精神を治すためには、恐怖の中で安心を感じなければならない。
恐怖の中で安心を感じることは難しい。
精神は、安心と安らぎを感じなければ治らない。
だが、治ることのない中で、一筋の治すことのできる光が差し込んだような時は、人は恐怖と極度の緊張を感じてしまう。
だが、精神は交感神経と副交感神経で成り立っており、治すためには、恐怖と緊張の中で安心を感じなければならない。
同じように、精神は使い続ける中で休まなければならない。頑張り続ける中で中断しなければならない。
そして、混乱の中でなければ、はっきりと先を見据えることはできない。
だから、精神を治すことはとても難しい。「恐怖」と「安心」を同時に成立させなければならないのだ。
恐怖のある中で、致命的ではない失敗をし、そこから「自分が何が間違っているか」を知り、何が正しくて何が間違っているかを考えよ。
自分の何が間違っているかが分からないと、人間は何も分からない。
「何も分からない」と嘆くものは、みんな、きちんと失敗と成功を経験していない。自らの間違いから、本当は何が正しいのか、自分の何が間違っているかを反省しようとしていない。
そして、恐怖をたくさん作り、その恐怖をすべて殺していけ。
それによって、恐怖を作って消していく過程で、今自分の持っている恐怖も殺すことができる。
間違っているかもしれないからといって、恐れるな。間違えることに恐怖を感じず、本来不安を感じるような状況であっても、恐怖や不安を感じることなく、適当に間違えずに、適当に間違えて生きよ。
そもそも、自分が精神が治るかもしれないということに、恐怖と緊張を感じていると、いつまでも精神は治らない。
精神は、リラックスして安心した状態で治る。そのため、いつまでも恐怖を感じていると精神は治らない。だが、精神を治すためには必ず恐怖や緊張を感じる。これが、難しい点である。
新しい日記の名前を「紅蓮と黄金の出会う場所」にしたのは、僕は今から正しい社会主義の理論を述べるからだ。
本当は、ガンダーラのような、どこか東ドイツ的なおかしな社会主義政策は必要ない。
なぜなら、新しいソ連は「楽な国」を目指すからだ。
完全に自由かつ平等な国など、最初から必要ない。真に必要なのは「楽な国」である。
まず、人間は楽な仕事しかしなくていい国にする。辛いことや苦しいことは全部機械やロボットにやらせる。そして、社会の富はすべて社会主義経済で世界人類に平等に分配する。
機械を作るエンジニアだけが辛い仕事をしていると、批判されるかもしれない。だが、やりたい人間は給与を特別払わなくても、自分から機械の開発と実装をする。それはオープンソースを見れば明らかである。僕はオープンソースの考え方を全面的に導入し、「真に社会にとって必要なシステムはボランティアの集団であっても開発・実装・運用できる」と確信している。
工場では、ライン作業を行う労働者は使わない。すべて、機械的なロボットと人工知能にやらせる。人間は生産する機械の設計図を作り、工場の全体のシステムの管理と運用を行う。
そして、社会で得られた富は国民全員に平等に分配する。まず、社会所有でみんなの富を中央政府に集めた上で、それを人類全員に平等に与える。
計画的に社会でどのような事業を行うかということは、評議会が決定する。評議会はとても小さく細分化されながら全体として巨大な組織を構成する、いわば「自治体」のようなものだ。そして、そこで得られた意見をみんなでまとめ、それを「地球全体の計画経済」とし、その決定役として最高指導者の「書記長」を定める。
そして、多くの国民は、田畑を与えられた上で農業を行う。農業は辛い仕事に見えるかもしれないが、実際は土を耕して種を蒔いて苗を植えて水やりなどの世話をして収穫する仕事であり、機械さえあれば楽な仕事だ。新しいソ連では、そのような「農業機械」をみんなに平等に無料で分配するため、農作業は今よりもずっと楽になる。今の日本のように、学歴社会の中で受験戦争をして生きるよりも、新しい世界の労働はずっと楽になる。
同時に、きちんと勤勉に働いた人間は、より多くの仕事を任されたり、自分の好きな仕事につく選択権を与えられる。だから、「自分は農業なんかやりたくない、歌手になりたいのだ」という人は、最初から歌手になることはできないが、誰よりもみんなと同じ農業のような仕事を頑張って、社会的に昇進すれば自分の好きな仕事ができる。そこでは平等な労働をある程度努力した人間が受けられる「試験制度」があり、その試験に合格すればその仕事に就職できる。だから、試験で本当に歌手の才能があると認められた人間は歌手になれる。試験では音楽大学のような専門知識、あるいはピアノやギターのような演奏技術、あるいは歌唱力と作詞・作曲の才能があることを試験するが、身分による差別は存在しない。だから、平民はみんな平等であり、全員が身分や差別なく生きることができる。
