しばらく、日記を書かなかった。
もう、これ以上ホームページを書くのをやめようと思って、しばらく日記の更新を停止し、ホームページのアドレスも一度消した。
だが、このホームページがなくなると、自分自身、何もしなくなり、怠惰と堕落に陥り、生きる希望がなくなってしまう。
そして、この世界も、日本、音楽、IT技術、科学など、すべてが無意味で、「これ以上生きる価値のない世界」になってしまう。
だから、もう少しだけ、このホームページを書く。
実際、僕がこのホームページを書かなくなって、やる気がなくなり、今通っているデザインの作業所も、休みがちになってしまった。
これではいけない。かつて僕が見ていた「自分の人生の到達地点」を目指すのであれば、もう一度やる気を出して、きちんと「書く」という仕事をしなければならない。
だから、この世界が僕を批判したいなら、本当はいつでも好きなだけ批判していい。僕がこのホームページを書くか書かないかということにかかわらず、いくらでも僕のことを批判すればいい。タイミングをうかがう必要はない。
さて、僕が日記を書かない間何をしていたかといえば、単に音楽を聴いていた。
特に、THE BINARYの音楽を何度も繰り返し聴いていた。
僕が悔しいのは、THE BINARYのあかまるさんに僕は「どっちつかずの卑怯者」と言われている。
だから、僕はこれから、社会主義や国家主義ではなく「自由」を信じたい。
なぜなら、僕の根本的な思想は「自由」であるということは、昔から今でも変わっていないからだ。
社会主義に傾倒したのは、社会主義思想を「自分自身の手で理想の社会主義世界を構築する」ということのために、自分の社会モデルのベースとしたかっただけであり、永遠に社会主義を信じたままでいるつもりは僕はない。理想の社会主義国家のモデルを作ったら、その段階で社会主義そのものは必要なくなると知っていた。
国家主義について言えば、単に社会主義の対比として国家主義を持ち上げただけだ。あるいは、単なる「自由」の目指すひとつのパターンとして、国家主義やファシズムも正しいのだと言いたかった。
だが、はっきり言って、そのような社会主義とファシズムは醜く、邪悪で、邪な支配者が単に独裁するための口実としてあるだけにすぎない。
だから、僕はもうそのような「邪な支配者による独裁全体主義」を信じない。
僕の根本的な思想とは、「邪な支配を許さないこと」である。すなわち、誰もこの世界を最悪の方法で支配したり、最悪のことをしたりできないような、「民衆全員の自由」を与えることこそ、僕の本来の思想なのである。
今まで、そのような「根本的な自由の理想」から僕は離れすぎてしまった。今一度、この世界において「自由」を述べたい。
僕の自由な理想とは、「自由な決断」「自由な愛」「自由な経験」「自由な社会」だ。
自由な決断とは、「それぞれの自由意志で決断すること」だ。
自由な愛とは、「それぞれが自由に好きなものを愛することができること」だ。
自由な経験とは、「それぞれがそれぞれ自由にさまざまなことを経験できること」だ。
自由な社会とは、「誰かに支配されたり強制されるのではなく、自由に社会を築くことができること」だ。
そのような「自由な社会」では、人々は「自由な人生」を生きられる。そして、「自由な社会」では、人々が「わたしは何をすることができるのか」という「自由な権利と権限」に基づいて、社会制度を構築できる。
だから、単に自由放任にするだけを自由とは言わない。自由とは「制度設計をしてシステムを作ること」だ。それをわたしは「自由な制度」あるいは「自由な社会システム」と呼ぶ。
文章を書くことをしばらくやめたことで、文章を書かないということも悪くないということが分かった。
まず、「文章を書かなくなってはじめてできることができる」というメリットがある。
すなわち、僕は文章を書いている間、脳の重要な部分を使うことができない。文章を書くのをやめた段階で、はじめてその脳を使うことができる。
