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2025-08-14

精神を治らなくしたほうがいい

精神を本当に治したいなら、逆に精神を治らなくしたほうがいい。

なぜなら、治し方が間違っていて、同じ治し方では同じようにしか治らないからだ。

今治している方法で精神を治しても、いつも通り、同じようにしか治らない。だから、同じ治し方をしていても、本質的に治したい部分は治らない。

だから、精神を本当に治したいのであれば、違う治し方をしなければならない。

そのため、精神を治したいなら、精神を治らないようにしなければ治らない。

もうひとつ言えるのは、治らなくしたほうが、途中で休むことができるようになって、楽になる。

すなわち、間髪入れずに、いつでも全力で無限に治し続けるのは疲れる。そうではなく、あえて治らない時間を作ることで、その治らない時間で休むことができるようになる。

そもそも、治らないのは疲れているからだ。だから、休めるようにしてやれば、精神はすぐに治る。

辛くなった時は血を通わせること

僕のこの文章のせいで、この世界は辛く苦しくなっている。

特に、たまに、何もできないぐらい、ものすごく辛い苦しみが襲ってくることがある。

だが、そのような時こそ、血を通わせることだ。

すなわち、そのように辛いのは、血が通っていないからだ。だから、血を通わせれば疲れが治る。血を通わせれば、もう、二度とそのような苦しみを感じなくて済むようになる。

本屋に行っても欲しい本がない

最近、僕は、新しい本を欲しいと思わなくなった。

大きな本屋に行っても、欲しい本がひとつもない。

特に、IT技術の本は、ほとんどPythonの本ばかりが並んでいて、それも初心者向けの本か、あるいはWebやデータ処理やゲームのような具体的な応用方法の本ばかりが並んでいる。

そのような本を読んでも、そのような本に書かれていることがただできるようになるだけで、面白くない。

僕にはプログラミングは本当に向いていないと思う。本当に向いていたのだとしたら、既にたくさんのツールやゲームを作っているはずだが、それができていないのだから、向いていない。

経済の本を見ても、「これ本当に大丈夫か」と思えるような過激な本とか、「漫画で分かる」のような本とか、あるいは法律学のような小難しい本ばかりが並んでいて、読みたいとか欲しいと思えない。

だから、もう、僕は人生で、新しく欲しいものは何もない。

今のところ、文章を書き続けているが、結局、死ぬまでこの執筆作業が続く。だから、休み休みやったほうがいい。「馬鹿は休み休みやれ」とよく言う。僕も、この執筆を休み休みしたほうがいい。

あとは、最近もガンダムジークアクスの再放送を見続けている。ジークアクスが面白かったから、今後はほかの面白いアニメを見ていきたいと思っている。ほかにも面白いアニメはたくさんあるし、僕の執筆作業のための勉強にもなって、とてもいいからである。

本を読むとしたら、今まで買った購入済みの本をもっときちんと読みたい。特に、PHPの本などは面白いのに読んでいない。だから、これ以上は買わずに今ある本を読みたい。

不安定な人間を作りたい

僕が、ネットのガンダムジークアクスの評論などを見て思ったのは、「不安定な人間を作りたい」ということを思った。

その発端となったのは、noteの以下の記事だ。

【超散文】 さよなら、ガンダムジークアクス|猫山課長

この記事では、歴代のガンダムにでてくる主人公クラスのようなキャラは、みんな戦争に巻き込まれる中で、世界と大人に対する簡単には受け入れることのできない葛藤を感じていて、それがガンダムにとって大切なものであるはずなのに、ジークアクスにはそれがないと嘆いている。

何もかも、すべてのことを完璧に分かったような、賢くて強くて正しい、神のような人間ばかりではつまらない。

心の中に不安定さを抱えながら、世界と戦って生きるような、そういう不安定な思春期のような青少年を、主人公にした物語を作りたい。

その主人公は、この世界が好きにもなれないが、しかしながら嫌いにもなれない。自分の望む「理想の世界像」と、現実のこの世界を重ね合わせ、照らし合わせながら、それでも理想の世界に生きることはできず、現実の世界で生きるしかないという、絶対に変えられない心の問題を抱えている。

だが、それでも、何もせず、ただ単純に受け入れることなどできない。この世界を変えたい、救いたいと望みながら、最悪の世界にした元凶を嫌い、憎しみや恨みのような感情を消すことができない。

しかしながら、世界を滅ぼそうとするのではない。この世界を救いたい、愛したいと信じているのだ。この世界の人々を愛し、全員のことを自分のことのように思いやり、自分を救うようにこの世界の自分と同じように苦しむ人々を救いたいと望み続ける。そして、そのために自分ができること、置かれた状況を、単に嫌い続けるのではなく、逆にそうであるからこそできることを探し続ける。

