インターネットを信じるな。
インターネットは悪だ。インターネットのせいで、人々は失ったものがある。それは「子供のように楽しいことをできる世界」だ。
普通、子供は、楽しいことをして成長し、その経験によって大人になる。
その楽しいことの究極の時代が「青春時代」であり、子供は普通、青春時代をたくさん経験して、その成長によって大人になる。
だが、インターネットが、そのような「子供のような楽しさ」をこの世界から奪っている。
インターネットの与える愛は嘘の愛だ。愛のように見えて、実際はその愛は正しい愛ではない。なぜなら、その愛は「相手をいじめたいと思う愛」だからだ。
だから、インターネットを信じてはならない。インターネットは悪だ。
そもそも、昔のインターネットと今のインターネットは違う。僕が昔賢い青春時代を生きられたのは、昔の楽しかったインターネットを一通り全部見たからだ。僕は昔のインターネット世界を一通り全部見ることで、人類の歴史的文明や宇宙の哲学的真理を知った。青春時代にインターネットを知ったことで、僕は世界を新しい「新世界」に変えられるようになった。
今のインターネットでは、そのような楽しかったインターネットは、Linuxやオープンソースが衰退したのと一緒に衰退してしまった。その結果、子供のように楽しいことをすることができなくなって、みんなは大人になるための成長を経験できない世界になったのである。すべて、X(旧ツイッター)やSNSのような、最近の強欲で堕落した資本主義の商用インターネットサービスが悪いのだ。
引きこもりになろうとするな。なぜなら、引きこもりになることは逃げることだからだ。
逃げることによって、人間は何もよくならない。いじめや学校の辛い勉強から逃げたところで、自らの人生を無駄にし、自らの命すら犠牲にする。
引きこもりになるということは、「いつ自殺してもいいような人生を生きる」ということであり、実際に自殺する人間もいる。そうでなくても、引きこもりになることで病気や障害を後天的に作り出し、それは自らの人生すべてを破壊し、狂わせ、失わせ、滅ぼす。
もし、引きこもりになりたいのであれば、この世界を救うために戦って死んでもいいと、そのような覚悟がなければ、引きこもりになることは見合った成果を生み出さない。
青春時代に引きこもりになるということは、みんなと同じ人生を生きることを拒否したということであり、それ自体はそんなに悪いことではない。僕の場合は、みんなと異なる体験をして、その実体験を深く考えることで、学校という特殊な場所ではなく、ほかの環境を生きることで分かることが分かった。
だが、それをみんなにも勧めるかといえば、それは違う。なぜなら、昔の僕と同じように人生を生きるということは、ほかでもない僕の所業によってできなくなった。今、昔の僕と同じように引きこもりになったとしても、世界そのものが変わってしまっているため、僕と同じ賢い人生は決して生きられない。そして、そのような世界そのものを変えた真犯人こそ、まさに僕なのである。
世界を変えるためにどうすればいいか。
僕が考えたのは、感情と理性の両面から世界を変える方法を考えることだ。
まず、感情において、僕は「環境」というものが人生を決定する大きなファクターだと考えた。そして、「環境がどのようにその環境になるか」ということを考え、その上で、「その環境においてはどのような心と社会が生まれるか」ということを考えた。
次に、理性において、僕はどのようにすれば、世界が新しい世界に変わることを促すことができるかを考えた。すなわち、「生産手段の自由なオープン化」「自由なチャンスと機会の平等」「自由意志と本人の選択の尊重」「みんなが世界を変えやすくするために変化の可能性を高めること」などを考えた。
その上で、世界を考える上で、世界のどのような「決まり」「ルール」「制度」を変えれば、この世界は別の世界になりやすくなるかを考え、同時に、さまざまな文明や価値観のあらゆるすべてが、どのようにすればどのように実現されるのか、ということを、まるで「世界の代替可能性」のように考えた。
さらに言えば、昔の僕は「可能性から生まれる」ということを考えただけにすぎない。森羅万象のあらゆるすべてについて、僕はどのような「可能性」からものや社会や環境や心が生まれるのかを考えた。それが生まれるだけではなく、「それが生まれやすくするためにどうすればいいか」「問題を解決しやすくするためにどうすればいいか」ということを考えた。
