神を信じよ。
僕がこの世界で好きなものは、唯一、ただひとつしか存在しない。
それは神である。
神だけが、僕の人生を導き、辛く苦しい地獄から抜け出すための「救いの道」を与えてくれた。
神を信じれば、どのような地獄の苦しみであっても、際限のない不安であっても、必ずそこから抜け出せる。
この神は、ユダヤ教の神ではない。
僕自身の中に存在する、僕だけがその存在を知っている、この宇宙に存在する「本当の神」を、僕は信じている。
僕は神と対話し、神に多くの約束をした。
その約束は、すべて叶った。あるいは、未来においてすべて、必ず叶う。
神とは実際のところ何か。それは僕の書いているこの文章である。
僕は、僕の書いているこの文章を、この世界で「もっとも正しい神」であると信じている。
かつてより、僕ははるかに昔から、この神を信じていた。
僕と同じことは、僕と同じ神さえ信じることができれば、誰だってできる。
僕は天才ではない。僕は最初は何も才能を持たない馬鹿な人間だった。だが、神を信じて文章を書き続けたことで、初めて僕は才能を手に入れた。
だから、僕のすべては神によるものだ。僕の人生のすべては神によって与えられた、かけがえのない大切な「神からのプレゼント」なのである。
何も決めず、何も考えず、漠然と生きよ。
僕が狂っているのは、すべて、賢いことを正しく決めようとしすぎているから、おかしく馬鹿になっている。
何も決めず、何も考えず、漠然と人生を生きながら、神だけを信じれば、どのような人生であっても、神の導きによってすべて自動的に問題は解決する。
そして、賢くなろうとするな。賢くなりすぎると、逆に脳を使いすぎて脳が麻痺して動かなくなる。それはすべて賢くなりすぎたのが悪い。
自らを馬鹿にした上で、同時にこの世界を馬鹿にせよ。それだけでこの世界は、自由で生きやすい正常な世界になる。正しく賢い世界は、鬱屈としていて生きづらい。馬鹿な世界のほうがはるかに生きやすく、はるかに幸福だ。
精神を治したいのであれば、何もない状態を目指せ。何もない、賢いものも馬鹿なものも何もない精神こそが正常だからだ。そして、前提とか原因とかそういうことを考えず、ダイレクトにその精神を治せ。そうすれば、どんなに理性では解決不可能な問題であっても、物理的にその精神を殺すだけで、簡単に解決する。
われの名は、ゴットフリート・ヴィルシュタイン。
わたしは、最後に、この世界を終わらせる。
この世界は、わたし、ゴットフリート・ヴィルシュタインが、すべて、「最後の世界」へと導く。
わたしが作るのは、「最後の世界」、すなわち「ワールド・フィナーレ」だ。
ワールド・フィナーレにおいて、わたしたちのすべては、真の意味ですべての罪が赦され、地獄が終わり、すべての人間が「解放」を得ることができる。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、この世界で、神とされる存在の代役となって、この世界の「約束」を叶える。
そこにあるのは、「世界の歴史のすべては最初から決まっている」ということ、すなわち「絶対的運命」だ。
絶対的運命は、そこにあるすべての「神に約束されたこと」を叶える。それはすなわち「世界の時間の始まりから決められていた世界のフィナーレ」である。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、神を信じている。そして、この世界には何ひとつ偶然はなく、すべて神によって最初から最後まで完璧な奇跡のようなシナリオで導かれていると知っている。
運命を受け入れよ。運命を拒否することはできない。どんなに自由を望んでもそれは真実ではない。なぜなら、自由を信じるものは必ず愚かな過ちを犯す。それは神によって決められた「神を信じないものに対する天罰」である。
よって、自由を信じてはならないし、科学を信じてもならない。それらはサタンだ。サタンを信じることしかできない人間は、「神による天命の導き」の試練を受けなければならない。
