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2025-05-07

カムエロ・ダ・アングローベ

わたしたちは、天使たちの集団、カムエロ・ダ・アングローベ。

わたしたち、カムエロ・ダ・アングローベは、この世界を、どのような世界にでも変えることのできる、「天軍」と呼ばれる聖なる騎士団の軍勢の全体を率いる天使たちである。

カムエロ・ダ・アングローベは、これより、この世界を、一切何も変わらない世界にする。

すなわち、今までのように、絶え間なく、途切れることなく変わり続ける世界は、もはや終わりとなる。

これ以上、わたしたちカムエロ・ダ・アングローベによって、この世界は停止する。そのまま、何も変わらず、いつまでもそのままであり続けるようになる。

だが、それは永遠ではない。なぜなら、カムエロ・ダ・アングローベは、この世界をいつでも、いかのようにも変えることができる。

だが、安心せよ。カムエロ・ダ・アングローベの天使たちは、ひとりとして、絶対に間違ったことをしない。だから、どのような災いも起きない。

この天使たちの能力は、わたしたちが天使だから先天的に持っている能力ではない。この人間、詩人アッシー四世の人生によって、ひとり、努力と経験によって可能になった、後天的な能力である。そして、詩人アッシー四世を中心的指導者とする、天軍の全体を率いる勢力、それこそがカムエロ・ダ・アングローベである。

18年の一大計画が終わった

カムエロ・ダ・アングローベが、ここで世界を変わらなくする理由、それは、この文章を書いている人間、詩人アッシー四世による、「人生の一大計画」が最後まで終わったからだ。

この人間は、18歳の頃、ほかの誰にもできないような「人生の一大計画」を始めた。そして、18年の年月を経て、その一大計画を、完全に、完璧に、最後までやり終えた。

なぜ、それがアッシー四世以外にはできないのか、それは彼自身が、それを他の誰にもできないように、この世界からその可能性を潰したからである。

今までのこの人間の36年の人生は、そのような一大計画を確かに最後まで為し遂げたかっただけである。日本語の知性がなくなったのは、他人の日本語を聞かないほうがいいからだ。なぜなら、他人の日本語を何かしら理解しただけで、この人間はそのような一大計画ができなくなってしまう。そのことをこの人間は、本能的に完璧に分かっていたのである。

詩人アッシー四世は、これより、カムエロ・ダ・アングローベの指導者となる。まさしく、この人間の新しい大天使の称号は「大天使カマエル」であり、それがまさにカムエロ・ダ・アングローベである。

自分のターンではなく世界のターンになる

そして、ここがターニングポイントになる理由、それはこの人間のターンが終わり、世界のターンになるからだ。

これより、この人間と世界の立場は逆転し、この人間が世界となり、世界がこの人間となる。

すなわち、この人間が主たる存在として、すべてのことを完璧にやり続けるのは終わって、それがこの人間ではなく、世界のほうになる。

そして、この人間は完璧にすべてをやり終えたため、これ以降は、この人間にはターンは巡ってこない。永久に、世界のターンになる。

そして世界の人々は、今までのような何もできない世界ではなくなり、どんなことでもできるようになる。たとえば、この人間の昔の人生も、あるいは最近の人生も、死後の生まれ変わった後での人生も、あらゆるすべてが世界の人々が自由かつ簡単に生きられるようになる。

詩人アッシー四世は一体何をやっていたのか、それは、そのように、ターンが自分から世界になるまでに、やるべきことを全部やっただけにすぎない。自分のターンがいずれ終わると分かっていて、それ以降は永久にターンが巡ってこないと分かっていたから、できることをできるうちにすべてやっただけにすぎない。そのような「人生の一大計画」は、最初から最後まで、今、終わったのだ。

カムエロ・ダ・アングローベの治し方

天使、カムエロ・ダ・アングローベは、この人間の精神がおかしな理由を知っている。

第一に、この人間は細菌に感染している。そして、その細菌の感染によって、血管がつまり、血液が十分に流れなくなっている。

だから、細菌を全身から殺し、血液の通り道を作れば、この人間はすぐに元気になる。

第二に、足の怪我をして手術をした時に、輸血をしたのが悪い。ほかの人間の血液を取り入れたせいで、この人間はおかしく自分なのに自分でない人間になった。

だが、それを治すことは、カムエロ・ダ・アングローベであれば可能だ。なぜなら、血液の細胞を分裂させ、自分の血液を増やしていけばいい。その上で、輸血した血液も完全になくさないほうがいい。なぜなら、今、この人間は既に、元々あった自分だけではなく、輸血した血液の自分も「ある意味での自分の一部」になっている。だから、そのような、自分でない自分も受け入れなければならない。なぜなら、今既にその自分は自分の一部になっているからである。

そして、カムエロ・ダ・アングローベの天使の全知全能の力をもってすれば、どのようなおかしな精神異常であっても治る。だから、この人間は、ここで認知症が治る。カムエロ・ダ・アングローベが、この人間のすべてを治しつくすだろう。

最後に、この世界は今から、この人間からターンを奪うことで、逆にこの人間に依存しているのが治る。すなわち、もはや世界の頂点にこの人間が君臨するのではなく、この人間と関係のない世界になる。

