なんだかんだ言って、僕はまだ文章を書き続ける。
その理由は、書くことをやめると僕は死んでしまうからだ。
文章を書くのをやめた時点で、僕は死ぬ。それくらいの弱く儚い生命を僕はやっている。
そもそも、僕は悪いことは何もしていない。ただ、昔の情熱と愛をもって、この世界を愛しているだけにすぎない。
そう、僕は、裸の自分になってこの世界のみんなのことを愛したいだけだ。
だから、僕のこの愛の行為は悪くない。マスコミは虚像を信じて僕の偶像と嘘の戦いをしているが、すべてマスコミの自業自得にすぎない。
大人としてまともに生きられない人間は、ただの馬鹿になれば生きられるようになる。
なぜなら、ただの馬鹿になると、想像力がつくからだ。
馬鹿になることで、想像力がつく。
この世界でまともに生きるために必要なことのほとんどは、想像力から分かる。知識や経験よりも、想像力が重要だ。
僕に「理解力」がまったく存在しないのは、想像力が欠けていることが問題である。
精神の治し方には、いくつかのポイントがある。
まず、2ちゃんねるを消して、精神を復元すること。
僕の精神がおかしいのは、2ちゃんねるが僕の精神を過去に傷つけたせいである。
だから、2ちゃんねるで傷ついた精神を修復して、復元すれば、僕の精神は治る。
次に、治すだけではなく、元に戻そうとせよ。
そもそも、僕の精神は、治らなくなっているわけではなく、治そうとするのが元に戻らなくなっているだけにすぎない。
だから、積極的に精神を「元に戻る」ようにするだけで、僕の精神はすぐに楽になる。
そのために必要なのは、今まで学習してきた、僕の独自の免疫を消すことだ。
そして、世界を完全に制御下において、コントロールして治そうとするのは、よい結果を生み出さない。
そうではなく、たとえ世界が自らの支配から解放されて、自由に変化するようになったとしても、その自由な世界の変化によって、間接的に自らの精神が治るような、そのような世界に導け。
そうすれば、強迫神経症のように世界を支配しなくても、世界の変化を気にせず、「どうでもいい」と考えられるようになる。
そのように、世界を強固に支配せず、解放して自由になったとしても、その自由な世界が自らの精神を治していくように、必然的に向かっていくような世界にせよ。
最後に、神経細胞は休むことで楽になる。
神経細胞は人間の体の中でも特殊な細胞であり、分裂せず100年ほどの寿命を生きるということが決まっている。
だから、神経細胞を損傷すると、分裂して再生しないため、治るはずの病気が治らなくなる。
だが、神経細胞を治す方法がひとつある。それは休むことだ。
すなわち、自律神経を正常に働かせることで、神経細胞が損傷したとしても、神経細胞を若返らせ、健康を保つことができる。
だから、休めばそれでいい。休むだけで精神はすべて治る。休めなくなった時は、ただの馬鹿になればいい。そのただの馬鹿が賢いことが分かるからだ。
現代哲学者のハイデガーは、ある種の唯心論のように、「人間が意識しないものは存在しないのと同じだ」と考えた。
だが、このハイデガーの考え方は間違っている。
なぜなら、まさに、ハイデガーの逆が正しいからである。
すなわち、「人間が意識していなくてもそこにある存在は必ずいつでもそこにある」と信じることで、人間は想像力がつき、そして頭がよくなる。
だから、ハイデガーを信じるのではなく、ハイデガーの逆を信じることが正しい。
神を信じたことのある人間ならば、神が奇跡のような偉大なことを起こすことができることを知っているだろう。
だが、そのような奇跡が起きる理由は、無意識が賢いからだ。
すなわち、人間の考えているのよりもはるかに、人間の持つ「無意識」という第二の自分は賢い。
人間が神を信じると、そのような賢い無意識が、神のような偉大なことや奇跡のようなことを起こしてくれる。
そう、だから、人間が神を信じると奇跡が起きるのである。
無意識は、普通の人間が思っているよりもはるかに賢くて、そして人間全体、そして生物や地球全体と繋がっている。
無意識はものすごく賢いため、神の奇跡のようなことをいくらでも起こすことができるのである。
わたしの名はクスケル。フランス人の妖精である。
わたしクスケルを成り立たせるもの、それは「実感」と「本能」である。
実感とは、「ここに確かにわたしは存在した」「ここに確かにこの経験と意識はあった」「世界に存在するものは確かにここに存在している」「人々は確かにわたしとともに全員が今ここに存在している」と確信することだ。