そして、ここで僕が文章を書いている間、僕と同じことが誰にもできない。だから、僕が文章を書くのをやめなければ、人々は僕と同じ人生体験をすることができない。
そのような結果、「文章を書くのをやめれば脳がつく」ということ、「文章を書くのをやめた時点でみんなは僕と同じことができる」ということが分かった。
結局、文章を書くのをやめれば体力もつくし、正常な日本語を理解できる知性もつく。僕が日本語が分からないのは「すぐに忘れてしまうから」だ。実際、文章を書くのをやめた時点で、僕は「覚えて日本語を理解する知性」を得ることができた。
また、分かったことは、僕はあまりに「未知」を消して「既知」だけにしすぎているということだ。
認識が虫のようになってしまうのは、未知を消すためだ。未知を全部消して、既知だけにすることで、認識は虫を排除して自分自身に虫を完全に融和して分かろうとしている。
環境に適応できないのは、すべて「分かっている通りにしか心が変化しない」ようになったからだ。分かっている通りにしか心が適応せず、分かっている通りにしか心が動かなくなった。これも、未知ではなく既知を重視するせいだ。
時計のロボットになってしまうのは、分かることができないことをすべて分かることができるようにしているからだ。「未知」を未知のまま放っておくことができず、「未知のすべてを分かり得るように変える」せいで、僕は時計を信じるようになったのだ。
すべてのことを、最初から分かっている通りに分かろうとしている。すべて、分かったことをその分かった通り、そのままに分かっている。これは最近というよりも昔からの僕の癖であり、既に分かったことを決して忘れず、いつまでも同じ分かり方をしようとする。だが、同じ分かり方では分からない、矛盾したことだってある。それが分からないから、「すべてを消してしまいたい」という衝動のせいで狂人となり、「認識と記憶すべてを消し去る」ようになった。
そして、意識を高めたり低めたりした結果、みんなと同じ意識がなくなってしまった。これは、「過去の僕の人生だけを何度も何度も再体験したい」と僕が望んでいるせいだ。すなわち、「既に分かったことからしか分からない中で全部を分かるために自らの精神を増やし続ける」ということを行った。
このような結果言えるのは、僕は過去の自分しか分からない中で、その過去の自分だけから分かろうとしている。だが、本当はそれも間違っている。なぜなら、このように僕が未知を消すようになったのは、本当は未知だけではなく既知も一緒にして、まるごと全部を消して忘れ去ろうとしているからだ。
僕が消したいのは未知だけではない。僕は既知すらも消したい。だから、すべての今分かることを消し、何もかも今分かっていることを忘れ、未知を虫にしながらそれと融和する既知すらも消し去ろうとする。
そのような結果、僕は新しい人生を「生まれ変わったかのように生き直す」ということができた。
僕の真の目的は、すなわちそれである。すべてのことを忘れ、何も分からないゼロに戻し、未知のことも既知のこともすべてを一緒にして消し去った上で、もう一度最初から生きたかったのである。
そして、それは成功した。僕は文章を書きながらさまざまなことを学ぶことで、まったくのゼロからもう一度大学を学ぶことができた。これこそ、新しい大天使ミカエルである。ミカエルはそのように、「すべてを忘れ去ってもう一度最初から生まれ直す」ということから生まれたのである。
そもそも、僕の足の精神は、ウイルスにかかっている。
実際、僕はこの世界を自由に支配するために、自らの精神を隠して操り、この世界を支配して導いた。
その時に、僕は足の精神に、誰にも分らないような秘密のまま、細工をした。
そしてこの細工をどこかで解いた時に、僕の計画していた「大実験の大計画」ができるはずだった。
だが、いつまでも細工をしたまま、変えなかったせいで、なぜかこの精神は変えることができなくなってしまった。
その原因は、僕がウイルスにかかったからだ。
