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2024-12-12

何かになるだけでいい

結局、僕の病気は、「何にもなるものがない」ということが問題である。

すなわち、治すためには、何かになるだけでいい。

何にもならないままで、いつまでも不定状態を続けているから、いつまでもおかしな「なったりならなかったり」を繰り返している。

もっと、確固たる自分の「なるもの」を作るだけで、僕の病気はすぐに治る。すぐに賢い人間になる。

明日は13日の金曜日

明日は13日の金曜日、キリスト教徒が忌み嫌う日だ。

だが、今まで、僕の人生で、13日の金曜日に、何か悪いことが起きたという試しがない。

だから、明日も何事もなく、すべてが平穏に終わることだろう。

それ以上治らなくなるのが怖かった

結局、僕が恐れていたのは、「それ以上治らなくなる」のが怖かった。

病気を治し続けているのは、今のところはまだ自分で治せるのが続いているから、全力であらゆる可能性とパターンを考えて、治し続けていた。

それがいつの日にか、それ以上治らなくなってしまうのが怖かった。

だが、その日は訪れなかった。もはや、僕の病気は最後まですべて治った。もう、楽になった。だから、これ以上は僕は何もしない。これ以上は、何もしなければ治る。

人間の理性を考えれば哲学はできる

哲学をするための方法、それは「人間の理性を考える」ということである。

すなわち、人間とは何を分かり得るのか、あるいは、人間の理性とはなんなのか、ということを、真に考えることで、哲学は誰でもできる。

必ずしも、数学を学ぶ必要はない。中学二年生程度の数学があれば、哲学をやるのには十分だ。それ以上はむしろ害になる。

人間の認知的な発展や進歩の段階から、何がどのように分かるのが正しいと言えるのか、何が人間にとって「正しい行い」だと言えるのか、それに答えを出す試みを哲学と呼ぶ。

昔の僕は、それを真に考えたから、哲学が分かっていたにすぎない。

なぜ、中学二年生程度の数学で十分なのか、それはそれくらいの数学的知性によって、「自分で実証する」ということができるからだ。

哲学をするために必要な知性とは、「自分で証明ができる」という知性だ。それだけがあれば十分であり、それ以後の二次方程式とか二次関数とか三角比のような、具体的な公式や定理の知識は必要ない。あるいは、あるだけそれが普通の数学に思えてしまい、逆に害になる。

哲学の基本は、「自分で実証したこと以外信じないこと」だ。それさえできれば、哲学は14歳の中学生であっても、誰でも簡単にできる。その方法を忘れた大人のことを、愚者と呼ぶ。

たぶんそうだと考えることを恐れるな

哲学を行うためには、正しすぎる人間にはできない。

なぜなら、哲学は「たぶんそうだろう」「そうかもしれない」と考えられる人間にしかできないからだ。

さまざまな経験をして、さまざまな自己批判の考え方をして、「たぶんそれが真実だ」とか、「これこそが原理だ」と考えられる人間だけが、哲学者になれる。

だから、哲学をやるためには、むしろ社会にとっては非常識的な、間違った人間になったほうがいい。

誰からも間違った人間に見える人間が真に正しいということを、ソクラテスも、デカルトも、スピノザも、ルソーも、コペルニクスも、ガリレオやケプラーも証明している。

凡人は、「たぶんそうだ」と考えることを恐れる。真実は社会のみんなが分かっていて、社会のみんなと同じことを信じなければ正しいことは分からないと凡人は信じる。だが、実際は、「なんでも分かっている社会のみんな」という集団は存在しない。この世界は常に間違った世界であり、正しいと信じられるものは己のみだ。だから、己で出した答えを信じることが正解であり、真実なのである。

そうでなければならないと考えよ

同時に、哲学は頑固な人間や、自分の意見を曲げない人間のほうができる。

そもそも、自分の意見を固く信じて曲げない人間は、その意見を絶対に正しいと思っているから、それを「社会にとって主張したい」と考える。

哲学は、そのように、自分自身の意見を固く信じるような人間のほうができる。

哲学は、単に「そうかもしれない」と考えるだけではなく、それを「絶対にそうなるはずだ」とか、「そうでなければならない」とか、「そうでなければ辻褄が合わない」と考えて、「その真理こそが正しい真理だ」と確信する人間ができる。

だから、哲学は社会や世間が要求する「まともで正しい人間」の条件を満たした人間にはできない。偏屈で、頑固で、風変わりな、変人奇人の変わり者だけができる。そのような人間を哲学者と呼ぶ。