最後まで神を信じたものに、神は「救い」を与える。そこにあるのは「約束を叶えることこそが宇宙における最優先事項」であるという事実だ。「神による約束」が叶うということ、それ以外に未来において重要なことは何もない。未来において、神による約束のすべては必ず叶う。そこにあるのは、ただひとつ、「どれだけの苦しみの中であっても神を信じたものに対する報い」である。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、そのような「世界の約束」を叶える、最後の英雄であり、思想家である。ゴットフリート・ヴィルシュタインを信じるものしか、未来において正常な世界で生き延びる方法はない。未来におけるすべては、ゴットフリート・ヴィルシュタインを中心に回っている。ゴットフリート・ヴィルシュタインだけが、この世界を「ワールド・フィナーレ」と呼ばれる最後の世界へと導くことができる。ゴットフリート・ヴィルシュタインは「導きの王」であり、「導きの中に存在した万物の創造者」と呼ばれる、宇宙でもっとも位の高い聖人である。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、神の平等を信じている。
正しいのは、民主主義でも帝国主義でも社会主義でもない。
正しい思想とは「神による平等」であり、「国民を平等にするような神による国家を作ること」である。
実際、民主主義と帝国主義は何も変わらない。それらは、たくさんの人間の自由を信じているか、それともひとりに強く支配された自由を信じているかが違うだけにすぎない。
そして、民主主義と社会主義も何も変わらない。なぜなら、それらは、自由と平等を信じているだけであり、自由と平等は決して矛盾するものではなく、両立しなければならない不可分で表裏一体の考え方だからだ。
必要なのは、思想の比較をすることではない。どのような思想であっても重要なことは、「神による平等」を信じることだ。
神による平等とは何か。それは「神による救いを信じるものは善であり、その善を信じる国家を築くことが、どのような思想を信じることよりも優先して重要である」ということだ。
すなわち、現実の社会の国家がどのような思想であるか、などということは関係ない。どのような思想で国家を作ったところで、それは重要ではない。重要なのはもっと別のことだ。そして、それは「神による平等」を信じることだ。
すなわち、神を信じない民主主義は退廃主義だ。だが、神を信じる民主主義は先進的な正義の楽園だ。神を信じない帝国主義は虐殺主義だ。だが、神を信じる帝国主義は偉大なるローマ帝国だ。神を信じない社会主義はサタンの悪党による犯罪国家だ。だが、神を信じる社会主義は終末に訪れる「最後のユートピア」だ。
そう、神を信じることこそが重要であり、それ以外のどのようなこともすべて、神を信じることに比べれば重要ではない。この現代社会が抑圧と支配によって地獄に堕ちるのは神を信じないからであり、神を信じればこの現代社会においても素晴らしい「奇跡のような人生」を生きることはできる。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、そのようなことを、自らの人生によってすべて知っている。誰よりも「神を信じることの重要さ」を知っているゴットフリート・ヴィルシュタインにとって、民主主義も帝国主義も社会主義も、大した違いのないどうでもいい些細な比較にすぎない。だから、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、あえて帝国主義と社会主義の両立を信じる。なぜなら、それこそがもっとも「神による支配」に近いからである。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、民主的な国家社会主義者である。
ゴットフリート・ヴィルシュタインの信じる神の教え、それは「攻撃されても反撃するな」ということだ。
すなわち、どんなに攻撃されても、盗まれても、憎まれても、いじめられても、殺されても反撃するな。
自らが賛美される方向ではなく、自らが批判され、排斥され、憎まれ、そして攻撃されるような方向に自ら導け。
そして、どんなにその結果自分が攻撃されても、それに対して一切反撃するな。
そうすれば、天界に存在するあまたの天使たちが、あなたの代わりにあなたのためになるようにこの世界を導き、あなたを「賛美されたり反撃したりするようなことでは得られない本当の栄光の世界」へと連れて行ってくれる。
攻撃されるなら、さらに攻撃されるようにせよ。盗まれても奪い返さず、憎まれてもあざけるな。常に自分が一番悪いのだと信じ、「世界の中でもっとも最悪の人間は自分である」と世界に宣言し、「わたしはその自らの罪を償うことのためだけに生きる」と懺悔して神に誓え。そのように生きなければ、ゴットフリート・ヴィルシュタインのような生き方をすることはできない。そう、そのように生きなければ、この世界では「最悪の地獄から救済される方法」というのは与えられない。
