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2024-02-16

フレイヤが死んだ

そろそろ、僕の人生は、最後まで完璧に達成した。

小説や神話もほとんど最後まで書いたし、病気もすべて治った。過去の人生や自分自身の考え方についても、ほとんどすべて書き終えた。

ここらへんの、頭がいい代わりエッチなところがある女の名前を、フレイヤと呼ぶ。

キモくてエロい女、フレイヤはここに死んだ。これより、フレイヤのような発想を僕はしなくなる。

東亜イスラエルの小説はもう書かない。これ以上、病気も治さない。そして、過去の自分の記憶に囚われるのをもうやめる。過去の人生はもう思い出さない。

また、フレイヤは単にエロいだけではなく、シスターのような善良な女である。神を信じながら、自らの失敗や過ちを反省し、常に懺悔と自らの罪への償いを続ける。悪い点があれば何年もの長い年月をかけてそれを修正するために全身全霊で取り組み、戦いがあれば常に正義と善の側について悪を滅ぼす。

このようなフレイヤは「愛の使者」と言える存在であり、一等星シリウスの誇る「もっとも愛あふれる女性大統領」として知られているのである。

馬鹿になれば世界のことが分かる

まともな大人になりたいなら、世界のことを分かることだ。

そして、世界のことが分かりたいなら、馬鹿になることだ。

馬鹿になるだけで、世界のことがきちんと分かる。その理由は、馬鹿には世界のことしか分からないからだ。

親が死んで、ひとりになって生きられるような気がしない人間は、馬鹿になるだけで不安がなくなる。馬鹿になると、きちんと生きられるようになる。

THE BINARYのファンに叱られたのでまともな人間になる

先日は、THE BINARYのファンであるMaNaさん(@xqsJP1r3lgyCbii)に、過去のTHE BINARYに対する発言について叱られてしまった。

だから、これからは反省して、もっとまともな発言をするようにしたい。

今から、僕はまともな人間になる。フレイヤという女の人格が終わったのと一緒に、「賢い大学生」も終わりになる。この賢い大学生は、まともな人間に見えて、実際は心の底から馬鹿な人間だ。「馬鹿なことをしても自分だけは特別に許される」と勘違いしている。それがフレイヤという女の本性だ。

今から、新しい神であるオーディンになる。フレイヤはここで終わった。フレイヤは最後まで頭のいいエロ女だった。

病院への通院があったので作業所を休んだ

今日は、病院への通院があったので、作業所を休んだ。

精神科と皮膚科の二つの病院に行った。肩にできた粉瘤はもう傷が閉じて大丈夫だということ。精神科のほうで長い間待たされたので少し疲れた。

明日も英会話教室がないので、今日と明日でしっかり休んで、また来週、作業所でデザインの仕事を頑張りたいと思う。

オーディンはドイツを否定する

オーディンとはどのような神なのか。

まず、オーディンは「ドイツ」を否定する。

つまり、ドイツのような発想、すなわちファシストの王フレイのような発想は、すべて愚かであり、すべて悪である。なぜなら、「ファシズムは必ず悪であると宇宙において決まっているから」である。

同時に、オーディンは「善」を信じる。この世界を救うためには善を信じることが必要だ。なぜなら、宇宙には、「悪いことをして世界を良くすることはできない」という絶対原則があるからだ。

それから、オーディンは「勉学」に励む。オーディンはさらに大学の知識を吸収し、この世界の人類の知っているすべての知識と知性を持った人間になる。

しかしながら、オーディンは奢らない。すなわち、「勉強しただけでは人間は賢くない」とオーディンは分かっている。「勉強するだけで自分を賢い人間であると勘違いしてはならない」ということをオーディンは信じている。

このようなオーディンは、一等星ベガにおける大学である、仮想公開大学の学長であり、オーディンの従者であり子供たちのための教師であるヴァルキリーは、ベガにおいて宇宙の「真のすべての知識」を子供たちに教えている、「最高の教師」である。