僕はそのような新しい共産主義社会を思いついたので、ここでファシストから共産主義者のコミュニストに思想を転換する。僕が目指すのはそのような「平等な世界」であり、それは決してガンダーラのような東ドイツの独裁帝国ではない。
このような共産主義社会を実現させるために必要なのは、「生産手段」であり、すなわち「生産様式の進歩」である。生産手段とは、工場や農業機械といった物質的・工学的な生産のために必要な技術のことだ。生産様式が十分に進歩した世界では、共産主義社会が実現できる。かつてのソ連などが失敗したのは、そのような生産様式が十分に進歩していなかったからだ。だから、おそらく、いずれ生産様式が十分進歩した未来の時代が訪れた時は、世界は自然に共産主義社会に移行する。今はまだその時ではない。カール・マルクスの理論は間違っていないが、レーニンが時代を先取りしようとした結果、スターリンが失敗しただけにすぎない。
これで、もう、政治活動は終わりにする。
これ以上、社会主義のようなことは言わない。
また、イスラエルについてももう言わない。僕のこの文章を書いていたのと偶然重なって、今、僕がこの文章を書き終えた段階で、イスラエルによるガザ地区への「半ジェノサイド」が起きている。今、イスラエルとロシアを荒立たせるようなことは僕はしたくない。本当に最悪のタイミングで起きた軍事衝突だと思う。だが、僕はこのニュースをほとんど見ていないので、実際、イスラエルとハマスがどのような状況にあるのかすら分かっていない。
だから、これ以上、東亜イスラエルや宇宙の星々の神話ももう書かない。
僕は今まで音楽が好きだったが、本当は好きでなかった。このホームページを見ると最近のTHE BINARYのような歌手が好きなように見えるが、実際の僕はもっと古い歌手が好きで、iPodではポルノグラフィティやB'zや嵐のような歌手を聴いている。いつでもつけっぱなしにしているだけで、歌詞の内容を深く聴くといったことはしない。僕はそもそも、最近の歌手は好きでない。自分のことを愛してくれているように見えるから好きだと言っていただけで、歌手には興味がないし、最近分かったのは運命や奇跡のようなものではなく、どうでもいいことだったということが今の自分の人生から分かった。
だから、政治活動もしないし、文学活動もしないし、最近の音楽ももう聴きたいと思わない。
引き続き、芸術活動と音楽活動をやっていくが、これは本当は僕の才能的な限界に到達しつつある。すなわち、今までの僕のやり方では、これ以上のデザインやピアノのスキル向上の限界に到達している。もっと素晴らしいデザイナーやピアニストになりたいなら、やり方を変えていかなければならない。それが今の僕にできるかと言われれば難しい。
だが、こんな人間でも生きていくしかない。この世界できちんと生きていく以外の選択肢はこの世界には存在しない。
また、IT技術やプログラミングに関して言うと、僕はポール・グレアムの「On Lisp」を読むことに決めている。この本には「Lispをどのように拡張してさまざまな技術をLispコードで書くか」ということが、宝箱のようにすべて詰まっている。この本を読めば、Lispハッカーになれる。そして、今の僕にはそれしか残っていない。
勉強はしたくない。
勉強が嫌いだ。
大学の勉強は、頭が痛くなる。特に、数学は嫌だ。これ以上、数学的に論理を考えたいと思えない。
そもそも、本や教科書を読みたくない。これ以上、日本語の文字すら見たくない。
中島みゆきの音楽を聴いているが、はっきり言ってつまらない。これ以上、人生でやることが、何もなくなった。
僕は、何もしないで待っているだけができない。じっとしたまま待機していることができない。常に何かをしていたい。何もしないで放っておかれると辛くなって、じっとしていられなくなる。
だが、そろそろもう残っていない。後は、昔はアングラの闇社会のようなインターネット上の仮想世界が多かっただけにすぎない。