人生を切り開け

哲学者にとって、頼れるのは己だけだ。

社会の一般的な常識はすべて間違っている。だから、社会のことをいくら普通に経験して知ったとしても、嘘や間違いの常識に溺れて、逆に何も分からなくなってしまう。

必要なのは、己だけを信じて、人生を切り開くことだ。

哲学者になるための下積みの経験として重要なのは、人々の間で「長」や「リーダー」のような存在になることだ。

なぜなら、長やリーダーになることで、ある程度の行動規範が身に付き、「どのように行動すべきか」が分かる。そこから、さらに、「どのように考えることが経験的に正しいのか」ということが見えてくる。

だから、哲学者にとって、人々の長やリーダーになる経験をすることは正しい。

だが、実際には、そのせいで、責任を重く担う、何もできない人間になるのではなく、逆にある程度の経験を積んだ時点で、社会の世俗から外れ、責任の問われない環境で、しがらみなく、自由に生きるということもまた、哲学者にとって重要である。それは単に遊び人になるということではなく、「自らがやりたいことが真にできるような自由を得る」ということである。

すなわち、本当に指導者になるのは間違っている。だが、本当は、完全に遊び人になるのも間違いだ。

必要なのは、社会のことをよく観察し、分析する「眼力」を養うことだ。そのために必要な経験だけをすればいい。

そのようにすることで、人間が「社会的な進歩や発展において、どのような人生の段階を歩むのか」が見えてくる。そして、それこそがまさに哲学だ。哲学は単に理性を考えるだけではなく、人生が進歩し発展する中で「人間の経験的理性はどのような最終到達地点に到達するのか」ということを考えることでもある。

だからこそ、人生を切り開け。完全に正しい人生でも、完全に間違った人生でもなく、真に「自らがもっとも正しい人生だと確信できる人生」を生きればいいのである。

世界を変えるということ

世界を変えるということは、どういうことか。

世界を変えるということは、環境を変えるということであり、人々の意識を変えるということだ。

環境を変えるためには、環境を支配する必要がある。だが、完全にひとりで世界全体を支配だけするのは間違いだ。なぜなら、支配することだけでは世界は変えられない。世界を支配した上で、自由を与え、可能性を与え、可能性を許す、ということをしなければ、真に世界は変えられないからだ。

また、世界を変えるということは、善を信じることだ。なぜなら、世界を変えるということは、人々の問題を解決し、人々を救うということだ。だから、世界を変えるために、「自由において善を実現する方法」を考えなければならず、その意味において、独善的にならずに人々の社会の声を実地的に聞かなければならない。

そして、世界を変えるということは、人々が世界を変えやすくするということだ。すなわち、自分だけが世界を支配するのでは、世界は変わらなくなる。人々がそれぞれ世界を変えやすくすること、すなわち「自然に変化可能になる」ことを推し進めることで世界は変わる。そして、そのためには、社会環境の独立性を高め、社会組織の大きさや単位を小さくしなければならない。

さらに、世界を変えるということは、社会制度および自由な社会の観点から、人々が自らの自由を得やすくすることだ。すなわち、チャンスと手段を与え、世界において資本家が独占している生産手段や公共財産をオープンに公開し、全員で共有し、世界の人々が「何もできない社会」から「自助努力さえすればさまざまなことができるように許されている社会」に変えること、それこそが「自由」の意味だ。

まさしく、世界を変えるということは、それ自体が哲学だ。哲学者は、単に考え批判するだけの人間にはできない。世界を変えるということを真に追究し、「真に倫理的な社会を築くためにどうすればいいか」を考える人間ができる。そのためには、「人間社会の至上命題とはなんであるか」を問うことが必要だ。そして、僕にとってそれは「自らのアイデンティティを尊重すること」だったのである。

哲学とは理由を考えること

哲学とは何か、それを一言で説明すると、それは「理由を考えること」だ。

この世界のあらゆるすべてについて、「真の理由」を考えることこそが、哲学の試みだ。

それは単に、物理学の原因と結果を意味するわけではなく。古代ギリシャに、プラトンとアリストテレスという、二人の大哲学者がいるが、彼らは「理由を考える」ということをしたにすぎない。

プラトンは、イデア界という真の世界に対して、現世の世界は偽物の世界と言った。それはプラトンにとって、「この世界が間違いだらけの世界である理由」であると同時に、「人間が本来いるべき真の世界とは何か」を考えることで、この世界に「自らが生まれてきた理由」を考えた。

