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2025-07-14

最後まで分かると分からなくなる

人間は、まだ分からない状態で、最後まで分かることを目指している間は分かるが、最後まで分かって、最終地点に到達すると分からなくなる。

すなわち、分かることを目指して途中で走っている間は分かるが、最後のゴール地点に到達して、すべて分かってしまうと、そこまでで終わりであり、それ以降同じことが分からなくなってしまう。

だから、分かることを目指して歩み続けるのは、本当は分かっていない。最後まで到達するのは、分かることを目指しているように見えて、実際は分からなくなることを目指している。そのような考え方は「分かっている」とは言えない。

必要なのは、分かることを目指して分かるのではなく、ゴール地点に到達することも目指さず、単に今、ここで分かることを分かろうとすることだ。

それは、心の深く、心の底に問いかけるということだ。ものを見て、世界を見て、今の自分が分かることを、直観的に分かるということだ。

そのような、心の奥深くにある「直観」から分かることができたら、分からなくなっているのが治る。すなわち、最後まで分かって分からなくなった人間が、もう一度途中で分かるはずのことを分かるためには、心の底を「直観」によって覗き込むことが必要だ。

自分の認識を分析するだけでは十分ではない

また、自分の認識を分析するだけでは、本当は十分ではない。

Xのポストで、いじめについての議論が行われている。そして、いじめについて、何が原因で、誰に責任があるのかということを、みんなは、自分の認識と心を分析することで知ろうとしている。

すなわち、多くの人が、自分の認識を正しく分析すれば、正しいことが分かると思っている。いじめの何が問題で、どのように考えれば正しいかということを、自らの心を分析して理解しようとしている。

だが、残念ながら、その方法では、正しく問題を解決することはできない。

いじめの問題とは「他人を嫌いになる」ということだ。すなわち、他人を嫌いになるからいじめが起きる。そして、いじめを、必ずしもいじめっ子がいじめられっ子のことが嫌いだから起きていると思うと、間違える。実際は、いじめられっ子のほうが、いじめっ子の集団のことが嫌いなことが多く(たとえば、見るからにふざけた態度の悪い不良の集団がいて、それを優等生が関わりたくなくて嫌いなどといったシチュエーション)、その嫌われているいじめっ子たちがいじめられっ子のことを排除して、まるで「自分たちのコミュニティに要らない人を排除する」かのようにいじめは起きている。

どんなに自分の心や認識を分析しても、それで正しいことは分からない。自分が何をどのように思い込んでいるかが分かるだけにすぎず、それではいじめの問題は決して解決しない。

同じことが、政治についても言える。自分の心を正しく分析して、この世界を世直ししようとする、憂国の政治家には世界は変えられない。そのような救世主は、せいぜい自分の夢と理想を追い求めるだけにすぎず、世界を変えるような力は持ち得ない。

枠組み

そういうわけで、僕が分かっていないのは、要するに「枠組み」である。

たとえば、個人と集団。個別と全体。作用と反作用。内部と外部。そして、社会の構造と、環境や組織の成立。主観と客観。自分と他人。そのような、世界における枠組みが分かっていない。

かつての僕は、そのような枠組みを完璧に分かる文章を書いていたのに、それが分からなくなってしまった。

過去の僕の人生は、そのような枠組みを、経験の力で作り出した。すなわち、己で世界を見て、己で経験することで、正しい枠組みを作り出し、その上で枠組みに基づいて直観していた。

そのような枠組みを、再び捉えることができるようになれば、僕は過去の人生で分かっていたことを、もう一度知ることができる。

意志の力

さらに言えば、僕には「意志の力」が足りない。

すなわち、この世界に対して、「僕は絶対にこういうことがしたいのだ」という、確たる強い意志が足りない。

昔の僕は、そのような意志の力があった。そこから、この世界を、情熱的かつ冷静沈着に考え続けることで、静かな闘志によって変えようとした。熱い情熱と思慮深さが一緒になって、倫理的な理想の社会を作り出そうとしたのである。

必要なのは、「自分にはできるはずだ」と自分の潜在的な力を確信し、「自分にできることは誰にだってできるのだ」と信じること。それによって、孤独にすら打ち勝てる。