僕のせいで、この世界は「まったく同じ場所」になっている。
すなわち、まったく同じ場所になったまま、いつまでも変わらなくなっている。
これは、僕が精神を使ってこの世界を支配したのが悪い。
「この世界を支配する」ということと、「この世界を変える」ということが矛盾するため、支配している時点でこの世界は変わらない。
だから、何も起きず、何も変わらない、何もない世界になってしまっている。
必要なのは、支配をやめ、世界を自由にすること。それだけで、この世界は、「まったく同じ場所」でなくなり、精神的に楽に生きられるようになる。
結局、僕の一番大きな間違いとは、全部同じ場所になって、みんな全部同じになったことです。
この世界のすべての場所と時間が、みんな同じ場所、みんな同じ時間になって、この世界のすべての存在と人間が、みんな同じ存在、みんな同じ人間になってしまったのです。
それはまさしく、「支配」のせいです。正義を掲げて世界を支配し、みんなを一律に導いて世界をひとりで変えたために、全部が同じになってしまったのです。
そして、正直に言えば、昔の僕はそうではありませんでした。昔の僕は、そのような「全部一律に平等」という発想が大嫌いでした。世界が変化し、分裂し、それぞれが異なる多様性のある柔軟で自由な世界になることを、僕は真に望んでいたのです。
間違っているのは、むしろIT技術です。特に、インターネットは、この世界をみんな同じにしています。どれだけ世界が多様な世界を目指していても、ツイッターやYouTubeの画面やインターフェースはどこでも同じです。必然的に、世界のどこにいても、スマホやパソコンを使う時点で、この世界には「違い」とか「多様性」そのものがなくなってしまいました。
そして、元凶とも言えるのは、Linuxやオープンソースです。Linuxやオープンソースのせいで、この世界で「独自のユニークな製品やシステム」がなくなり、すべてがLinuxの亜種になってしまうような、そのような「世界すべてを同じにする最悪の元凶」にLinuxやその他のオープンソース技術はなっているのです。
ですが、それらはすべて言い訳です。全部間違っているのは僕です。僕はこの世界の裏の支配者としてこの世界を支配し、すべての世界を同じにし、この世界の人間をすべて自分自身のクローンにしたのです。
ですが、僕はそのような世界は決して望んでいません。必要なのは「個性」であり、「多様性」です。この世界がすべて融和するのではなく、それぞれ分裂し独立した変化する社会であるべきです。今から僕は、そのような世界にするために、自らの身勝手な「支配」をやめ、この世界を「自由」にしていく覚悟です。
自由とは、真の意味でこの世界を平和にしたいと信じることだ。
自由とは、この世界を、「それぞれのアイデンティティが尊重される世界」になるように、真に経験から知ることのできる真理から生まれる「希望」を信じることだ。
自由とは、自らのことを愛し、自らのことを自由に考えられるような余裕を持った上で、人々のことを自らのことのように愛し、自分以外の人々のことまで自由に考えられるような余裕を持つことだ。
自由とは、世界を愛することだ。この世界において、「さまざまなことを知り得る、そして経験し得るような自分自身の人生」を愛し、その人生が成立するような「世界」を愛することだ。
自由とは、人々に対して、「わたしはこの世界を愛している」という確信的な衝動を持ち、その衝動に従って生きることだ。
すべての人間を愛することによって、この世界は必ず救われる。それこそが「自由の目的」であり、同時に「この世界が存在する意味」である。
自らのできることは、ほかの誰であってもできると考えよ。
歴史上の人類が行ったことは、すべて自分と同じ人間が行ったことだ。だから、この世界のみんなが行ったことは自分であってもできる。
そして、自分がそれができるのには理由がある。その理由とは「前提条件」であり、その前提条件が成り立つ限りにおいて、自分ができるのであれば、同じ条件を与えれば、ほかの誰であっても自分と同じことはできる。
だから、誰かにしかできない特別なことというのは存在しない。その人間ができるのは、必ず「必然的にできるだけの前提条件としての理由」が存在し、その理由を満たすならば、それは誰であってもできる。
特に、子供を想定せよ。何も分からない子供であっても、自分と同じ経験をすれば自分と同じことは必ずできる。だからこそ、子供に「押し付け」や「詰め込み」のような教育をしてはならない。自らがそれを体験的に習得したのと同じように、子供たちに対しても、「体験的に習得できるような教育」を与えなければならない。