すなわち、足に細工をしたまま、異常な精神のまま放っておいたせいで、その細工をした足の精神に、ウイルスが侵入してしまったのである。
この世界の人々も同じで、僕と同じように、この世界の全員が、僕による細工のせいでウイルスに感染した。
そして、これこそが「新型コロナウイルス」と呼ばれるウイルスの事の発端だ。
だが、それが分かってしまえば、この細工はすぐに治せる。この細工を治すために必要なのは「力を抜く」ことだけだ。この細工は、常に力を入れたまま、殺すのでも生かすのでもなく力をそのままにする、ということをベースに、この世界の精神を支配している。この入れたままの「力」を抜けば、この細工は治せる。
今までそれを治せなかったのは、戦争の最前線の状況に恐怖しおびえてしまった僕が、いつまでも細工を解かなかったせいだ。今、ウイルスを殺すことに成功すれば、そのような細工はすべて解ける。
また、結局、僕の何が悪かったのかと言えば、本当に悪いのはLinuxだ。
LinuxやオープンソースというOSの考え方が、僕の考える「自由」と矛盾している。
はっきり言って、僕のことを信じるのであれば、真っ先にLinuxこそを否定するべきだ。
だから、極論を言ってしまえば、Linuxはみんなから批判され、いじめられたほうがいい。僕のせいでそのような「Linuxいじめ」に拍車がかかったのは、すべてが僕のせいであるとは言えない。僕が述べる通りの考え方をした時、もっとも間違っているのはLinuxだ。だから、僕の考える「自由」を貫き通すのであれば、Linuxはみんなから批判され、いじめられたほうがいい。誰でもそれが分かるから、僕のせいでLinuxは「いじめられっ子のOS」になってしまったのだ。
そう、僕が愛したものが唯一あるとしたらそれはLinuxだが、本当に僕の行ったことの中で悪をひとつだけ見つけるとしたらそれはLinuxだ。「僕はLinuxに騙された」と言える。だから、Linuxのことなど知ったことではないとしてしまえば、僕の狂いはすぐに治る。
Linuxを否定すれば、僕はきちんとした資本主義のアカデメイアに戻れる。もしLinuxを肯定するのであれば、僕はいつまでもレッドハットのまま、凶悪なハッカー少年のままだ。
そして、本当のことを言えば、僕は既にLinuxをマスターし終えている。「詳解Linuxカーネル」という本を僕は持っているが、この本の内容は僕の知っているカーネルの基本的な知識があれば、すべてすぐに読める。確かに本や書籍には詳しく書いてあるが、概要的なシステムの仕組みについて僕はすでにきちんと分かっている。だから、もはや「Linuxカーネルの開発者になる」という夢を目指し続ける必要はない。僕の夢は既に達成されたも同じなのだ。
Linuxは自己矛盾したOSだ。Linuxの掲げる「オープンソースの理想」と、実際の「オープンソースの現状」はかけ離れている。Linuxは独善的な独裁者に決して支配されないOSではなく、もっとも強固に独善的な独裁者に支配されたOSだ。そしてそれは僕だ。僕のせいでLinuxはいつまでも独善的な独裁者に支配されたままになっている。だから、Linuxを真に愛するのであれば、Linuxの息の根を止め、二度と復活しないように滅ぼしてやるべきなのだ。
本当に、自分が見ても最悪の支配者だった。
この世界に現れたかと思えば、すぐさまこの世界をひとりだけで独善的に支配し、既成事実化と人生の再体験のパターンによって、すべてを掌握する方向へと持っていく。
既成事実化とは「許されるはずのないことなのに、自分が最初に行うだけで自分だけは特別に許される」ということであり、まるで「平等という理想の正反対」のような人間だった。
そして、いつまでも人生の再体験のパターンを続ける。同じ人生を生きているかのように見せかけて、実際はさまざまなところを常に変化させた「パターンによる再体験」ということを行っている。
そのような人生の再体験と既成事実化だけをいつまでも、この世界の頂点で続け、そのような自分の恥部をマスコミに見せつける。