アリストテレスは、逆に、この世界の神羅万象のすべてについて論理的に分析することで、たくさんの学問を作った。そこにあったのは、実際にはプラトンと同じ、「世界の理由」だった。すなわち、「この世界がなぜここにあるのか」ということを説明し、「世界がそのようにある理由」を暴き出すために、アリストテレスはさまざまな学問を作り、「万学の祖」となった。

すべての哲学者が、プラトンやアリストテレスと同じことをしている。そして、僕自身も例外ではなかった。僕はアイデンティティを考えることで、この世界における「自らがこの世界で生きる意味」を考えた。そこにあったのは、「心理学的な理由のすべてを解明することで、真に子供たちが置かれている状況を正しく分析すること」であり、「子供たちはどのようにしたら真に自らが生きている理由を知って生きることができるのか」ということだった。それはサルトルのいう「実存は本質に先立つ」、すなわち、社会から正しい生き方をするように要求された状況で、正しい生き方が確立する前から、子供たちは正しく生きなければならない状況に陥っている、という真理と同じことだった。

そのように、哲学とは理由を考えることだ。そして、理由を考えるためには証明しなければならない。それも、ひとつの定理だけを証明するのではなく、宇宙や人生や世界におけるさまざまな命題を全部証明しなければならない。そこにある「証明とはなんなのか」「証明するとはどのような理性なのか」ということを説明するということ、それこそがデカルトが「方法序説」の中で行ったことだからだ。

子供には情報が必要

僕が子供にとって、真に必要だと思うもの、それは「情報」である。

それは、今のマスコミや、SNSのようなソーシャルメディアが行っているような、誰かにとって都合のいい、偏った情報ではない。

真の意味で、「この世界はこういう世界だ」ということが、体験的に自分の力で考えて理解することができるような、そのようなありのままの透明性のある情報を与えるべきだ。

だが、実際、この世界は、そのような透明性のある情報は少ない。すべての情報が、誰かにとって都合のいい形式でしか与えられない。

だが、だからこそ、「真実とはなんなのか」ということを誰よりも考えて生きる必要がある。

そして、「情報的な意味で力強くなること」こそが、子供たちに課せられた「試練」だ。すなわち、サルトルの言った「実存は本質に先立つ」ということは、現代においてはさらに極まって進化している。すなわち、サルトルは「自由の刑」と言ったが、今ではそれは「情報の刑」になっている。

情報的な意味で力強くなるとは、すなわち、誰よりも情報的な意味で優位に立つことができるようになるということ、そして誰も知らない真の正しい情報のソースを知っておくべきだということだ。

この現代の世界で、真に哲学的真理に気付くためには、そのように、情報的な意味で他人よりも優位に立つ方法を知らなければならない。

だが、だからといって、ヒトラーのように、世界をメディアと心理学を操って支配することは無用の長物だ。なぜなら、「もっとも強い力を正しい目的のために行使する」ことでこそ、もっとも強い力はその効果を発揮するのであり、「もっとも強い力を間違った目的のために行使する」のであれば、それはもっとも強い力の効果が薄れてしまい、もったいないものになってしまうからである。

影響力の高みに立つために必要なのは、逆にニーチェの言う「権力への意志」のために生きることの真逆で、善のために生き、人々が真に何を考え何を思って生きているかという「実像」を知ることである。

すなわち、人々が真にどのような世界で生きているか、ということに気付くことこそが、もっとも哲学的理性のために効果的に作用する。すなわち、暗闇の中で考えるのではなく、光に照らされた中で考えることこそが、真に哲学をするために必要なことであり、そのために、情報の優位性とともに、実際の人々の生活を知って生きなければならない。

だからこそ、子供たちには、「自らが生きているこの世界を知るための情報」が必要なのである。

存在論は現象発生的に考えること

僕にとっての存在論とは、「現象発生的に考えること」だった。

すなわち、この世界の存在、たとえば意識や環境が、どのような現象として、どのように発生するのか、その発生する現象をどのようにしたら予測できるのかを僕は考えた。

僕は未来学者だった。すなわち、世界において、人々が苦しみの中で抑圧を感じているということに対して、僕は「憂い」を感じた。その憂いとは、「本当は子供たちを救えるような楽園を作る方法があるはずだ」という、「不確実でありながら確信的な希望」だった。僕はその不確実な確信的希望を、どのように発生させたらいいかを考えるために、実地的にこの世界の声を聞いた。

