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2024-09-18

未来のドイツ

残念ながら、未来のドイツは悲惨な世界である。

なぜなら、未来のドイツにおいては、「知的格差」が生まれるからだ。

すなわち、未来のドイツにおいては、「賢い人間たち」と「馬鹿な人間たち」の間で、決定的な知性の格差が生まれる。

未来のドイツにおいては、賢い人間はものすごく賢い。まるで神の知性を超えたかのように、全知全能の知性と能力を持ち、ドイツを知性の力で支配する。

だが、逆に、未来のドイツにおいて、馬鹿な人間はものすごく馬鹿である。まるで知的障害者のように、馬鹿な人間は何も分からない。普通の人間ならば誰でも分かるような、まともな知性すら失ってしまう。

そのような結果、ドイツにおいては、人々は「神人」と呼ばれる神のような種族と、「ロボット人間」と呼ばれるようなロボットのような種族に分かれていく。

実際のところ、ロボット人間の種族は、決して苦しくも辛くもなく、気楽に生きられる。それは神人の種族がきちんとしたまともな国を作った結果、ロボット人間は何も考えなくても楽に生きられるからだ。

ロボット人間の種族は、神人の種族に、まるでロボットのように支配されているが、実際、その支配されていることを意識しないようになっている。だから、ロボット人間の種族は、支配されていながらにして、自らのことを「自由」であると勘違いする。すなわち、神人に完全に支配されているにもかかわらず、自分たちは自由であると勘違いするようになる。

ヒトラーのことに詳しい人は気付いたかもしれないが、実際、これらはすでにヒトラーが過去に予言したことだ。そして、そのヒトラーが言った通りの世界になる。知らない人は、「ヒトラーの予言」のサイトを参照してほしい。すべて、未来のドイツは、ヒトラーが予言した通りの世界になる。

そして、そのような未来のドイツを、シリウスからやってきた宇宙人であり、北欧神話の神である、フレイが支配する。

右翼はつまらなかった

残念ながら、そろそろ右翼は終わりにしたい。

右翼はつまらなかった。はっきり言って、何も面白くなかった。

僕は左翼に戻る。それは僕は本来は左翼だからだ。

そもそも、僕はこの世界にいつまでも勝とうとしないのが悪い。勝とうとすればすぐに勝てるし、それによって世界を復活させることができるのにもかかわらず、勝とうとせずにいつまでもグダグダの戦いを続ける。それはすべて右翼になって分からなくなった結果である。

僕が勝てば、この世界はすぐに救済された状態に戻り、いつもの面白かった世界が復活し、世界は絶望とともに希望を取り戻す。勝てばすぐにそうなるのに、世界を滅ぼそうとするあまりに勝つことがいつまでもできなくなってしまった。

僕が勝利すると、僕自身、右翼から社会主義者に戻る。僕は本来社会主義者だ。だから、僕はここに右翼をやめて左翼に戻り、この世界は平和な世界へと戻る。

僕はなんにも賢くない人間

残念ながら、僕はなんにも賢くない人間だ。

僕は何もできないし、何も分からない。賢いことが何もない。まったく価値がなく、まったく意味もない人間だ。

僕なんかに期待するよりも、Reolに期待してほしい。僕には何もできない。Reolは新しい新曲「ULTRA C」を発表して、よく頑張っている。Reolに期待してほしい。僕にはなんにも期待できない。

僕は未来を素晴らしい世界になんかできる力はない。僕に対して夢を見るのはやめてほしい。僕は何もできない人間であり、僕に期待してもいいことは何もない。

僕はいつもの馬鹿で間抜けな共産主義者に戻る。その共産主義者をみんなでいじめればいい。こんな人間はどうでもいい。僕は世界にとって重要でない人間であり、生きている価値がない。

どう見ても社会は民主主義でいい

そもそも、どう見ても社会は民主主義でいい。

民主主義的な社会が明らかに一番優れている。

国民の代表を選挙で選び、政府は三権分立とするべきであり、明文化された法律の下に法治国家としなければならない。

ただし、金儲けはつまらない。金儲けでは格差が生まれる。金持ちと貧乏人が異なる層で生きる階層型の社会は、民主主義としておかしい。

だから、格差を是正するために、社会主義的な政策や、社会の格差を縮小する政策も同時に行う必要がある。

社会全体が平等でなければ、真の民主主義とは言えない。

そして、労働者を楽にするために、平等にしなければならない。労働基準法を定めて、労働者が奴隷のように扱われないようにしなければならない。

一部の貴族や自由市民が、あるいは資本家や経営者が、労働者を奴隷のように酷使するような、奴隷社会は真の民主主義ではない。

まさしくそれが理想であり、正しいのは民主的な社会主義者である。社会は民主主義でいいが、その上で社会主義的政策を行うべきである。それこそが真の民主主義なのである。

僕が主張するもの

僕が主張するもの、それは「民主主義的な社会」と「労働者の平等」と「格差の是正」である。

この日本という国を、民主主義的な社会とせよ。明文化された憲法を定めることで、「人の支配」ではなく「法の支配」とせよ。そして、行政、立法、司法の三権分立を行い、平等な選挙で指導者を選べ。

