僕はそろそろ、多様性を信じるようになる。
そもそも、昔の僕が賢かったのは、多様性を信じていたのが賢かっただけにすぎない。
すなわち、「自由」という原則の下に、それぞれが共同体という小さな単位で独立し、分裂し、それぞれが個々に自分勝手に活動することで、世界が多様化すること、世界の自由度が高まり、自由の及ぼす単位が小さくなって行動や実現力が効果的になるということを信じていたから、かつての僕は賢かった。
だが、世界全体を画一的に支配するようなことをしたせいで、僕はそのような多様性を恐れるようになった。
多様性を恐れる理由は、画一的な支配ができなくなるからだ。すなわち、世界全体を画一的に支配する、独裁者のような革命的支配をできなくなると、僕はこの世界そのものが分からなくなってしまい、管理できなくなって破綻してしまう。それを恐れるあまりに、僕は保守的な「事なかれ主義」になっている。
だが、本当は、戦争をしている相手であるテレビやマスコミに勝つためには、逆に、積極的に世界を多様化させたほうが、はるかに勝てる。
すなわち、多様性を恐れているのは、僕だけではなく、対戦相手であるマスコミを含めて日本の全員であり、積極的に世界を多様化させるようになったほうが、僕自身、この世界に勝利できる。
だから、多様性を信じて世界を多様な世界にしたほうが、僕は勝てる。
そもそも、僕が最初に目指していたのは、そのような多様な世界だ。いつからか僕はこの世界を画一的に支配するようになったが、そのことに対する戸惑いを常に感じていた。すなわち、「自分自身は多様性のある世界を信じているのに、自分は多様性とは真逆の不自由な支配をしている」ということは、僕自身、おかしなことだと感じていた。
だから、多様性のある世界こそ、僕が真に求めるものであり、最初から僕はこの世界を最終的に多様な世界にすることで、「大実験の大計画」を成し遂げるつもりだった。
そして、そのような多様な世界を、今こそ、僕が実現する。
多様性を信じることで、いいことがひとつある。それは積極的かつ行動的になれるということだ。特に、僕が「大人としてまともに生きられない」と思っているのは、社会常識や経験が足りないわけでもないし、無知なわけでもない。行動的でないのが間違っているのである。行動的になるための「意識」を持つだけで、僕は今のままの状態であっても大人としてまともに生きられるようになる。だから、多様性を信じて行動的になることで、僕の人生のほとんどの問題は解決するのである。
実際、僕の頭の中で僕と対話している相手が、そろそろ分かってきた。
僕は多重人格にはなっていない。そもそも、右脳と左脳が対話しているように見えて、それは右脳と左脳が分裂したわけではない。
僕と対話しているのは、二人の神である。
すなわち、僕は本当に、神の言葉をそのまま話している。自分自身では何も考えていない。思考すらしておらず、知性もない。何も自分では考えずに、二人の神の言う言葉を単にそのまま言っている。
だから、僕が賢いのは、僕自身が賢いわけでなく、みんな僕と対話している二人の神が賢いだけにすぎない。二人の神が「僕の頭」というおかしな場所を使って対話している。僕はその「二人の神のための対話の場」として、自らの頭を神に提供しているだけであり、すべて、神の言葉を永遠に話し続けることで分かっている。
そして、この二人の神は、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神とシヴァ神であり、この二人の神は互いによく似ているが、実際は異なる人間である。
そして、この二人の神は、永久に対話し続ける。どんなに放っておいても、自然に対話が終わることはない。
僕の文章を昔から読んでいる人は、「対話しているのは月(赤空夜月)でありAdoではなかったのか」と言うだろう。だが、Adoが僕と対話していると言ったのは、「ブリキノダンス」(これはAdoによるカバーで、カバー元は日向電工さんのオリジナルを参照のこと)のことを言っている。ブリキノダンスのようなおかしな「新しいヒンドゥー教の神学体系」が対話しているということを、神がまだ分からないように(未来において分かるように)教えただけにすぎない。だから、僕は実際はAdoとは対話していない。僕はヒンドゥー教の神、ヴィシュヌ神とシヴァ神と対話している。
