なんだかんだ言って、僕はまだ書く。
今から、この世界の新しい旅が始まる。僕がひとり、独断で、新しい旅ができるようにする。
今永昇太が頑張っている。カブスファンの僕としては、どれだけ連勝が続くのかを期待したいところだ。
カブス今永昇太がデビューから無傷の5勝目 7回3安打無失点7K快投 防御率トップの0・78(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
これでトップタイの5連勝。そして防御率はメジャートップかつ安定の0.78。本当は事実上あと1勝できていたはずだから、雨天中断の試合が悔やまれる。
だが、このままペースを落とさずに、最高のルーキーイヤーにしよう。サイ・ヤング賞も狙える。もっとも一番いい最高のピッチャーだ。
鈴木誠也にも早く戻ってきてほしい。
右わき腹負傷の鈴木誠也が打撃練習で柵越え「8割くらいの状態」復帰に向けて調整(日テレNEWS NNN) - Yahoo!ニュース
鈴木誠也も、怪我さえなければ一流選手になれるのに、なんだかな。ただし肉体改造自体は間違っていない。そろそろ日本人選手の中でもっともメジャーで通用する打者になるのではないかと期待している。
ゴー・カブス・ゴー!
僕が今永昇太の語録で好きなのは、「自分でコントロールできないことはしない」という言葉だ。
たとえば、以下の記事に少し書いてある。僕自身もどの記事にそのような語録が書かれているかを知らないので、以下の記事で我慢してほしい。
DeNA・今永、開幕時期が決まった場合「最低3登板はないと」 | ショウアップナイター
今永昇太を見習って、僕も「自分でコントロールできないことはしない」という信条を信じたい。いつも、自分にできないことばかり完璧にやろうとしている僕は、常にやっていることが間違っているにもかかわらず正しくなっている。
すなわち、「すぐにやめられることをやめない、なぜならその上でやっていることがすべて正しいから」という状態になっている。
そのような人生で、自分でコントロールできないことはしないようにしたほうがいい。何もかも正しく生きられる人生はつまらない人生だ。今の自分の人生でやっていることを単にやればいい。すべてが間違っているならば、そのすべての「間違い」を「正しい」と塗り替えられるように生きよ。それならば、僕の人生は誰よりも正しいからだ。
ほかの日本人投手も頑張っている。山本由伸のほうもなんとか上手く行っているようだ。
ドジャース指揮官 山本由伸は「自信を増し続けている」3戦無失点と好相性の女房役も「素晴らしかった」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
ただ、吉田正尚がIL入りしたらしい。
吉田正尚が渡米後初の負傷者リスト入り、4月28日に左手親指負傷、指揮官は「10日間で復帰を期待」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
【レッドソックス】吉田正尚 コーラ監督が〝激怒騒動〟の真相告白 メディアにも注文(東スポWEB) - Yahoo!ニュース
正尚~。頑張れ~。応援しているぞ~。
そもそも、僕の昔の人生なんか、最初から分からないほうがいい。
昔の僕は、「メタ人格」というものを作っていた。これは自らの人格をこの世界の全員分にするというおかしな考え方であり、実際このせいで僕はおかしくなったのだ。
そもそも、昔の僕は最初から最後までおかしな人間であり、あのような人間は分からないほうがいい。
むしろ、考え方などを分かったところで意味がない。昔の僕のように生きたいなら、ただ正しくまともに普通に生きればいいだけの話だ。それ以上何を言ったところで何も分からない。
僕の精神がおかしいのは、すべて「動かすことで治す」というおかしなことをしている。
すなわち、可動していなかったものを、単にすべて可動させているだけだ。
だが、それは治ったように見えて、実際は可動するようになっただけで、何も治っていない。
僕が精神的にじっとしていられないのは、すべて「可動」を信じているからだ。
そのような「可動」を信じながら、実際は僕はすべて「停止」させ、「保持」しようとしている。これもとてもおかしい。「治る状態のままで停止させて保持すれば治る」と勘違いしているが、実際は変化したほうが精神の病気は治る。停止させて保持させていると、消え去るものが消え去らなくなり、破壊されるべきものが破壊されなくなって、全部がそのまま残ってしまう。それが今の僕の状態だ。
