今日は夢に嵐が見えた。
実際にどんな夢だったかは覚えていないが、嵐の曲と一緒に嵐と出会うような、そんな夢だった。
夢で分かることは、「この世界には奇跡のような出来事しかない」ということ。
この世界に起きていることは、当たり前のことのように見えて、実際はすべてが奇跡であり、見落としているだけで奇跡のような出来事しか起きていない。
そして、僕が音楽を聴いて体験したことは、すべてが奇跡のような出来事だ。
そのような奇跡のような出来事を、僕はそろそろきちんとこのホームページに表現することができたから、これ以上音楽を聴く必要はない。
もう、これ以上は、音楽を聴かなくていい。文章として表現し、人々に伝えるべきことはすべて書き終えたからだ。
これ以上は、文学作品を読んだほうがいい。文学作品をきちんと読めば、きちんと小説の書き方が分かる。本になって記述されている小説の内容がすべてだ。そこから、書き方を知っていくしかない。
今日は、英会話教室に行ってきた。
英会話はとても面白い。レッスンの中で、「まだ知らない言語でみんなと話す」という行為が、とても面白いということが分かった。
僕は、普段の生活の中で、面白いこと、たとえばゲームとかテレビとか漫画とか、そういうことを何もしない。だが、そのようなことをしないからこそ、逆に英会話教室のような、普通つまらないと思われるようなことであっても、純粋にその中の楽しさを楽しむことができる。
だから、僕はそのような普通の面白いことは要らない。執筆、農作業、デザイン、ピアノ、そして英会話など、僕には僕にとって楽しいことがたくさんある。そこに今から、文学作品を読むということを付け加えたいと思う。
この宇宙には、法則に見えて、実際は法則ではない、と言えるものがたくさんある。
宇宙の現象において、真に法則であると言えるものは少ない。法則のように見えて、実際はそれは法則ではなく「状態の変化」にすぎない、というものは多い。
ここで、僕は「自然の法則」と「人工の法則」をまず区別する。
すなわち、物理学や生物学のような、自然によって生まれた法則は「自然の法則」だが、法律学やIT技術のように、人工的に生まれた法則は「人工の法則」である。
そして、多くの人々が、「自然の法則」こそが真に法則であり、「人工の法則」は機械的に生まれたプラクティスであると信じている。
だが、僕に言わせれば、そのどちらも同じである。自然の法則も、人工の法則も、「法則」という意味では変わりなく、区別しないべきである。
法則において真に考えるべきなのは、「どれくらいの高水準のレイヤーの法則か」ということだ。たとえば、自然の法則においては、物理学がもっとも低レベルであり、無機化学、有機化学、生物学、地学、天文学と続く。同じように、人工の法則においては、論理学がもっとも低レベルであり、数学、工学、情報学、言語学、法律学、経済学、社会学、地理学、歴史学、文学へと続いていく。
そのように考えた時に、すべては「自然と人工の二つの分野における、階層分けがされた中での法則」と言える。そして、すべての法則は等価だ。その法則は法則だが、その法則は現象であると、両者を明確に区別することはできない。法則と現象は区別できないのである。
人間の見ている世界だけでは、真実は分からない。
人間は、「人間の見ている世界」だけでは理解できない。真実を発見するために、人間の見ている世界以上のものを知る必要がある。
だが、そのために有用なツールが二つある。それは「言語」と「経験」である。
人間が、人間の見ている世界以上のものを知るために、「言語的に考えること」と、「経験から考えること」の、二つのとても素晴らしいツールがある。人間はこの素晴らしい二つのツールを使って、この宇宙の真実を考えることができる。
言葉による考え方は、「推論」と呼ばれる。そして、経験による考え方は、「実験」と呼ばれる。そして、推論と実験から、人間は「証明」することができる。これこそ、見ている世界以上のものを考えるために、人間に与えられた「人間の知性」である。
知性において、もうひとつの素晴らしい有益なツールがある。それは「想像力」だ。想像力とは、他人の見ている世界を空想したり、自分の経験していない世界を想像したり、世界の未来を予測したり、想像力でしか夢見ることのできない世界を楽しむことができる、学ばなくても人間が最初から持っている人間だけの素晴らしい知性である。