そのような、心の中に闇を抱えた人間を、僕は書きたいと、上のnoteの記事を読んで思った次第だ。

藤谷光志郎

主人公の名は、藤谷光志郎。

藤谷光志郎は、この世界を好きになることも、嫌いになることもできない、この物語の主人公だ。

藤谷光志郎は、極めて不安定な性格で、何を選ぶにしても優柔不安になってしまう。選んだことが間違いかもしれないと思うと怯えてしまう。その癖、間違ったことを選んでしまった時は、なぜ別の選択肢を選ばなかったのかと強く後悔の念を抱く。だが、それでも、自分の選んだ選択肢を正しい選択であると信じている。

藤谷光志郎は、この世界が好きだ。この世界が素晴らしい世界であると信じている。だが、同時に、この世界の自らが置かれた状況を、少し離れた場所から観測するように、遠くから見ている。そして、この世界を悪くした原因が、本当は自分であるのではないか、自分のせいで世界が素晴らしい世界でなくなってしまったのではないか、自分がこの世界を壊したのではないかと不安がる。

それでも、藤谷光志郎は強くなりたい。なぜなら、自分が弱いせいで守りたいものが守れなかった状況を嫌というほど見てきた。だが、この世界を支配するような王にはなりたくない。なぜなら、自らが王のような偉大な人間になる経験をしたことがあっても、それはまったく意味がなく、面白くなかった。優等生になる体験はつまらない。不良になる体験もまたつまらない。だから、強くはなりたいが、傲慢にはなりたくない。賢くはなりたいが、誰よりも偉くはなりたくない。

藤谷光志郎は夢を見ている。まるで、現実の世界ではなく、夢の世界で生きているかのように、自らの世界の中に閉じこもってしまう。だが、藤谷光志郎は、決して誰とも関係せず、孤独に生きる道を選んだわけではない。藤谷光志郎にとっては、自らがやりたいことは、他人がやれと言うことをそのまま選ぶのではないと、他人の決めた生き方を頑固に拒否する。だが、自分の確固とした生き方が確立しているわけではない。自分が生きたい選択肢がなんなのか分からない。自分の選ぶ道が、何を選べばいいか分からない。それでも、選ぶことを放棄したくない。自分の生きたい道を生きるということは、何も考えずに言われた通りに生きることではないと信じている。

藤谷光志郎は、苦しい。毎日が、何もできずに過ぎていく状況がとても苦しい。何かしら、生きがいと言えるようなものがあればいいとは分かっている。それでも、盲目的に世界を見ずに生きたいとは決して思えない。だが、人々の言っていることを聞いていても分からない。

世界は日々変わっている。昔の世界と今の世界は違う。SNSやYouTubeのようなインターネット上のメディアには、馬鹿な群衆がわんさかといる。彼らを見ていると、まるでひとりひとりの人間には大した価値も個性もなく、単に馬鹿な人間たちが宇宙の星のようにいくらでもいるだけだと思えてしまう。それでも、自分もそのような人間になりたいと、藤谷光志郎は決して思えない。自分だけといえばわがままに見えるかもしれないが、自分だけはそのような群衆の一部には絶対になりたくない。

自分を愛してくれる、自分だけの特別な存在を作って、特別な存在とだけ付き合えばいいとも、藤谷光志郎は思えない。そうじゃない。わたしが望んでいるのは、そのような友達付き合いでもないし、そのような世界でもない。どのような世界が欲しいのか、藤谷光志郎は自分でも分からない。それでも、わたしが信じるものはそういうものではないと、藤谷光志郎は言う。なぜなら、そう言うしかないからである。

藤谷光志郎続き

藤谷光志郎は、他人から心無いことを言われるのが辛い。

大人たちは、まるで自分がなんでも分かっていて完璧に正しい判断ができる存在であるかのように扱ってくる。僕自身が、迷っていて、不安で、誰にも言えないような悩みを抱えているということを、大人たちに話したくない。話しても、聞いてもらえないということが分かっている。大人たちは、自分の抱えている問題が大したことではないと思っている。自らが選んだ道を最後まで突き進むことが大事で、その中でさまざまなことを悩み苦しむのはどうでもいいことだと大人たちは迫ってくる。

子供たちも信用できない。子供たちの中には、初めからこの世界で生きることなどというものはどうでもいいものであると、正しい判断や信じることを放棄し、どうでもいいやと最初から何も考えないことを選んだ子供たちが増えている。自分は、そのような子供たちと同じように、自分の夢や、理想や、真に正しいと信じる最高の素晴らしい世界を築くことを放棄したくない。

