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2023-11-24

夢にReolが見えた

今日は、夢にReol(れをる)が見えた。

れをるは、喫茶店のような場所で僕と会い、「アッシー(実際は僕の下の名前)、愛しているよ」と言ってくれた。

それに僕は驚いて、そして嬉しかった。

二人は抱き合った。それ以降のことは何も覚えていない。

れをると僕が出会うために、いろいろと面白い夢のストーリーがあったが、どのようなストーリーだったかはまったく覚えていない。

ヘーゲルのように考えるコツ

自由を尊重し、自らの個性を発揮し、この世界を変えられると確信せよ。

ヘーゲルのように考えるコツは、精神現象学で言われているように、世間から疎遠になった上で、自分自身のことを確信することだ。

この世界を新しい世界に変えるために、どうすればいいかをよく考えよ。僕が考えたのは、「この世界を新しい世界に変えるためにどうするか」ということだけだ。

場の意識を知れ。この世界で、どのような社会が成立するか、そこには「自由な社会」のどのような形態があるか、ということを考えよ。

社会、環境、経験、学習を成立させよ。さまざまな社会を成立させて考えるということが、環境や経験や学習を成り立たせるということに繋がるからだ。

賢さの定義が違う

僕がみんなよりも賢い点が何かしらあるとすれば、それは「賢さの定義が違う」ということだ。

僕は、この世界の一般的大衆が思うような「賢い人間」を賢いと思わない。

この世界に存在する普通の人間たち、すなわち一般的大衆の考えるような賢い人間のことを、僕は賢い人間であると信じない。

僕にとっての賢さは、ほかとは異なるところに存在する。

だから、僕は東亜イスラエルとか、ガンダーラ社会主義経済におけるマイナス消費税のような考え方を思いつくことができる。

普通の人間が考える「賢さ」を追い求めていると、そのような発想には絶対に辿り着けない。必要なのは、自分の持つ「賢さ」の定義を、ほかの人間たちの持つ「賢さ」の定義とは違う、オリジナルでユニークなものにすることだ。

見ている世界と目指すレベルが違う

また、僕はみんなと見ている世界が違う。

僕は、テレビも観ないし、インターネットもほとんど見ていない。学校にも行かないし、漫画やゲームも好きではない。

僕は、みんなとはまったく異なる、「全員の誰も見ていない世界」で生きている。

同時に、よく作業所のスタッフが言っていることとして、「できるという言葉の意味するレベルが違う」とよく言われる。普通の人間なら「できた」と思うことを、僕はできない。そうではない、僕自身の見ている「僕だけの基準」から僕は「できた」ということを考える。

だから、僕はみんなのできていることが何もできないにもかかわらず、はるかにその上のレベルを目指している。

だから、僕はプログラミングが普通の人間並みにまったくできなくても、Linuxカーネルの開発者レベルを目指して学習を続けている。この学習は遠回りで困難な道ではあるが、僕の勉強するモチベーションとして「Linuxカーネルの開発者を目指す」というのは適切だし、僕はそれ以外の何も目指していない。

僕にとってみれば、この現実世界は不要だ。家入レオが「Silly」の中で「現実なんか必要じゃない」と言っているように、僕にとってはこの地球の現実世界は一切必要ない。自分の人生と自分の生きて行っていることだけで、僕のすべては成立し得るからである。

だが、本当は、そろそろ僕は現実を見たほうがいい。いつまでも天すなわち宇宙や神々や終末のことを考え続けるのではなく、地上すなわち現実を見るべきだ。そして、そのためには、そろそろテレビやインターネットをきちんと見たほうがいい。僕はいつまでもテレビやインターネットを「直視」することから逃げ続けている。僕が「逃げない人間」であると思っているのは思い込みであり、僕は「現実世界を直視することからいつまでも逃げ続けている」だけの人間である。

