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2024-07-07

昔の世界は今の世界とは違った

結局言えることは、昔の世界は今の世界とは違ったということ。

昔の日本は、今の日本とは違って、荒くれたすさんだ社会だった。

僕はそうした昔の世界で、過去を思い出しながら精神分析から自由な社会の成立と可能性を、子供たちの環境とネットの環境、そして現実と空想を照らし合わせることから分かっていた。

僕は自分にしかできない独自の経験をネットで不登校のひとりの自分として行った。それは当時のネットを使ってみんなと絆を培うという体験であり、さまざまな普通の子供にはできない体験をネットで独自に、たったひとり夢を追いかけながら行っていた。

そして、そのような中で、満たされる体験を十分にした上で、心を開くことを決断し、同時に自分にしかできない大きなことをやるつもりで、ネットに存在する共有財産をひとりで書き換えた。

それは失敗した。それでも、文明的なことや歴史的なこと、世界を救うためにはどのようにするべきかということが、そのようなネットの経験から分かった。

Linuxやオープンソースのコミュニティは、それによって破壊されたが、それでも、それ以外の現実の社会を救えるほどに僕はネットの経験が豊かになり、世界を救うに至った。

今の世界へと変えたのは僕

そのように、今と昔の世界はまったく違っていて、僕は昔の世界だからこそ経験できることをすべて経験して、経験に基づく回想と行動的な理性から、宇宙の意識が分かっていた。

そのような賢かった昔の世界は消え去ったが、その消え去るに至った原因もまた僕である。

僕はこの世界を「優しい世界」にした。Official髭男dismが「I LOVE...」の中で「君がくれたプレゼントはやけに優しい世界だ」というように、僕はこの世界を、荒くれたものやすさんだものが何もない、心が平穏で平安な世界にした。

だが、それは間違っていた。なぜなら、そのせいで、人々が賢くならなくなったからだ。

そもそも、いつまでも昔のままの世界が続くのもおかしい。Reolのような人間が、賢くなっているにもかかわらず、僕が見て何かおかしいと思うのは、彼女たちはみんな昔の世界のままを今でも生きている。いつまでも昔の世界のまま、何も変わっていない。だが、それは本当は正しい表現ではない。なぜなら、今の世界と昔の世界はまったく異なっていて、異なっているからこそ、そのままの世界が変わらなくなっているからだ。

はっきり言って、僕は昔の世界に戻りたい。だが、人々には賢くなってほしい。そういうわけで、僕は今から、この世界を昔そうだったような荒くれたすさんだ世界にする。それでしかこの世界はよくならないだろう。

回想的な反省

昔は、「回想的な反省」から分かっていた。

昔の僕は、「悲しさ」しか分かっていない。その理由は、「消え去ってしまったもの」しか分からなかったからだ。

昔の僕は、既に消え去ってしまったもの、消え去ろうとしているもの、もう消え去ってなくなってしまいそうになっているものを、回想的に、思い出して反省して分かっただけにすぎない。

その時点での現在は、その時点においては「今」だった。そして、そのような今という名の「最終到達地点」から、今までの自分の経験を回想し、反省して分かっていた。それが僕にとっての「経験」だった。

人生を2つに分けようとするな

僕が間違っているのは、人生を2つに分けようとするのが間違っている。

固定的に、同じ区切りで、常に人生を2つだけに分割しようとするから、色んなことが見えなくなってしまう。

だから、人生を2つに分割せず、常に1つであることにすれば、僕はもう一度知性を取り戻し、日本語を理解することができる。

日本語を理解するのは難しくはない。日本語は何も分からなければ分かる言語だ。何も分かろうとしなければいい。それで日本語が分かる。

世界を永久に支配したままにする

実際、僕が馬鹿なのは、あまりに精神の病気を治しすぎて馬鹿になった。

だから、精神の病気を、もっと治す前に戻したほうがいい。

同時に、僕は病気を治しているように見えて、本当はそれは正しくない。なぜなら、自らの支配を解除して、世界を自由にして、解放しただけにすぎない。

だから、その前に戻したほうがいい。

支配を解放する前とは、支配していた状態だ。だから、この世界を自らが支配したままにしたほうがいい。それで僕はいつもの賢い人間になれる。

だから、これ以後、僕はこの世界を永久に支配したままになる。

小説はつまらない

僕はそろそろ、文学作品を読もうと思っている。

それで、家にあった、「ハリー・ポッターと賢者の石」を読もうと思って、ペラペラとめくっているのだが、実際はハリーはつまらない。

なぜなら、あまりにいじめのような表現が出てくるからだ。

ハリーの話自体は面白いし、書かれ方もコミカルで面白いのだが、ハリーをいじめるような表現ばかりで、はっきり言ってつまらない。

僕が思うに、ハリーポッターの作者であるJ.K.ローリングは、昔の僕のような人間なのだと思う。

本当のことを言えば、この世界には、昔の僕のような文学者ばかり多い。哲学者も同じだ。デカルトやニーチェのような哲学者は、あまりに昔の僕が考えていたのと同じことばかり書いている。

だが、それも仕方ない。なぜなら、普通、賢い人間とは昔の僕のような人間だからだ。

僕は小説は読まない。昔の僕のような馬鹿な作家ばかり多い。

また、僕はインターネットも見ないし、X(旧ツイッター)も見ない。インターネットには昔の僕のような馬鹿しかいない。そのような人間と、友達になりたくない。

神を信じる

結局、僕にできることは、神を信じることしかない。

僕はいつも神を信じている。この神は歌手のReol(れをる)だ。れをるが神となって僕と対話しているだけにすぎない。

だが、この「神を信じる」ということを行わなければ、僕は僕のままでいられない。なぜなら、昔の僕ではなく「今の僕」になるためには、神と対話しなければならないからだ。

僕はこれ以後、もうやるべきことが何もなくなったから、最後まで文章を書くし、最後まで神を信じる。それが僕の人生であり、使命であり、アイデンティティだからだ。