それによって僕が分かったこと、それはハイデガーの真逆で、「この世界の存在は、自分や人々とは関係なく確かに存在している」ということだった。

すなわち、「心があるから世界があるのであり、心がなくなれば世界はない」と考えるのは誤りだ。ハイデガーは間違っている。すべて、この世界は確実に存在している。それこそ、歴史のようなあやふやな記録で存在が確認されるだけではなく、実際のなんらかの世界が確実に歴史的に存在している。それは未来においても同様であり、未来の世界も確実に存在している。

だが、僕は物理的にすべてを信じることはしない。なぜなら、物理においては、未来におけることは過去の時点では定まっていないとする。僕はそれに異を唱える。すなわち、未来における現象は、過去の時点で既に定まっている。どのような未来が現れるのか、過去の時点で運命的に決まっている。だから、未来予知のようなことをすることができる。それは決して不可能ではなく、人間の持つ理性や精神においても可能である。

なぜ、そのようなことを言うのか、それは僕の人生は未来まですべて決まっていたからである。その未来の僕の人生を、過去の時点で神が教えてくれた。神の教える未来の僕の人生はほとんどが神の告げた言葉通り正しかった。その時には分からなかったことも、未来においてすべて分かった。だから、未来におけることはすべて決まっている。

話を戻そう。僕は存在論として、「現象発生的に考える」ということを行った。それはハイデガーの存在論とよく似ていたが、僕は「存在の生起」でなく、「環境の生起」と考えた。それは存在や意識は環境に基づくものであり、真に生まれ滅びるものは存在ではなく環境であり、さらに言えば存在は単に状態にすぎず、状態をもたらすのは環境であると僕は考えたからだ。

そして、宇宙のすべては今、この時点で存在している「状態」にすぎない。あらゆる状態は今、この時点で、同じ時を刻んでいる。地球以外の星であっても同様だ。一等星シリウスにおいても、時間は太陽系と同じ時間を刻んでいる。わたしたちが宇宙の存在であり、繋がっていると信じられるのは、宇宙には「時間」があるからだ。だから、ハイデガーが「存在」と「時間」を結びつけたことについては、僕はハイデガーの理論に賛同する。

倫理性と経験

最後に、哲学的真理に気付く方法、それは「倫理性」と「経験」を考えることだ。

倫理性とは、「正しい社会を築く」「善なる社会を作るための人徳の経験を積む」「正しい行いをする」「善良な行いがされる社会を作る」ということだ。

経験とは、「経験が教えてくれる」「経験が世界を変える」「経験を確かめる」「どのような経験が成立するかを社会的に考える」「倫理的社会も心理と経験によって作られる」ということだ。

同時に、社会の歴史を考える上で、心理学的かつ普遍的な「理解可能性」を考えることが重要だ。理解可能性とは、「どのような心理状態においてはどのような理解が可能か」ということであり、「相互に理解し合うことで精神そのものを融和することができる」ということであり、「人格は自動反応的な理解可能性に対する期待と反応である」と考えることだ。

そのように考えることで、まるで確かめるだけで人生のことが分かる。そこにあるのは、「この世界は必ず救うことができると確信すること」「この世界は変えられるのだと実感を持って信じること」だ。そして、それこそが、この世界において、真にこの宇宙のすべてを理解するということであり、そのために必要なのは唯一、自らの到達した理解を確かめることだけだ。

最後に、世界のすべてを予測し、想像すること。この世界は実際に見えている通りの世界ではなく、真実はもっとあり得ない世界であるということに気付くこと。そして、それを知るために必要なのは、生物学的な「本能」であり、同時に、「わたしはこの世界を愛している」という「衝動」の感情である。その本能と衝動こそが、「革命」となって世界を救済する。それこそが「神」であり、「魂」である。

いろいろ

昔は、頭の中に再利用可能なコンポーネントをたくさん作ることで分かっていた。

環境の変化の可能性と、場の根源的な意識で分かっていた。

効果的な方法と、社会の役割を知ることで、自由な社会を成り立たせて分かっていた。

教育を変えれば、自由なままでも、戦争や革命をしなくても、この世界は変えられると信じていた。

自由を尊重することによっていじめはなくなると信じていた。

EUをメタ国家とし、理想であるとしながら、たとえば都市設計などで、社会所有を行う可能性を考えていた。

学校で教える内容は、未来永劫正しいわけでは決してなく、キリスト教が古びたものになったのと同じように、科学も変わっていくだろうと信じていた。だからこそ、世界は未来において変わることを前提に、柔軟に決まりを作らなければならないと考えていた。そのためにはシンプルかつ単純が最適だと考えていた。

もし、世界にアメリカやEUがなく、ソ連だけがあったとしたら、ソ連は成功しただろうと考えていた。