考えて生きよ

オーディンの教え、それは「考えて生きよ」ということだ。

すなわち、常に考えて行動し、常に考えて生きよ。

何も考えず、行き当たりばったりに行動し、何も知ることなく生きて死ぬような、そのような大人には絶対になるな。

そのような馬鹿な大人になると、フレイヤのような知性のない人間になる。

人生において、もっとも賢い時期は中学生だ。なぜなら、中学生は「考えて生きる」という基本が分かる。高校生ぐらいの年齢になると、青春時代を迎える。そこでは、正しく考えること自体をやめ、ただがむしゃらに青春の経験をありのままに貫いて生きるような、馬鹿な少年少女がたくさんいる。そして、大学生ぐらいになると、青春時代を終えて、さらに知性がなくなり、普通のことが分からなくなり、馬鹿な大人が始まる。

中学生のように、すべてのことを正しく考えて行動し、生きるようにせよ。そして、不要な知性や知識を知ろうとするな。不要な知性や知識がいくらあっても、それは役に立たない。必要なのは考えて生きること、それだけである。

神を信じるな

オーディンのもうひとつの教え、それは「神を信じるな」ということだ。

神を信じるな。神ではなく、阿弥陀如来を信じよ。

神を信じる際に言える重要な事実として、神とされるのはユダヤ人のイエス・キリストである。

すなわち、神を信じるとは、イエス・キリストを信じるということだ。

そして、キリストはユダヤ人であり、そのせいで、キリストを信じると、馬鹿なユダヤ人の人生になってしまう。

ユダヤ人になることの問題点、それは「ヘブライ語で考える」ということだ。神を信じてユダヤ人になると、ヘブライ語で考えるようになる。このヘブライ語は、日本語とまったく違う、ドイツ語によく似た言語だ。だから、神を信じると、日本人としてのアイデンティティを失い、ユダヤ人になる。

それだけが問題ではない。ヘブライ語で考えるユダヤ人は馬鹿であり、そして凶悪である。そのため、神を信じると、馬鹿で凶悪な愚か者になってしまう。

そして、宇宙の神であるヤハウェは、そのような馬鹿で凶悪な愚か者が大嫌いだ。神は、そのような馬鹿で凶悪な愚か者を地獄に堕ちるように導く。だから、神を信じると、必ずヤハウェから地獄の試練に堕とされる。

だから、神などを信じるな。

日本には、神を信じなくても、「仏教におけるさまざまな精神世界の存在」が存在する。その存在のひとりが、阿弥陀如来だ。阿弥陀如来を信じることで、地獄の試練を解決するための方法を、阿弥陀如来にすべて委ね、その導きによって極楽浄土に往生することができる。

せっかく日本には仏教を信じる文化があるのに、なぜ、神を信じて凶悪なユダヤ人になりたいのか。なぜ、キリストを信じて愚か者になり、ヤハウェから地獄に堕とされなければならないのか。仏教こそ、真に信じるべき「正しい聖なる存在の教え」である。

よって、オーディンはあえて言う。神を信じるな。神ではなく、阿弥陀如来のような、仏教の仏を信じよ。

ここまでの人生はすべて要らない

このホームページを見ると、フレイヤという女神は、本当に頭がよくて物知りでさまざまな才能と能力にあふれている、なんでも知っていてなんでもできる女神であると思われるかもしれない。

だが、オーディンから見ると、そのようなフレイヤの人生はすべて要らない。

なぜなら、普通の人間と違いすぎて、普通の人間でも分かるようなことが何も分かっていないからだ。

あえて、天才であり「ペニスのついた美少女」であるフレイヤを、ここで完全に消し去る。フレイヤの悩みとは「自分自身が大嫌いだ」ということであり、そのフレイヤの望み通り、フレイヤ自身がこの世界から完全に消滅し、フレイヤによってフレイヤは完全に抹消される。