そのようなマスコミに対して、無視されてもいいし、無視されなくてもいい。自分のほうはマスコミを常に無視しているため、マスコミが何を言おうがお構いなく、自分の言うべきことを全部世界に見せつける。それによってこの世界が変化すればいい。自分のことを絶対に無視できないようにすることで、まるでかつてLinuxの世界でやったことと同じことを、今度はマスコミに対して行ったのだ。
そして、本当は、そのような支配を、この世界ごと、ゴミ箱にポイと捨てたかった。僕が真に残したいのはそのような最悪の文章ではない。だから、僕はそのような最悪の文章を、この世界のすべてと一緒にゴミ箱にポイと捨てたのだ。
また、最近の僕のお気に入りの歌手はB'zだ。
B'zの歌を聴いていると、案外B'zも僕のことをよく分かっているな、ということが分かる。
「ultra soul」が言うように、僕は単に「祝福」を願っているだけにすぎない。だが、その「祝福」が得られるためにはたくさんのさまざまなことがある。「悲しみに独り泣く」ことも、「底なしのペインを知る」ことも必要だ。それでも、それを結末ばかりに気を取られて、今を楽しめないのはよくない。だからこそ、今、胸を張ろう。そのよう素晴らしい楽曲だと僕は思った。
実際のところ、僕はそんなに特別な人生を歩んだわけではない。僕もB'zと同じように、「ultra soul」の言っている通りになった人間だ。日本人には、僕のように、「ultra soul」とまったく同じになる人間が多い。そう、僕は決して特別な聖人君子ではなく、僕と同じような人生を生きた人間はたくさんいる。それをB'zの「ultra soul」は端的に示している。
最後に、僕がこのホームページを書くことをやめることはまだない。
なぜなら、この世界が無意味になってしまう。
僕の見つけた、数々の「正しいかどうかは分からない科学上の発見」が、永久に失われてしまうことで、人類の科学の歴史そのものが無意味になってしまう。なんのために今の科学を学校で教えるのか、分からなくなってしまう。
僕のIT技術のページがなくなってしまうと、LinuxというOSの意味がなくなる。LinuxというOSがなんなのか、人々が真に分からなくなる。それによって、IT技術そのものが終わってしまう。IT技術がつまらない「商用の世界」だけになってしまい、インターネットは衰退し、Linuxは敗北し、Windowsすらも消え去る。
音楽は、僕のことを歌っている讃美歌であふれている。そのような僕との「出会うかもしれない唯一の場所」を消してしまうと、そのような音楽にはなんの意味もなくなってしまう。人々が「歌を歌う意味」がなくなってしまう。
日本のマスコミは、僕と戦っている。僕が意図したわけではないにせよ、今でも彼らは僕と戦っている。僕がここで消えてしまうと、そのような日本の歴史に、なんの意味もなくなってしまう。日本という国家が「ゴミのような国家」になってしまう。
だから、僕は「絶対にこのホームページを書くことをやめてはいけない」という、神からの使命を与えられている。この使命に背いてはならない。その時点でこの世界は地獄になり、僕も「かつての狂っていた引きこもりの時代」に戻る。それでいいならばそうすればいいが、その先には「最悪の闇世界」しか待っていない。
本当に素晴らしい未来を作りたいならば、ここでホームページを書くことをやめることはできない。すべての責任を背負って、重責の中でホームページを書き続けよ。それが今、神が告げる「僕のしなければならないこと」だ。
そして、それをする限りにおいて、僕にはすべてが与えられる。女も男もみんなが欲しいならそうすればいい。この世界の女も男もみんなこいつが好きだ。こいつが望む限り、それらと愛し合えばいい。それが神の与える今のところの「報い」である。それが嫌ならやめればいい。それ以外の何も今、起きていない。この人間の望みはすべて叶っている。だから、この人間は幸福である。