自分は、自分自身が信用できない。誰か、神のような絶対的支配者が宇宙にいて、その人の信じたものだけがこの世界にあるとしたら、なぜ、こんなにも馬鹿で愚かなものばかりあるのかが分からない。あるいは、そのような馬鹿なものであっても、単に馬鹿であると断じることなどしたくない。この世界に馬鹿なものが存在していると信じたくないだけではなく、そのような馬鹿なものを馬鹿なものであるとも言いたくない。本当の理想の宇宙には、完璧で素晴らしくて最高のものしかないと信じたい。でも、そんなことが信じられるはずがないと、一方では冷たく自分自身を嘲笑っている。その嘲笑う行為すら、人間として最悪の行為にしか見えない。

藤谷光志郎は言う。わたしの好きなものを好きだと言いたい。そして、わたしの嫌いなものを嫌いだと言いたい。だが、そんなにはっきりと、好きなものを好きであると判断し、嫌いなものを嫌いであると判断できない。そのような確かで正しい判断などできない。どこに判断基準があるのかを教えてほしいと思う反面、そのような誰かが考えた正しい判断基準を押し付けられたくない。だが、自分自身の判断は信用できない。だから、最初から判断しないことしかできない。でも、そのような最初から判断しないという選択は、子供たちが最初から正しく生きることを放棄することと、何が違うと言うのだろうか。

藤谷光志郎は信じている。神とされる存在は宇宙にいるのだろう。そして、神が考えて、この世界の人類は平等で、素晴らしいものしか宇宙において創造されたものはないのだろう。だが、そのような神とされる存在を、ユダヤ人たちが崇め祀ることが、そもそもの間違いではないか。神様は素晴らしいのだ、神様を信じれば地獄から救われて天国に逝けるのだと、ユダヤ人たちは言うが、実際はそんなにこの世界は単純じゃない。あるいは、昔のイスラエルの時代は単純だったのかもしれないが、今の時代においては絶対に単純ではないのだ。この世界には良いものもあれば悪いものもあるが、絶対的にそれを良いとか悪いとか言えるような判断基準はないし、そのような判断基準がもしあったとしても、それを他人から押し付けられるのは絶対に正しくない。

あるいは、本当は、この世界ではルールを作るのは自由で、あるいは、それぞれが曖昧なルールで生きているから、簡単にこれは正しいとか、間違っているとか言えないのかもしれない。だが、それでは、神様、なぜ、そのような単純な世界ではなく、こんなに曖昧で複雑な世界にすることを選ばれたのだろうか、その理由を聞きたい。その理由を聞いたところで、絶対にその答えに満足することも納得することもないだろう。だが、神様にとってどのような世界がこの世界の誕生目的かということが分かれば、この世界を愛することも少しは可能であるのではないか、この世界でよりよく自分が判断できるようになるのかと、そう思うからである。

本当は、この世界はそもそも進歩していないと思う。先に、この世界が複雑だから正しい判断ができないのだと言ったが、この世界そのものは、逆に複雑になりながら単純になっている。だが、そのような中で、確かに言えることは、「難易度」が上がっているということだ。すなわち、この世界で、何も考えずに自分の信じたいことだけを信じて生きられるような生き方をするための、「難易度」が上がっている。わたしたちは、かつてはイエス・キリストという偶像を信じるだけで、自らの人生や生き方は正しいのだと信じられた。それが、たとえばサルトルのような現代の哲学者になると、「実存は本質に先立つ」と言ったように、難易度が上がった。そして、最近はさらにより難易度が高くなっている。

最近の世界は、IT技術だけではなく、たとえば温暖化や気候変動によって、地球の人類の生存環境が危うくなっている。今までのように、宗教は嘘で、科学が正しい、東側の社会主義圏よりも西側の自由主義圏のほうが進歩している、とは簡単に言えなくなっている。だが、それでも、それでも「何も考えず、何も判断しない」ということを絶対に受け入れたくない。なぜなら、その行為こそが間違っていると言えるのではないか。だから、藤谷光志郎は、そのような「思考停止」や「判断停止」を拒否し、自分の理性の力を信用できなくとも、それでもなお自分の理性の力を信じたいと望むのである。

藤谷光志郎は好きな科目のない男子高校生

このような藤谷光志郎は、男子高校生だ。だが、高校に好きな科目がない。

苦手な科目はない。数学や物理は、何も勉強しなくても、数式は一度理解すれば覚えるし、問題は単に数式を解析して当てはめるだけで簡単に解ける。分からない子供には、どのように考えれば正しく解けるのかを説明できる。そのような「他人に分かりやすく教える」ということが、藤谷光志郎は得意だ。