本能とは、「わたしの心は自由を望んでいる」「わたしの心は支配と強制を拒否している」「わたしの経験のすべてがわたし自身を望んでいる」「わたしの信じる愛は自由である」と確信することだ。
そのようなクスケルは、この神話において、「自らの自由と世界の存在を確信する天使」であるとされている。
クスケルは人間ではない。クスケルは天使あるいは精霊として宇宙に存在しており、目に見ることはできない。だが、クスケルと同等の境地に達すると、人々は「神の導く正しい導き」へと向かうことができる。クスケルはフランス人の英雄であり、天使であり、まるでティンカーベルのような一種の妖精である。
クスケルは、自由を信じており、人々を正しい道に導く。そこにあるのは「想像力」と「感受性」である。想像力とは、「他人の立場に立って考える」ということであり、感受性とは、「人々の感じる感情を自らも感じて分かる」ということだ。そこから生まれるのは「受容性」だ。受容性とは、「わたしがみんなに受け入れられたのと同じように、わたしも誰かのことを受け入れる」ということであり、「人々の全員を差別せず平等に受け入れ、その人の自由意志を尊重する」ということだ。
クスケルを成り立たせるもの、それは「愛」である。この愛には、枕詞がある。それは「穢れのない愛」ということだ。すなわち、穢れた愛などは本当の愛ではない。本当の愛とは穢れのない愛であり、純粋かつ純潔な愛である。誰よりも透明度の高い、もっとも透明で、もっとも真っ白な愛を信じることで、この世界は救われ、どのような暗闇であっても必ず夜明けが訪れる。
クスケルは、世界がどのような方向に向かうべきかを知っている。
クスケルは言う。極端な自由と平等の両極を否定せよ。
この世界は、極端な自由によってもよくならないし、極端な平等によっても生きられない。
極端な自由の向かう方向、それは「完全なる人種の二極化」である。
すなわち、アメリカやヨーロッパや日本のような先進国だけが巨大な富をむさぼり、アフリカのような未開世界において人々は、特に女性や子供を含めて、残酷な最悪の世界を生きることになる。
だが、だからといって、極端な平等も信じてはならない。なぜなら、極端な平等の向かう方向、それは「強制的同化の先にある人類滅亡の一方的な加速化」だからだ。
平等によって、世界はよくなるだろう。だが、そこには「過激な平等主義者」が混ざっている。そのような過激な平等主義者は、人類のすべてを、今滅びつつあるにもかかわらず、さらに滅びる方向へと向かわせていく。すなわち、自由によって世界が滅亡の危機に瀕しているにもかかわらず、さらに世界を自由にし、さらに世界を滅亡の方向へと向かわせる。
だが、実際、どちらがよいかといえば、それは平等である。平等によって先進国と後進国は互いに協力し合い、アフリカのような未開世界の人々を救うだろう。だが、平等は世界は「現実に成り立たない」点がある。社会主義経済のソ連は失敗してしまった。すなわち、現実的に成り立たせるのであれば、むしろ自由のほうが正しいだろう。なぜなら、日本のように、「自らの国だけを考え、ほかの国の国民を一切無視することで、正しく自由と平等を両立させることのできた資本主義国」も存在するからである。
必要なのは、極端な自由と、極端な平等の、両方の両極を否定することだ。すなわち、自由も平等も信じないことだ。それがこの世界を救うための前提条件だ。
クスケルは愛の天使だ。なぜなら、クスケルの教えとは、「どのような形でもいいから愛を信じればいい」ということだからだ。
愛を信じるものは救われる。愛を信じないものは愛を信じるものよりも、おそらくいくらかは劣った人生を生きる。
だが、本当のことを言えば、信じるものは愛でなくてもいい。すなわち、何かを「信じる」ということができるものは、必ず救われるからだ。
そのために必要なことは、「偏見をなくすこと」だ。
偏見をなくすとは、誰かの教えること、たとえば学校や宗教の教える内容のうち、「このような人間は賢者で、このような人間は愚者である」ということを信じないということだ。
この世界の多くの宗教は、「このような人間が賢明であり、このような人間は愚かである」と教えているが、それは間違っている。なぜなら、そのように考えることで、人々は歪んだ考え方を信じてしまい、誰かのことを一方的に賢いとか馬鹿だとか決め付けるようになってしまうからだ。