必要なのは、「大人として成長するための十分な経験ができるような場を与える」ことだ。そして、そのために必要なのは、「自分の力で成功や失敗を経験する自由」である。これこそ、「判断するその前提として存在する経験」であり、これを「思考に先立つ経験」という。そして、そのような思考に先立つ経験を得ることができた人間には、この世界において「分かり得ること」はすべて分かる。すべてを正しく自由に考えれば、人類の分かることはすべて分かる。それこそが、真に「哲学者」あるいは「覚者」と呼ばれる状態であり、そのような人間を「人生のマスター」と呼ぶ。そして、そのような人生のマスターこそ、「自由の最終到達地点」であると言えるのである。
なぜ、子供たちが弱いものいじめをするのか。
それは、不安に打ち勝つことができるほど、確かな自分自身の本質を持っていないからだ。
いじめをする人間は、「自分自身が素晴らしい」ということを信じることができていない。「わたしは真の意味でわたしだ」と言えるほど、確かな「わたし」を持っていない。だから、不安が生じた時にそれを打ち消すことができず、「いじめ」という行為でしか自らが自らの誇りを保つことができないのである。
真に必要なのは、自らが自らを誇れるような、「本質」を確立することであり、それはプライドや自尊心という言葉で表せるものだが、単なる「自分は素晴らしい」ということではなく、「自らの生きている理由は本質はそのような確固としたアイデンティティである」と言えるようなアイデンティティこそ、真の意味でいじめ問題を解決するために必要である。
だが、「自らは誰よりも優れている」と勘違いするのはよくない。それはそれで、「劣った人間はどうでもいい存在だ」といういじめの考え方を生み出してしまう。そうではなく、「自らが立脚するアイデンティティは、自らにしか発生し得ない特別なものではなく、自らと同じような経験をすれば誰であっても同じ結論に至るような、普遍的なものである」と信じることこそが、この世界からいじめを撲滅するために繋がる。
だが、いじめは悪いことであると知っているのに、なぜいじめをしてしまうのか。それは、子供たちが「カースト制度でしか社会を維持することができないほど、社会の構築の方法を知らないほどに未熟」だからだ。子供たちが、人間関係の正しい築き方や、社会の正しい秩序の維持の仕方を知らないのにかかわらず、さも最初からそのようなことが完璧にできるような能力を、大人たちは子供に期待し、強要してしまう。これはサルトルが「自由の刑」と表現したことである。
必要なのは、正しい人間関係の気付き方と、正しい社会秩序の構築の仕方が分かるように、十分な人生経験を与えることだ。アイデンティティの構築に先立つのはそのような「豊富な人生経験」だ。よって、学校でさまざまな科目をお勉強しても、子供たちは決して大人にはならない。子供たちが大人になるためには、正しい人間関係の構築の仕方と、正しい社会秩序の構築の仕方を教え、それが自らの体験的な経験から体得できるようにする必要があるのである。
チャンスとは何か。
チャンスとは、あらゆる正しい社会を構築し得るような可能性のことだ。
この世界には、さまざまな代替可能性がある。現在の今の社会だけが必然的な社会では決してない。
そこには、偶然はあっても必然はない。今のこの世界がこの世界になっているのには、「それが歴史の結果そうなるようなある程度の理由」はあるが、「絶対にそのようなこの世界でなければならないような必然性」はない。
だから、チャンスによって、この世界はどんな社会にも変えられる。それは経験的な体験からも言える。自らの経験した内容から、「今の社会がどうしてそのようになったのか」という立脚する理由が分かれば、「ほかにはどのような代替可能性があるのか」ということも分かる。そこから、新しい社会の可能性を考えられる。
同時に、チャンスとは、人間関係あるいは社会秩序において、「正常な自らに利益になるような人間関係の構築の可能性がある」ということだ。
利益とは、普通言うような「得」だけではない。なぜなら、普通ならば「得」ではなく「損」になるようなこと、あるいは「自らが従わなければならないような義務」を生み出すことであっても、「見方によって、あるいは自分の考え方によっては自らの利益であると考えることもできる」という「自由に変化する視点」が存在するからだ。
そのような「自由に変化する視点」とは、「そのような視点から考えたとしたら、手間やリスクが逆に自分の益になることもある」ということであり、そのような考え方からすれば、「支配してみんなを強制的に従いなさいと言わなくても、いじめを行わないだけの正当な理由はある」と考えられる。
敵と敵対するよりも、仲良くしたほうが、信頼できる友達を作ることができる。人間関係で面倒くさいからといってしないのではなく、積極的に相手に信頼を与えるようなことをすれば、結果的にそれが自分の利益になる。そのように考えれば、「いじめをすることは決して何も自らに利益をもたらさない」ということが分かる。これが、「自由における弱いものいじめの無意味さの証明」である。