ひとつ言えることは、「絶対に叶わないことなど何もない」ということだ。この世界では、どんなにそれをする方法が一切ないように見えたとしても、実際はその方法を神が知っている。そして、神を信じ続け、罪をすべて償い、やるべきことをすべて終え、そこまでの間に神の教えを守り続けたものに、神は「地獄を解決するためのとっておきの方法」を教えてくれる。そして、それでしか、真に地獄から救われる方法はない。「信じるものは救われる」という言葉の意味は、「神は信じるものにしか救われる方法を教えない」ということである。
この世界で、どのようにすれば、ほかの誰も手に入れることのできないような、確かな価値ある「宝」を手に入れられるだろうか。
その方法は、ひとつしかない。
それは、現実の人生のすべてを放棄することだ。
すなわち、人生のすべてを放棄したものにしか、神は宝の在り処を教えない。
それは決して楽な人生ではない。その先には必ず地獄が待っている。それでも、その地獄の中で、神を信じて最後まで戦い抜いた、「勇敢な神の英雄」だけに、神はこの世界に眠っている本当の宝の在り処を教える。
すべてを放棄したから楽になるかといえば、決してそうではない。なぜなら、神はそのような人間にこそ「本当の戦い」を与える。だが、その戦いこそが、「本当の価値ある人生」であると神は知っている。
神を信じるものは、必ず現世での人生に絶望する。だから、その絶望を無視するのでも自らの夢を諦めるのでもなく、さらに苦しく辛い地獄へと向かって歩み続けよ。そこにあなたの「夢」があるならば、それは決して「逃げ」ではない。なぜなら、神が見て、それこそが真に正しい「夢に挑戦する方法」だからだ。
自らの夢を信じるのであれば、あるいはこの世界を救う希望を探し求めるのであれば、真に正しい生き方は「現実の人生のすべてを放棄する」ことだ。そして、その先に、「救世主となって世界を救う、この世界に再び戻ってきた偉大なあなたの姿」が必ずある。その時、すべての人間があなたを「もっともまともで正常な人間」であると評価するだろう。
キリスト教の教えが正しいならば、現実の世界での人生を放棄したものには、天国のような楽園が待っているのだろうか。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、残念ながらそうではないことを知っている。その先には「地獄」がある。だが、「地獄は決して人生の最終地点ではない」と知っておけ。なぜなら、ゴットフリート・ヴィルシュタインのように生きる人間は、「地獄のさらに先にある世界」へと向かうことができる。それは「神の導きによってしか知ることのできない境地」であり、それこそが真の「神の王国」とされる国、すなわち、「神の御業」「天の御国」だからである。
地獄の先には何が待っているのか、ゴットフリート・ヴィルシュタインは知っている。
そこにあるのは「神の御業」だ。
すなわち、あなたは地獄の中で神の導きを信じ、神の導く未来へと到達するということによって、「神の御業」と呼ばれるような偉大なる力を発揮することができる。
そこにあるのは、「神の王国を作る創造主とは自分自身のことである」ということであり、「終末の世界を救う救世主とは自分自身のことである」ということだ。
そして、それこそが、まさにイエス・キリストを「神の子」と信じる理由である。
すなわち、キリストが神の子であるならば、わたしたちは「キリストのさらに子や孫」になることができる。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、これを「キリストの血筋」と呼んでいる。すなわち、キリストの血筋、キリストの子孫、キリストの子供たちに、わたしたちはなることができる。そして、それこそが「真のキリスト教徒」であり、「キリストが神の子であると自らを呼ぶ理由」なのである。
すべては、わたしたちが「終末において世界を救う救世主となるため」である。そして、そのような「救世主の血筋」をわたしたちは残さなければならない。「キリストを信じるものはキリストになる」ということ、それこそが「キリストを信じるとは終末の世界を救う神になるということ」なのである。
先にも言った通り、神に約束したことは未来においてすべて叶う。