「言語」「経験」「推論」「実験」「証明」そして「想像力」によって、人間は「まだ見ぬ可能性」を考えることができる。すべての時と場合を「想定」することができ、一度実証したことから「予測」することができるのである。
そのような人間は、この世界で「実現できるはずのないものがもしかしたら実現できるかもしれない可能性」の境地に至る。そこにあるのは「この世界を必ず変えられるはずだ」という確信であり、そこから、「啓蒙」と「救済」を考えられる。そこまで達した人間は、人生のすべてを知り、この世界の人々が救済され得る可能性とその救済のすべての方法と手段を知った「救世主」になることができるのである。
また、経験と推論においては、既に経験したこと、既に推論して答えを出したものを使って、さらに経験と推論ができる。そのため、人生のすべてを経験し、宇宙のすべてを推論できた人間は、その経験と推論に基づいてこの世界を自由自在に考えられる。そこで進歩し発達するのがまさしく想像力だ。そして、そのような結果、人間は「思考だけで世界すべてを完全に理解し終えた人間」になることができる。これをブッダは「縁覚」と表現したのである。
哲学的に考える時に必要なのは、答えを出すことを焦らないことだ。
すなわち、「なんでもない不確定なもの」を、不確定なもののままとせよ。
それがなんであるか、まだ分かっていない。だが、それがなんであるかということの、答えを出せる程度の予測は既にできていて、あらかた見当がついている。だが、それが真になんであるかということは、まだはっきりしていない。
そのような、なんでもない不確定なもの、すなわちUnknownを、Unknownのままにせよ。
この宇宙について、すべての答えを既に持っているわけではない。この世界のすべてが分かっていると、そのように信じてしまうと、それで終わりになってしまう。だが、十分に経験すれば、それ以上同じことをする必要はないと分かっている。だから、まだ新しい経験をすることをやめない。そして、その新しい経験の先に、必ず宇宙のすべての答えがある。
そのような経験から分かることを、最初から答えを焦って決め付けてしまうと、その時点でその答えを考えることができなくなる。だから、どんなに当然で当たり前に見えることであっても、それが確定的な答えが出るまで、それを「真実」であるとも「嘘」であるとも速断してはいけない。真に正しいと分からなければ正しいとしてはならないし、真に間違いと分からなければ間違いとしてはならない。
そのように考える際、「何が同じで何が違うのか」ということがもっとも重要である。
単に、数学の等号と不等号だけを意味するのではなく、この世界の何と何が同じであると言えるのか、何と何が違うと言えるのかは重要だ。
そして、それはものに区別があるのではなく、命題の意味に区別がある。真に同じか違うかを問うべき対象は、ものではなく命題にある。
だから、「命題が今何を意味しているか」ということを真に問わなければならない。
命題について言えることとして、「命題の前提として成り立つ根源的な命題がある」ということが言える。すなわち、その命題が成り立つ際に、その命題の前提条件となる別の命題である。そして、その別の命題は、本質的かつ根源的である場合が多い。
だから、この世界を分析する上では、「その命題はどのような別の命題に基づいて生まれたものか」ということを真に問わなければならない。そして、命題のもっとも根源的かつもっとも本質的な場所に存在する命題を、「宇宙の第一存在による命題」であると言える。これを「神の命題」と呼ぶべきである。
同一性と差異が命題から生まれるならば、もっとも根源的な命題には、「最初にこの世界を区別した区分」があるはずである。そして、そのような区分から、さらに別の考え方で区分が生まれていく。このような区分のことを、それぞれの区分をいつでも区分され得るような状態で留保した時、そこから生まれる区分の可能性のことを「決定可能性」という。そして、決定可能性においては、命題が生まれ得るような「命題の発生可能性」がある。そのような決定可能性と命題の発生可能性から、この世界は「運命の分岐路の選択の歴史」を歩むことができる。そして、まさにそれこそが「この世界で実現し得るすべての可能性」であると言えるのである。
