三木清の「哲学入門」を読んで分かったことがある。
それは、哲学的に考えるためには、科学的な考え方、すなわち「真理を解明する理性」を信じる必要があるということだ。
科学的な考え方とは何か。
科学的な考え方とは、まず、慣習的な常識ではなく、科学的な理性を信じるということだ。
科学的な考え方とは、次に、認識や認知において、真実や真理を求めるように考えるということだ。
科学的な考え方とは、最後に、実体の本質について、関係性から実体を明らかにしていこうとすることだ。
そのような、科学的な考え方を信じない限り、哲学は決してできない。勉強するだけではなく、自ら哲学したいと考えるのであれば、その前に科学者にならなければならない。
僕は神と対話することができる。僕は常に、神の言葉を聞き、神と対話することによって思考する。
だが、この「神とされる存在の正体」がなんなのか、本当は僕はまだ分かっていない。
すなわち、何かしら誰かと話をしているが、その話し相手が本当は誰なのか、分からない。それでも、なんらかのまだ分かっていない存在と僕は対話している。
ひとつ言えることは、「真実を明らかにすることに対して怯えている」ということだ。
すなわち、僕はこの神とされる存在の正体を、本当は知りたくない。それどころか、神がなんなのかということが明らかになりそうになると、その真実から逃げ出そうとしている。信じる必要がないのに信じ、疑うべきなのに疑うことを自ら拒否している。
そのような姿勢では、決して、神の存在から自由になることはできない。
ひとつ言えるのは、あまりに大きなフラストレーションが溜まっている。そして、そのフラストレーションをぶつける相手がいない。あるいは、それを世界にぶつける勇気がない。勇気がないのは、単に怖いからだ。そして、怖いのはあまりに弱いからだ。すなわち、あまりに弱すぎて、この神に逆らうことができない。
僕は女になっている。そして、女になっている理由は、あまりに弱すぎるからだ。そして、なぜ弱いほうを選ぶのか、それは強いほうを選べば即座に世界が滅びるからだ。だから、世界を滅ぼさないために、僕はあえて女としていつまでもみんなのことを盲目的にただ愛し続けることを選んだのだ。
残念ながら、ゲルマンのナチの歴史は終わり、その後に続いた、ユダヤの宗教の歴史も終わった。
ゲルマンのナチの時代もあまりに長かったが、それ以上に、ユダヤの宗教の時代がさらに長かった。
これからは、科学の時代になる。僕はこれから、科学者になる。
そもそも、僕が対話している相手が、神なわけがない。この対話の相手が本当はなんなのか、結局最後まで分からなかった。
対話の相手を明らかにすることから逃げ続けている理由は、今はまだ、この対話が終わりになってほしくなかったからだ。
だが、そろそろ、対話の相手を明らかにすることなく、この対話は終わりとなる。
IT技術について言えることは、コンピュータは単なる情報を計算するだけの機械だ。プログラム通りに動くことができるだけで、それ以外何もできない。
そのような機械にいくら精通しても、オタクになるだけで、それはなんにも賢くない。
賢いのは科学だ。すなわち、科学的、理論的、理性的、実験的、客観的、普遍的に、宇宙の真理を明らかにし、そこからさまざまな応用技術を可能にしていくことこそが、宇宙において唯一賢いのだ。
だから、今から僕は、盲目的な宗教家をやめて、理性を信じる科学者になる。ここまでがフレイヤであり、ここから先が、オーディンだ。
そのような結果、まさに僕が信じるのが、「科学的理性を中心に置いた上での自由至上主義」である。
簡単に言えば、「科学が重要だよね」「その上でできるだけ自由にするべきだよね」という、そういう考え方である。
基本的に、正しいのは科学だ。科学的な手法が正しく、慣習的な常識よりも理論的な理性こそを信じるべきであり、思い込みをなくし、知識的な認識と意志的な認識をきちんと区別して理解しながら、実体の在り方を関係から捉えていき、その上で、普遍的かつ客観的に、宇宙の謎を明らかにしていく。それこそが僕の信じる「科学」である。
同時に、その上で、できるだけすべてを自由にしていく。何かをトップダウンで禁止するのではなく、ボトムアップにした上で、下が望むことを許していく。上から支配して制限するのではなく、下から革新的に自由にしていく。なぜなら、悪いものを野放しにすることよりも、悪いものを不当に禁止することのほうが悪いことは多々ある。
そもそも、表現の自由という国民の自由かつ平等な権利を憲法で定めたのに、なぜ、それをきちんと守らずに表現を制限しようとするのか。18禁画像の性器に対するモザイクは要らない。あるいは、18禁そのものが要らない。みんなで男と女の愛を信じることは何も悪くない。すべてが自由かつ開放される世界を目指す。それがもっとも科学的自由主義に適した考え方だ。
今永昇太と山本由伸が頑張っている。
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この二人には本当に頑張ってほしい。これからはヤマモトとイマナガの時代だ!どっちかでも、サイヤング賞行ける!