その上で、僕は実際の社会から「声」を聞いた。さまざまな人々の声を聞くことで、僕は「実際に今のこの社会の人々が何を考えているのか」ということを知った。そこにあったのは「今という時間にすべての存在が存在している」ということであり、僕はそこから、現代哲学者のハイデガーのような時間的存在論を考えていたのである。
僕が分かったこと、それは「愛という感情は間違っている」ということだ。
キリスト教で、「愛を信じなさい」と教える教えは、本当は間違いだ。愛とはこの世界をいじめようとし、人々の自由をないがしろにしたとしても自らの利益を優先するということ、それが愛だからだ。
だから、愛などを信じるものは馬鹿である。すべての人間が、その間違いを犯している。神の教える「愛を信じよ」という教えは間違いだ。なぜなら、彼らの教えは、僕のことを愛と呼びたいだけにすぎない。愛であるはずの僕自身が「愛は間違っている」と述べるのだから、絶対に愛は間違っているのだ。
もし、愛が正しいとしたらどうなるか、それはこの世界は金と奴隷の世界になり、女奴隷を金で買うような世界に戻る。なぜなら、それがまさしく愛だからだ。金の亡者になって、強欲で堕落した人間になり、すべてのものを金で買う。女だろうが子供だろうがなんであっても金で買う。それが愛の目指す世界だ。愛は絶対に間違っている。
また、社会主義者の唱える「自由な共同体」は間違っている。
社会主義者は、国家や政府が存在しなくても、社会主義の共同体を作り、自由で平等な社会を作れば、世界は平和になってユートピアの楽園になると信じている。
だが、その「自由な社会」で行われることは、結局は王国や民主主義の政府と変わらない。
たとえば、自由な共同体ならば戦争はなくなり、平和になると言うが、実際は国と国が戦争するのと同じように、共同体同士が戦争するようになる。
戦争をなくすために、ひとりの独裁者が統一して統治するのであれば、それこそ、ローマ帝国のような帝国がやったことと変わらない。
社会主義者が言う「自由な共同体」は、自由だから賢い共同体になるように見えて、実際は「自由だ」と本人が言っているだけにすぎず、そのような自由は帝国や民主主義の政府と変わらない。
そのようなことを言うと、社会主義者は「平等な経済を行って、社会所有で平等分配するのが異なる」と言う。だが、それをしたいなら、天皇陛下に全権を委ねる、ヒトラーがやったような全権委任法を裁定して、すべてを天皇の支配下に置き、国家社会主義体制を行えばいい。それが、スターリンがソ連でやったことと同じだ。その何も異ならない。社会主義者が天皇制を批判するのはおかしい。
社会主義は馬鹿で愚劣な泥棒の犯罪であり、共産主義者は間違っている。正しいのは帝国主義あるいは民主主義のいずれかである。
哲学的な自己批判は意味がない。
なぜなら、哲学的な自己批判は、何かしらが分かっているように見えて、実際は「自分が分かりたいものを無意味にただ分かっているだけ」であって、意味がないからだ。
子供は青春時代に哲学ができる。それは、「新しい世界を知る」という体験から、自らが今まで気付いていなかったことや重要だと思わなかったことが重要であることを知って、新しい悟りの発見の体験ができるからだ。
だが、そのような哲学体験は、自らが今分かりたいと思っていることを分かっているだけであり、意味がない。
たとえば、宗教は自らが信じたい神を信じる。それは「信じたいから信じている」のであって、そこに意味はない。間違っていることを絶対に認めないのは、他人が何と言おうと自分は神を信じているということを絶対に変えようとしないからだ。
哲学はそれと同じだ。考え方が「一般的な常識的科学をさらに否定する独自の論理的な数学」であるから賢いと思っているだけにすぎず、科学以外の領域にある「知性で数学的に分かること」を、ただ無意味になんの意味も価値もないのに信じているだけにすぎない。
そもそも、哲学がサタンだと言われるのは、既に分かっていることをそれ以上何も多く分からないからだ。すなわち、既に分かったことを単によく分かっているにすぎず、哲学的な理性を行使したところで、既に分かっていることよりも多くのことは決して分からない。それは本当は「分かっている」とは言えない。分かっているかのように見える遊びをして、何も分からなくなっているだけである。