僕のもっとも大きな間違いは、「自由が善であり正しい」と勘違いして経験を判断したことだ。
僕はかつて、経験から「自由は正しい」と勘違いし、その上で「善は正しい」と勘違いして、「自由は善であり正しい」と考えた。
だが、結局、それがもっとも大きな勘違いだった。
間違っているのは自由だ。なぜなら、正しいのはドイツだ。僕の人生を見て、どう見ても賢いのはゲルマンの遺伝子であり、ユダヤ人と共産主義者が悪い。僕のせいでそれを信じているだけにすぎない。
そもそも、そのような「正しさとは何か」という考え方はやめたほうがいい。それがドイツ人の「不幸の始まり」だからだ。
自由は善でないし、正しくもない。経験から正しく判断するのは間違っている。自分の信じたいものを信じるのは間違っているし、そのうえで正しいものをエゴイスティックな自らの自由であると信じるのも間違っている。
結局、僕は文章を書いたほうがいい。文章を書かなければ生きられない。
文章を書いていると、どんなことが起きても正しく対処できる。文章を書かないと、辛いことがより辛くなる。批判された時に屈辱を感じるようになる。文章を書いていると、そうならない。すべてのことを、まるで何も大したことがない問題であるかのように、すぐさま正しく解決できる。
僕は文章を書かなければ決して生きられない人間だ。それで僕の未来の人生がどうなろうと、今の僕にはそれは知ったことではない。昔から僕は無計画に人生を生きる人間だ。文章を書くことでしか僕は未来のことを正しく判断できない。だから、僕はまだ文章を書き続けなければならないのだ。
はっきり言って、僕は普通の人間が嫌いだ。
理由は、僕は戦っているからだ。
僕はこの世界と戦っている。最前線でこの世界を支配し、導き、素晴らしい世界に変わるようにこの世界を戦って導いている。世界のすべてを敵に回した上で、たったひとり頂点から支配している。
だから、そのような戦いを経験したことのない、この世界の普通のまともな人間たちが僕は大嫌いだ。
この世界のそのようなまともな人間たちと、僕は積極的に付き合いたいと思えない。人類はすべて馬鹿であり、この世界に存在するすべてはクソであると僕は知っている。だからこそ、僕は戦場の最前線で戦い続け、この世界をより素晴らしい世界に変えなければならない。
それこそが真の「救済」であり、「本当の強さ」であると僕はひとり知っている。それを知らないこの世界のまともな人々とは、最初から付き合う意味がないのだ。
ドイツ人には悪いが、僕はゲルマン的な考え方を信じていないし、ユダヤ人と共産主義者を悪であるとも信じていない。
僕はあくまで親ユダヤのイスラエル教徒であり、またひとりの民主社会主義者だ。それらの勢力は僕の仲間だ。
僕が嫌いなのはテレビだ。僕はテレビのことを「この世界を最悪の世界にしている元凶」だと信じている。なぜなら、僕の目線から見ると、明らかに真に悪いのはテレビだからだ。
僕はテレビが大嫌いだ。テレビがこの世界を滅ぼしている元凶であり、子供の非行やいじめはすべてテレビのせいで起きていると僕は信じている。
僕が好きなのはLinuxとオープンソースだ。その信念だけは僕の人生の中で一度として変わっていない。Linuxとオープンソースが勝利すればこの世界は必ずよくなる。僕は信じている。
神を信じよ。
この世界で賢いものがもしあるとしたら、それは唯一、神だけだ。
僕が行ったことの中で、僕の力でできたことは何ひとつ存在しない。すべて、神を信じた力で、すなわち神の力で行われたことが、僕のような無能な愚か者であってもできた、というだけのことにすぎない。
僕は自分の力では何もできていない。すべて神の授けた力で、神のために努力した結果、神が偉大なことを実現させてくれただけにすぎない。
神を信じなければ、僕と同じことは決してできない。その理由は、僕の行ったことは、僕の行ったことではなく、すべて神が行ったことだからだ。
神は、自らの罪を認め、償うものが好きだ。だから、神を信じるのであれば、自らの罪を認め、償わなければならない。自らの罪を認めないものを神は救わない。「わたしの罪を赦してほしい、どんなことでもするから」と懺悔し、その誓いを守ってどんなことであってもしなければ、神はその人間の罪を赦さないだろう。