そもそも、僕はインターネット上のさまざまな人々と、絆を培って分かっていたのに、過去のインターネットが全部匿名だったせいで、すべての絆の関係がなくなって、そのせいで馬鹿になった。
これ以上インターネットなどしたくない。インターネットは大嫌いだ。
僕の人生は、もう終わった。
本当のことを言えば、ここからさらに心理学的に、認識と記憶から考えれば、哲学をもう一度考えられる。
だが、今の僕の置かれた状況では、それを積極的にしたいとは思えない。
僕の人生はもうはるか昔にほとんど終わっているのであり、今、完全に終わった。僕の人生はもう終わりだ。
これ以上、ここで死んだとしても僕は怖くない。むしろ、死ぬのであればそれでいい。死ぬことなく、未来においてなんらかのハプニングやアクシデントが起きた時が怖い。その時僕がそれに対応できず、どうにかなってしまいそうなのが怖い。
結局、僕はこの世界をそもそも救いたくない。
世界は今のまま、現状のままでいいだろう。
この世界をこれ以上、素晴らしい未来にする必要がどこにあるのか。
今、この世界は素晴らしい世界であり、この世界の人々を何かしら救う必要はない。
また、必要なのは「正義」や「欲望」ではないし、「理想」でも「希望」でも「夢」でもない。
それらはすべて偽善であり、不要である。この世界に救いなど必要ない。
結局、人類の目的とは科学をすることだ。
科学が人類の中心にあり、そのための場所として大学がある。
あとの社会は、科学を使って技術を作っている。その技術を金で分配している。
だが、結局のところ、科学以外のものは、言っては悪いが「社会ゴミ」のようなものしか存在しない。
この世界は、科学が花形であり、科学以外のものはすべてゴミのようなものしか存在しない。マスコミも、社会インフラも、文化や出版物も、科学以外のものはすべてどうでもいいものだ。
そして、僕はその科学が嫌いだ。
科学はつまらない。科学はこの世界をよくしていない。昔よりは進歩した世界になった。だが、そのせいで逆に人類が退化したり、社会や自然環境が破壊されたりしている。
だから、僕は科学が嫌いだ。
そのような結果、僕はこの世界がすべて嫌いだ。この世界には何も僕にとって大切なものはない。守りたいものもないし、救いたい人もいない。
結局、外部からの情報なんか要らない。
外界から自分の中に入ってこようとするすべてをシャットアウトせよ。
誰かに教わった情報をそれだけで終わりにせず、自分の知識と自分の考え方を作って、科学者と同じ立場で自分が思考できるように理解して、その上でこの世界を自分自身の知性で分析せよ。
世界に支配されているすべてのものから解放され、自由になれ。環境や現実社会、依存、すべての自らを束縛するものから解放され、真に自由になることを目指せ。
自らの経験を信じ、他人の経験を疑え。他人の経験はそれ自体が不純であり、100%自らの経験のみになるように経験を純化せよ。
外部からの情報は要らない。インターネットを見るな。音楽を聴くな。テレビを見るな。本を読むな。学校に行くな。
自らの内側の世界を守り、自らの心の奥底から聞こえてくる「自分自身の本音」に耳を傾けよ。
一度、学校で習った知識を抹消し、学校の知識なしで考えてみよ。
歴史とは場の変化だ。この世界の場がどのような状態だったかということの、意識的な変化と感覚の共有、それが歴史だ。
歴史において重要なのは「時代の雰囲気」だ。その時代の雰囲気がどのようなものであったか、それがどのように変わっていくか、ということが、歴史における「時代の意識の共有」だ。
ものを作るとは、材料と方法から構築することだ。確かに原理はあるが、原理とは新しく発見することであり、学校で教わることではない。発明とは方法を見つけ出し、発見とは方法的に説明することだ。
そのように、学校の知識なしで考えればこの世界はきちんと分析できる。
心理学とは、それをしたくないにもかかわらずしてしまうようなことが、なぜ起きるのか、どこに理由があるのかを解明することだ。無意識とは「考えてもいないにもかかわらずしてしまうこと」であり、「考えずに常にし続けていること」であり、すなわち「自動的かつ受動的な反応の行為と意識」のことだ。
みんなと同じになることを拒否せよ。人は人それぞれ違う。その違いは人生から生まれるものであり、環境から生まれるものだ。人間の違いを生み出すのは環境であり、環境が作り出す人生だ。そして、真に賢い人間は、誰とも異なる素晴らしい人生を生きている。そのような人生を生きることを目指せ。