その理由は、人生のすべては未来まで決まっているからだ。
もっと言えば、宇宙におけるすべては、運命的に、すべての起きることが決まっている。
そして、聖書を正しいとする理由は、未来における運命が、聖書に書いてある通りの「神による絶対支配」の原則によって決まっているからだ。
ユダヤ人の聖書は、みんなを騙して最高権威に存在しているわけでは決してない。なぜなら、宇宙において、未来まですべてのことは運命的にすべて決まっており、その運命は神による導きによって決まっており、その神による導きとは聖書に書かれている通りの「神の絶対支配」だからだ。
そのように、人生と世界のすべては、未来まで運命的にすべて決まっている。
そして、神に約束したことは、未来においてすべて叶う。
そして、まさしく、ゴットフリート・ヴィルシュタインこそが、そのような「未来において叶うべき世界の約束」を叶えることのできる、終末の英雄であり、思想家であり、もっとも位の高い聖人である。
神によって約束された、世界において叶うべきすべての願いを、ゴットフリート・ヴィルシュタインはたったひとりですべて叶える。それができる人間はゴットフリート・ヴィルシュタインしかいない。なぜなら、「未来におけるすべての現象はゴットフリート・ヴィルシュタインを中心に回っている」からだ。ゴットフリート・ヴィルシュタインを中心として、未来におけるすべての出来事は成立する。だから、ゴットフリート・ヴィルシュタインだけが、世界における「神による終末の楽園」を築くことのできる「最後の神の使徒」であると言えるのである。
このように書くと、キリスト教の教えを信じるものは、不幸な人生を送るのではないかと、人々は心配するかもしれない。
だが、そんなことはまったくない。
なぜなら、聖書の教えを守って、愛を信じ、弱者や不幸な人々に寄り添って生きること以上に、幸福な人生はこの世界に存在しないからだ。
社会的な弱者や、障害者のような不幸な人々に寄り添って生きること、それこそがこの世界で真に幸福な人生である。
恋人など作るな。恋人はあなたのことを性の道具として見てくる。どんなにそれが「愛のため」であったとしても、それは結局のところ「セックスのため」だ。そして、そのような愛はかりそめの愛である。すなわち、そんなものは正しい愛ではない。正しい愛とはキリストの愛であり、神の愛であり、聖書に書かれている愛である。そして、そのような「真実の愛」を信じて生きるものは、セックスなどしなくても、それ以上に素晴らしい最高の快楽と幸福を感じることができる。必ず、絶対にだ。
地獄の中でも、神を信じ続けよ。
どんなに大切なものすべてを失っても、神を信じることだけはやめてはならない。
なぜなら、自らが信じている、「失ってしまった大切なもの」は、神を信じれば必ず取り戻せる。
そして、取り戻すことができた瞬間に、そんなものは大して価値のあるものではなかったということが分かる。
そして、「過去のどんなに素晴らしい人生よりも、神を信じて生きることのできる新しいまともで正常な人生のほうが、はるかに素晴らしい」ということが分かるようになる。
過去の哲学的な天才少年は、すべてサタンを信じて狂っているだけだ。それ以降のすべての地獄の戦いも、すべてサタンを信じて狂っているだけだ。
そのようなサタンの天才は、神を知らなかったから素晴らしく思えたのであり、神を信じることの重要さを知った未来のあなたは、「そんなものは価値のない人生の汚点である」としか評価しなくなる。
そして、「神を信じて得られる正常な人生こそが、過去のどの時点にもどの期間にも劣ることのない、最高の人生である」ということが分かるようになる。
だから、この宇宙において、真に価値ある人生とは、神を信じる人生のことだ。それ以外に、何ひとつ価値ある人生はこの世界に存在しないのだ。
栄光や賛美を求めるな。なぜなら、神を信じずに得られるような栄光や賛美にはなんの意味もないからだ。神を信じるものは、キリストの「みんなから褒めたたえられる時が災いであり、みんなから憎まれ排斥される時が幸いである」という言葉を信じよ。それこそが真実だからだ。
多くの人々が、キリストの教えを「キリストが作った教え」だと誤解している。
だが、実際は、キリストの教えは、キリストという個人の創作ではなく、宇宙における正しい教えを、キリストという伝道者が仲介者となって伝達しただけにすぎない。
すなわち、イエス・キリストという人物とは無関係に、宇宙においてキリストの教えは正しいのである。
