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2024-12-26

日本を守れば大人になる

今日分かったこと、それは「日本を守れば大人になる」ということだ。

そもそも、僕がいつまでも馬鹿なのは、僕はいつまでも子供のまま、大人にならないからおかしな病気になっている。

その大人にならない理由は、僕はいつまでも日本を守ろうとせず、「自由」を叫び続けているからだ。

日本を守ろうとせず、自由を信じているのは、中学生ぐらいだから、僕はいつまでも中学生のまま、大人にならず、変わらなくなっている。

だが、日本を守ることで、ようやく、僕も大人になれる。

大人にならない限り、真の意味での知性はつかない。大人にならなければ、どんなことも分からない。

僕はセックスなんかしたことがない

事実、僕はセックスなんかしたことがない。

セックスは一度もしたことがない。セックスらしき似たような体験をしたことはあるが、実際にセックスをしたことは僕は一度もない。

そして、したいとも思わないし、今後することもないだろう。

僕は神を信じているから、このまま永久に純潔を保ち続けたい。僕はこれ以上、姦淫を一切犯さない。このまま、永久に心も体も清らかなままを保ち続けたい。

人間が何に支配されるか

僕が哲学的に考えたこと、それは「人間が何に支配されるか」ということだ。

人間は、環境に支配される。環境において知り得ること、分かり得ること、考えられることしか、人間は知ることができない。

人間は、組織に支配される。組織に入ってできることができるようになる代わり、その組織でできることしかできなくなる。

人間は、知覚に支配される。宇宙において、人間が分かり得ることは、人間の知覚によって分かり得ることしか分からない。

人間は、認識に支配される。すなわち、認識によって経験が生まれ、経験によって行為が生まれ、行為によって認識が生まれる。

何が可能となるか

だが、そのような「何に支配されるのか」ということと、同じぐらい重要なことは、「何が可能になるか」ということだ。

人間は、環境を変えることができる。環境を変えることで、世界を変えられる。

人間は、経験と組織によってさまざまなことができるようになる。何かができるようになるということは、経験が可能になるということであり、組織に入ることで経験を得られる。

人間は、知ることで多くのことができるようになる。ベーコンが言ったように「知は力」であり、知識はそのまま能力を可能とする。

人間は、世界そのものを、世界を変えやすくすることによって変えることができる。それはすなわち「世界の制限を撤廃し、可能性を許す」ということである。

科学は正しくない

そして言えるのは、科学は絶対に正しい考え方ではない。学校で教える科学は決して唯一の正しい知識ではない。なぜなら、学校は「自然界の模写」しか教えない。すなわち、学校で教えることは宇宙そのものを写し取っただけであり、それは決して正しい知識ではなく、学校でいくら学んだところで、存在する宇宙自体を人間が写し取ったものをそのまま分かるだけにすぎない。

必要なこと、それは自らの力で原理を解明し、そのために自分の頭で証明するという方法を身に着けることだ。すなわち、自分で証明したことだけによってこの世界のあらゆるすべてを知ることができるような、そのような「世界モデル」を作れ。それこそが、正しい哲学である。

何を経験すれば分かるのか

同時に、さまざまな経験をする際に言えるのは、先験的に「何を経験すればどんなことが分かり得るのか」ということを考えることだ。

単に社会の普通の経験をするだけでは、何も分からない大人になってしまう。

必要なのは、「何を経験すれば分かるのか」ということを常に問い続け、「自らはどんなことを知れば分かるのか」ということに向き合い続けることだ。

それこそが、「世界の経験をしかと自分の目で見つめる」ということであり、そのためであれば、人間関係も捨て、新しい人間関係をゼロから結び直すということもすべきだ。

存在と意志

哲学的に、「存在が本当に存在しているか」という問いには意味がない。

存在が存在していたとしても、存在しなかったとしても、人間の知覚においてその存在が「存在しているかのように振る舞う」のであれば、その存在が本当に存在していようとしていまいと、そのようなことを考える意味はない。

だが、存在について、「意志」というものがどこにあるのか、ということを考えることは重要である。

それは存在だけではなく、あらゆる認知や感情について言えることであり、すべての概念において、「その意志はどのように存在から生まれ、その意志はどのように存在という土台に立脚し、どのように意志が存在を存在させているか」ということを考えるべきなのである。

そのように、哲学的に考える「意味のあること」と、哲学的に考える「意味のないこと」は確かに存在する。だから、存在と意志はどちらが欠けても意味のないものであり、どちらも併せて考えることで始めて哲学的な意味を見出すのである。

