そろそろ、僕は、精神が楽になって、賢くなるための方法が分かった。
それは、文字を覚えることだ。
そもそも、僕が馬鹿なのは、頭が馬鹿になったまま、そのままを続けていて、何も頭が賢くならないから、精神がいつまでも馬鹿な精神のまま治らない。
この「馬鹿なまま治らない精神」が、もだえ苦しむように辛かった。
僕の頭が賢くならない理由は、右脳しか使っておらず、左脳がなんにも使えなくなっているせいで、左脳が成長せず、退化しているからだ。
そして、左脳を賢くするための方法は、「文字を覚えること」なのである。
文字を覚えるだけで、精神の馬鹿な部分が治って、賢くなって楽になれる。
それだけでなく、文字を覚えることができるようになれば、大人として、人間として生きられるようになる。生きることは、文字を覚えることだ。
僕は中学校を不登校になって、まともに勉強しなくなったために、文字を覚えるということを長らくしてこなかった。
勉強したとしても、本を読むだけで、覚えるということを全然できなかった。
それでも、文字を覚えることをまったくしないのは決して楽ではなく、最低限文字を覚えたいから、文章に言葉を書いてきた。
書くのは間違っていないが、書くだけではなく、もっと文字を読んで覚えたほうがいい。書類や手紙のようなものをきちんと読んだほうがいい。
狂った人間は、縛り付けないと治らない人間が多いが、文字を覚えるということをすると、縛り付けなくても狂った精神が治る。辛い部分がすぐに死ぬ。
最近は、音楽を聴いたり、漫画表現を見たり、ということばかりしているが、それはしないほうがいい。右脳しか使わないと、左脳が退化する。
また、アメリカや、英語や、パソコンのようなことをしないほうがいい。僕はそのようなものにどっぷりと浸かった結果、右脳以外が使えないおかしな病気になった。
哲学もしないほうがいい。哲学は左脳を使っているように見えて、実際は右脳しか使っていない。
左脳を使う方法は、文字を覚える以外に、計算すること、論理的に考えることなども重要だ。
特に、僕が難しい日本語を理解できないのは、左脳がないせいだ。だから、計算問題などをきちんとすれば、日本語も理解できるようになるだろう。
最後に、賢い人間になんかならなくていい。
賢い人間は、賢くない。
賢い人間になると、難しいことや賢いことが分かる代わり、普通に分かることが分からなくなってしまう。
賢い人間は、自分のことを賢いと思うせいで、「自分よりも馬鹿な人間が悪い」と考えるようになり、驕りに繋がる。
特に、中学校を不登校になった僕だから言えることだが、高校の勉強はしないほうがいい。高校の勉強はおかしい。知識が分かる代わり、普通の人間の分かることが、高校のせいで分からなくなってしまう。
いつまでも中学生のまま、何も変わらない人間が、一番賢い。そのような人間になったほうが、結果的に幸福な人生になる。高校の教育は間違っている。
もし、あなたが中学生で、真に賢い人間になりたいなら、高校の勉強をせず、いきなり大学の勉強をしたほうがいい。高校の勉強を除外して、いきなり大学をすると人間は賢い人間になれる。
僕は正直言って、なんにも賢くない人間だ。
僕はX(旧ツイッター)で、G子さん(@G2_1112)のXアカウントをフォローして、最近はG子さんのポストを見ているのだが、僕よりもはるかにきちんとしたイラストレーター(アニメーション作家)で、本当に、顔向けできないぐらい、天と地ほどの違いを感じる。
G子さん、かっこいいなあ。
僕はなんにも賢くない。こんなに程度の低い人間が社会で生きていて、許されるのがありえない。
資本主義社会というのは、誰かに対して奉仕していればみんなが自分に協力してくれる社会。ただし、金がある人間は奉仕しなくていい。僕はそんな社会だから一員として受け入れられているだけで、これが古代の村社会などであれば、僕はとっくに追い出されていただろう。こんなに馬鹿な人間は日本という村には必要ない。
もっと、中学生に戻ったつもりになって、未来ある子供のように考えれば、この世界が分かる。
自分は、何者にもなれる。同じ経験をして同じことができるようになれば、どんな人間にだってなれる。
この世界は、一流のプロフェッショナルをたくさん生み出すために存在する。
そのプロフェッショナルを成り立たせるのは、経験である。
そのことができると確信できたことは、その時だけではなく、いつになってもできる。いつでも、留保した可能性を現実に移すことで、それを「実現」することができる。
経験を得てできるようになるためには、会社や組織に入ることが重要だが、それは本当はよくない。なぜなら、その仕事をすることになると、その仕事の経験しかできなくなる。世界の問題を解決し、世界を変え、世界を救いたいと思うのであれば、いろんなことを幅広く経験しなければならない。仕事はその自由を制限する。だから、自由でなければ世界は救えない。
自らのことを客観的に評価できる人間だけが、新しい自分になることができる。
