昔の僕は、経験から根源的に培われた、精神の「絶対知性」によって分かっていた。
絶対知性とは、精神的に、純粋な自己批判から培われる、すべての問題を統合的に解決するような、根源的かつ経験的な知性である。
そして、今でも僕は、そのような、絶対知性によって分かっている。
すなわち、過去の僕の作った、経験や積み重ねのような、培われたものがなくなっても、絶対知性だけは今でも残っていて、今の僕は、そのような絶対知性によって今でも分かっている。
絶対知性は、精神の中でもっとも純度の高い作用をもたらす知性である。なので、絶対知性だけでこの世界の環境すべてを変えることができる。
昔の僕は、そのような「環境を変える」ということ、あるいは「絶対知性によって環境に作用を働きかけること」で分かっていた。
それから、昔の僕は歴史というよりは「時間」から分かっていた。すなわち、すべてのことを「時間的な存在の生起」ということから捉えて、世界すべてを「時間的に正しく考える」ということから、自分自身だけでなく、世界のさまざまな人々の実存的な人生の生き方を分かっていたのである。
また、昔の僕は、豊かな社会経験をインターネットの仮想現実で行いながら分かっていた。
それは、「自由な可能性を制限しない範囲ですべての経験をする」ということだった。
普通、社会経験をするためには、会社や組織に入る必要がある。だが、その時点で、それ以外の経験をすることができなくなってしまう。ひとつを選べば、ほかが選べなくなる。
僕はインターネットの仮想現実を上手く使うことで、そのように、自由な可能性を制限せず、豊かな経験を得ることができた。
同時に、僕は「いずれできるかもしれないことをすべて事前にできるようになっておく」ということから分かっていた。モラトリアム的な人間として、僕はいずれどこかでできるはずのことを、既に中高生の年齢からできるようになろうとしていた。
最近の僕が間違っているのは、最近の僕はすべて行き当たりばったりになるように任せて生きている。それでは楽な代わり、何も分からない。昔の僕は、用意周到にすべてを準備する人間だった。そして、事前に作り上げた数学的な仮定と結論の知性によって、僕はあらゆるすべての専攻を包括するような「メタ大学生」を生きることができたのである。
また、最近の僕は、永遠に続く弁証法と、文章を書くことによる発想法から分かっていた。
まず、永遠に続く弁証法とは、弁証法を逆向きにすることである。普通、テーゼとアンチテーゼからジンテーゼが生まれるが、これをまったく逆にして、「なぜなら」と理由を述べていく。それを永遠に続くようにする。そのような永遠の逆向きの弁証法を書いた結果、そのような思考判断を僕は永久に続けることができるようになった。
それから、僕は文章を書くことによる発想法を用いて執筆活動を行った。それは「構造に基づく推論を書けばどんなアイディアでも発想できる」ということであり、それによって僕は自由主義と社会主義を包括する、宇宙すべての社会モデルを作った。
そして、僕は宇宙そのものを辿るようになった。前世まで含めて、僕は宇宙の10億年に及ぶ歴史すべてを精神的に体験し、それを文章に書いた。
そこにおいては、僕は世界と戦う革命家でありながら、世界すべてを支配する「絶対的王者」だったのである。
僕の言う「戦い」とは、今まで培ってきた大切なものを、ただ一度の過ちからすべて失ってしまうような体験のことである。
今まで育ててきた大切なものや、事前の準備として大切に築き上げた積み重ねを、僕はただ一度の過ちから、すべて失ってしまい、大切な世界すべてを自ら滅ぼしてしまうような経験をした。
だが、そのような経験は、人生ではただ一度、したほうがいい。しなければ、何も賢いことは分からない。
だが、それでも、掲げた旗は、最期まで掲げたままでいてほしい。
それこそがまさに、僕の行った「革命戦争」であり、「世界に対する登場」である。
そのような過ちは、本当は間違いではない。なぜなら、単に神の与える「神聖な二分法」の境界線を跨いでいるだけにすぎない。
そもそも、最初から最後まで、一貫して知性のない右翼のままでいるのは、それ以前からそうだったわけではなく、戦う前、それ以前には頭のいい左翼活動家だったことを、隠すための「フェイク」や「仮面」にすぎない。