認識と行動

人間の基本とは、「認識」と「行動」である。

認識とは、理性であり、記憶であり、経験であり、悟性であり、知識である。

行動とは、運動であり、形成であり、方法であり、格率であり、戒律である。

そして、認識と行動については、多くの法と決まりが存在し、考えるべき多くの概念と考え方が存在する。そのすべては経験的かつ相対的である。

すべてのことを、認識と呼ばれる大きな概念と、行動と呼ばれる大きな概念に基づいて考えよ。その上で、どのような認識が行動に繋がり、どのような行動が認識に繋がるのか、ということを考え、認識が何をもたらすのか、認識が何からもらたされるのか、行動が何をもたらすのか、行動が何からもたらされるのか、ということを考えよ。

そして、必要なのは、「普遍性」を考えることだ。すなわち、認識と行動について、自分だけが特別それを行うわけではなく、世界人類全員に共通しているかのような、普遍的な認識と普遍的な行動、あるいはそのためのルールや決まりを考えよ。それこそが、「真に自らが考えるべき知識」となって、自らに真理を悟らせるであろう。

できるだけ正しく、何よりも正しくせよ

真理について、できるだけ正しく、何よりも正しくせよ。

正しくするとは、信じる方法を疑うということであり、習慣を懐疑するということであり、客観的に考えるということだ。

だが、それと同時に、見落としがないようにせよ。すなわち、自らが考える、主観的なことから、普通ならば気付かない、取るに足らないことに見えることであっても、真理の追究においては見落としてはいけないことまで、すべてを見落としなく考えよ。

そこから、ヘーゲルの言う、「主観と客観の一致」あるいは「個別性と普遍性の一致」が見えてくる。

すべてのことを正しく考えるということは、単にものをそのまま分析するだけではなく、ものとものとの関係、ものと人間との関係、あるいは人間と人間の関係を見つめるということだ。名詞や形容詞ではなく、動詞から考えるようにせよ。そして、関係性を解き明かす中で、何が主体であり、何がその意味の決定的要因になっているか、ということを考えるようにせよ。

道徳と倫理

最後に、社会的に考える上では、自らの内面を見つめることから「道徳」を捉え、その上で、それを社会的に実現する方法を考えることから「倫理」を捉えよ。

道徳とは、自らの内面を見つめるということだ。すなわち、良心と理性を信じ、自らの心に向き合って、自分自身の今考えていることを正しく捉えるために、間違った考え方を疑い、その心を自己批判するということ、それこそが「内面に向き合う」ということであり、そこから「道徳」が生まれる。

だが、それだけでは十分でない。なぜなら、その道徳を現実に成り立たせるための、社会的手段を考え出し、そして現実の経験を積む中で、社会的に実現できるようになる、というところから、「では、正しい社会を実現するための方法は何か」と考えること、それによって「倫理」が生まれるのである。

よって、まず、内面に向き合うことから道徳を得て、それを外部的に作り出すことから倫理を得る。その上で、「倫理的に考える際に、何がその社会を決定し得るのか」ということを考える。それこそが「社会性」であり、「経験を倫理的に考える」ということなのである。

そのためには、人々と同じ世俗から離別し、自らが真に自由に、どのような先入観や思い込みもなく、そして自由自在に社会を成り立たせるような、「理性と経験を行使するために必要な心の余裕」を得ることが必要であり、そのために必要であれば、人間関係を一度すべてリセットし、最初から人間社会との関わり合いを結び直す必要があるのである。

三木清「哲学入門」

最近、僕は三木清の「哲学入門」を読んでいる。

とても面白い本だから、みんなにもお勧めしたい。この本だけで、哲学的な考え方はほとんどすべて分かる。単に哲学を学ぶだけの学生ではなく、自らがひとりの哲学者になることができる。

考えるべき重要なこと

いくつか、考えるべき重要なことを述べる。

まず、前後関係について考えよ。何かを生み出す前には何があったのか、何かを知る前には何を分かっていたのかを考えよ。

次に、時間について考えよ。時間とは状態の継続である。そして、時間とは共通の世界の共有である。世界を変えるとは、状態を変えるということである。存在とは状態の時間による継続である。

次に、世界を捉える際に、「変わるもの」と「変わらないもの」について考えよ。すなわち、この世界において、何が変わり得るのか、何が変わり得ないのか、ということから存在と現象を考えよ。

そして、信じずに分かろうとせよ。すなわち、何かを信じて分かるのではなく、偶然経験したことから、何も信じることなく考えようとすれば、哲学的なことは自由に考えられる。

すべきこと

すべきことは何か。

まず、すべてのことができるだけ全部できるように考えよ。すべての土台を作り、すべてのことが全部できるように理性を使い、すべてができるような経験を積め。

そして、自らがすべきことについて、自由と平等の両側面から考えよ。

すなわち、誰かが誰かの自由を制限しない限りにおいて自由を最大限認めるとともに、誰かひとりの立場ではなく、全員の平等な立場において、その行為が妥当であるかを判断せよ。

最後に、すべての命題を証明していく中で、正しい判断力を培え。それこそが、すべてを統一的に考える「正しいオリジナルの数学」となる。その数学によって、宇宙のすべては完全に解明できる。