現実社会など、支配され従うだけだ。だが、現実社会ではないどこか別の世界で、支配されないで自由に生きられる社会というものが考えられる。そのような「支配のない社会形態」が確かに存在するということが、さまざまな社会経験から分かる。それは本当に現実では実現不可能なのだろうか。あるいは、理想をきちんと正しく現実的に構築すれば、この現実の世界でも実現可能であるかもしれない。それは「理想を現実に構築する」ということであり、すなわち「自由な世界を具体化する」ということである。
自由な世界を具体化するにはどうすればいいか、方法を考えよ。意識的にそれを実現する方法や、「自由な権限」という意味で、社会制度を構築することから実現する方法がある。ほかにも、理想という究極の形態を実現するために、一切の自由を奪わずに、人々に「合意」と「体験的な直観的相互理解」から、この世界そのものを導いていくことで、この世界を別の世界へと変えていく方法が考えられる。
心理学を追究すると、心理学的に、支配しなくても世界は変えられるということが分かる。相手が、自分の意図的な行いから、そのようになるように、そのように反応し直観的に気付くように、「反応的な直観から気付かせるようにコントロールする」という方法がある。注意して行えば、心理的に世界を支配することで、この世界全てを変貌させるような、「偉大な神の業」を行うこともできる。
人間や世界の存在を、今の状態すなわち記憶を格納して存在している「データ」であると考えよ。そして、この世界の現象を「イベント」であると考えよ。そのようなイベントとデータから、この世界においてどのような法則に従って現象が起きるかということを「プログラム」であると考えよ。最後に、そのようなデータとデータがイベントとプログラムによって関わり合うことを「ネットワーク」であると考えよ。
自由とは何か。自由とは、それができなかったことができるようになることだ。すなわち、なんらかの要因でできなかったことが、ある要因の変化によってできるようになることを「自由化」と呼ぶ。そして、この「自由」こそが、人間の人生を形作る「精神の行き着く先」である。すなわち、ひとつひとつできるようになって自由になっていくことが、人間の力と自由を生み出し、その行き着く先が「精神の最終地点」であり、それが「自由」である。
自由とは知である。すなわち、知識を知ることで自由は増えていく。同時に、自由とは権力である。すなわち、自由になっていくことそのものが権力であり、自らが自由になるということはこの世界のパワーバランスで自分を上の存在に位置付けることである。そして、上の存在は、全員から自由を奪うことも、全員に自由を与えることもできる。それこそが「自由の意味」であり、「自由を与える自由」である。これを「メタ的な自由」と呼ぶ。自由はほかの人間に自由を与えることも、ほかの人間から自由を奪うこともできるような力と権限のことである。
そして、最終的な世界において、全員はもっとも巨大でもっとも高い自由を全員が持つ社会か、あるいはたったひとりが絶大な力を持って、ほかの人間はまったく自由を持たない社会か、そのどちらかに二極化する。これが「自由における二極的な最終地点」である。そのように考えると、自由主義こそが自由の正しい形であり、社会主義は間違っているということが分かる。
最終的に、人間は二極化された二つの極のどちらかになる。それは、「完全に客観的になった状態」か、あるいは「完全に主観的になった状態」である。完全に客観的になった状態では、「全員のすべてを包括した、すべての知識と知恵と知性が全員分分かる頭脳」が存在する。あるいは、完全に主観的になった状態では、「自らの経験のみ、自らの考え方のみ、自らの知性と理解のみで、宇宙のすべてが完全に解明され、独自にすべてが説明可能になった頭脳」が存在する。この二つと別に存在するのが、「単なる平凡な状態に治った、あるいはまったく馬鹿で何も分からない状態に完治した頭脳」である。最終的に行き着く先としては、この三種類の頭脳しかこの宇宙には存在しない。
知識のすべては学習である。あるいは、普通の知識はすべて、「学習を成り立たせる」という意味での、具体的な学習の成立から捉えることができる。そこにあるのは「根拠や理由のすべてを正しく証明し終えている、完璧な数学的理解」である。数学は単なる数式でも定理と証明でもなく、「学習」という意味での過程や経緯であり、「理解するプロセス」であると考えられる。だから、大人になって数学を学び直しても、子供のように数学をもう一度学ぶことは決してできない。子供にしかできない「学習的な理解するプロセス」がない数学には意味がない。そして、学習の成立過程を考えることで、子供は学校で学ばなくても、自らの思考と気付きのプロセスだけで宇宙のすべてを知ることができる。それこそが「学習」ということである。