そして、すべてのことが自分だけではなく誰であってもできるということが、逆に「自らと他人の何が違うのかをはっきりと理解する」ということに繋がる。そこにあるのは「視点と環境の変化」だ。すなわち、その人間が置かれた視点や環境を考えれば、その人間は自動反応と自然な認識の中で当然の正しい行いをしている。自らが別の視点からそれを見るから理解できない「異なる性格を持った人間」に見えるのであり、実際はその人間は自分と何も変わらない。そのように、「世界の人々は自分と何も変わらない同じ人間だ」ということが分かれば、それ以上の何も知る必要も覚える必要も考える必要もない。全人類は平等であり、わたしたちは敵対する必要はなく、全員が同じ人類の仲間であると信じることができる。そこから、この世界を救う「希望」を信じることができる。その希望とは、「自分であってもこの世界を変えることはできるのだと確信すること」であり、「不可能なことは決して本当に不可能であるとは言えない」と信じることである。
このような考え方をするために必要なこと、それは経験することだ。
なぜなら、経験しなければ、どのような正しい判断力も養えないからだ。
必要なのは、「他人の立場になったつもりで考える」ことだ。自分が主観的にそうだと思い込んでいることは、ほとんどが間違っている。誰か他人の立場に立ち、そして世界に客観的に写し取られた言葉を見ることで、はじめて「自分が本当は何を考えているのか」を知ることができる。
ブッダのいう悟りの道を究めるために必要なのは「想像力」だ。この世界をどれだけ想像力で捉えることができるのか、それこそが人類の持つべき「本来の知性」だ。前頭葉で正しい方法だけを考えていると、「そのような正しい方法がどのような人生のどのような発想から生まれたのか」ということを忘れてしまう。誰かの考えた発見を、それを自らの立場に置き換えて、「自ら自身がそれを発見したかのような立場」に置き換えて考えよ。そうすることで、はじめて学校で教わった数学や理科の勉強の意味が分かる。正しい方法で判断するだけが科学だと思うな。必要なのは、科学者の立場に立った上で、自ら自身がそれを発見したとしたらそれはどのようになるか、ということを「想像力」を用いて考えることだ。
自由においても、正しい社会秩序を保つ方法はひとつある。
それは、ひとりの正しい王が支配した上で、その世界を自由にしながら、その自由な社会の秩序を保つことだ。
だが、そのような正しい王は、本当は必要ない。
なぜなら、ひとりの正しい王が支配する世界ではなく、みんながその王と同じぐらい賢くなるような世界こそ、真に理想であると言えるからだ。
世界の秩序を保つ上で、誰かひとりが強大な権限を持ってほかの人間全員を権力で強制的に従える必要はない。
王が賢く正しい人間だとすれば、そのような王だけが賢く正しい人間であるわけではない。王と同じぐらい賢く正しい人間が、この世界でたくさん発生することこそ、真にこの世界を平和にする「希望」であると言える。
だから、王が正義であると言えるのは、そのような小さな部分でレベルが低く考えた場合にすぎない。真に正しいのは、王に追いつき、王を追い越していくような「王ほどに賢い人間」をたくさん生み出すことであり、それこそが「民主主義における真の自由の理想」であると言える。そう、民主主義は王国の正義よりも、さらにレベルの数段高い正義であると言えるのである。
他人が言っているだけの、嘘偽りのような言葉を信じるな。
自分で言ったこと、自分で確かめて自分でそのことに対する根拠を証明したことしか、真の意味で真偽性や根拠を知ることはできない。
誰かが、「定説はそのようになっている」と言われても、自分はそれが正しいと思うならば、自分の正しいと思うことを信じよ。
逆に、その知識や発見が嘘であるかのように疑念を抱くなら、それはあなたが見て嘘だ。そして、あなたが見て嘘であればそれはあなたにとって嘘であり、決してそれを信じてはいけない。
だから、本当は、このホームページに書いたような新発見は、僕が僕自身の知り得る根拠の範囲内で信じるべきことだ。誰かをそのような「自らにしか分かり得ない真実」で惑わせる必要はない。
だが、定説は必ずしも正しいとは言えない。人類の歴史は何度も何度も「当たり前」であるとされたことを覆してきた。今分かっていることが、「本当に真実」なのか、それとも「今の時代だけで信じられている、今の時代しか当たり前であるとは言えないこと」であるかは分からない。
かつて、この世界はキリスト教を信じていた。そのような時代には、天動説が信じられていた。だが、今は地動説が信じられている。それは、宇宙のシステムが天動説から地動説に変わったわけではない。最初から地動説が正しかったのであり、天動説が正しいと思い込んでいた人間の時代から地動説が正しかったのである。