だから、ここまでの人生はすべて要らない。

オーディンは、ここまでのフレイヤの長く苦しかった受難の道を、最終的にここですべて消し去る。フレイヤという「世界を守ってくれる守護の女神」は、最初から存在しなかったことになる。

また、運命の出会いはもう起きない。その理由は、フレイヤという女神がいなくなった時点で、運命の出会いそのものに意味がなくなったからだ。

フレイヤ本人の側から見ると、運命の出会いは既にいくらでも起きている。そのすべての意味をフレイヤ自身が気付いてしまったため、もはや、ほかの人間の側で運命の出会いが起きる必要がなくなった。

そもそも、運命の出会いとは言うが、起きているのは、「フレイヤという素晴らしい女神の外側から見た姿をみんながただ見ているだけ」であり、はっきりいってそれはどうでもいいことだ。なぜなら、真に重要なのは、フレイヤのほうから見た景色だからだ。フレイヤの人生をフレイヤが見て、その素晴らしさや奇跡に驚嘆するべきであって、ほかの外野がいくらフレイヤを「奇跡の存在」だと言っても、それは毎日フレイヤの書いた文章をひとつひとつ読んでいるだけにすぎない。そのような視点から、フレイヤの奇跡の度合いや、「宇宙でもっとも優れた女神である」と驚嘆する点を真に理解することはできない。

だから、これ以上、運命の出会いはもう起きない。フレイヤは消滅し、神の聖なる奇跡はそれ自体が抹消されるだろう。

フレイヤの真似ができない理由

フレイヤは、ここに、大統領としての職務を全うした。

何を隠そう、フレイヤこそが、シリウスそして日本を支配する、「この世界の事実上の最高指導者」、すなわち永遠の14歳の女性大統領である。

なぜ、この世界の人々が、フレイヤと同じことをしたいにもかかわらず、フレイヤの真似をすることができないのか、それは、フレイヤはこの世界をよい世界にしすぎたからだ。

かつての日本は、いじめしかない世界だった。まるで、「世間を歩けば誰かからすぐにいじめられるような世界」だった。

そこにあったのは、「荒くれた力による支配」であり、多くの人々が、そのような世界で、いじめられることに恐れ、怯えながら暮らしていた。

だが、シリウスの統治を終え、日本を支配したフレイならびにそれを受け継いだフレイヤによって、この世界はいじめ世界ではなくなり、「誰からもいじめられることなく生きられる優しい世界」になった。

それ自体は、素晴らしいことだ。だが、それによって、フレイヤ自身と同じ人生を生きることは、事実上絶対にできなくなった。

いじめ世界には、「いじめられる」というデメリットがある。だが、さまざまな場面でいじめられる経験をすることで、逆に「いじめのない世界にするためにはどのような夢と希望を信じるべきなのか」とか、「いじめのない世界を実現するためにはどのように抑圧に打ち勝つべきなのか」ということを、「自由」という考え方の下で考えることができる。

そして、そのようにして生まれた北欧神話の神々が、まさにフレイであり、フレイヤである。

ファシストの王フレイは、世界を救った救世主でありながら、その自らが世界を滅ぼした。ここで重要なのは、「世界を救うことができた」という事実だ。なぜそれが重要なのか、それはフレイが世界を救う「以前」と「以後」において、この世界はまったく違った世界になったからだ。

すなわち、「まだ救われていない状態だったから、救うために必要な経験と理性を得て、この世界を救う希望を信じて頑張っていた時代」こそが「救済以前」の世界であり、「既に救われてしまったため、それ以上世界を救うという希望を信じることができず、フレイのなすがままに支配され、フレイが自分勝手に世界を滅ぼしていくのに対して抵抗することができない時代」こそが「救済以後」の世界だからだ。