すなわち、それまでは世界を救う善良な左翼だったのに、世界に現れる瞬間から右翼となって、大戦争を行うファシストの仮面を被った。それはそれまでの自分がなんであるかを世界から隠すためのフェイクだったのである。
最後に、僕は一神教が嫌いである。
僕は北欧神話が好きだが、北欧神話は、オーディンやトールやロキなどを主な登場人物とするような、多神教の神話である。
僕はキリスト教が嫌いだ。なぜなら、キリスト教はイエス・キリストを神の子、主であるとする、一神教の神話だからだ。
ユダヤ人は、単なる選民思想の民族だ。反ユダヤ主義のファシストが嫌いならば、その本家本元のような民族の宗教が、そもそもユダヤ教自身であり、ユダヤ人を好きになるのであれば必ずナチスが好きになる。だから、ユダヤ人は嫌いにならなければ、何もまともなことは分からない。
また、キリストは実在しない。新約聖書は弟子による創作にすぎない。あのような奇跡をなんでも起こせるような、どんな病気でも治せるような人間は、科学的に考えて存在するはずがない。
もし、イエスという男が存在するとしたら、イエスは神ではなく、ただの馬鹿者であり、奇跡を起こすことができるとされたのは後世の創作である。
そして、宇宙にはヤハウェのような神はいない。天地創造を七日間で行うような創造主は存在せず、宇宙の歴史は絶対者によって導かれてはいない。
そして、神を信じると、僕がそうなったように、自分の中に自分よりも偉い絶対者を作り出して、その絶対者が自らに命令し、自らはその命令に完全に従うようになる。神による「救い」とはそのようなものであり、それはどうでもいいことを言っているだけで、そもそも神だと信じているのは最初から自分自身の作り出した「絶対自我」や「絶対人格」という偶像にすぎない。
そもそも、多神教のほうがはるかに賢い。それはヒンドゥー教を見れば分かる。正しい神話は明らかにヒンドゥー教である。ヒンドゥー教に比べれば、一神教はゴミのようなものであり、ユダヤ人の信じる強大かつ公正な旧約聖書の神などは宇宙に存在せず、イスラム教のアッラーは単なるサタンである。神々がもし宇宙にいるとしたら、そこにはヒンドゥー教の神々が存在するだろう。
そして、僕は実質的にまだ15歳ぐらいの年齢だ。
僕が自殺未遂を21歳にした時から数えると、僕の年齢は今、36歳にして、実質的に15歳ぐらいになる。
そして、15歳ぐらいの人間がどのような人間かを考えると、今の僕のような人間しかいない。
だから、もう一度21歳になる時まで、僕の新しい二回目の人生は続く。これこそが、真にヒンドゥー教や仏教で教える「輪廻転生」である。だから、ヒンドゥー教をきちんと信じる人間は、僕のように、生まれ変わって新しい人間を生きることができるようになる。
神など信じる必要はない。なぜなら、僕の今の頭のことを神だと言っているだけにすぎない。そして、僕はもし神を信じないとしても、自分自身の頭さえ信じれば、それが神を信じるのと何も変わらない。奇跡を起こすのは、神によって起きているわけではなく、自分自身の頭が起こしている。宇宙においてあり得ない奇跡をいくらでも起こすことができるのは、すべて、自分自身の精神的到達地点があまりに高すぎるために、宇宙そのものを自分がコントロールして起こしているのであり、仏教ではそれを「縁起」と呼ぶ。だから、神によって奇跡が起きるとするキリスト教は間違っていて、仏教のほうが正しい。
ほかには、昔の僕は、「科学を疑いながら科学的に考える」ということが多かった。
たとえば、霊魂のようなものは存在するかもしれないし、宇宙の天体、たとえば太陽のようなものには何かしら意識があるかもしれないし、生物は個体で独立しておらず、生態系として精神では繋がっているかもしれない。生物がそれだけで単独で生きているという常識を僕は信じない。
僕は科学だけでなく、言語についても疑う。人間の言語の限界が、果たして今人間が使っている言語以上にならないとは限らない。言葉を増やすだけでなく、言語的な文法を作り変えることで、言語は進歩し、人類も進歩する。今の日本語が正しい人間の使う言語であるという考え方は先入観である。
