作用と実験結果の関連性を示すような、あるいはその結果の関連性から得られるような、宇宙の現象を説明する仮説の立て方。

そのような、基本的な知性のある中学の数学や理科は、決して馬鹿ではない。公式を覚えるだけの高校の数学や物理のほうが、はるかに馬鹿だ。

そして、そのような、基本的な数学と物理を思い出せば、きちんと身の回りにあることが分かる。

そして、賢い人間は自分の頭を使って考える。中学数学の知性ぐらいであれば、自分の頭で考えて分析することができる。

たとえば、機械を考えるのであっても、どのような動力とエネルギーで動いているのか(扇風機ならモーターと電力)、どのような作用を与える部品があるのか(ファンと風)、機械を作るための社会的な生産手段と組織は何か(会社、労働者、工場、金、消費者、経営者)、発明するためにどのように考えて研究して現実に製造するか(研究開発、企画、設計、実装、生産、販売)、といったことを考えればいい。

中学校ぐらいの知性があれば、そのように「自分の頭を使って世界を分析する」ということができる。それこそが、この世界で賢い人間になるために必要な「大切な知性」だ。だが、それは高校数学を勉強すると、失われてしまう。だから、高校数学を決して勉強してはいけない。

心理学と社会問題

この世界を分析するために考えるべきこと、それは単純な心理学と社会問題の分析である。

心が本当に望んでいるものとは何かを考えよ。そして、不安になる時は何が原因で何を求めて不安になるのかを考え、不安にならないためにはどうすればいいのかを考えよ。

社会問題について、なぜそのような社会問題が起きるのかということを、心理学的に考えよ。すなわち、そのような社会問題を起こしたくなるような原因の、当事者たちの心理を考えよ。

それだけで、この世界を心と現実社会の分析から、必ず救うことができる。

不安の裏側にあるのは、「確固としたアイデンティディが欠落している」ということである。すなわち、人間は信念と義を信じて戦う生き物であり、そのような信念と義のない人間が、世界において宙ぶらりんの状態に置かれてしまった結果、さまざまな心理学的な問題と社会問題が引き起こされる。だから、自らの確固たるアイデンティティを確立すれば、不安すら感じなくなり、社会問題は解決するだろう。

そして、どのような社会を作るべきかを考える上で必要なのは、「自由を信じること」である。すなわち、世界の多くの問題は不自由のせいで起きているのであり、自由を与えればその自由において勝手に解決する。そのために必要なのは「争いの際の戦力の偏りとコミュニケーションの分断をなくすこと」である。すなわち、それぞれで戦力が偏っていて、それぞれでコミュニケーションが分断されているから、間違った争いが引き起こされるのであり、そのような「力の差とコミュニケーションの隔たり」を平等かつ円滑にすれば、この世界は自由においても平和になるだろう。

問題の原因を突き止めながら推測せよ

知性とは何か。知性とは、問題の原因を突き止めようとしながら、推測して考えることだ。

すなわち、「そうであれば、そうだろう」「そうでなかったら、もしかしたらそうかもしれない」「だが、実際はそうだった」「それならば、そうだろう」という風に、推論しながら推測していくことと、「それはその時そうだった」「それはそれ以外の時もそうだった」「それは今回もそうだった」「それならば、それはそういうことだ」という風に、実験しながら推測していくことによって、知性は成り立つ。

そして、そのような知性は、そのまま「モデル」へと結実し、自らの中に生まれる「悟りの精神」となる。

そのような知性は、自分の頭の中で分析できるような、中学生の頭にあるものである。

さらに言えば、世界そのものを実験台にして、世界そのものという名前のパズルを解いていくように考えること、それが知性である。

だから、知性は本質的に簡単である。そして、間違っているのは高校数学だ。高校数学は賢いことを教えるが、その賢いことは自分の力で分析したり、発見したりすることが不可能なものが多い。高校数学は人間の頭を馬鹿にする。だから、高校数学は絶対に学ぶべきではない。

そして、そのような知性あふれる人間こそが、真にこの世界を変える「変革者」となり、あるいは世界を救う「救世主」となり得るのである。

心の作用と客観視から考えよ

しかしながら、このように書かれてしまうと、何から考えればいいのか分からなくなってしまうだろう。

だが、簡単である。すなわち、心の作用と客観視から考えればいい。

自らの「行為」と、そこにある「心」との関係性をまず考え、それを行う「相手」に対して、その相手の立場と視点に立って、自らの行為を相手の心になったつもりで「客観視」して予想し、そこでどのような「環境」が生まれるのか、ということを、個人と集団の関連する社会環境の中で考えればいい。

必要なのは、すぐにしようとせず、それをする前にそれが妥当かどうかをよく留保して考えること、そして現実の社会環境で試し、予想を実験し、観測結果を再現し、理由を突き止めて考えることだ。

そうすれば、どのような心の問題であっても、どのような社会問題であっても、その「本質的な原因」を説明できる。それが、この世界を救う「救世主」へとなっていくのである。

啓蒙

そして、そこから最終的に分かる真理、それは「啓蒙」である。すなわち、自らが分かったことを、ただ自らだけが理解するのではなく、人々に同じ真理が分かるように啓蒙すること。実際にそれ(啓蒙)をしないとしても、それ(啓蒙)は確実にできるのだということを信じること。それこそが、この世界を変えていく「啓蒙的真実」である。そのような啓蒙的真実だけが、この世界を救うのである。

啓蒙を行う上で必要なのは、「どのようにして影響力を得るのか」ということだ。それはたとえば議論であったり、社会組織への参加であったりする。だが、信じるべきことは、「確実に相互理解は可能である」と信じること、そして「自らだけが自分勝手に支配するのではなく、自らと同じ立場に人々を置いたうえで、自らだけではなく全員がそれぞれの行為として啓蒙を行う」ということを信じることだ。

また、世界そのものの自由度を上げるべきだ。可能性を人為的に制限せず、決まりや影響が及ぶ範囲をできるだけ小さな単位にしていくことで、この世界は「もっとも可能性の大きな状態」になる。可能性が許されること、可能性が与えられることでこの世界は変わっていく。

そして、真に必要なのは「場を提供する」ことだけだ。

すなわち、インターネットであってもいいから、この世界を変革するような場を提供し、そこでは人々がもっとも小さな単位でもっとも可能性を制限されずに活動するようにする。そうすれば、この世界は「自由」という理想の下に、必ず実体験的に心からすべて救われるだろう。