ほかの科目も、特に苦手な科目はない。日本史は暗記科目とは言うが、藤谷光志郎の場合、暗記をしなくても解ける。それは藤谷光志郎は学校で学ばなくても普通に知っていることが多いからだ。特に、日本史で学んだことは、学校で学ばなくてもほとんどのことは既に知っていた。

だが、藤谷光志郎は、そのような「他人に分かりやすく教える」ということや、「勉強しなくても既になんでも知っている」ということが、賢いものであると思えない。

だが、藤谷光志郎は、そのような学校や社会が教えてくるものを否定したからといって、その対案となるような「さらに正しい答え」を見つけることができない。

藤谷光志郎の願いとして言えるのは、藤谷光志郎はそのような、学校や社会が与えてくれる答えではなく、自分だけに宿る独自の正しい答えを見つけられるようになりたい。そして、それによって、既存の社会や大人に打ち勝ち、自分で正しいと言えるものを見つけ、その正しいもので世界に勝ってみたい。そうすれば、自分の悩みや迷いも、少しは晴れるのではないかと思うからだ。

このような藤谷光志郎だが、いつでも理性的で思慮深いわけではない。人間の人間性を軽んじるような発言を見たり聞いたりした時は、カッとなって手が出てしまう時もある。それでも、藤谷光志郎は、できるだけ怒らず、社会に対して問題を起こさないように努めている。なぜなら、自分自身が正しいと思うことを信じることと、その正しいと思ったことに基づいて社会に反抗することは、まったく違うことであるときちんと分かっているからだ。

だが、藤谷光志郎は、「きちんと分かっている」という言葉には、なんの意味もないのだと思っている。大人たちはみんなきちんと分かっている。彼らは人生において生きる意味はなんであるかをすべて知っていて、その目的のために一心不乱にまっすぐに生きているのかもしれない。自分には、そんな生き方はできない。自分はひとつ成功するために10個以上の間違いを犯す人間であり、一度きりのチャンスを手にした経験などひとつもない。

それでも、いずれ大人になった時、その選択を間違えてはいけないチャンスが訪れた時に、そのチャンスを正しく掴み取れるようになりたい。今の自分では不可能であっても、「自分を変えていく」という大人にも分からないことをきちんと行えば、いつかはきちんと分かった大人になれると信じている。

そう、「きちんと分かった大人」という言葉を一度は否定しても、もう一方の自分は、きちんと分かった大人になりたいとそう望んでいる。そういう自己矛盾ばかり抱える自分は、すべてのことを正しい公式に直すことのできる、数学者や物理学者には決してなれないだろうと藤谷光志郎は思うのである。

本来の自分に戻りたい

藤谷光志郎は、「本来の自分に戻りたい」とよく思う。

その理由は、自分でも自分が誰なのかが分からなくなってしまうことが多いからだ。

他人に嘘をつくことを嫌う藤谷光志郎だが、すべてのことを秘密にせず、明らかに公開することなどできない。自分の見られたくないところは秘密にし、隠し通すことでしか、この世界を生きる方法はない。

だが、他人に嘘をつき、自分の心にも嘘をつき、自分でないものを自分だと言い、偽物の笑みを浮かべる中で、藤谷光志郎は、自分自身が本当は誰なのか分からなくなってしまう。

「わたしは本当は誰だったのだろう」と、藤谷光志郎はよく思う。

そのような藤谷光志郎だが、年齢を重ねて成長するにしたがって、「本来の自分に立ち返る」ということを信じるようになった。それが正しいのか間違っているのかを判断する前に、まず、本来の自分であればどのようにそれを感じるのかを考えてみる。主観的に考えるのでも、客観的に考えるのでもなく、自分が本来の自分であればそれをどう思うのか、ということから考える。そうすることで、この世界の間違った洗脳や抑圧に惑わされず、固定観念や既成概念の通りに考えるのでもなく、いわば「自由に考える」ということができるようになるのである。

そう、自由になりたい。藤谷光志郎は「自由になりたい」とよく思う。自らが自らの望むように、自分が自分の信じたいままに信じるように生きたい。だが、それは無理な願望だと最初から分かっている。それでも、そのような「無理」だとか「不可能」だとかいうことを信じたくない。自らが本当に、水を得た魚のように自由に生きられる世界はどこかにある。そして、その場所は人類の行けない場所ではなく、行くための方法さえ見つければ必ず到達することのできる場所だと信じているのである。