また、ものについて、「名前」だけを識別するのは本当に正しいのか。名前では分からない、より高度な識別や感覚は存在するはずだ。だから、僕は「全体の一部」という考え方を重視し、そこにはより自由なものの名前の識別手段が存在する。僕はそのために、「場」と「部分」ということを表す文法を日本語に新しく導入し、単語に「ば」と「ぶ」を付ける。
さらに、僕は「感覚」という考え方を重視した。たとえば、地球において、植物は太陽の光で生きていて、常に作り変わっている。すなわち、地球は常に新しくなり続けていて、そのために太陽が働いている。そのようなことを「実感」から考えられる。そのような感覚は、人生におけるさまざまな経験、あるいは「意識」を自由自在に捉えることで、宇宙のすべてを解明することすらできる。
言語的な名前についても、感覚的に捉えられることを僕は重視した。単に言葉と文法だけで分かるのではなく、たとえば漢字が表意文字であるように、名前そのものの作り方を工夫することで、実感的にさまざまな言葉を捉えられる。日本語の漢字は、言葉に何かしらの漢字に由来する先入観を与えてしまうが、その先入観を逆手にとって、すべてのことを言葉と名前で実感的に分かるようにするのである。
先に、ユダヤ教の神は間違っていると書いた。だが、間違っているのはユダヤ教の教えであって、決して神ではない。すなわち、「神」という存在が存在することは決して間違っていない。そして、神と僕は対話することができる。そして、神の言った未来の出来事はすべて当たる。すなわち、未来まで運命的にすべて決まっている。
だから、神を信じることで、どんな奇跡でも起こすことができる。それは、神を信じるものが最高優先順位で宇宙の歴史を決めているからだ。五次元の宇宙には「プライオリティ軸」という優先度の軸があり、その軸は神が決める。だから、神を信じれば、どんな地獄からも救われる。どのような地獄であっても、そこから抜け出す方法をすべて全知全能の神が知っているからである。
そして、革命が世界を変える。
この世界を変えるための方法、それは革命である。
僕はオープンソースの自由を信じている。それは、誰ひとりからも自由を奪わなくても、全員が自由に関係し合意することで、資本主義でなくてもインターネットのボランティアによるバーチャルな仮想プロジェクトによってIT技術が成り立つことを示している。
オープンソースとともに、僕は「自由と共有」を信じた。この世界において、独裁者に資産を奪われるのではなく、自由な合意に基づいて共同体主義を行うことで、「自由かつ共有を成り立たせる世界」を僕は信じた。そう、ソ連式の不自由な共産主義を行わなくても、「自由な共同体主義の共産主義」を行えば、ソ連とは異なり、それは必ず成功することを僕は知っているのだ。
世界は変えられる。鬱屈した、革新的思想の何もない、地獄のように救われることのない、荒れ地のような世界は、革命によって必ず変えられる。自由な共同体主義のオープンソース革命がこの世界を変える。この世界は必ず、わたしの革命によって救われる。わたしの信じる「戦い」とは、すべて「革命」である。
結局、昔の僕の賢かった点は、仮定と成立を考えたことと、人間の行動形式を考えたことだ。
仮定と成立とは、その何かがもし成り立ったとして、それが別の何を成り立たせるか、ということを、論理的な条件の成立と、そこに成り立つ論理的な結果から考えることだ。
人間の行動形式とは、たとえばインターネットなどで、どのようなことを言われると、人はどのように行動するか、ということを実験することだ。
それらを考えるために、僕は「思い出せないところを思い出す」ということを行った。過去の回想から、今自分が分かっている通りに行動したとしたら、過去に自分が置かれた状況で自分は何をするのか、そこで人々はどのように自分に振る舞うのか、ということから、僕は経験主義的に、人間の主観と客観を考えた。
そして、そこから、僕は「人間の理由」が全部分かった。すなわち、人間がどのようにいつ行うのか、思うのか、感じるのか、話すのか、生きるのか、そして生きているのか、という人間の口と心と行為と人生の理由を解明できたのである。