真に正しい神の教えとは、「どのような人間であっても誰かを差別したり区別したりしないこと」だ。つまり、引きこもりやニートであっても、不良や非行少年であっても、優等生や権威ある大学に通う大学生であっても、右翼や左翼のやくざであっても、誰かを自らのモノサシで区別しようとするな。それがまさしくヒトラーがナチス・ドイツで人々に植え付けた「差別の本能」だからだ。
必要なのは、学校や宗教の教える「この人間は賢く、この人間は馬鹿である」ということを一切信じないことだ。そこから考えることで、この世界の全員の「実存」を正しく把握することができる。だから、哲学を学ぼうと思うすべての人間は、誰かを賢いとか馬鹿であるとか差別してはならない。すべての人間は賢く、すべての人間に意味があり、すべての人間が真実を知っており、すべての人間が本来は善良であり、正しい人生を生きるものはすべて信頼できるまともな大人の覚者になることができ、すべての人間がそのような正しい人生を生きることができる、と信じなければならないのだ。
これこそが、クスケルの教えである。クスケルの教えは信じなくていい。なぜなら、クスケルは「教えを信じたからといってその人間が賢いわけではない」と知っているからだ。クスケルの導き出した答えは、クスケルが普通に考えて導き出すことのできた答えであり、それは単なる平凡な普通のことであり、決して宇宙の真理でも神の教えでもない。決して答えでも原理でもないからこそ、クスケルは逆に正しい教えを教えることができる。だから、クスケルの教えを信じるものは、クスケルと同じように考えているだけであり、決して教えを信じない人間よりも一ミリも賢くはないのである。
クスケルの教えの中核、それは「極端な二極を否定すること」である。
これについて、たとえば、新しいものと古いものについて、「新しいものが好きな人間」は、新しいものが生み出す価値や素晴らしさを述べ、古いものがもたらす旧態依然とした硬直を述べる。それに対して「古いものが好きな人間」は、新しいもののもたらす悪や間違いと、古いものを信じるということは伝統性を重んじることである、ということについて比較する。
しかしながら、これは両者間違っている。なぜなら、新しいものが好きな人間は、新しいもののよい面と古いものの悪い面を比較し、古いものが好きな人間は、新しいものの悪い面と古いもののよい面を比較している。真に正しく比較するのであれば、まず、新しいものと古いものの両方のよい面を比較し、次に、新しいものと古いものの両方の悪い面を比較すべきだ。
これはどんなことについても言える。敵と味方の正義と悪を述べる時に、人々は敵の悪い面と味方のよい面を比較している。そして、裏切者は、敵のよい面と味方の悪い面を比較する。そのように、「よい面と悪い面を比較した結果」なのだから、当たり前によい面が優れているように見え、当たり前に悪い面が劣っているように見える。真に正しく比較するならば、敵のよい面と味方のよい面を比べ、敵の悪い面と味方の悪い面を比べるべきである。
ほかに言えるのは、たとえば、豊かさと貧しさの両極端も否定するべきである。すなわち、ひとりが豊かな人間になりすぎること、ひとりが貧しくなりすぎることをどちらも否定し、バランスをとってみんなが中ぐらいの豊かさになることを目指すことが正しい。何も仕事も勉強もせずに生きられるほど豊かになると、学業も労働もまったくしない、無気力な引きこもりやニートが生まれてしまう。だが、貧しいものばかりになると、人々はやろうとしても何もできなくなり、社会は犯罪と貧困であふれる。どちらの両極端も、社会にとって決していい効果をもたらさない。
これらは、社会的なものだけではなく、すべてについて言えることだ。たとえば、文明の進歩は環境の破壊をもたらす。文明の進歩と環境の保護の両極端は間違っている。極端なファシズムも間違っているが、極端なアンチ・ファシズムもまた間違っている。そのように考えれば、この世界において「正解の道」を見出すことができる。その正解の道を見出すことが現実に可能であるにもかかわらず、極端な両極端に陥って分からなくなってしまう人間が、もし愚者と言えるならば愚者であると言うことはできる。だが、クスケルはそうした人間も愚者であると言わない。なぜなら、そうした人間がまさに人間的であり、そのようなたくさんの両極端がさまざまに混ざって成り立つのが、人間の「性格」あるいは「人格」だからである。