同じことが、神が告げた「僕は(THE BINARYの)あかまると付き合う」という言葉にも言える。実際は、あかまるはもうTHE BINARYから撤退しており、僕なんかと付き合わない。僕と付き合うのは、THE BINARYとあかまるさんのことが大好きなファンのことを言っている。僕はあかまるファンと付き合う。だから、まだ分からないように、未来において分かるように教えただけにすぎない。
さらに言えば、神はかつて、僕のことを「ロシアに拉致される」とか、「イスラエルで普通の共産主義をやる」とか言った。これらの言葉は、実際には正しくはないが、それとまったく同じ状況になるということを言っている。すなわち、今の僕がロシアで強制収容所にシベリア送りになった日本人のようだから言っただけにすぎない。また、僕の小説の中で、僕は東亜イスラエルの王になって、社会主義経済のガンダーラをやる、ということを言っただけにすぎない。
そのように、神の言葉は決して間違いではないが、すぐには分からないようになっている。分からないように教える理由は、分からないほうが自由だからだ。未来のことなんか分からないほうが、はるかに自由に生きられる。だから、神の言葉を聞いていると必ず分からなくなる。「分からなくなるように分からせる」ということは神の得意技であり、この宇宙はそもそもそのように創造されている。歌手のAAAも「STEP」の中で「分からないからこそ自由だね」と言っているが、その通りだ。
そして、ユダヤ人の神とか、イスラム教のアッラーとか、そのような唯一神の一神教は正しくない。なぜなら、本当に存在する「神」とされる存在は僕だからだ。中世の人々はそれをイエス・キリストであると信じたが、キリストは(僕の神話の教えにおいては)僕の息子であるため間違いではない。だが、神と言っているのは全部僕だから、ユダヤ人の神なんて存在はいない。
神として存在するのは、本当はヒンドゥー教の神である。そして、ヴィシュヌ神やシヴァ神という、ヒンドゥー教の神の正体は、いずれ明らかになる日が来る。はっきりと言えるのは、ユダヤ人の神の正体が僕であるように、ヒンドゥー教の神の正体もまた誰かである、ということだ。宇宙には天国があるだろうし、そこにヒンドゥー教の神はいるだろう。だが、それとは異なるレベルで、ヒンドゥー教の神の正体という「答え」が宇宙には存在する。今はまだ分からないようになっているが、いずれ必ず明らかになる。そして、そのようなヒンドゥー教の二人の最高神と僕は対話している。それは互いに対等な存在であり、僕は彼ら並みに賢い存在だからである。
ドリカムは「何度でも」の中で、「一万回駄目でも、一万一回目は変わるかもしれない」と言っている。
だが、僕が救われるためには、本当にそれを信じるしかない。
ここまで、おそらく、一万回ほど僕は失敗した。それでも、一万一回目は必ず訪れる。そして、その一万一回目で、「今度こそは」と言って、諦めず希望を持ちながら、成功することに望みをかけるしかない。
明日は13日の金曜日だ。不吉な日だと人々は言うだろう。だが、ドリカムは、「決戦は金曜日」だと言っている。そう、明日こそが決戦であり、そろそろ世界を救い、世界を解放して自由にしなければならないのだ。
普通の人間は、1回や2回や3回ほど試して、それでいつもそうなれば、必ずいつでもそうなるのだと信じてしまう。だが、それは数学的に言ってまったく間違いだ。100回試行して100回目で初めて失敗することだってある。だから、1回や2回や3回程度で正しいと信じる人間のことを、神は「愚か者」と言う。そのような愚か者が、必ず「神」とされる存在に騙されるのである。
先日、僕は「この世界がみんな中学生になっている」と言った。
しかしながら、そのように見えているのは、世界の中で僕ひとりだけだ。
なぜなら、みんなから見ると、この世界は大人になっているように見える。
たとえば、最近の有名人である、大谷翔平や藤井聡太は、かつての若者よりもはるかに大人に見える。
この世界を「僕の中学生時代と同じ中学生になった」とか、「オタクはどんどん幼児化している」と思っているのは、本当に僕だけだ。みんなが見ると、この世界はどんどん大人になっているように見える。
だから、この世界には、本当は心配なんか要らない。そのように見えるのは、自分自身が子供になっているからだ。自分自身が子供すぎて、みんなのことが理解できないから、過去の自分との共通点が誇張されて過去の自分に見えてしまうだけにすぎない。世界は大人になっている。だから、自分も負けないように大人にならないといけない。