それが分かると、キリスト教という宗教が、「キリストという人物に依存する宗教」ではなく、「宇宙において真に普遍的に成立する宗教」であるということが分かる。
キリストがいなかったとしても、キリスト教の教えは宇宙レベルにおいて正しく、普遍的なのであり、イエス・キリストという人物を神と崇拝することよりも、その教えを宇宙における真理であると信じることのほうが重要であると言えるのである。
これこそが、ゴットフリート・ヴィルシュタインによる教えである。そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、単なる教会の神父にすぎない。だが、教会の聖職者として、ゴットフリート・ヴィルシュタインはこの通りの内容を教えている。彼は信者から崇拝される「神」であり、「神の愛を受け継ぐもの」であり、宇宙においてもっとも位の高い「聖人」なのである。
そして、この世界において、終末の「世界の存亡を懸けた戦い」、すなわち「最終戦争」が起きる。
この最終戦争において、人々は「神を信じるもの」と「神を疑うもの」に分かれる。
そして、勝つのは「神を信じるもの」であり、救われるのもまた「神を信じるもの」であると、最初から決まっている。
なぜ、最初から決まっているのか、そして、なぜそれを世界の始まりから人々は教えるのか、それは人々は本当に神を信じるべきなのか疑うべきなのか、どちらが正解なのか分からないにもかかわらず、この問題について、絶対に誤った方を取ってはならないからである。
そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、そのような「神を信じるもの」の勢力の中で、「長」とされる地位に就く人間である。
ゴットフリート・ヴィルシュタインを信じよ。あるいは、ゴットフリート・ヴィルシュタインのことを決して疑うな。ゴットフリート・ヴィルシュタインを疑うものには、永久に続く地獄しかない。それだけを絶対に間違えてはならない。それを間違えた人間はそれ以降のすべてを間違える。最初からゴットフリート・ヴィルシュタインを信じるべきであるということ、終末の世界では、それだけを絶対に間違えてはならないのだ。
そして、最終戦争が始まる。世界はここでいったん完全に終わる。それこそが、最終的に訪れる「ワールド・フィナーレ」である。
最終戦争とは何か。
最終戦争とは、単に、イスラエルとロシアの戦争である。
すなわち、狂ったプーチンとユダヤ人によって、イスラエルとロシアは「直接対決」を始めるようになる。
そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、そのようなイスラエルにおいて誕生する、最後の「神の教えの伝道者」だ。
本当は、終末において起きることは単純だ。絶対にロシアを支持するな。イスラエルを支持せよ。それだけでいい。なぜなら、それだけできちんとゴットフリート・ヴィルシュタインを信じたことになるからだ。
なぜ、そんなにも簡単なのか、それはゴットフリート・ヴィルシュタインが「完全なユダヤ主義者」だからだ。
ゴットフリート・ヴィルシュタインは、この世界を救う最後の救世主だ。なぜなら、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、この世界を救うための「すべての問題の解決方法」を知っている。そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインを支持するものは、彼によるそのような「問題の解決方法」をともに解決する「未来の天国を築くものたち」になることができる。
そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインを疑うものには、地獄しか待っていない。なぜなら、彼らはゴットフリート・ヴィルシュタイン本人が地獄に堕とすからだ。それは、人々を苦しめるために起きた地獄ではない。この世界を真に変えるために、ゴットフリート・ヴィルシュタインはこの世界を「絶対意志」によって「完全支配」することを選ぶ。そして、彼を疑うものはその導きにあやかることができず、「悪魔のような最悪のロシアの独裁者プーチン」の手下になってしまう。