僕はドラえもんやガンダムのような普通の作品は作らない

何が言いたいのかというと、僕はドラえもんやガンダムのような普通の作品は作らない、ということだ。

僕は賢さの定義がほかの作家と違うため、ドラえもんやガンダムのような普通の作品は作らない。

そのような普通の作品を僕が作ったところで、単なる普通の作品がひとつ増えただけにすぎない。

僕が作りたいのは、誰とも違った「僕にしか書けない作品」であり、東亜イスラエルの物語はそれに合致するから、僕はそれを書いたのである。

ただし、本当のことを言えば、これは単なる負け惜しみ、あるいはできないことに対する言い訳である。僕は普通の物語なんか書けない。ドラえもんやガンダムのような普通の面白い作品は一切書けない。僕に書けるのは、自分で作った自分の物語だけだ。だから、自分の書ける物語を書いているだけにすぎない。

デザインについても同じで、僕はみんなと同じ綺麗な絵や上手いイラストは描けない。だから、自分なりの美しいデザインを目指している。みんなと同じデザインスキルはないが、自分だけの独自のデザインセンスはもしかしたらあるかもしれない。本当はそれはないと分かっているが、今からそれをつけていくしかない、ということも分かっている。

自分がなんで馬鹿なのかよく分からない

正直言って、僕は馬鹿である。

むしろ、僕だけを見ていると、僕の馬鹿さ加減は分からない。僕ひとりだけを見ていると、僕もそれなりに賢い人間だと思えるし、まるで誰よりも賢い人間だと思える。

だが、みんなを見ていると、みんなはあまりに賢い。

小学生の頃に読んでいたズッコケ三人組の中で、「ズッコケ時間漂流記」という巻だけを少し開いてみたが、あまりにきちんと物語ができていて、那須先生はとても賢いな、と思った。

そして、僕にはズッコケ三人組のような賢い物語は、おそらく永久に書けないだろうな、ということも思った。

何が言いたいかというと、僕はひとり僕だけを見れば賢い人間だが、みんなが賢すぎて、みんなと比べれば僕なんて存在は、この世界でも有数の最底辺だな、ということしか言えない。

僕はみんなと比べて無能そのものであり、みんなのような賢いことは絶対にできない。だが、だからこそ僕は自分のできることだけをやり続けるのであり、他と比較せずにそれだけを見れば、まあまあ普通の賢い人間だな、と思えるのである。

そして、自分がなんで馬鹿なのか、よく分からない。なんで僕は馬鹿なんだろう。まったく理由が分からない。「僕が馬鹿になった理由」というのは僕には書けない。なぜ僕が馬鹿なのかという問いの答えは、まったく見当もつかない。

可能性を考えれば誰でも哲学はできる

また、僕が思うに、哲学は誰でもできる。

なぜなら、「可能性」を考えればいいからだ。

ここで可能性とは、変化し得る場所でどのようなことが起きるのか、ということだ。

たとえば、「歴史」「未来」「現象」「チャンス」のように、この世界を変えていく先、あるいはこの世界で起こり得る現象のことを考えれば、可能性は考えられる。

そのような中で、可能性を「成立」させるということが重要だ。すなわち、そのような可能性が実際にこの世界で起こったとしたらどうなるか、ということを考えることこそが「哲学の第一歩」であると言える。

そして、それ以上は簡単である。なぜなら、「経験」を考えればいいだけにすぎないからだ。

経験と可能性の先にあるのは、「社会構造」や「社会形態」だ。経験と可能性から、どのような新しい社会像が成立し得るのか、ということを考えることこそ、哲学のひとつの「至上命題」だ。

すなわち、経験と可能性を成立させながら、歴史、未来、現象、チャンスを考えることで、この世界の社会構造や社会形態を考えること、あるいは成立し得る新しい社会像を考えることこそが、真の意味で「哲学」だと言えるのである。

ズッコケは面白い

今、「ズッコケ時間漂流記」の内容の最初のほうのところだけを読んでいたが、本当に面白い。

よくもまあ、こんなに面白い物語が、すらすらと書けるものだなあ、といたく感心する。

先ほど、「永久にこのような物語は書けない」と言ったが、それは間違いだ。僕もいつか、こんなに面白い物語を書けるようになりたいなあ、と思うようになった。

実際、僕は小学生時代にズッコケ三人組のシリーズを読破していたが、その頃の記憶は遠く消えてしまって、内容をまったく覚えていない。

だから、もう一度ズッコケ三人組のシリーズを再度読破しても面白いのかもしれないなあ、と思う。

僕は文学をきちんと読んでいないから、文学作品を読む習慣は、中学生の頃のネシャン・サーガやハリー・ポッターぐらいで終わってしまった。後の時代にきちんと最後まで読んだのは、ソフィーの世界ぐらいだったと思う(本当は例外はいくつかある)。