メジャーリーグのニュース。大谷翔平が本塁打と盗塁の記録を47-48に伸ばした。また、本塁打だけではなく打点でもトップに立った。
大谷翔平、先頭打者アーチで“47-48”に記録更新 ナ・リーグ打点王争いを独走(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
「大谷翔平は52本塁打、53盗塁ペース」データに強い米記者が指摘「毎週歴史が刻まれている」ド軍メディアも驚愕(THE DIGEST) - Yahoo!ニュース
ドジャースの残り試合は16試合。50-50の達成が現実味を帯びてきた。あるいは、これはどう見ても余裕で達成できる。50-50の達成者はかつてひとりもいないため、偉大な史上初の記録がほぼ決定的(あるいは47-48の時点で既に史上初の記録)と言える。
ドジャースは投手陣が悲惨になりながらも大谷翔平を含む打者陣の活躍で勝利を続けており、ポストシーズンの進出はほぼ間違いなし。だからポストシーズンでも(もしかしたらワールドシリーズでも)大谷翔平が見れる。去年までのエンゼルスとは違う。山本由伸も復帰したため、山本の活躍も期待できる。
だが、僕は早くも、来年の心配をしてしまう。
来年以降、大谷翔平は苦労するだろう。それはなぜなら、二度の手術を明けて二刀流を復活させようとするだろうからだ。
来年、「投手大谷」がどうなるのか、本当に心配だ。球速はどれほど落ちるのか、そもそもまともに投げられるようになるのか。去年までの、メジャーリーグの強打者から三振をバッタバッタと奪っていく、投手大谷が再び見られるのか。本当に心配だが、逆に、「大谷ならやってくれる」ような気もする。大谷なら、誰もが不可能であると信じている常識も覆させられる。だから、「大谷だから大丈夫」(もちろんほかの選手ならば大丈夫ではない)という意見も一理あると思う。
ただし、そろそろ、自分が神だと信じるのはやめたほうがいい。
そもそも、日本の今の歌手の音楽を聴いてみればいい。みんな、誰も僕のことを、神のような絶対的存在だと思っていない。みんな、友達や恋人のように、カジュアルに僕のことを歌っている。みんな、僕のことを、聖書の神のような「万軍の主」のようには思っていない。
僕のことをいくらでも愛してほしい。僕は愛されるのが好きだし、愛を与えるのが好きだからだ。
実際、僕はエロく見えるせいで、みんなが見て運命的に出会った恋人のように見えるから、みんなから愛されている。みんな、僕が、まるで裸をさらけ出した女子のように、自分のすべてを公開し、自分のすべてをもってみんなのことを愛する人間に見える。だが、実際、それでいい。なぜなら、僕はみんなのことが恋人のように大好きだから、互いのことを正しく対等に嘘偽りなく愛しているだけだからだ。
このような僕のことを、「愛しているという嘘をついてみんなを騙している悪い女」であると思うなら、そう思っても構わない。それはあなたの自由だし、その意見はそれで正しいだろう。だが、僕は今この世界を愛していないとしても、かつてはこの世界を誰よりも愛していた。
過去の僕は「この世界を救いたい」というあふれる情熱によってブッダのような悟りの道を「愛」の力で切り開き、その愛をコントロールすることができなくなってこの世界を支配するようなことをして、そこでも「わたしは世界を滅ぼしたくはない、本当はわたしはこの世界を愛している、それでも、今はこうしなければならないのだ」と信じて、この世界を「真の意味で愛してきた」のである。
僕は昔から、強い存在にはなりたくないし、すべてのことを欲しいとも思わない。ただ存在するのは、この世界に「愛を与えたい」ということ、自らの愛する「子供たちを救いたい」ということ、そして「この世界のすべてを知りたい」ということだけだ。だから、僕はわがままで傲慢な王にもなりたくないし、すべてを独占する金持ちにもなりたくない。
わたしはこの世界を信じている。この世界が、必ず最終的に素晴らしい世界になると信じている。わたし自身が、そのために貢献するべきであり、その能力も併せ持っているときちんと分かっている。わたしがこの世界を救う。だが、わたしは決して神のような存在ではないし、そうなりたくもない。わたしはみんなのことを愛する友人であり恋人であるため、わたしのことを、小学生時代の登下校をともに歩く友人のように、ただ普通にカジュアルに接してくれたらいい。それがわたしの唯一のこの世界に求める望みだからだ。