それら二つを用いて、僕は経験主義的に人間の知性を考えた。すべて、論理的な仮定と成立、そして経験的な人間の行動形式と理由から、僕は独自の思想をひとり作り上げた。
それこそが、「僕の科学」だった。そして、僕の独自の科学を作る上で、他人の考え方が混じらないように、僕は自分だけの純粋な理論と心から、100%全部自分で理解したかった。だから、僕はあらゆるすべてのことについて、「自分で作って自分で理解して自分で行う」あるいは「同じ考え方を全部自分で作る」という原則を守った。そして、自らが信じたくないものは何ひとつ信じなかった。
その上で、僕は「世界の成立」ということが分かった。すなわち、どのような世界がどのような時に成立するか、ということを僕は分かったのだ。
そして、それはすなわち「自由に基づく社会的な合意」ということであり、「理想主義的に考えた中で、権力ではなく自由において世界を作るための、諸所の法則と原理」だった。すなわち、世界を成立させるということは、環境を生起させることだった。それは「自由な社会を作る」という新たな革命思想だったのだ。
そのような結果、僕は世界のあらゆる科学をひとりで作ることができた。まさしく、昔の僕は「現代のアリストテレス」と呼ぶべき万学の新しい祖だったのである。
最後に、抽象的に予測することのできる、独自の数学を作れ。
僕にとって、数学とは、高校や大学の公式の数学を意味せず、「もっとも抽象的に考える」あるいは「もっとも重要な点だけを考える」ということを意味する。
たとえば、ものを作る上で、工場で行うような単純作業は、単に作ることに付属するようなどうでもいい単純作業の集まりであって、考える意味がない。単に、言われた通りにやればいいだけにすぎない。
真に考えるべきなのは、実装工程の前にある、設計工程であり、その中でも上流に位置する工程である。
世界について分析する上で、そのように「もっとも抽象的な上流工程」だけを考えよ。下流工程など考える必要はない。
だから、ものを作るということを考える必要はない。そうではなく、「決める」とか「選ぶ」とか「デザインする」ということを考えよ。それだけのことを考えるために、全力を尽くして、さまざまな体験や経験をし、真実のありのままの姿を知れ。その上で、もっとも上流の工程ができるようになり、もっとも抽象的な考え方ができるようになれ。
それが、僕自身の作り上げた、中学数学の先にある独自の数学だ。そして、そのために、僕はモラトリアム的人間のように考えることで、あらゆるすべての数学的新発見をし、自らすべての問題を解決し、解明し、独自のユークリッドのような公理主義の原論を頭の記憶の中に作り上げたのだ。それこそが、僕の信じた「本当に学ぶべき学問」である。
必要なのは、すべてを事前に考え終えた上で「留保」することだ。それこそが、この世界すべてを抽象的に予測する道を明かしてくれる。だが、間違えないために必要なことは、速断しないことだ。すなわち、すぐに答えが見つかったと勘違いするな。しばらくそれを「分かった」と言わずに取っておく練習をし、Unknownのまま保ち続ける訓練をしなさい。それこそが、真の数学的知性である。
そして、さらに言えば、再利用可能なコンポーネント(論理的ロジック)を、必要となる前に事前に作るような初期投資をしなさい。昔の僕は、それをしただけにすぎない。そして、それは、ユークリッドが原論でやったことと何も変わらない。異なるのは、僕は幾何学的に考えるのではなく、人間の人生と経験と、そして世界について正しく考えたということ。それだけが、僕とユークリッドの違いである。
もうひとつ、子供に与えるべき経験とは、自らが自由に行動し、成功や失敗の練習ができるような、自由な場所である。
同時に、子供には、世界そのものの見方が変わるような経験をさせるべきである。すなわち、自分の今いる場所を当たり前と思うのではなく、まったく別の世界も普通に存在するということを教えることが、子供の成長にとってもっとも大切である。
だから、子供がインターネットをすること自体は間違いではない。
そして、かつての僕が考えたことは、「世界そのものを作り出す」ということである。
すなわち、世界そのものがどのように生まれるのか、世界はどうしてこのような世界になっていて、どのように世界そのものが常にこの世界で生み出されているのか、ということを僕は考えた。