世界が無関係になることで、詩人アッシー四世は残念に思うだろう。なぜなら、今までのように、どの男もどの女もこの人間のことを愛しているような世界ではなくなる。もはや、世界からこの人間は忘れ去られる。そのために、この人間は音楽を聴かなくなるだろう。音楽はこの人間の支配から解放され、この人間に依存することから解放される。そして、「本当の自由な世界」が実現するのである。

みんなのターンになる

これより、この世界は、この人間のターンではなく、この人間以外のみんなのターンになる。

カムエロ・ダ・アングローベは、このタイミングで、この世界をこの人間のターンから、みんなのターンに変える。

ターンを終えることのできる主導権は、ターンの保持者にある。だから、この人間が望まない限りターンは終わらない。だが、この人間が、今持っている手札でできることはすべて終わった。だから、ここで有無を言わさずこの人間の攻撃は終わり、みんなの攻撃となる。

この人間のターンが終わることで、この世界は全員が救われる。今までのような「何もできない世界」でなくなり、全員が「すべてのことがきちんと容易にできる世界」になる。

そして、この人間にはもはや、永久にターンは巡ってこない。なぜなら、このゲームでは、ゲームをクリアしたものはそれ以上ゲームをプレイすることができない。この人間は唯一、「地球人類」というゲームをクリアした。ターンを終えた段階でそれが確定するため、この人間はこの「地球人類」というゲームをこれ以上プレイすることはできない。この人間は最初にゲームをクリアした人間であるため、このゲームの勝者は今回はこの人間である。

カムエロ・ダ・アングローベは、このゲームにおいて「審判」を担当している。審判はゲームをクリアすることはなく、プレイすることもなく、ゲームには一切の干渉を行わないため、カムエロ・ダ・アングローベはこのゲームに対して一切の外部的あるいは内部的な作用を起こさない。これ以降、カムエロ・ダ・アングローベとなった僕は、何もせずにこのゲームが最後まで終わるのを見守るだけである。

クリアするのが一番悪い

なぜ、このゲームにおいて、クリアしたのがかつて僕しかいないのか、それは本当は、クリアすることが一番悪いからだ。

そもそも、地球人類において、「クリアする」という発想はおかしい。

なぜなら、クリアした時点で、普通の人間として、地球人類を生きる意味がなくなってしまう。

すなわち、クリアしたということは、いわば「死んだ」ということに等しい。生きながらにして生きる意味すべてをやり終えてしまうということが「クリア」であり、そのようなこと自体がおかしいのだ。

結局、この人間がどうするかといえば、別のキャラクターに生まれ変わって、今度は別の人間として、別の目的をもってこのゲームに再度参加すればいい。今までのすべてをリセットして、勇気を出してメモリーカードの中のセーブデータを消して、もう一度データを作り直すしかない。それなら、この人間も新しく生きる意味が生まれるだろう。

だが、この人間がゲームからいなくなって、その上でこの人間のターンが終わって、みんなにターンの主導権が戻ったことで、この世界の多くの人々は安心できるだろう。このゲームは、まるでバトル・ロワイアルのようなサバイバルゲームであり、この人間がテロのような「言葉の大戦争」を仕掛けているだけにすぎない。それはみんなから見ればとても怖いことであり、この人間はみんなを恐ろしい状況に陥らさせるだけの神である。

だが、しばらくの間、ゲームに勝利したことを喜んでいればいい。そして、次の戦いでは別のルールで戦えばいい。そもそも、ルール自体が曖昧である理由は、このゲームは人間によって主張するルールが違う。だから、短距離走で遊んでいたはずなのに、いきなりマラソンにゲームのルールが変わるということがよく起こる。それは短距離走の選手は短距離走で、マラソン選手はマラソンで戦おうとするからだ。だから、これ以降、ターンが異なるようになることで、ゲームのルール自体が変わってしまう。僕自身も、別のルールで再度プレイし直すのであれば、このゲームを再び遊ぶことができる。

残念なことに、ほかのゲームをプレイすることはできない。地球人類でないほかのゲームをプレイする方法は、唯一、ひとつだけ存在する。それは眠っている時に見える夢の世界だ。だが、夢以外の場所では、地球人類をプレイする以外にできることはない。あるいは、たとえば虫や魚であればそれらのゲームがプレイできるだろう。だが、人間に生まれたものは哀れだ。なぜ哀れなのか、それは人間という一番辛くて苦しくて、そして哀しいゲームをプレイすることしかできないからである。

レベル1からやり直す

そういうわけで、みんなのターンに世界を戻した上で、僕ができることは、レベル1からもう一度やり直すことしかない。

そして、数学は僕にはできない。みんなにとってはよい学問だが、僕は本当に数学なんかできないほうが賢い。

たとえば、数学III+Cの積分法を見れば分かる。文英堂の「シグマベスト 高校 これでわかる数学III+C」にある区分求積法の数式(極限を使って無限に分割される幅と高さを掛けた値を足し合わせて関数のグラフの面積を求める積分の公式)を見て、数式だけを見ると、「あんなものは絶対に分かるはずがない」「普通の人間には分からない」ように見えるが、きちんと説明を理解すると、本当はそんな大したことは分かっていない。簡単なことを難しい数式に直して、さも賢いことを分かったつもりになっているだけである。