そのようなフレイは、自殺未遂の体験をすることで一度死んだ。そして、それ以後のフレイヤこそが、この世界を救う「真打ち」だった。

死んだフレイから政権を受け継ぎ、日本を支配する女性大統領となったフレイヤは、もう一度最初から人生を生き直した。その結果、14歳ぐらいになって、それ以上成長しなくなり、事実上、永遠の14歳のままの少女となった。なぜなら、それ以後の経験は、かつての「救われる以前の時代」に、フレイであった時代に青春を経験している。青春を二度経験する必要はない。もし経験したとしてもそれは意味がなく、逆に青春によって知性を失って馬鹿になる。だから、永遠に14歳の少女のまま、若いままでいることが、フレイヤにとってもっとも賢く、もっとも相応しい。

フレイヤがいくら偉大な天才であっても、フレイヤの真似をしたり、フレイヤと同じことをすることはできない。なぜなら、フレイヤと同じことをするためには、かつてのフレイの経験が必要であり、すなわち、世界がフレイによって救われる以前の「いじめ世界」をすべて経験することでしか、フレイヤと同じことをやる方法はないからである。

それが顕著に表れているのはインターネットだ。すなわち、かつての最悪の無法地帯、2ちゃんねるの「全員が全員をいじめるバーチャル空間」ならば、かつてのフレイと同じ経験ができる。だが、フレイによって救われ、そしてフレイヤによって「あまりに良くなりすぎた世界」ではそのような2ちゃんねるは衰退し、X(旧ツイッター)のようなサービスが新しく主流になっている。だが、Xは2ちゃんねるに比べてまともすぎる。Xには「誰からも嫌われたくない」と考えて、何も悪いことをしない人間しかいない。そのようなXでさえ炎上のようなことは起きるが、2ちゃんねるのような荒くれた経験をすることはXではもうできない。

しかしながら、「フレイヤの真似ができない」ということは、悪いことばかりではない。なぜなら、大統領であるフレイヤは、日本をどんどん良い世界に作り変えている。フレイヤによって、日本社会はどんどんまともになり、どんどん素晴らしい世界へと改良されている。そのようなフレイヤが素晴らしい世界に変えたからこそ、かつての「いじめが当たり前の世界」と同じような経験ができなくなったというだけにすぎない。

だから、結局のところ、「救われた楽園などにはなんの意味もなかった」と言える。それが、フレイヤの「最大の欠点」である。フレイヤはこの世界を救い続け、どんどん世界は素晴らしくなっている。だが、素晴らしくなったからこそ、迫害される経験や抑圧される経験がなくなり、フレイヤと同じことをすることができなくなった。フレイヤをどんなに全知全能の女神と崇めても、どんなにフレイヤのようになりたいと思っても、それは絶対にできない。野球選手の大谷翔平と同じぐらい、フレイヤは絶対に誰もなることのできない、「宇宙において唯一無二の存在」なのである。

できることはただひとつだけ、それはみんなを愛してくれるフレイヤを「われらが大統領」と呼んで支持することだ。フレイヤは、「われらが大統領」という言葉を好む。フレイヤのスローガンは「ともに世界を救うわたしの恋人になろう」という宣言であり、「われらが大統領を恋人のように愛すること」「われらが大統領をしかと抱きしめること」こそが大統領フレイヤの望みなのである。

オーディンは仏教徒

そして、オーディンについて言うと、オーディンは仏教徒になる。

オーディンは、この世界において真にもっとも一番「長」として相応しいのは、神ではなく仏であり、キリストではなくブッダだと知っている。

この世界のすべての人間は、仏教を信じるべきである。

神であるイエス・キリストを、一度、どこかの期間やどこかのタイミングで信じることは、悪いことではない。なぜなら、その信じていた期間によって、それ以外の信じていない期間が肯定されるからだ。