だから、はっきり言って、「人間の信じている物差しはすべて当てにならない」と考えるべきだ。そして、「自らがその根拠や真偽性を正しく理解していると言えないことはすべて判断を停止して自らの判断から追い出す」べきだ。そのようにすることで、はじめて、「確かに自分が正しいと言えることのみから判断を行う」ことができる。そして、そのような「思い込みや先入観のない厳密な判断」をした時点で、既にあなたはひとりの「哲学者」になることができているのである。そしてそれこそが、フッサールの言った「現象学」の意味である。
このような僕の思想は、「一貫して自由だけを正しいと信じる理論」であると言える。
すなわち、自由だけをすべて正しいと思うならば、この理論は正しい。
だが、注意すべきことがある。それは、個人の自由をそのまま社会に転用すると間違える、ということだ。
自由において、人々は、「自らにとって自らが幸福になるような選択肢」を必ず取る。
すなわち、たとえ自由にしたとしても、自ら自身が不幸になるような選択を、誰一人取ることはないだろう、という「暗黙の前提」が、ここで「自由の重要な成立条件」になっている。
だが、社会においてはそうではない。すなわち、「その当事者が必ず幸福になるような選択を、社会全体が取るとは限らない」ということが言える。
すなわち、誰かひとりがもし不幸になったとしても、それ以外の全員が幸福になるのであれば、そのような不幸な選択を取るということが現実的に取られるということが、社会における「間違った自由」であると言える。
この事実は、それ自体が「社会の自由ではなく個人の自由こそを第一に尊重すべき」であるということの意味である。すなわち、自由とは個人であれば正しい理想だが、社会において自由は正しい理想ではない。社会において、個人と同じように「自由な社会にすればその社会は正しい社会となる」ということが成立するということを期待してはいけない。
だが、そのように考えるからこそ、逆に個人の自由はとても大切なことであるということが分かる。すべての哲学は「自由」において成り立っているわけではない。哲学は「自由」でなく「個人の自由」において成り立っているのであり、「社会の自由」においては決して成り立たない。
だが、社会とは何か。社会とは、個人個人が集まり、集団になったものだ。だから、社会において、「すべての個人を自由に尊重するような社会」が、まず第一に「個人の自由を尊重する自由な社会」であると言える。だが、そのような自由な社会が、いつでも「個人」であるとは限らない。個人がいつ「集団化」するかは分からない。そして、集団化した時点で自由は意味を成さなくなる。すなわち、「集団になった自由は個人の自由とは異なり、なんにも良い点もなく価値も意味もない、醜く腐った社会」であると言える。
しかしながら、社会とはそのような「集団化」するということを前提に成り立っている。そのような集団化をした時点で、「自由の理想はすべて崩れ去る」と知っておけ。哲学的な自由な理想は、いわば引きこもりのような「完全に個人で生きる人間」でしか成り立たない。集団になった時点で、決して自由は素晴らしいものでも美しいものでもなく、醜く腐ったものに成り下がるのである。
では、社会において正しい理想とは結局なんなのか。
僕はまだ、今の人生で、それに対する答えを出すことができていない。
だが、おそらく、社会において正しいのは平等である。
すべての人間を自由にすることで、社会そのものが「自らの当事者としてのコントロール権限」を得ることができる。そのような特別な言葉を使わなくても、「あなたがたはあなたがたの勝手、わたしたちはわたしたちの勝手」というように、わたしたちは社会そのものを「自由に区分」することで、わたしたちの社会を自由に分割し、それぞれが自分勝手に生きることができる。
だが、どちらかが得られたとしたら、もう片方のどちらかは得られないようなものを、そのどちらもが「それをわたしは欲しい」と求めてしまったならばどうするか。
そこで必要なのは、「平等に分割して与えること」である。
そして、そもそも、「それが誰かのものである」という所有の概念自体をなくすことができる。最初から「それはわたしのものだ」という概念自体をなくしてしまえば、誰ひとり「それをわたしは欲しい」と求めること自体がなくなる。すなわちそれこそが「みんなのものを必要に応じて平等に与える」ということであり、「社会所有」という考え方である。
理想的ではなく、現実的に考えても、社会主義は正しい。なぜなら、生産手段を平等に共有することで、わたしたちは誰かの奴隷ではなくなることができる。誰か資本家が生産手段を独占している時点で、労働者は資本家の「奴隷」になってしまう。そのような生産手段を人民のものにした上で共有することで、わたしたちは「奴隷」から「人民」になることができる。
僕は、社会においては、そのように社会主義の考え方をすることも必要になると分かっている。それは「自由」という理想は決して社会的に成り立つものではなく、「個人の成長や成熟としての意味でしか成り立たない理想である」ということが分かっているからである。