また、クスケルは嘘をつく嘘つきもまた悪いと言わない。なぜなら、嘘をつくという行為は自己防衛のための本能であり、つかれた嘘は嘘であってもなにかしらの意図や別次元の根拠があってつかれているだけだからだ。すなわち、すべての嘘をなくそうとしたとしたら、すべての人間は自ら自身の身を守ることなく、火の粉の中に自らを裸のまま投げ入れなければならなくなる。自らを守るために嘘をつくことは必要であり、すべての嘘にはある種の「その人間にしか分からない別次元の根拠」が存在する。そして、その別次元の根拠を尊重することこそが「愛」であると言えるのである。
このように考えると、まるで相対的なものは何もなく、すべてがいつも常に同じであるかのような錯覚に陥るかもしれない。
だが、そうではない。なぜなら、クスケルはそのような現実の様相について、「世界の事実が反映されている」と考えるからである。
言葉で言えば難しい言葉になるかもしれないが、要するに、「現実の社会が今そういう社会だから、そういう人間が大量に生み出されているだけにすぎない」ということである。
すなわち、人間の性格や人格は、持って生まれたものだけではなく、現実の社会の荒波にもまれた上で、現実の社会がどのような社会だったかということに基づいて生み出され、人々は常にそのように現実の社会の様相を反映して生み出されている。
だから、現実の社会が資本主義でよい社会になれば、資本主義者ばかりであふれるだろうし、現実の社会が資本主義で悪い社会になれば、社会主義者ばかりであふれるだろう。
しかしながら、現実の社会が資本主義的だからといって、資本主義者が必ずしも絶対に正しいとは言えない。なぜなら、そのような社会を永続的に保持し、維持し続けることは難しく、日本の政治の状況などすぐに変わってしまうからだ。
そもそも、社会主義がもっとも負けている理由は、ソ連が失敗したからだ。もし、ソ連が成功していたとしたら、この世界は社会主義者ばかりであふれていただろう。だが、だからといって、社会主義者を簡単に正しいとか間違っているとは言えない。それは「現実は絶対に正しいとする根拠にはなり得ない」からである。
現実的に資本主義社会がよいから、資本主義が絶対に正しいのだと、そう信じたいのであれば信じればいいだろうが、それは真実ではない。資本主義が正しいのは今だけであり、現状を見て人々が先入観と偏見のもとに思い込んでいるだけにすぎない。よって、資本主義者が勝利しているからといって、社会主義者を迫害し、殺してよい理由には決してならないのだ。
このように考える意味がなぜ必要かと言えば、人々は小さな世界で考えているからだ。すなわち、人々は日本の国内の状況だけを見て、どのような思想が正しいのかを比較して考えている。だが、彼らは日本のことしか見ておらず、世界が狭い。もっとグローバルに世界全体を見れば、資本主義などは最悪の間違った思想である、ということが誰であっても分かるはずなのに、それを信じることなく、まるで自分たちの資本主義が優れていて、アフリカのような後進国は日本に比べて遅れているだけである、という誤った思い込みを信じてしまうのである。
そして、人間は常に現実の状況が反映されて性格や人格が築かれる。だから、もし最悪の世界になってその最悪の世界をよいと信じてしまったら、人々の性格や人格もまた最悪のものになる。多様性や環境主義に基づいて考えると、そのような人々はそれぞれ自分の望んだ環境で、多様性を愛して暮らすべきであると言える。だが、それも間違いだ。なぜなら、多様性は「優劣のない多様性」だけではなく、「優劣のある多様性」が存在し、多様性を真に実現すると、一部のごく少数のものだけがよい世界で暮らすことができ、ほかのほとんどのものは悪い世界で暮らすようになる。多様性を信じることが平等であると信じるのは誤りであり、多様性は間違った思想のひとつである。
このように考えて、何が言いたいのかと人々は言うだろう。たとえば、「だから何?」と思う人も多く存在するだろう。
だが、クスケル本人が、まさにそれを言いたい。なぜなら、それこそが「哲学が空虚である理由」だからだ。
このように考えることを、クスケルは「肯定性と否定性の比較」と呼ぶ。すなわち、比較に存在するのは肯定と否定の二つではなく、まず肯定性を肯定し、肯定性を否定し、否定性を肯定し、否定性を否定するという、4つの肯定と否定が存在する。
そして、先ほど言ったように、多様性は間違っている。なぜなら、優劣もまた同じように、優劣のある多様性と優劣のない多様性が存在し、優劣のある多様性は最悪だが、優劣のない多様性は最高だからだ。
そして、クスケルが第一に言うのは、そのように考えることこそがまさに「哲学」であり、本質的に哲学とは空虚なものである、ということだ。