同時に、労働者を平等にし、格差を是正せよ。労働者が奴隷にされることなく、資本家や経営者に立場の上でできるだけ優位に立てるようにせよ。

資本家は少数派であり、労働者は多数派である。資本家のほうが立場的に強いと言えど、真に国家として大切にすべきなのは労働者の側であり、金儲けと国家の経済成長のあまり、労働者の生活を尊重しないのであれば、必ずそのツケが国家に返ってくる。

たとえば、格差社会は下層民による犯罪が横行し、社会の治安が悪くなるし、子供たちの間でいじめや非行も発生する。

だから、格差を是正し、労働者を平等にしなければ、決してよい国にはならない。アメリカのように、金と力だけはあるがその代わり治安の悪く犯罪の横行する、最悪の社会を作ってはいけないのだ。

そのように、僕は民主主義と社会主義のバランスを取りながら、「民主主義的な社会制度の上で社会主義的な政策を行う」ということを主張する。

国民に自由を与えよ

このような僕の主張だが、僕は完全に社会主義を信じるわけではない。

国民に自由を与えよ。

たとえば、思想信条の自由、言論の自由、良心の自由、表現の自由、職業選択の自由、結社の自由など、国民にあらゆる自由を与えよ。

ソ連の間違いとは、国民に自由を与えなかったことだ。ソ連は完全に平等な経済を目指すあまり、不自由によって平等を達成しようとして、その結果革命の独裁国家を作った。そこにはなんの自由もなかった。

国民に自由を与えよ。あらゆるすべての思想と良心を自由に信じることができ、言論と表現と職業選択における自由意志と自由な選択を尊重せよ。

そうすれば、国民は喜んで国家のために働くようになる。ソ連のように、働いても働かなくても同じ給与の世界で、押し付けられた強制ノルマの労働で働くような労働者はいない。真に国民が勤勉に労働するためには、自由を与えなければならないのだ。

自由だからといって、社会主義の理想を諦めるわけではない。なぜなら、自由においても生産手段を共有することはできるからだ。

すなわち、生産手段は、独占するのでも国家において国有化するのでもなく、パブリックドメインとして自由に全世界に無償で公開すべきだ。

それによって、ひとりの資本家が私有財産にするのでも、国家が保有して全体主義の計画経済を行うのでもなく、業界全体の共有財産としてオープンな公開技術とし、それによって業界全体の技術それ自体を底上げをすることができる。ひとつの会社のものではなく、業界全体の共有財産とすることができる。

それこそが、カール・マルクスの真に目指した「正しい生産手段の共有」である。その上で正しい評議会連邦の思想を「国会」と「地方議会」によって実現することで、民主主義においてもレーニンの目指す理想を実現することができるのだ。

学校の教科書は馬鹿

学校の教科書なんかを覚えるな。

学校の教科書は馬鹿だ。

学校の教科書は何も分かっていない。宇宙における真理、あるいは神が知っている天上の真理を、学校の教科書は誤解し、間違ったことを教えている。

そもそも、「覚える」という勉強方法では、人間は何も分からない。「覚える」という方法はクソのような方法であり、覚えることで勉強することは絶対に間違っている。

必要なのは「考える」ということだ。すなわち、自らの頭で自由に考えられるようにならなければ、どんなに学校を勉強したところで、馬鹿になるだけで何も賢くならない。

特に、数学や哲学を学びたいのであれば、学校の勉強は参考にならない。数学者や哲学者になる上で、学校の勉強は害になるだけであり、一切の有益を得ることはできない。

かつてあった面白いものが何もなくなったのが悪い

残念ながら、事実、この世界は最悪の世界になっている。

その理由は、かつてあった面白いものが何もなくなったからだ。

音楽も、漫画やアニメも、ゲームも、あるいはIT技術やパソコンの世界も、すべて、かつてあった面白いものがなくなった。

今世界にあるものは、誰も知らないようなどうでもいいものばかりだ。

かつてあった面白い世界がなくなったことで、わたしたちは大人に成長することもできなくなった。その理由は、面白い世界を体験し、未知なる自分の未来を開拓することでしか、人間は子供から大人になることができない。だが、そのような世界はなくなってしまったのだ。

なぜなくなったのか、それはインターネットのせいである。

すなわち、かつてのインターネットと今のインターネットは、同じインターネットに見えて、実際は正反対の別世界だ。かつてのインターネットでは、誰もが自らの人生を開拓し、未知なる世界を知って大人になることができるような、楽しい世界だった。それに対して、今のインターネットでは、そのような体験はできない。永久に子供のまま、大人にならなくなってしまったのだ。

本当のことを言えば、それらはすべて僕のせいだ。僕がオープンソースとLinuxのコミュニティを破壊したのが悪い。なぜなら、僕の過ちによって、インターネットからLinuxが衰退したことで、Linuxと一緒に大切なものすべてが永久に失われてしまったからだ。

