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2024-06-10

分かるという発想がなかった

僕自身、何が間違っていたかといえば、「分かる」という発想がなかったのが間違っていた。

僕と僕以外の普通の人間が決定的に違うところ、それは「分かる」という発想が僕以外の人間にはあるということだ。

僕は、生活においても仕事においても、「分かる」という発想をしていない。そして、そのせいで、デザインの仕事ができなかったり、生活そのもののやり方が分からなかったりした。

「分かる」とは、簡単に言えば「やり方が分かる」とか「生活の仕方が分かる」ということだ。

たとえば、僕の同僚のデザイナーは、みんな「分かる」という発想に基づいてデザインの仕事をしているから、きちんと綺麗な作品を自分で分かって作ることができている。

だが、僕はまったくそのような「分かる」という発想がなく、ただ普通のデザインをしているだけにすぎない。

生活についても同じで、僕は「分かる」という発想ができないせいで、生活のために必要なことが何か、ということが全然分からなかった。

だが、もう僕は分かったので、ここからまともな人間になる。そのような「分かる」という発想ができた時点で、人間は「大人になる」ということができるようになる。

学校教育は間違っている

僕は、基本的に学校教育は間違っていると思っている。

その理由は、おかしな「学習態度」を植え付けるからだ。

もっとシンプルに、単純に考えれば誰でも分かることのはずなのに、学校の教育を押し付けられると分からなくなる。「さらに疑うことのできる領域があるのではないか」と考え、「正しい判断力」によってものごとを正しく考えようとしてしまう。

だが、そのような、「無用の正しさ」は、考える上では必要のないものだ。

もっと単純に、この世界のことを普通に把握すれば、単純に分かることのはずなのに、学校教育の押し付けによっておかしく「分からなくなるように洗脳」されてしまうのである。

だから、僕は今の学校教育を否定する。より正しい「自由な学び方」があるはずだと僕は信じている。それが僕の信じていた「自由な社会」である。