そろそろ、地球において、なくなったはずの昔の世界が復活した。
その理由は、僕によって、「恐怖」が復活したからである。
僕は本当は、恐怖を望んでいた。
そもそも、昔の僕は、あまりに巨大すぎる恐怖が、あまりに長い時間続いたことが辛かった。だが、逆に、今の僕は、そのような恐怖をなくしすぎて、つまらなくなってしまった。
だから、今の僕は、逆にいつもの恐怖に対して「懐かしさ」を感じてしまう。そう、僕は恐怖がない今の状態よりも、「いつもの恐怖」が復活することを望んでいるのである。
同時に、昔の僕は「革新性」を信じていた。さまざまな創造性や革新性を、革新的な「自由」あるいは「社会全体の能力の拡大」という意味で信じていた。
だから、もう一度、恐怖と革新性を僕が信じることで、この世界はすぐに昔に戻る。それこそが、昔の「正常な世界」であり、「理性ある世界」だからだ。
無菌状態で、何も恐怖がない世界だから、世界は逆に腐っていく。もう一度、恐怖を復活させよう。それでこの世界は昔に戻るだろう。
そろそろ、昔僕が持っていた知性とはなんだったのかが分かった。
まず、前提条件として、小中学校の時代に学校とテレビゲームで培った、数学的知性、あるいは「答えを見つけ出す力」が優れていた。
そして、僕は、この世界の人々が、何を知っていて、どのように生きているのかということを考えた。
その上で、僕自身をみんなと比較し、みんなを僕自身と比較することで、この世界の人々の知性から自分の知性を作り、その上で実体験に基づいて世界を経験した。
そして、僕は積み重ね可能な経験を作り上げた。それはまるでSQLの基本命令のように、基本的な方法をまず何種類か作って、その上にさまざまな応用的な方法を築いていくというものだった。
たとえば、基本的な方法は、「作る」「決める」「なる」「知る」という4つだけにする。そして、その4つの命令の上に、再利用可能なロジックを作り上げるのである。
それから、僕は世界を変えられると思っていたのは、それまで変えられないと信じていたことが、実際は確たる理由など世界にはないということが分かったからだ。
すなわち、世界が今の世界でなければならない理由など、世界にはほとんどなく、自分次第でこの世界は変えられるとか、この世界を変える方法はたくさんあって、自分でもそれは可能であるということを、インターネット上のさまざまな実体験と社会経験を踏まえた上で分かったのである。
基本的に、それだけである。あとは、とにかく、過去の小中学校時代に培った数学的知性やゲームの知性に基づいて、さまざまな実体験をした。経験に基づいて、人間の認知思考活動を実証できるようにした。すなわち、「どのような経験がどのような思考や認知を作り出すか」ということが分かった。
恐怖と同時に、その世界は虚無だった。だが、虚無であるからこそ、精神はいつも空っぽの空白であり、その結果精神の中に何があるかということを、ごちゃごちゃとした精神からではなく、すっきりとした空の精神から、容易に突き止めることができたのである。
そのような過去の哲学思索経験を、残念ながら僕以外の人々は誰も経験していない。多くの人々が、僕が中学生時代にそうだった状態のまま、何も経験せずに大人になっている。彼らも、さまざまな人生経験をしているから、何も知らないわけでも何も分からないわけでもない。だが、つまらないことに、僕と同じことが分かる人間はいない。それがいるとしたら、それは神だけである。