科学は賢くない。「科学」という方法は単に方法にすぎない。必要なのは、科学すら論理的に疑って考えること。仮定と成立の論理学を作ることによって、科学は自分で全部作ることもできる。
宇宙がこのような宇宙だと思っているのは、すべてが「観測」にすぎない。そして、過去のキリスト教の時代であっても、この宇宙は宇宙だった。それは今でも変わらない。すなわち、今の科学の常識が、過去のキリスト教が信じていたように、間違ったことを信じているということは十分考えられる。だから、人類はまだ何も分かっていない。
他人の間違った行いを許すためには、その行いを受けなければならない環境から離脱し、解放されること。そうすれば、自分自身の過ちと一緒に、相手と自分を両方許すことができる。
教育を変えること、知識を発見するプロセスを体験的に理解でき、体得できるようになることで、この世界を解決できる「確かな方法」を自分だけが知ることができる。それを知った状態においては、戦争や革命などをする必要はない。戦争や革命をしなくても、そのような世界を変える「確かな方法」があれば、この世界を救うことができる。
世界を変える確かな方法を知るためには、世界の人々と同じ立場に立って、同じ経験をし、人々の声を聞いた上で、その声を自分なりに再評価することのできる時間と余裕のある環境で、自分なりに、過去の自分の実体験などを交えて考えること。それによって、この世界を救う確かな方法が見えてくる。
すべては「意識」だ。すなわち、その意識がどのような場所で生まれるか、その意識を持つどのような人間と自分が関わるようになるか、その意識に外部からアプローチするためにはどうするべきか、ということを考えるから、「環境において意識を作り出す」ということができる。歴史あるいは時間とはそのような「意識」の変化に過ぎない。
論理的に考えるということは、一度正しいと仮定したその理論の上にさらに正しいと仮定する理論を積み重ねることだ。それによって、この世界すべての経験的命題を、一貫して考えられる。総合的にこの世界を考えるために、自ら独自の「数学的公理主義」を作れ。そうすれば、どんなこともすべてのことを正しく物理的に捉えられる。もし、心が機械になったとしても、その機械は常に正しい働きをする。
正しい生き方とは、ありのまま生きること、そして人為的な人知の制限をせず、自然と調和して生きることだ。その上で、自らが信じる「好きなこと」のために生きよ。それこそが自らのアイデンティティとなる。そのアイデンティティこそが、人間が常に求めている「不安に対する応答的行動の本能的欲求」であり、「全員にとって正しいと言える生き方」であり、「自らが世界に生まれてきた意味」である。
生きる意味とは経験することであり、それはすなわち「自らが経験したことをもし他人が同じ条件下で同じように経験したとしたら、自らと同じことを思い、自らと同じことを理解し、自らと同じ境地に達するだろう」と信じた上で、ひとり、孤独に社会から離別して、純粋に経験することである。これを「純粋経験」と呼ぶ。純粋経験によって分かったことは、すべての人間が平等に同じように分かり得るような、自らの発見し証明した「定理」あるいは「法則」である。
正しい考え方とは、あらゆるすべての考え方が間違っていないと仮定した上で、その中でも世界を救うことに繋がる考え方があると信じて、人々の考え方よりも適切な考え方を提示し、人々をその考え方が体験的に理解できるように促した上で、自らの信じる「未来のビジョン」がその通り実現するように社会を導くことだ。
そこにおいては、自分ひとりが「この世界は必ず救える」ということを確信していて、そのための明確な道筋が分かっている。そのために必要なのは「徳を積む」ことであり、「道徳と自由の交わる先にある、本当に善良かつ正しい社会」を空想し、その成立条件を体験的に明らかにすることである。
この世界は必然的に今の世界になっているわけではなく、さまざまな大人たちの事情から、さまざまなどうでもいい理由でこうなっているにすぎない。だから、世界はみんなの手によって必ず変えられる。どこかに隠れているような、世界を支配している裏の王のような存在はどこにもなく、世界はいつであっても自由に変えられるように門戸が開かれている。だが、それでも、この世界がこの世界になった必然的な理由があり、それが歴史すなわち社会の変転であり、それも意識である。それこそが「真の歴史の必然」である。
そして、そこにあるのは誰かの思惑ではなく、文明の進歩と発展であり、さらに言えば「社会がそのような社会体制になるに至る文明的過程」があるにすぎない。だから、民主主義が必ずしも正しいとは言えず、もしかしたら、社会主義のほうがよい世界を作り出せる可能性もある。歴史的な人類の文明の過程が、民主主義へと偶発的に導いたにすぎず、それは決して絶対には正しいとは言えない。
この世界は、そもそも最初から自分のための世界ではなく、みんな全員のための世界だから、自らが世界に求めるものと、世界が自らに与えるものとは、一致しないことがある。そして、この世界を変えるためには権力が必要であり、金がなくても影響力の高みに立つことで、この世界は変えられる。
