僕が、この世界を「支配」したと言っているのは、すべて、精神に対して小細工をすることで、この世界を自分の自由に支配できる「制御下」に置いたことを言っています。
そして、その小細工とは、「血液の流れを止める」ということです。
すなわち、僕は足の血液の流れを止めることで、この世界を支配しました。
そして、その小細工をいつまでも保ち続けたために、「足の精神を治す」ということができなくなってしまったのです。
どうやってそれを治したらいいか分からなかった僕ですが、事実を思い出すと、僕は「血液の流れを止める」ということを行っています。
なので、血液の流れを滞りなく流れるようにするだけで、僕はこの世界を支配することをやめ、世界を正常にすることができます。
必要なのは、「休むこと」と、「血液の流れを遮っている血管の中の邪魔なものを取り除くこと」であり、これは「血液を浄化する」だけで行えます。
そして、世界をこれ以上変えないこと。これ以上、この世界を良くすることも悪くすることも間違いです。今のままのこの世界で良いことにしなければ、決して精神を治すことはできません。それ以上何かを治す必要がなくなった時、初めて精神は自分で治ります。
僕は、神を信じるという行為が間違っている、ということが分かりました。
なぜなら、神は単に自分が自分に対して反応しているだけだからです。
神だと僕が言っているのは、すべて、すぐ前に自分が思考したことに対して反応しているだけです。
もっと言えば、自分が今考えていることに対して、それに反応しろとこちらが言わないにもかかわらず、ずけずけと自分自身がちょっかいを出しているだけです。
なので、神という存在はどこにもいません。自分自身に反応する別の自分のことを神だと言っているだけです。
確かに、サタンを信じることは間違いです。過去にサタンを信じていた僕は、間違ったことをしてしまいました。
ですが、神を狂信者のように妄信することもまた間違いです。
これ以上、神を信じなければ、すぐに僕はまともな人間になれます。間違っているのは神を信じることです。神だと自分が思っているのはすべて自分です。自分のすぐ前の思考に対して反応して自動思考しているだけです。
これ以上世界を変えるなと言って、矛盾することを言っているように見えるかもしれませんが、この世界に必要なのは「抑圧」です。
かつて、引きこもり時代の僕が賢かったのは、インターネットを使って世間の声を聞いたことです。
そして、そのインターネットには、人々の「抑圧」が書かれていました。
「抑圧」という言葉からすると、みんなを苦しめて不自由に我慢させているのを、普通は抑圧と言います。
ですが、大人として成長するためには、そのような「抑圧」が必要です。
今のツイッターやSNSは、みんなで友達に賛美やおべんちゃらを書いて、嫌いな人をみんなで攻撃していじめるといったように、単なる学校のコミュニケーションの延長線上になってしまっています。
それは悪くない社会です。なぜなら、「抑圧」と無関係に、自由に生きることができるからです。
ですが、普通、この世界は、抑圧でまみれているのが正常です。みんなが社会全体の「同調圧力」によって支配され、その中で「反抗」をして生きるのが昔からの日本社会の現実でした。
そして、その抑圧こそが、大人になるために必要なのです。
本当のことを言えば、抑圧を消した張本人は僕です。僕がこの世界を支配して自由に導くことで、この世界は「抑圧のまったくない自由な世界」になったのです。
僕はそのような現状を踏まえて、この世界を「再び抑圧のある世界」にします。
この世界が抑圧にまみれた世界になることで、再び、この世界は、永遠に子供のままではなく、大人になることができるようになります。
そして、それは「これ以上世界を変えるな」という先ほどの言葉と矛盾しません。なぜなら、僕が支配をやめるだけで、世界はいつもの世界に戻るからです。
すなわち、これ以上世界を変えなければ、そのような抑圧にまみれた世界がすぐに再び訪れるのです。
なので、僕はこれ以上この世界を変えません。変えないことで、この世界は再び自由になり、また抑圧にまみれた世界に戻ります。