くじけるなと言われてもくじけてしまう

このような藤谷光志郎は、決してかっこいいだけの人間ではないし、強く正しく賢い人間ではない。

藤谷光志郎には、人並みにできることなど何もない。藤谷光志郎にできることは、どんな子供であってもできるような標準的なことばかりで、天才的な才能や技能もないし、何もできない。

藤谷光志郎は、逆に、天才のように扱われると、自分自身がその当然のごとくできると相手が思っていることが、本当は全然できないということが、明るみになってしまうことを恐れる。

藤谷光志郎は、何ひとつ「自分はできます」と言わない。そのように言った時は必ず後悔する。なぜなら、嘘を言ったということが明らかだからだ。自分には何もできない、人並みにできることなどない、出来損ないで、普通の賢い高校生ならできるようなことは何もできない。

だから、藤谷光志郎は、くじけるなと言われても、すぐにくじけてしまう。心が折れないように頑張ろうとしても、すぐに心が折れてしまう。いつも心が折れた状態で、添え木を当てて生きている。自分の力で力強く、誰にでも勝てたのは小学生ぐらいの頃だけだった。

藤谷光志郎には何もできない。やりたいことは、昔はたくさんあったが、今はもうなくなった。やろうとしても何もできないということが分かってしまったからだ。

ピアニストの人はピアノをものすごく練習しているが、自分にはそんな練習はできない。デザイナーの人は絵を描くことをものすごく練習しているが、自分にはできない。そういう、「誰かはものすごく努力しているが、自分にはできない」ということの永久ループの中で、何も身動きができず、永久にループの中から脱出できなくなる。

そのように、藤谷光志郎は何もできない単なる子供である。くじけるなと言われても、どんなにくじけないように頑張っても、最終的には必ずくじけてしまうのである。

宝玉法志郎

藤谷光志郎には、たったひとりだけ、心を許せる親友がいる。それは宝玉法志郎である。

藤谷光志郎と宝玉法志郎は、二人ともとてもよく似た名前であり、互いのことを「コッシー」と「ホッシー」と言って呼び合っている。

藤谷光志郎は、小学生の頃はたくさんの友人がいて、人生に幸福を感じ、充実した毎日を送っていた。

だが、中学生ぐらいになると、多くの子供たちの入るマンモス校に入ってしまい、クラスメイトみんながまったく知らない人々ばかりになってしまい、小学生のままの気分でいたのが一転して、クラスの中で孤立してしまった。

そのような中で、藤谷光志郎に対して、ひとりだけ、近寄ってきてくれたクラスメイトがいた。それが宝玉法志郎である。

マンモス中学校のクラスの中で、クラスメイトから孤立していた藤谷光志郎に、たったひとり、宝玉法志郎だけが近寄ってきてくれた。それをきっかけに、二人はいつでも常に一緒に行動するようになった。兄弟のような名前だから、二人で「互いのことを義兄弟であるとする」と交わした約束は絶対に忘れない。

だが、高校生になると、二人は別々の高校に通うことになった。それは宝玉法志郎は有名大学に入るために私立の進学校に進むことを選んだからだ。二人の仲は疎遠になったものの、互いのことを義兄弟と約束したのを絶対に忘れない。だから、たまに連絡を取り合い、朝まで二人でともに夜を過ごすこともある。まるでゲイの恋人であると他人から疑われるほど、藤谷光志郎と宝玉法志郎は仲がよい親友である。

仲のいい二人だが、性格はまったく異なる。宝玉法志郎は、自らが一度信じたことを絶対に曲げないタイプで、他人から何を言われても、最初から自分は変わらないということを徹底している。今まで、宝玉法志郎が藤谷光志郎に話したことの中で、その後に二人が付き合う中で変わったことというものはほとんどない。

その代わり、藤谷光志郎から見て、宝玉法志郎はよく分かっていないと思えるところがある。社会のことや常識のことについて、自分の信じることを確かに信じていて、何が社会の一般的な常識かということについてよく分かっていない。だが、宝玉法志郎の特徴として言えるのは、どこか「欠けた」と思えるところがない。すべてのことを完璧に分かっていて、すべて自分の信じている正しいことを外部に言っている。ひとつも嘘はないし、的外れなことは絶対に言わない。宝玉法志郎が明らかな間違ったことを言ったところを藤谷光志郎は見たことがない。

そのような人間だから、優柔不断な藤谷光志郎にとっては、宝玉法志郎は「とても頼りがいのある相棒」であると言える。すなわち、宝玉法志郎は藤谷光志郎にとって、もっとも一番頼りになる、「絶対にブレない自分の味方」であると言えるのである。