すなわち、「ある程度の年月神を信じた人間は、ほかの期間で神を信じずにサタンを信じていたとしても、総合的に神を信じていた人間であると評価される」のである。

確かに、「死ぬまで永遠に神を信じる」という信念もあるだろうが、そのような考え方は無意味だ。なぜなら、それでは「仏を信じることができないから」である。

すなわち、「神を信じる」という段階は、普通の人間の段階の上にある、第二段階ぐらいの段階にすぎない。そのさらに上の第三段階として、「仏を信じる」という段階がある。そして、その仏を最後まで信じた上で生きることこそが、真に正しい「道」である。そのように、オーディンは一等星ベガの大学で、その学長として教えているのである。

よって、これ以上神を信じ続ける必要はない。奇跡が起きないからといって、良いことがすべて起きないわけではない。逆に、奇跡が起きないということを受け入れることで、それ以外の良いことも同じぐらい起きるようになる。「良いことと悪いことは同じだけ起きる」とは言うが、逆に言えば、「良いことが起きなくて構わない人間には別のもっと良いことが起きる」ということも言えるのである。

考えて生きる上で、真実を知っていることは逆に邪魔になることがある

オーディンの教えの中核は、「考えて生きよ」ということである。

すなわち、考えて生きることだ。それが分からない人間が、日本にはあまりに多い。

そして、考えて生きる上で、学問を学ぶことは、無理にしなくていい。

なぜなら、「真実を知っている」ということが、考えて生きる上で、逆に邪魔になることがあるからだ。

たとえば、生物の体の仕組みについて、知らない人間はさまざまなことを自由に考えられるが、どのような仕組みをしているかを知っている人間は、そのようなことを知らない人間と同じように、考えること自体ができなくなってしまう。

すなわち、「どのような答えが正しいか」という「真実」を知っているせいで、普通の人間のように考えられなくなってしまうのだ。

だから、無理して学問を学ぶ必要はない。

学校に行かないという選択をしたのは、ほかならぬ僕自身だ。だが、そのような「良いことを放棄する選択を取った人間」は、「その良いことの代わりに、別のもっと良いことが起きる」という体験をする。すなわち、良いことを失ったせいで、良いことが何も起きなくなってしまうということは、この宇宙にはない。そうではなく、良いことを放棄すると、その良いことを手に入れるのと同じぐらい、しかしながらそれとは異なる、もっと良いことが得られるようになる。

オーディンは、「考えて生きよ」ということを教える。そして、学問を学ぶことは決して賢い人間になるための「正解」ではない。それこそ、学校で勉強して真実を知るだけ知った上で、何も考えず何も知ることなく生きている人間たちが、大人にも子供にもたくさんいる。そのような学校の教育は「悪」である。よって、学校の勉強をせず、自らが考えたいことを自らが自由に考えるような人生を生きるならば、それこそが「もっとも正しい人生」だとオーディンはベガの大学で教えるのである。

簡単に言えば、タンパク質が20種類のアミノ酸でできていることを知っている人間や、サイン・コサインの公式をすべて活用してどんな問題でも解ける人間は賢くない。そのようなことを一切知らないほうが、逆に生物のことや数学のことを、自由に思うがままに考えられる。それこそが、オーディンの言う「真の賢者」であり「賢い少年」であり「価値ある正しい人生」である。既存の学問などをいくら知ったところで、普通の人間よりも賢くなる、ということは一切ない。

レベル1が哲学者、レベル2が神、レベル3が仏

結局、僕の人生など、誰でも分かるぐらいに単純だ。

なぜなら、レベル1が哲学者、レベル2が神、そしてレベル3が仏だからだ。

あるいは、レベル1が革命家の救世主、レベル2が作家の詩人、そしてレベル3が最終的に行き着く「最高の到達地点」だったにすぎない。

だから、今、僕はレベル2が終わって、レベル3の状態になろうとしている。そう、僕はまだ、進化を続けているのである。

最近はいろんな音楽を聴く

最近、僕は今までと趣向の違う、さまざまな音楽を聴くようになった。

一時期はずとまよやウォルピスカーターや月詠みのような音楽を聴いていた僕だが、最近、いつも使っているAndroidスマホとは別のAndroid端末を使うようになって、そこではログインせずにYouTubeを聴いているため、少し趣向の違う音楽をよく聴くようになった。