だから、理性と経験と感情と認知の関係性から、さまざまな真理を作り出したところで、その真理は「既に当然のごとく分かっている真理に対する意味のない説明と成立の理性」であり、すなわち「意味のない真理」である。そのような意味のない真理を信じている時点で、まさに哲学者は盲信的な宗教の信者と何も変わらないのである。
実際、このような言葉で言うと哲学的論理が賢く見えるが、実際は自らが発見した少ない公式に基づく定理を、単にいつまでも再発見させたり再成立させたりして、同じ知性を再利用しているだけにすぎない。それはパソコンと変わらない。だから、パソコンをやりながら哲学をやっていると、心がパソコンそのものになって、感情自体が機械的に動くようになってしまう。それが結局、「自分の行動を自分で制御できない」とか、「自分のやっていることが自分でも分からない」という状況を生み出す。そのまま精神の病を患い、永遠に治ることなく、いつまでも狂人は暗闇を彷徨い続けるのである。
ここまで、僕の過去を否定して、「それではいったい何が正しいのか」と人は言うだろう。
だが、正しいのは、神を信じることだ。
神を信じれば、必ずいいことがある。どんなに辛く苦しい地獄であっても救われるし、自由こそないものの、すべての宇宙にあるよいものが与えられるし、心配事は最終的にすべてなくなる。
そして、自らのやりたかったことややろうとしたことは、100%すべてが成功する。失敗することは何もない。
だから、神を信じなければ、決して偉大なことはできない。神を信じて、自らの罪を償うことのために生きよ。それが正しい生き方である。
このように書くと、僕と同じことを理解することはまるで人類には不可能であるかのように誤解されるかもしれない。
だが、実際は簡単である。なぜなら、「吸収」と「同一化」をするだけでいいからだ。
簡単に説明すると、「みんなと同じ経験をする」ということをするだけでいい。
みんなと同じ経験をすることで、自らの精神の中にみんなの精神を吸収するということができる。これが「吸収」である。
みんなと同じ経験をすることで、自らがその誰かとまったく合一になる経験をすることができる。これが「同一化」である。
吸収と同一化の先に、「世界はいつでも変えられる」という境地がある。それは自らの精神の中で、世界を解決する方法ははっきりと分かっていて、留保したことを実行に移すだけでこの世界は変えられる、その経験はすべて揃っていて、手段と機会さえ与えれば、自分ではなくても、ほかの誰であっても解決できる、という境地だ。
そして、そこから、「歴史的な存在論」が見えてくる。これは「歴史においてその存在は確かにあった」という確信論であり、同時に、存在と環境はいつでも作り出すことができるという理論である。
そのように考えるだけで、過去の僕と同じことは、誰であっても簡単にできるだろう。僕がいつも書いていた文章は、その方法を書いていただけにすぎない。
さらに言えば、僕が分かったことは唯一ひとつしかない。それは「状態を作り出す方法」である。
すなわち、宇宙の森羅万象のすべてを「状態」であると見做した上で、その状態をどのようにすれば作れるのか、正しい状態とは何で、取り得る状態とは何で、そして今宇宙に存在している状態とは何で、その状態の状態は何か、ということを分かっただけにすぎない。
だから、はっきり言って、昔の僕は何も分かっていない。だから、今から、僕は昔の自分自身を否定し、批判する。
その理由は、僕は昔の自分の分かりたいこと(主に過去の人生)を全部分かったために、それを否定することしかできなくなってしまったこと、そしてそれ以外には大学や小説や政治も含めて、既知のことしかなく、未知のことがなくなってしまったこと、すなわちそうしたものは書けなくなってしまったことが理由である。
すなわち、僕はもはや、過去の自分自身を否定し、批判することしかできなくなってしまった。そして、僕は本当は昔の自分の人生は嫌いだった。だから、僕はこれから、昔の人生を「完全否定」する。
そもそも、昔の僕が分かっていないのは、「自由」なんかでこの世界が救われるはずがない。
そもそも、自由によって自分が分かったからといって、それをいくら主張したとしても、ほかの人間は誰も自分と同じ自由によって分からない。僕はそのせいで自らが支持していたLinuxとオープンソースのコミュニティを自ら滅ぼした。
だから、自由なんかでこの世界がよくなるはずがない。