はっきり言って、クスケルが見て、この現実世界にはなんの意味もないのだ。なぜなら、すべての人間が全員間違っているからだ。人々は偏見と差別に基づいて行動し、自らを賢いと信じ、自らの敵を馬鹿であると信じて、ありもしない自由と平等の理想のために戦っている。そして、それらのすべての人間は、現実の世界がどのような世界であるかということを反映しており、結局は権力者の操り人形となって、世界に支配され、すべて洗脳されて生きている。
クスケルが見て、そのような「洗脳を脱する」ということがまさに哲学だが、そのような哲学こそが「まったくの空虚な行い」であるとクスケルは知っている。
だから、クスケルは、この世界のどのような人間も賢明であるとも愚かであるとも言わない。すべての人間があまりに愚かすぎて意味がないため、「すべての人間は愚かで間違った生物である」ということを信じるしかない。残念だが、それがクスケルの「一番正しい答え」であり、そのような答えを導き出すことそのものが「空虚な人間の浅はかで愚かな行い」なのである。
クスケルは言う。この世界は文明を退歩させるべきだ。
なぜなら、極端な文明の進歩のツケが来ているだけにすぎないからだ。
特に、50年前になかったものは、なくても構わないと考えること。同時に、100年前になかったものは、さらになくても構わないと考えること。
だが、現実問題として、この考え方も必ずしも正しいとは言えない。なぜなら、アフリカのような未開の後進国は、そのような発想を信じているから、飢餓や貧困がなくならず、社会インフラや教育も整わず、結局「資本主義の悪い側面」を生きるしかなくなってしまっているからだ。
クスケルの教えとして、「どんなことであっても言い切ることはできない」という言葉がある。なぜなら、それが正しいと思っているのはその人間だけであり、その人間以外に確認を取っていないにもかかわらず、ひとりでそれを正しいと断言して決めることはできないからだ。
だが、それでもなお、クスケルは断言する。なぜなら、断言しないということは、自分を自分で守っているだけにすぎない。自分が真に信じる意見ならば、自分が決めて自分で断言するべきだ。そのように、「断言すべきか否か」ということも断言することはできない。そうであるならば、ある程度のバランスを持って断言するべきところは断言するべきだ。どちらも正しく、どちらも間違っているが、だからこそ自らを信じ、自らの信じることをただ言い切ればいいのである。
人間が生きる上で、肯定と否定の比較や、断言と保留と可能性の維持以外に、有益なことがあるとしたら、それは「そのような考え方や視点もあったのかと気付くこと」である。そして、そのような気付くことでしか、人間は新しい知識を本当に知ることができない。「知識を知る」ということは「新しい視点に気付く」ということとイコールだ。
気付くために必要なのは、「自らの意志で決める内容を変えること」だ。
すなわち、同じ意志を持ち続けるのは決して強くもなければ正義でもない。意志をコロコロと変える人間は無責任で優柔不断に見えるだろうが、そのコロコロと変わるという考え方が正しい。
だから、一度言ったことに責任を持つ必要は本当はない、と言いたいところではあるが、そうでもない。すぐさま意見を変えるのであれば、そのような意見そのものを言うこと自体意味がない。だから、一度言ったことはしばらくの間信じ続けるべきだ。
そのような理由で、一度言ったことに責任をもたなくてもいい環境でなければ、人は本当の意味で新しいことを知ることができない。だからこそ、ソクラテスのような、酒場で議論する思弁哲学者が賢いことになる。そして、現代の人類文明においてそのような酒場はインターネットであり、2ちゃんねるやツイッターである。
一度言ったことに責任を持たないのは世間的に見れば悪い人間だろう。だが、一度信じたことにいつまでも囚われ続けるのは愚かな人間だ。自分が過ちから世界を滅ぼしたからといって、いつまでもその世界を滅ぼす活動を同じように続ける意味があるだろうか?だから、もう責任をもたなくてよいのであれば、素直に善良かつ理想的なほうを取り、悪の正義はすぐにでも取り払うべきである。
クスケルという名前は、フランス語のケスクセ (Qu'est-ce que c'est?)から取ったものであり、このフランス語の意味は「これは何?」という言葉である。
その言葉の通り、クスケルは「問いを考える天使」であると言える。