学習ができるものは、すべての知性を作り、すべての経験を作り、すべての精神を作り、すべての心を作り、時代の変化を信じ、未来を信じ、この世界を救うための方法を信じるだろう。そこにあるのは「心理学的な人間精神の覚醒」であり、「数学的に宇宙のすべてを解明するという意味での人文主義的な革命」である。そのような「覚醒と革命」は、すべて子供のように「学習の成立」を知ることのできる時代に訪れるだろう。そこにあるのは「自らを規定するものがなんであるかを選ぶ」ということであり、そしてそこにあるのは「自由にオープンかつ平等に与えられる、全員にとっての自由を、自らも選択肢として選ぶ」ということである。
「自由にできる」ということから、社会を考えよ。
社会を、「支配」や「体制の維持」ということから考えるのではなく、人々の「自由にできる」ということから考えていけ。
そこにあるのは、人々が「従って行うのではなく、自らの意志で行う」ということだ。
そして、そのような「自らの意志」とは、すなわち「チャンスを活かす」ということであり、同時に「自らのアイデンティティを規定する」ということだ。
そこから言えるのは、「自由な決まりを作ることで、この世界を決定できる」ということだ。
それは「インフラを作る」ということであり、「システムを共有する」ということであり、そこで言えるのは「多様性の実現」である。
すなわち、人それぞれに価値観とアイデンティティが異なるならば、できるだけ種類の多くそれぞれに適した価値観とアイデンティティが実現されるような、多様性のある社会を作るべきだ。
そこにあるのは、「社会そのものを作る社会」すなわち「メタ社会」だ。
そして、メタ社会において、自らのアイデンティティを規定された存在は、決してどんな罵声にも負けないし、どんないじめも行わない。自らのアイデンティティを確立した時点で、そのようなことは意味がないことであると分かっており、抑圧や迫害は価値や意味を失うからだ。
よって、この世界を自由にすればいじめはなくなる。そもそも、いじめは「不自由を押し付けられた不安」から、「世界に対する攻撃」として起きている。だが、そのような攻撃をしたところで、敵は負けることがない。なぜなら、そのような敵は存在しないからだ。疎外が起きる理由は歴史の必然であり、誰かひとりが陰謀論のように世界を支配しているわけではない。だから、必要なのは「自らがこの世界を救うという希望を自らの手で作り出すこと」であり、それこそが「アイデンティティを確立した結果行き着く先」なのである。
この世界を救う希望はどこから生まれるのか。それは「立場の超越」である。人々は、自らの所属する学校や会社の仕事など、その立場としがらみから、制限された状態で生きている。そのような制限された状態では、自らが意見することを自らの意志で決めることができない。必ずなんらかのバイアスがかかってしまう。だが、真に自由な立場、すなわち、立場やしがらみが何もない状態で考えると、「バイアスのない意見」を言うことができる。
そして、そのような「バイアスのない意見」は、まさに「真理」や「真実」に等しい。なぜなら、真理や真実を発見するということは、それ自体がバイアスを消し、立場やしがらみと無関係に「真に自らを自由にする」からだ。そう、真理や真実はそれ自体がバイアスを破壊するし、真理や真実を発見するということはそれ自体自らを自由にする。自由にするということは、自由になるということを意味し、すなわち、アイデンティティを確立するということを意味する。なぜなら、アイデンティティを確立するためにもっとも効果的な方法こそ、真理や真実を発見することだからだ。
そのような結果行き着くのは、「可能性の拡大」である。すなわち、この世界そのものに巨大な可能性が眠っているということ、それはいつであっても実現されることを待っているということが分かる。そして言えるのは、「世界にはさまざまな世界の可能性がある」ということだ。この世界には、今のこの世界だけではなく、ほかにたくさんの可能性があり、そのすべての可能性を今でも実現できる。これこそが「人類の持つ本質的な能力」だ。人類という存在は、社会的な存在であるだけではなく、社会が変化する中で生きる存在だ。原始時代と江戸時代と今の現代日本がまったく違うように、わたしたち人類は「まったく別の世界で生きる」ということが可能である。