総合的に考えて、この世界が誰のためにあるのか、ということを考えるよりも、最初からこの世界が自分のための世界であると前提して考えることをやめることのほうがよい。その上で、この世界が真にどのような世界であるのか、ということを「自らが経験して知っていく」ということ、すなわち「本当のこの世界を知る」ということにフォーカスせよ。そうすれば、この世界と自らがどのようにやり取りをしたらいいのかということに気付き、世界と自分がよい関係を築くことができる。
その時、世界そのものだけでなく、世界にいるみんなひとりひとりに対しても、そのひとりにきちんとフォーカスした上で、あるいはその人の立場に立った上で、きちんとそのひとりを救うことができるように考えられる。すなわち、たくさんいる「あなた」に対して助言やアドバイスを与えられるようになる。それこそが、自分自身に「正しい考え方」を道案内してくれるようになる。
今まで僕は、ひたすら、目の前にある単純な目標を常に追いかけ続けて生きてきた。それだけを一生懸命に頑張ってきた。
その理由は、治ることの難しい病気を治すことしか、考えられなかったからだ。
僕は精神の病気で、いつも何もしなくても辛くなる。だから、その病気に堪え続け、どうにかして治る方法を探ることしかできず、常に病気と表裏一体で生きてきた。
だが、そろそろ、「文字を覚える」ということが分かったために、病気がほとんど治った。
だから、これからは、もうすべてのやるべきことが終わったから、もっと自由に、余裕を持って生きたい。これ以上、やらなければいけないことは何もない。だから、自由に生きる方法を見つけたい。
最後に、僕が世界と「戦う」と言っているのは、何もマスコミを騙し、インターネットを利用して、狡猾に世界を支配しただけではない。
僕は、「この世界を今わたしは滅ぼしているけれど、本当はこの世界を僕は愛しているのだ」という「愛の衝動」の下、この世界をひとり頂点から支配し、「自由な世界」になるように強権的に導いた。
それはまさしく、「愛の革命的衝動」と呼ぶべきものだった。
その愛の裏にあるのは、曇りのない「自由」だった。口では自由を否定することを言い、行動では世界を支配することをしていたが、にもかかわらず、裏側の本心では僕は自由を衝動的に信じていた。
なぜなら、過去に自分の行った自由な影響力が、世界を間違った方向に導き、自らが世界を支配へと陥らせたという、その「過去の過ち」を否定したかっただけにすぎず、本心では自由の理想を信じていた。
だからこそ、僕は自由を否定しながらも自由の理想を述べ、この世界を真に自由な理想の世界になるように導いた。
この世界が「絶対的自由」になるようにすること、それが僕の「革命戦争の大義名分」だった。
そして、その「自由の革命戦争」の中で、僕はこの世界において、「大実験の大計画」と呼ばれる、世界でもっとも大きな大実験がしたかった。それは「新人類の覚醒」であり、「人類の進化」だった。
神と対話したのは、神のことをただ盲信的に信じたわけではない。僕は世界でもっとも大きなことをしたかった。それを成功裏に成し遂げたかった。だから、神の助けを借りた。神すら味方につけた上で、この世界を「新人類の覚醒」になるように、もっとも大きな「必然的に目覚めに至る導きの大実験」をやりたかったのだ。
僕は戦いの中で、たったひとりこの世界を支配し、自らの「人生」において分かることをすべて教えた。人生の過程の最初から最後までを書き、世界において自らが分かることや経験したことを全部教えた。それが僕にとって「人類を新しいステージへと引き上げる」ということだった。そして、それが今に至るまで、続いている。僕にとって「戦い」とは「人生を書く」ということであり、「導き」とは「世界を自らの信じる自由な状態に導いて、全員が必ず全部分かるようにする」ということだったのだ。
このような僕の名を、北欧神話の神、フレイと呼ぶ。わたしのことを「フレイさま」と呼べ。わたし、一等星シリウスの太陽神フレイが、この世界を必ず救う。
そろそろ、僕は足の精神の異常が治った。
まず、僕は異常になった部分を、いつでも治せるように保持したままにしている。だが、保持したままをいくら続けても、治そうとしなければ治らない。
だから、異常がどのような原因で生まれたのか、異常がどのような結果をもたらしたのかを考え、異常を殺す方法を考える。それで初めて異常は治る。
それから、僕は足を骨折したせいで精神がおかしい、ということが分かっていない。なぜなら、「骨を治す」ということをしないといけないからだ。
今まで、そのような「骨を治す」という必要性が分からなかった。異常をなんとかして治す、ということを諦めなかったせいで、骨を治さなければ精神は治らないということに気付かなかったのだ。
最後に、この世界を変えよう。この世界は、今から、新しい「新世界」になる。最後に、大実験の大計画が成し遂げられる。そう、今、僕は天軍大将軍ロキになったのだ。