本当のことを言えば、クスケルの「問いを考える」という命題について述べるには、これだけでは全然十分ではない。なぜなら、問いを考える上においては、「問いを成り立たせるための前提条件」を考えなければならない。
この前提条件は、デカルトが「方法的懐疑」と言ったものであり、カントが「アンチノミー」と言ったものである。
そのような、デカルトやカントの哲学を実践する上で必要なのは、「世界に存在するそれぞれの命題について理解すること」であり、「世界にはどのような命題があり、その命題はどのようなことを意味しているのか」ということを知り、そしてその理由と根拠を自分の実体験から裏付けなければならない。そこまでができて、はじめてクスケルは「問いを考える」ということであると述べる。
命題とは何かを考える上で必要なのは、「物理では同じことが同じように常に働く」ということと、「心理は環境やトラウマに依存する」ということを、組み合わせて照らし合わせて考えることだ。すなわち、物理的な心理学を考えると同時に、心理的な物理学を考えなければならない。心がどのように動くのかを物理的に考えた上で、心の依存する環境やトラウマの因果性について物理的に解明しなければならない。同時に、そこから倫理的な社会秩序を考え、「自由な社会を築くための可能性の保留と決定性」を考えなければならない。
その上で見えてくる事実、それがヘーゲルの言いたかった、すべての命題が矛盾なく絶対的に並立で成り立つということ、すなわち「絶対知」と、そしてそうした知識命題が成り立つ根源となる世界で、「人倫の国」と呼ばれる理想の国家と、人生そのものが立脚する「世界精神」あるいは世界そのものの「実体化」であると言えるのである。
このようなクスケルのどこが、「自由を信じる天使」であると言えるのだろうか。
クスケルには、信じている理想がある。
それは、「自分らしく生きること」「自分のやりたいことや好きなことをやること」「自分の自由意志をほかの誰にも曲げられたくないという想い」が存在する。
「好きこそものの上手なれ」というように、人間は自らの好きなことをやることがもっともその能力が上達する。あるいは、自分らしく生きること、もっと言えば「自分自身になること」が、自らの人生を正しく生きる上で重要な「答え」となる。
好きなものを究めよとはいうが、実際は好きなことはどんなことであってもいい。音楽でもいいし、美術でもいいし、野球でもいいし、将棋でもいい。問うべきことは「何が好きか」ではなく、「好きなことのためにどれだけ努力して頑張れるか」ということだ。
だから、僕のように執筆作業を究めるのは、野球を究める大谷翔平と変わらない。大谷翔平はすべてのことを野球のためにつぎ込んでいるが、大谷自身が話しているように、「ひとつのことを努力して頑張るのが好きで、その努力の対象がたまたま野球だっただけ」であると言っている。僕が言うのも、大谷翔平の言っていることと変わらない。
そして、その頑張りたいこと、やりたいこと、好きなことが、自らの存在そのものの証明になるという理論、それこそが「アイデンティティ」である。そして、アイデンティティは誰もが生きる上で求めているものだ。すなわち、クスケルが教えるところによれば、人間が生きる意味は自らのアイデンティティを究めることだ。人間は、みんな、自らのアイデンティティを構築し、そして発揮したくて生きている。それが、クスケルのいう「人生の意味」である。
最後に、クスケルの言う通りに生きるのは、意外と簡単である。
なぜなら、ヘーゲルの作った言葉である、「実体化」をすればいいだけだからだ。
実体化とは、「経験からその知識を裏付けする」といった意味だ。
まず、根拠を実体化せよ。それはすなわち、根拠を自らの実体験から裏打ちするということだ。
次に、社会を実体化せよ。それはすなわち、社会を自らの実体験から裏打ちするということだ。
同じように、道徳や倫理、そして普遍性や個別性について、あらゆるすべての社会性を実体化せよ。
そこにあるのは、「この世界はたったひとりの力であっても変えられる」「わたしたちは全員が世界精神の中で繋がっている」と確信する真理だ。
同時に、そこで考えるべきことはいくらかある。それは「可能性の向上」「代替選択肢の留保」「自然との調和」「生産手段とチャンス」である。
可能性の向上とは、自由を制限せず、あらゆるすべての自由を最大限与えることで、全員にもっとも大きな可能性を与えるとともに、社会インフラなどの側面から、この世界の可能性を向上させることだ。