だからこそ、真にこの世界を守るために、人為的な支配ではなく、自然との調和を目指す必要がある。誰かしら独裁者がひとり支配した時点で、その社会は独裁者の思うとおりになるだけで、ほかの人間から奪われてしまう。真に必要なのは独裁者ではなく民衆によって選ばれたリーダーを作ることである。そう、民主主義という思想は、人類、ホモ・サピエンスという遺伝子から言って適切であり、ある意味でもっとも正しいと言える。なぜなら、人類は独裁者に支配された時点で、独裁者以下の存在であり、民主的なリーダーを定めた時点で、そのような「奴隷的・家畜的・所有物的」な存在から、「自由的・市民的・文明的」な存在になることができる。これこそ、正しい「啓蒙主義」だと言える。
未来の希望など必要ない。
輝かしい「未来」という夢や希望は、決して本当に実現することはない。
実際に訪れるのは、すべてが壊滅的に破綻した社会だ。
未来において訪れるのは、輝かしい世界ではない。すべてが終わり、破滅し、何もかもおかしくなったような、なんにもない、価値のない、暗闇の地獄の中で素晴らしいものをすべて失ったような世界が、未来においては訪れる。
だから、未来が訪れることを覚悟せよ。この世界の未来は最悪だ。すべてが終わった世界が訪れる。何もかも大切なものが失われた世界が訪れる。まともな大人はひとりもおらず、健全な人生を生きられる人間もまたひとりもいない、少数の凶悪なグループが敵対しながら支配するような、最悪の人間しかいない世界が訪れる。
だが、そのような最悪の暗闇の未来で、救世主が必ず訪れる。それこそが、イエス・キリストがいう「メシア」である。この世界を最後の救世主が必ず救う。その救世主を信じれば、天国へと入場を許される。だが、信じないもの、サタンを信じるものは全員が地獄に堕ちる。絶対に、どんな時も神を信じなければならない。神以外の言葉をすべて疑い、神のことだけを100%すべて受け入れなければならない。そうでなければ必ず地獄に堕ちる。そのような世界が、2039年に訪れるだろう。
2039年の時代がどのような未来になるのか、僕はまだ分かっていない。
だが、ひとつ言えることは、素晴らしい世界は忘却の彼方に消え去るということだ。
この世界にかつて存在した、素晴らしいものは、まるで幻想や虚像や蜃気楼だったかのように、すべて消え去り、すべてなくなる。
あるのは、無価値で最悪なゴミのような世界だけだ。
そこには、なんの希望も夢もない。希望や夢のようなものを人々は失う。その理由は「覚えていないから」だ。人々は何も覚えていない。この世界にあった、知性、真実、倫理、理解、発想、経験、知識、すべてのものを人類は完全に失う。
そして、世界は自由を失う。なぜなら、「ひとりの個人では絶対に何もできないような世界」が訪れるし、そこでは「何かをすることはとてつもなく困難で難易度が高く、何もしなくても楽に生きられるため、誰も何もしなくなって何もできなくなる」という現象が起きるからだ。
同時に、世界は制御不能になる。社会があまりにも複雑かつ高度になりすぎて、どれだけその人間が賢い地位についたとしても、「人間の力で世界を制御することができなくなる」のである。
だが、それでも、平等になるわけではない。なぜなら、「裏に存在する闇の王が世界を支配し、世界は闇の支配者の操り人形になって、人類は愛玩動物や奴隷のようなものになってしまう」からである。
そのような世界で、わたしたちを救ってくれる存在がたったひとり現れる。それは神のような偉大なる王ダビデである。ダビデはこの世界をたったひとりで救ってくれる。そこには、天国のように生きられる楽園がある。だが、決して、そこに入るのは楽な選択ではない。ダビデと同じ選択を取るものしか、ダビデの楽園に入場することはできない。わたしたちは終末において、多くの民が最後の救世主ダビデを信じるようになる。そして、信じないもの、サタンを信じるものは、必ず地獄に堕ちる。終末の最後の世界、「世界を救う唯一の救世主ダビデによる終わりすぎた世界」に存在するのは、神、ダビデの栄光だけである。それを古代イスラエルにおいて予知したのが、ユダヤ人の神、イエス・キリストである。