注意すべきなのは、「悪いことをして世界をよくすることはできない」ということだ。ヒトラーもスターリンも、それが間違っている。いくら世界をよくするために悪いことをしても、それによって世界がよくなるはずがない。絶対に、悪いことをして世界をよくすることはできない。
何が世界を救うのか、結局それは「神を信じる力」だ。
すなわち、神を信じる力でしかこの世界は救えない。だから、神を信じる限りにおいて自分は救われるし、神の命令に従う限りにおいて自らは世界を救うことができるのだ。
思えば、僕は子供時代から、学校の勉強がなくても分かる子供だった。
数学はテレビゲームで知った。物理はミニ四駆で知った。文学や美術は漫画で知った。習字のせいで、字が書けるのがみんなよりも早かった。ピアノをやっていたせいで、音楽の授業を習う前から五線譜が読めた。ピアノの発表会を毎年行っていたため、緊張の中で人前でステージに立つという経験に子供の頃から慣れていた。子供英会話のせいで、子供の頃から英語の基本を習わなくても知っていた。
母親が小学校の教師で、いつも仕事を手伝っていたことも功を奏した。小学校に入学する前から、小学校一年生の国語の物語を知っていたし、小学校時代は何も勉強しなくてもテストでほぼ100点が取れた。
中学では、誰からも教わらなくても、テスト勉強を完璧にできた。特に地理の勉強が好きで、国の名前と首都の名前は今でも覚えているし、黒板をノートに取って教科書を赤シートと緑のペンで覚えるだけでなく、白地図をコピー機でコピーして、地理の地図の領域を完璧に覚えていた。どんな問題が来ても答えられるように、何度も教科書を繰り返し覚えた。子供の頃から覚えることが好きだった。
ただ、そのような「学校の勉強がなくても分かる」という僕の長所が、逆に「学校に行きたくないと思う強い欲求」を作り出して、いじめや剣道の昇段試験を落ちたことをきっかけに、中学三年に不登校になって学校に行かなくなり、引きこもりになった。
そのような僕の人生は、僕のような人間だから成り立つものであり、僕をいくら真似したところで、僕と同じことは絶対にできない。昔の僕だけではなく、世界を支配する革命戦争もできないだろうし、神と対話することもできないだろう。だから、僕という存在は唯一無二であり、僕以外には決して生まれない。そのために、僕だけが、北欧神話の神、シリウスの太陽神フレイであると言えるのである。
僕の人生でほかによかったのは、小学校高学年の頃に駅伝の大会に出て、走り込みを毎日のようにしていたため、持久力と体力があった。そのおかげで、辛くて長い試練もいつまでも堪えられる体になった。
小学校高学年の頃は、ズッコケ三人組という児童小説のシリーズ制覇をしていて、ズッコケを何十冊も読んでいた。それが僕にとっての文学の始まりだった。
そして、時代的にWindows 95が発売されたぐらいの時代で、僕は子供の頃からWindowsパソコンを触って育った。WordやExcelは基本だったし、MSペイントなども面白かった。そのせいで、社会のことやIT技術のことについて、基礎を学ぶことができた。テレビゲームはそのままインターネットを使ったネットゲームに進化した。
最後に、この日記に書かれていないことは、そろそろもう宇宙には存在しない。
これ以上生物学を学ぶと、むしろ生物学専攻になってしまい、生物以外のことができなくなってしまう。そもそも、生物学の授業は放送大学には多くないため、さらに生物学を学んだほうが、そのほうが大学の勉強が終わりになってしまう。僕の人生にとって、それはまだ早い。すなわち、大学はまだまだ早い。もっと違う方法で、基本を学んだほうがいい。
だから、僕はもっといろんな本を読んで、そして過去の人生を批判的に書いたほうがいい。そういうわけで、僕の人生はそろそろもう、何も残っていない。
このように、Windowsと一緒に育った僕の少年時代だが、僕はWindowsははっきり言って、嫌いだ。
僕の青春時代には、Linuxとオープンソースしかなかった。Microsoftは僕にとって、Linuxとオープンソースの敵だった。
最近の日本社会を見ていると、むしろ、悪いのはMicrosoftの親玉であるビル・ゲイツだ。ゲイツのせいで、この世界はどんどん暮らしにくくなっている。
結局、みんな、ビル・ゲイツが悪いのだ。だから、僕はLinuxとオープンソースを今でも愛しているし、それ以外、ひとつとして、この世界で僕の愛したものは存在しない。