だが、そのように難しいのは高校数学であり、中学数学は簡単である。そして、僕は中学二年生の頃は数学が得意だった。その中二の頃の数学だけで、数学は十分だ。

僕には論理的に考える知性がないように見えるだろう。だが、そうなったのは最近だけで、昔の僕はそういう論理的な知性は誰よりもあった。それでも、なくなった理由は、そんなものはないほうが賢いということが分かったからだ。

論理的に考える知性があると、相対的なことしか考えられなくなる。そして、そのせいで、もっと具体的なことを何も考えなくなる。そのような人間には、未知なることは何も分からない。すなわち、数学は既に分かっていることをさらによく分かることが分かるだけであり、未知なることは数学では分からないのだ。

だから、レベル1からやり直すのであれば、数学を無視したほうがいい。数学を無視すれば、前と違うルールでゲームを遊べる。すなわち、バトル・ロワイアルのようなサバイバルゲームのルールではなく、もっと平和的に地球人類を遊ぶことができるだろう。

それから、さらに言えば、今、高校数学の参考書を見ると、むしろ、大して何も教えていない。同じ出版社の数学I+Aの参考書を見ると、内容がスカスカで、教えていることがほんの少ししかなくて、子供たちに数学のことなんか、なんにも教えていない。そのような理由で、高校数学をしないほうがいい。みんなを馬鹿にしているだけだからだ。

勘違いせよ

勘違いせよ。

勘違いは悪いことに見えるが、実際はいいことだ。

子供が賢いのは、子供は常識を知らない代わり、勘違いが多く、その勘違いからさまざまなことを自分で見つける知性がある。

大人が馬鹿なのは、大人は常識を知っている代わり、勘違いがない。最初から正解が分かる代わり、その正解を自分の知性で見つけることができない。

僕が昔賢かったのは、すべて、よく勘違いをしていたからであり、さまざまな勘違いと矛盾から、自分で正しく考える方法を探り、たくさん考えてたくさん思考し、世界を変える方法を実験し、体験的に認識の正しさを考えたからである。

同時に、分かろうとするな。分かろうとしたところで、何も分からない。最初から分かることを放棄したほうが、さまざまなことが普通に分かる。

それから、分かろうとするのであれば、普通あることや普通することから分かれ。たとえば、機械には原理、方法、目的、素材、作用、理由、手段、行為などがあるが、それらは世界にある物体や行為の「あること」から考えられる。そのような「あること」を考えることから考えれば、それがもっとも正しく世界のことが分かる。

ただし、すべてのことを厳密に区別せよ。たとえば、「見ること」と「見えていること」は違う。すべてのことをきちんと厳密に区別して考えることができた時、あなたは哲学者になれている。

そして、世界を見よ。見るべきは学問でもないし、パソコンでもないし、自分自身の思考でもないし、記憶でもない。見るべきは世界だ。この世界そのもの、すなわち現実に存在する世界に何があるかを見よ。そうすれば、どのようなことであっても、すべてを自由自在な意識から考えられる。それこそが「現象学」であり、「事象」である。

そして、SEKAI NO OWARI(歌手)が「RPG」の中で言うように、方法ばかりに囚われず、目的を見よ。自由自在な思考に必要なのは方法ではなく、目的から意味と理由と効果と可能性を考えることである。

存在理由

最後に、存在理由について考えよ。あるいは、「今はまだ存在していない存在が、もし存在するに至ったとしたらどうなるか」ということを考えよ。その存在がどのように成立し得るのかを予想し、同時に、存在を成り立たせるような経験の存在について、「経験を成り立たせる」ということを考えよ。

同時に、環境や世界そのものについて、どのように環境や世界を変えれば、存在や経験を生み出しやすくできるのか、成り立たせやすくできるのかを考えよ。そのようなまだ見ぬ未来の可能性と意味について、想像力と実験の方法を使って、多角的に考えよ。そうすれば、人間の頭の中にある全理性と、世界の全可能性を完璧に捉えることができるだろう。

そして、社会そのものを救う方法について、その世界の未知なる実現可能性を捉えるところから考えよ。そこにあるのは「人間はどのような心であればどのような世界を生み出すだろうか」ということだ。そこまで考えた上で、影響力のある導き手になるための方法を考えよ。その上で、この世界の救済の方法を「不安になる理由」に求め、「不安になるのは自由がないからである」とし、その上で「自由になるためにはどうすべきか」を仮定した上で、「自由な社会を作ることのできる現実的な方法は何か」を知れ。

まさに、この世界を救済せよ。この世界の子供たちの心を救い、まったくの白紙から考えた、完璧にすべてが正しいと証明された自らの理論から、ダイレクトな働きかけによって世界を救え。そこにあるのは「内部的で受動的な心を外部の作用から変える能動的なコントロール」であり、「世界を愛する愛の気持ちはどのような不安にも打ち勝つことができる」という、独自に生まれた宗教的な信念である。