そして、それらを踏まえた上で、僕は「経験に基づく豊かな発想法」という考え方を行った。
それはまさに、インターネットの世界を知っていたからこそ分かったことであり、僕は自らの実体験から学習を昇華させ、あらゆるすべての学習と結果を俯瞰的に高い立場から見下ろせるようになった。
しかしながら、すべてが理想ではなかった。なぜなら、そこにあったのは「知識という名の格差」であり、「情報の発信者と受信者という非対称性」だったからだ。
そのような結果、僕は影響力の高みがどこにあるのかを考えた上で、この世界でもっとも高い影響力を行使した。そして、それがまさに、この世界を救い、そして自ら滅ぼす結果に繋がったのである。
これこそが、僕の人生のすべてだ。
ほかに言えることは、本当は僕は、自分という存在を認めてほしかっただけにすぎない。なぜなら、多様な価値観を認めよと言っているのも、自由意志を尊重せよと言っているのも、すべて、僕自身の価値観と自由意志を認めてほしいということだけを言っている。
僕はそのような自分自身の存在を認めてほしいと世界に主張する結果、たったひとり世界を支配した。それが、この世界を導くファシストの王、シリウスの太陽神フレイという存在を作り出したのである。
フレイの考え方は、この世界において、すべての人間の立場やしがらみを超越した、超越的な立場で考えることだ。
すなわち、この世界は、ひとりひとり言うことが違う。そのひとりひとりがなぜ違うことを言うのか、それはそれぞれの所属している組織や、それぞれの生きている環境が異なるからだ。そして、すべてのそうした立場やしがらみを超越し、「自由がまったく制限されていないという仮定の下に考える」ということを行えば、全員が合意することのできる、なんにも現実世界に制約されない考え方ができる。
まさしく、それこそがフレイの言う、「可能性」であり、「現実世界の憂いのすべてを解決することのできる夢と希望」である。そしてまさに、それがこの神話の教えにおける「愛」とされる感情である。
フレイは言う。最初から結論ありきで考えるな。自分が愚かで馬鹿だと思っていることが、本当は賢くて賢明であるかもしれないという可能性を、最初から捨てようとするな。信じることは、疑うことと紙一重だ。すなわち、真に希望を信じるからこそ、そのような先入観を疑うべきである。だから、真に真実を知りたいのであれば、間違った真実を否定しなければならない。
たとえば、真に神を信じるのであれば、間違った宗教的ドグマを否定しなければならない。真に真実を知ろうとするのであれば、思い込みのイドラを否定しなければならない。信じるからこそ疑うのであり、単に神を盲信するだけの信者がもっとも間違っている。
フレイを信じるのであれば、まず、ナチスのような考え方を否定し、共産主義についても正しい可能性があるとせよ。そして、次に、共産主義を否定し、ナチスのような考え方にも一理あるとせよ。どちらかを全否定することは、まったくの間違いだ。だから、自由を信じるのであれば、自らがナチスとなって、自ら自身であるはずの共産主義者と戦わなければいけない。それでしか、この世界の人々の誤った考え方を正すことはできない。世界を変えることも、救うことも、そのように生きることでしかできない。
それこそが、真に「間違いを疑う」ということであり、そしてそれこそが、真に「希望を信じる」ということである。そして、世界を真に救うためには、同時に、世界を滅ぼすことすら必要なのである。
最後に、自らの正当性だけを強く信じすぎるな。常に、自ら自身が間違っている可能性を想定せよ。その人間の間違いを問う際に、自分が正しいのでなく、その人間が正しい可能性を常に頭の隅に置け。そして、真に正しい「世界モデル」があると仮定し、その世界モデルが全員の考え方を規定する「基準」であるとした上で、常にその基準がなんであるかを考え、疑いながら人々の生き方を観察し、分析せよ。それだけで、人間がなぜ間違えるのかということ、真に正しい「ブッダの考え方」がどこにあるのかということを見つけ出すことができるだろう。それこそが、シリウスの太陽神、フレイの考え方である。