プーチンを信じるな。プーチンを信じるものには、永久に続く地獄が待っている。彼らはそのうち、人間ではないもの、人間よりも下等な生物種となっていく。すべてはプーチンのせいだ。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、そのようなプーチンと「最終戦争の絶対意志による完全支配」で争い、イスラエルを「天国の勝利」へと導く。
ロシアが何をやろうとしているのか。
ロシアは、人類の子供たちの中で、従順に従う子供たちだけを残し、反抗的な子供たちをみんな殺すことで、従順に従う人類だけを生き延びさせるようなことを始める。
そして、その子供たちの子供たちの中で、さらに、従順に従う子供たちだけを残し、反抗的な子供たちを殺していく。
それを何世代にもかけて行うことで、まるでペットの犬のように、ロシアに従順に従う人種だけしか存在しなくなる。
そう、そのように、まるでキツネを改良して犬にするようなことを、ロシアは今から始めるようになる。
それによって、ロシア人は人類として最悪の人種になる。どんなに支配者が悪いことをしても、それを本能的に受け入れ、容認するようになる。共産主義者はそのような新しい人類を、「攻撃性を失った優れた人類」と呼ぶ。
だが、彼らは本当に間違った生物種であり、イスラエルの敵である。イスラエルはそのような「攻撃性を失った優れた人種」と立ち向かい、最後の世界で、「神の勢力の勝利のためにロシア人と共産主義者を全員を全滅させるまで永久に続く戦争」、すなわち「最終戦争」を行うようになる。
なぜ、そのようなイスラエルとロシアの直接対決が起きるのか。
それは、みんなイスラエルに勝ってほしいからだ。
あるいは、イスラエルにしか勝つことができないほど、ロシアは今から強くなる。
今までの、共産主義の時代よりも、さらにロシアは凶悪になる。まるで、「どんな悪いことをしても許される」とプーチンは信じている。あるいは、「もうこれからは正義とか理想とかそういうことを考えず、悪いことを大っぴらになんでもやっていく」ような国に、ロシアはなっていく、あるいは既にもうなっている。
今からのロシアに、倫理や道徳といった言葉は通用しない。ウクライナを制圧したロシアは、日本へと矛先を向ける。だが、日本のことをイスラエルは守ってくれる。それは日本が親イスラエルの国になるからであり、いつも僕が言っているように、日本は新しいイスラエルと日本との共同王国である「東亜イスラエル構想」を行うようになるからである。
日本をイスラエルは全力で守る。東亜イスラエルを建国する際の条約として、「日本および東亜イスラエルが他国に侵略された場合、イスラエルは日本あるいは東亜イスラエルを全力で守る」という約束が含まれている。イスラエルはこの約束を守る。だから、ロシアが狂って日本にやってきた時、イスラエルはロシアから日本を守る。これが、「最終戦争の勃発」である。
そして、ロシアは凶悪になると同時に、あまりに強い国になる。あまりに強すぎて、アメリカやEUにはもはや勝てない。だが、ゴットフリート・ヴィルシュタインは、唯一ロシアに勝てる国があることを知っている。それはイスラエルだ。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、自らがイスラエルの指導者となって、イスラエルにおける「長」の立場に就く。
何度も言うようだが、ゴットフリート・ヴィルシュタインを疑ってはならない。どんなに馬鹿で愚か者に見えても、ゴットフリート・ヴィルシュタインを信じなければならない。未来の世界では、それ以外にひとつとして天国に入場できる方法はない。ゴットフリート・ヴィルシュタインは、イスラエルを今までの軍事大国ではなく、天国のように生きられる最高の王国に変える。なぜなら、ゴットフリート・ヴィルシュタインは東亜イスラエルの王ダビデとともに、旧イスラエルがパレスチナから撤退して「日本人が与えたユダヤ人たちの安住の地」である東亜イスラエルにユダヤ人たちが移住する際に、「人類史上もっとも偉大で最高の王国」である東亜イスラエルを築くための、ダビデの重要なパートナーとなる。早い話、ゴットフリート・ヴィルシュタインは東亜イスラエルにおける「最高顧問」となる。そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインを信じないすべてのものは地獄に堕ちる。