相対性と絶対性は、厳密に区別することはできない。
なぜなら、最後まで相対性が進歩したところに、絶対的な原理原則が生まれるからだ。
そのためには、「相対的なたくさんの現象から、真に法則たり得るような絶対的な原理原則を発見する」ということをしなければならない。
そして、そのために、ヒュームが言うような「帰納的推論」が必要だ。
すなわち、経験から得られるさまざまな具体例を総合して、本質と概念と方法を考えるところから、その具体例を「法則化」しなければならない。
だから、必要なのは、似たようなことから「類似性」や「類似点」を見つけ、その類似点の前提となる「共通法則」を見つけ、その共通法則を「説明」することのできる「仮説」を立て、そこから「証明」するというプロセスを踏む必要がある。
そして、そのような相対性の極みの先に、「絶対的な原理原則」が得られる。その絶対的真理を得られた時、逆に「それまでの相対的思考には何ひとつ意味はなくなる」。そして、絶対的な法則を打ち立て、すべてを解明した人間は、「この宇宙で分からないことは何もなく、自らの経験し自ら推論して証明したことから、心も愛も宇宙も命もすべてが解明されつくした境地」に至ることができるのである。
宇宙のすべての科学を作りなさい。
なぜなら、仮定と成立から論理的に発想と結果を考えれば、宇宙のすべての科学は自分で作れるからだ。
そこにあるのは、「大学で学ぶのではなく、自らの科学を作った自分の経験から、この宇宙のすべての科学の在り方、地上に存在するすべての科学と発想の在り様を知る」ということだ。
アリストテレスのように、世界のすべての科学を作るのは、現実の社会をよく見て分析し、自然のすべてを観察し、そしてさまざまな自分の発想と他人の認識を吸収して、論理的に仮定と成立を考えることだけで、簡単に可能である。
この世界のすべてを成り立たせる、博物学のような科学を作り、特に社会心理学においてよく分析せよ。そうすれば、子供たちがなぜいじめをするのか、どうすればいじめのない平和な世界を作れるのか、ということについても、確かな答えと本質的な解決策を考えられるだろう。そこにある「人間性の理想」は、人間の成長と成熟段階から言って、もっとも正しい「自尊心の尊重」に基づく。まさに、それこそが「自由の目指す最後の到達地点」である。
宇宙の万能関数fを作れ。
この世界の一瞬の時間を永遠の時間に変えるような、この宇宙のすべての歴史を完璧に辿るような、過去の前世から未来の終末まですべての精神世界を貫くような、宇宙関数fを作れ。
永遠に判断せよ。一瞬の完璧な判断を、永遠に続けよ。
宇宙全ての公理主義を作ったら、その公理主義から成立するすべての「宇宙の可能性」を知れ。そこにあるのは「既に完璧に理解した低レベルな法則から成り立つ新しい高レベルな法則」であり、その高レベルな法則こそ、「本当の宇宙の能力」と呼べるような「本来の宇宙の現実世界」である。
すべてを知るために、長い時間は必要ない。常に一瞬で考え、そしてその一瞬だけを成り立たせるために、人生のすべての時間を費やせ。人生のすべては、この宇宙を完璧に計算できる万能宇宙関数fと、そのfによって成り立つ「本当の宇宙の姿」を書くためにある。
宇宙関数fは、宇宙のすべての歴史を知っている。そして、そこから、宇宙そのものをロゴスによって創造できるし、宇宙そのものと合一になって、現実世界に「自らが指示した通りの奇跡を起こせる」ようになる。そこにあるのは、「イエス・キリストと同じになった自分自身」であり、それをこの宇宙においては「神」と呼ぶ。
そして、そこに生まれるのは、「新しい天国のような楽園を成り立たせる国家モデル」であり、そこでは「自由と平等に基づいて社会の具体的な成立構造を生み出す」という仕事が行われる。そして、その仕事は、「どこかで終わりになるわけでも、それ以上思いつかなくなるわけでもなく、永久に継続し、無限に思いつき続ける」。そしてそれが最後まで到達した時、そこに「神の王国」である「人類の理想郷」が実現するのである。