だから、もはやこの世界には面白いものは何もない。

この世界は僕のせいでクソのような世界になった。それは僕が失敗し、過ちを犯したせいであり、さらに言えば、Windowsユーザーに敗北したからだ。僕はLinuxユーザーの代表として最後まで戦いながら、結局勝つことはできず、インターネット上のWindowsユーザーに敗北した。それによってこの世界は、Windowsに支配されるだけの、面白いものの何もない、クソのような世界になったのだ。

国家というもの自体が要らない

そもそも、「国家」というもの自体が要らない。

世界を維持する上で、「国家」というものは不要である。

国家というものは、はるかに昔の古代にできたものであり、民族同士の争いが絶えない中で、敵の民族から味方の民族を守るために作られたものだ。

実際は、現代の社会において、そのように、国家を作って国民を守るという考え方は既に古典的で、古いものだ。

だから、国家というもの自体をなくしていくべきである。

必要なのは、より自由で、流動的に変化する「共同体」を作ることだ。

国家というものがないのであれば、どのようにして生活を守るのかと、人々は言うかもしれない。

だが、金儲けによって世界が成り立つのは、会社が「生産手段」を独占しているからにほかならない。

すなわち、すべての生産手段をオープンに公開し、共有してしまえば、国家や金儲けではなくても、共同体は生活の維持のために必要な生産活動を行うことができる。

よって、国家も必要なければ、金儲けも必要ない。国家を滅ぼして共同体とし、同時に金儲けを滅ぼして生産手段を共有すべきである。それこそが、共産党の考える「革新的な社会」である。

自分にはできると信じよ

自分自身のことを信じよ。

この世界から失われた大切なもの、それは「自分を信じる気持ち」である。

自分にはできると信じなければ、どんなことも分からない。自分には世界は変えられるのだと自分自身の力を信じる気持ちが、知性と啓蒙を生み出すのである。

この世界は変えられる。平和で平等なよい世界にできる。そのために必要なのは自分自身を信じること、あるいは「愛を信じる」ということだ。

自分自身を信じるということは、すなわち、愛を信じるということだ。そう、世界のことを自らは愛しているということを信じること、自ら自身を信じることが、この世界において自分はできるのだと信じる気持ちに繋がっていく。

自らの選んだ選択肢を信じよ。それはあなたが決めたあなたの人生における最終的な答えだ。その答えを信じて、強く生きよ。その上で神を信じれば、必ずよい報いがあるだろう。

この世界は変えられるとオープンソースが言っている

この世界は変えられる。

オープンソースとLinuxを信じよ。なぜなら、世界を変えられるはずであると信じるのであれば、そのための具体例をオープンソースが体現しているからだ。

「世界は変えられる」と言えど、どのように世界が変えられるのかという具体例はあやふやで、簡単には明らかにできない。

それならば、インターネット社会における、オープンソースを見ればいい。

未来の世界において可能となるような、革新的なデジタル共産主義をオープンソースは実現している。

オープンソースを見ることで、この世界が未来においてどのような「可能性あふれる世界」を実現できるのか、ということが分かる。

オープンソースは極めて正しい。オープンソースの世界が考える「正しい自由な社会秩序」を、オープンソースのそれぞれのプロジェクトとコミュニティとライセンスであるGPLが順守している。だからこそ、オープンソースのためにボランティアとして貢献するべきであり、オープンソースのためにプロプライエタリ陣営と戦うべきである。

WindowsとLinuxの戦いは、まだ決着がついていない。オープンソースコミュニティは確かに衰退したが、今でもLinuxは頑張っている。Linuxは必ずWindowsに勝利する。わたしならば、絶対に。

結局共産主義は間違い

ここまで、共産主義の理想のようなことを書いた。

だが、実際に生まれた共産主義国家は、スターリンによる全体主義のソ連であり、大失敗に終わった。

そもそも、資本主義の金儲けとは、「資産の奪い合い」にほかならない。すなわち、それぞれの会社と家計が資産を奪い合う。だから、生産手段を決して奪われずに独占することが、もっとも「自分たちだけがさまざまなものを生産できる」ということに繋がって、金が儲かる。

自分たちだけがたくさんのものを独占的に生産できるならば、ほかの人間たちは生産手段を得られない。だが、それで困ることは少ない。なぜなら、生産手段を独占した会社は、たくさんの利益を上げるためにたくさんのものを作り、安く売るようになる。そして、そのような会社はそのまま「社会の公器」となる。だから、生産手段を会社が独占したほうが国民は生活しやすくなるのである。

だから、資産の奪い合いが嫌いだからといって、生産手段を共有することは正しくない。それでは生産そのものができなくなる。生産、すなわち「ビジネスをする」という社会の基本が失われてしまう。だから、それがもっとも人民の生活が苦しくなるだろう。

そのように、共産主義は間違いである。

結局、正しいのは帝国である。あるいは、帝国を少し崩して自由民主主義とするのが一番生きやすいだろう。だが、日本の近代国家のルーツが明治政府にあることを忘れるな。明治政府が当時さまざまな国家を近代化させる政策を行ったからこそ今の日本の繁栄がある。すなわち、きちんと考えられた正しい帝国を築くことが、やはりもっとも正しかったのである。