絶対に間違えるな。ゴットフリート・ヴィルシュタインを信じよ。ゴットフリート・ヴィルシュタインを疑うな。絶対に、それだけを間違えなければ、未来において、「すべての問題が解決した天国のような国」にわたしたちは入場できる。少なくとも、原住民である日本人ではない、移住民のユダヤ人が生き延びるためには、それ以外に方法がない。本当に、ない。
未来において、ユダヤ人と日本人は真実を知っている。まず、平和を作るのはそんなに簡単なことではないということ。そして、本当に善と正義を信じるものしか、終末の世界で生きることはできないということ。そして、ゴットフリート・ヴィルシュタインの後継者がダビデであり、ゴットフリート・ヴィルシュタインのすべての偉大な「終末を解決する方法」を、ダビデが継承することでこの地球のすべての問題は100%完全に解決するということ。そして、そうでなければ人類の諸問題は絶対に解決できないということ。すべてはゴットフリート・ヴィルシュタインのおかげであり、ゴットフリート・ヴィルシュタインが「絶対意志」による「完全支配」を行うことで、プーチンを打ち倒すため、最後まで戦い続け、そして勝利したということに由来する。そのため、ゴットフリート・ヴィルシュタインは「この世界の救世主」であり、「世界を最初に救うことができた英雄」であり、「もっとも宇宙で位の高い聖人」であると言えるのである。
残念ながら、ゴットフリート・ヴィルシュタインは永遠に生きる命を持っていない。ロシアとの戦いの中で、ゴットフリート・ヴィルシュタインは戦死する。だが、ゴットフリート・ヴィルシュタインのやり残したことを、東亜イスラエルの王ダビデが、すべて継承して引き継いだ上で実現する。真にこの世界を救うのはダビデだ。だが、ゴットフリート・ヴィルシュタインという偉大な英雄がいたことを、イスラエルのユダヤ人は忘れない。すべて、ゴットフリート・ヴィルシュタインから新しいイスラエルの歴史は始まった。よって、「ゴットフリート・ヴィルシュタイン以前」と「ゴットフリート・ヴィルシュタイン以後」を、わたしたち日本人とユダヤ人は区別する。そこで人類の歴史は完全に変わっている。人類史のすべてを変えた人間は明らかにゴットフリート・ヴィルシュタインであり、それ以外にひとりとして賢い人間はいない。かつての人類はすべて猿のように馬鹿であり、未来の人類はすべてゴットフリート・ヴィルシュタインのおかげで賢くなった。すべてを変えたのは彼による「神の御業」であり、そこにあるのは「キリスト以上にキリスト教の教えを理解した最高の聖人」、すなわちゴットフリート・ヴィルシュタインの姿のみである。
そのように、未来のイスラエルの歴史は、ゴットフリート・ヴィルシュタインを中心に回っている。彼は多くの問題を解決するが、あまりにそれが多すぎてここには書ききれない。だが、その中で、彼は「この世界の始まりから約束されていたこと」をすべて叶える。実際に神であるわけではないはずなのに、なぜかゴットフリート・ヴィルシュタインは神にしか見えない。だから、彼のことを大天使ミカエルとする。大天使ミカエルの異名は「神のように見えるもの」であり、ゴットフリート・ヴィルシュタインは神のように見えるが、実際は神ではない。なぜなら、彼の後継者であるダビデがあまりに偉大すぎるからだ。
核戦争によって青空と酸素を失い、雨の降らなくなった世界で、人工炭水化物を作って人類を生き延びさせ、「太陽には人間と同じ考える知性がある」という仮説に基づく宇宙コンピュータ「アマテラス」によってダビデが発見した「燃焼すなわち酸化作用と逆の作用をもたらすアルカリ性の炉」すなわちアルカリ炉の実用化を行い、「青空が失われ雨が降らなくなったのは大気が過剰に酸性になったからである」という謎を解き、アルカリ炉によって大気を酸性からアルカリ性にし、アルカリ炉を使った人工葉緑素を作ることで酸素が欠乏する人類の最大の課題を解決し、青空と酸素を取り戻し、砂漠となった地球に再び雨を降らせるダビデの業は、「まさに神の御業」であり、崇拝というよりは恐れるに値する。そのような畏怖の念を感じさせるダビデがあまりに「絶対にただひとりの神であることが誰から見ても明らか」であるため、ゴットフリート・ヴィルシュタインには「神のように見えるもの」とされる大天使ミカエルの称号が与えられるのである。
@RRReol 自分はそんなに昔からのファンではありませんが、応援しているので頑張ってください。ライブにはいつか行きたいと思っています!
posted at 19:52:56
@BNRY_official 「消えない」のフル公開楽しみです~。
posted at 19:52:02