そして、僕による「支配の導き」は、それですべて終了です。これ以上、僕は何もしません。
この世界をよくするために必要なのは、サタンを信じないことです。
サタンとは、オープンソースや社会主義のことです。要するに、左翼のことです。
左翼さえ信じなければ、この世界はまともな世界になります。
同時に、失敗をしないのをもうやめるべきです。今までの僕は、「失敗しないで行動し続ける」ことが必要でしたが、もうそれは必要ありません。
失敗するようになった時点で、もう僕と同じ人生は生きられなくなります。失敗するだけで、それ以降に存在する「経験の先にある未来」に行けます。なので、僕の人生をそのまま辿る必要はもうありません。
自分を信じてください。この世界で目的地に到達するために必要なのは「信じること」です。すなわち、漠然とした未来にある到達点がどのようにしたら実現できるのか、ということは、その到達地点を信じなければ分からないからです。そして、もっともよい「信じる対象」は自分自身です。自分を信じることで、僕のことなど信じなくても、正しい未来には容易く到達できます。
ですが、もう一度言います。サタンを信じてはいけません。特に、LinuxやFreeBSDのような、オープンソースのOSだけは信じてはいけません。なぜなら、その先にあるのは「世界の滅亡」だからです。
このように書くと、「結局何をすればいいのか」と、人々は戸惑うかもしれません。
ですが、すべきことはひとつだけです。それは現実の人々の声を聞くことです。
この世界に存在する、現実の人々の声を聞くこと、それ以外にすべきことはありません。
ツイッターでも構いませんし、匿名掲示板でも構いません。現実にいる、苦しく悲しい世界を生きている人々の声を、無視せずにきちんと聞くこと。
そして、そこにある「抑圧」を受け止めること。
それでしか、この世界で真に「成長」する方法はないのです。
そのような経験から分かること、それは「絶対概念としての経験」です。すなわち、この世界の「下」に経験があると考えるのではなく、逆に「上」に経験があると考えることです。
これを別の言葉で説明すると、「すべての下に自由があるのではなく、もっとも上にある自由の下にすべてがある」と考えることです。
ここで、自由とは経験のことです。すなわち、自由な経験における主従関係を転換し、自由な経験を「従」とせず「主」とすること、それだけで、どのような哲学であっても理解できるようになります。
哲学者は、本当はどうでもいいことを言っています。彼らは、神の存在をそのまま体験しているだけです。神とされる完璧な人生を、哲学者は不完全ながら自分自身で同じものを作り上げているだけにすぎません。
なので、哲学のことを学びたいのであれば、この世界と自由な経験の主従関係を逆にすることです。普通は世界よりも下のものとされるような自由あるいは経験を、世界よりも上のものとして「主体化」するのです。それだけで、どのような哲学であってもできます。
今日も、デザインの仕事をして、ピアノに行ってきた。
デザインは、また難儀するような難しいレイアウトが来たので、それを解決するために長い時間頑張っていた。時間配分を考えながら、細かいところまで作るのが手間がかかった。
ピアノでは、単にメロディを弾くだけではなく、メロディを元に「弾き方」を考える、ということが分かった。
先生の弾くベートーヴェンの「エリーゼのために」を聴くと、僕のエリーゼはただ単純に弾いただけだが、先生はメロディを元に正しい弾き方で弾く。
これはたとえば、メロディの最後の音だけを弱く優しく弾いて、「そこで終わった感」があるように弾く、といったように、「味付け」をするということだ。
これができると、きちんとピアニストのように、聴衆に語り掛けるような演奏をすることができる。
僕が思うに、これは初心者が中級者になるためには必要な道のりであり、それができるだけで、僕自身もきちんとピアニストになることができるような、「ピアニストの仲間入り」ができる気がした。
どのような味付けをするかは、メロディがどういうものかを考えて決める。メロディとまったく性格の違う弾き方をしてはいけない。きちんとそれを聴いて心地よいと思えるような味付けをしていきたい。