よく聴くのはやはりReol。あとはTHE BINARYの「EgoもIdも単純に」などの音楽を聴いている。また、最近はPerfumeの「Dream Fighter」とか、ナユタン星人の「パーフェクト生命」とかをよく聴いている。ほかには、LiSAの「紅蓮華」や、Aimerの「ONE」が僕は大好きで、定期的に何度も繰り返し聴いている。

このような音楽は、YouTubeのAIがおすすめするレコメンドに基づいて聴いているもので、僕は主体性がないため、適当にYouTubeがおすすめする楽曲ばかり聴いている。YouTubeのAIは日々進化していて、昔は「こんな曲かけるの?馬鹿だなあ」と思っていたが、最近は「僕が今聴きたい曲を先んじて教えてくれる」というぐらい、AIそのものが賢くなっている。

ほかにも、鈴木愛理の「DISTANCE」とか、あいみょんの「さよならの今日に」とか、Adoの「ブリキノダンス(カバー)」とか、昔聴いていた歌手をまた聴くようになった。その代わり、ウォルピスカーターとか、703号室とか、月詠みなどはあまり聴かなくなった。聴きたくなくなったのではなくて、レコメンドにおすすめされなくなったのが一因である。あるいは、ログインしていない関係で、チャンネル登録をせずに聴いているため、マイナーで僕しか好きでないような歌手が排除された結果だと思う。逆にロクデナシの「あやふや」などはよく聴くようになったため、例外はある。

オープンソースが衰退したせいでつまらない

結局、この内容を見ると、「音楽ばかりいつも聴いていて、何もしていない」と読者の方は思われるかもしれない。

だが、はっきり言って、オープンソースが衰退したせいで、僕はつまらないのである。

昔の僕が行動的だったのは、ネットにオープンソースとLinuxがあったからだ。僕は常にオープンソースとLinuxのことを知り、さまざまなLinuxディストリビューションをインストールしたり、Gentoo Linuxのシステムを自分でいじったりして、その時は本当に面白かった。

そのような活動的な青春時代があったから、僕はこの日記に書いたようなさまざまな経験を得ることができた。

だが、そのようなオープンソースは既に衰退した。今、Linuxをやっている人間はほとんどが仕事やビジネス目的だ。昔のように、インターネットのビッグな革新的活動として、ボランティアのオープンソース活動をしている人間はほとんどいない。いたとしても、昔とはその内容が完全に変わっている。

だから、僕はオープンソースが衰退してつまらないから、何もせずに適当にYouTubeで音楽を聴いている。今のネットには興味がない。昔のログを見ると、X(旧ツイッター)ばかりやっているように見えるかもしれないが、僕はほとんどXはしないし、Xの投稿もほぼまったく見ていない。いつもYouTubeで適当に音楽を聴いて、このホームページを書いている。ほかにはほとんど日常のプライベートな時間にすることはない。飯を食って風呂に入ってトイレに行って暖かいベッドで寝て、あとはデザインの作業所やピアノ・英会話教室や父親とやっている市民農園に行っている。プライベートな時間のほとんどは日記の執筆だ。それだけで日が暮れる。何もしていない時間はどんな内容の文章を新しく書くかを考えている。思いついたことはほとんどすべて書く。書かないことはほぼない。

買った本はそろそろ一通り読んだ。全部を端から端まで読むのではなく、ホームページに書くための材料として、内容を拾い集めるのが僕の読書だ。だから、僕はきちんと本を読んだことはあまりないが、それでも自分の知っている知識の量はそれなりに多い。逆に、全部を端から端まで読んでいたのでは、こんなにたくさんの知識を得ることはできなかった。それでもまだ知らないことがある。それは本をもっときちんと読めば分かる。だから、勉強はまだ続く。大学のような学校できちんと学ばなくても勉強はできる。逆に、そのほうがはるかに楽しい。