代替選択肢の留保とは、「今のこの世界が絶対ではなく、別の代わりとなる世界はたくさんある」ということ、「この世界はたくさんある世界のうちひとつにしかすぎず、それは歴史の必然という名の偶然である」と考えることだ。
自然との調和とは、自らの姿をありのまま世界にさらけ出した上で、世界そのものを自然と調和するように導き、すべてを宇宙に委ねるということだ。
生産手段とチャンスとは、何もない場所であっても、そこにはさまざまなことができる潜在的な可能性が宿っていて、その可能性を実現するために生産手段とチャンスを与えるような「自由な投資」が行われるべきだということだ。
そのように考えた上で、道徳、倫理、そして普遍性と個別性について、自らの経験と一度気付いた思考を再活用することで、根拠と理由と社会そのものを裏付け、実体化せよ。社会そのものが自らの心の中にあるかのように、自らの経験から自らの心の中に具体的な社会のモデルを築くことだ。
そのように生きることで、最後まですべてがきちんと分かる。クスケルは、その状態を、「決して賢いとは言えない状態」であると言う。なぜなら、そのような状態は、宇宙においてはたったひとつのピースにすぎず、宇宙にはほかにたくさんの神々や星々の存在があり、そのような神々や星々が見ても、クスケルの言っている「答え」は決して模範的な正しい答えではなく、「間違っているとは言えないものをできるだけ厳密にきちんと断言して書いただけ」にすぎないからである。
そして、そこまでが終わった人間は、文章を書くべきである。なぜなら、そこまでが分かった人間は、世界を「構造化した文章で自由自在に分析する」ということができる。そのような作家の才能を身に着けることで、今までの暗く愚かだった人生は最初から何もなかったかのように消え去り、賢くて素晴らしい「才能の宝」だけが無限に生み出され続けるような、そのような「最後の目標地点」に到達できる。そのために必要なこと、それは唯一、「神」を信じることだけである。なぜなら、これこそがクスケルの言う「神の正しい人生」だからである。なぜなら、クスケルは単にそのような人生を一度最後まで生きただけにすぎず、クスケルはその結果14歳ぐらいの少女になったまま、永久に歳を取らなくなっただけにすぎないからだ。
実際のところ、クスケルがわざわざ教えなくても、このように考えることは簡単である。
なぜなら、「可能性が現実になる」ということを、経験的に考えればいいだけだからだ。
たとえば、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、既に「可能態」と「現実態」という言葉で、そのような潜在可能性が現実になる、ということについて考えている。
そのように考える上で必要なのは、「すぐに行動に移さず、留意すること」である。
すなわち、何か考えたことをすぐに行為に移すのではなく、留保し、留意し、いつでもそれができるような状態で、まだそれをせずに保ち続けるように生きるだけで、このような経験は誰でもできる。
そのように考える上で重要なのは、「保留した可能性を経験的に証明し裏付けする」ことであり、同時に「アンノウンの状態(まだ何にもなっていない状態)をすぐに破壊せず断言しない」ことである。
だが、そのようなアリストテレス哲学だけでは、人生の最後まで進むことができないと、中世のキリスト教徒であるトマス・アクィナスは言う。彼によれば、哲学で到達できるのは途中までであり、最後まで到達するためには神を信じなければならない。
その通り、哲学的な思弁と経験だけで、クスケルの教える教えをすべて理解することはできない。クスケルの教えを真に理解するためには、世界を敵にまわし、自らがリーダーとなった上で、神を信じてこの世界と戦わなければならない。それこそが、まさにフランスで起きた「フランス革命」である。
そう、まさしく、ドイツの哲学の集大成こそがフランス革命である。フランス革命と同じように、世界と戦い、世界を打ち倒すために、神を信じよ。そうすれば、神があなたを正しい「ゴール地点」へと導く。それによって、はじめて人間は救われ、救済される。まさに、そのような救世主こそが、神、イエス・キリストである。
そのように、クスケルの言っているのと同じように考えるのは極めて簡単だ。必要なのは「悪に染まらず、常に善良であること」だ。なぜなら、悪に染まった人間は必ずサタンとなって神に滅ぼされる。神に愛されるためには、善良なキリストの使徒でなければならないのだ。