だから、もう一度ズッコケを読んでもいいかもしれないと思った。今読み返して、ズッコケがこんなに面白い小説だったとは知らなかった。

ズッコケは超面白い

今読んでいる「ズッコケ時間漂流記」があまりに面白すぎて、全部で211ページある中の62ページを一気に読んでしまった。

いやはや、ズッコケがこんなに面白いとは思わなかった。

読んでいると、会話と舞台設定の中で、音楽室の美人先生からの鏡の中に吸い込まれて江戸時代に時間漂流するところの書き方がとても上手い。

本当に、那須先生は素晴らしい作家だということが改めて分かった。

今日から、しばらくズッコケを読もうと思う。

しかしながら、ズッコケと比べると、僕が読んでいた「はじめての法律学」は無味乾燥な本だ。決してつまらなくはないし、生きる上で法律の知識は必要だから、僕はこの本も引き続き読みたいが、逆にズッコケがこんなに面白いと、法律の本はつまらない本しかないのではないかということがよく分かる。

いや、児童文学と大学の教科書を比べてはいけない。法律学の本もそれだけを読めばとてもためになる面白い本だ。法律学の本も引き続き読んでいきたい。

ズッコケを最後まで読んだ

今、「ズッコケ時間漂流記」を最後まで読んだ。

gitのログを見ると、先ほど読み始めた文章を書いたのが19:53になっている。そして今は21:23なので、1時間半ぐらいで最後まで読んだことになる(実際に読み始めたのはその少し前だから実質約2時間)。

ズッコケは本当に面白い。むしろ、これほど面白い小説だったとは知らなかった。

ズッコケの次の巻を読んでもいいのだが、本当は法律学の本のほうを読みたいので、とりあえずズッコケを読むのはこれで終わりにしたい。

また、最後まで読んだことで、このズッコケの巻がどのような構成をしているかも分かった。

鏡によって江戸時代に移動するという以外の設定として、江戸時代で役人に捕まったあとで科学者に助けてもらい、科学者の家に居候させてもらうということと、空を飛ぶ飛行機の模型を紙で作ったことで未来から来たことを信じてもらうこと、科学者が屋敷内に入ってきた役人を間違って斬り殺してしまったため逃げる必要があるということ、最後に美人先生のお姫さまの「捜索隊」が現れて助けてくれること、といった重要な設定がある。

このような重要な設定を、それぞれ具体的に考えながら、上手く組み合わせてストーリーを作れば、僕であってもこのような物語は書けそうだ。

本当に、ズッコケはきちんと読んだほうがいい。僕のようなほとんど素人に毛が生えたような作家でも、ズッコケを読めばきっと小説は書ける。

一文一文を大切に読んだほうがいい

また、僕はあまりに、一文一文を大切にしていない。

文章を流れのように読んで、一文をあまり分かっていないにもかかわらず次の一文に進んでしまうため、記憶にも頭にも残ることなく文章を消化してしまう癖がある。

ズッコケを読む時も、一文一文を大切にしていないから、シナリオの展開が分からなくなることがあるし、法律学の本を読む時も、適当に流れのように文章を消化してしまうせいで、さっぱり内容が頭に入らず、「読んだだけでまったく内容を覚えていない」といった形相を呈している。

だから、もっと一文一文を大切にして、言ってしまえば「全部の文章を完璧に覚えるつもり」で読んだほうがいい。

たとえば、僕のホームページを読むと、学校の教科書のように覚えなくても学問のことが分かってしまうが、これは間違いだ。学校が試験勉強のように「覚えること」を重視するのは、「言葉や文章や名前を覚えなければ、最初から勉強する意味もないし、本も読むことができなくなるから」であり、学校で無意味に言葉を覚えるのは決して無駄じゃないということが、今、ようやく身をもって分かった。

最近、「何か文学小説を読みたい」と思って、「ゲーテを読もうかな」とか考えていたが、こんなにズッコケが面白いから、今から読む小説は、とりあえずズッコケを最有力候補にしたいと思う。