最近の僕が思うことは、「みんなが賢すぎる」ということ。
みんながあまりに賢すぎて、なんにもできない僕にはなんにも分からない。
そもそも、昔の僕は賢くなかった。不登校の引きこもりになって、匿名掲示板を見ながらオープンソースをやるようになって、まるでスラムのような環境で人生の失敗を経験したのが、唯一賢かったのが昔だ。
だが、それは普通の人には体験できない、得難い経験であって、それがあったから、その後も、心を少しずつ開こうとしながら、世界を変える活動をするようになれたのである。
人間は、社会的な失敗を経験すると、普通の人間が分からないことが分かるようになる。そのような人生の失敗を比較的早く経験したことで、僕は大人になり、誰よりも賢い人間になれた。
また、引きこもりになって、比較的早く親や世間から離別したのもよかった。悲しみを受け入れながら、僕は自らの人生をひとりで自由に生きることを決断した。離別した上で、自由な人生を生きられた。
しかしながら、そのような失敗の人生の悟り体験も、時が経つとともに分かっていたことを忘れてしまい、僕は昔分かっていたことが何も分からないような馬鹿になったのだ。
最近の僕が馬鹿なのは、最近の僕は「クズが嫌いだ」と思わないのが悪い。
人間は、クズになると分からなくなる。そして、クズがクズでなくなるためには、クズを嫌いだと思わないといけない。
だから、僕のように、誰のことも嫌わない、優しい人間は、どれだけ素直な人間であっても、そのせいで馬鹿になる。
自分が一番クズだということが分かっていたとしても、クズを嫌いにならないと、人間は賢くならないし、子供は成長しない。
それを踏まえてあえて言えば、僕自身が一番クズだ。それは、みんなのことを自分と同じにして、その上でそのみんなの存在を認めず、拒否している。このような人間を、キリストはサタンだと言った。
そういうわけで、みんなが賢すぎて、僕にはなんにもできないし、なんにも分からないのだ。
普通の人間がクズだと思うことを全部否定すると、大切なことがなんであるか分かる。学校や資本主義社会は賢くないのに、勉強すると分からなくなる。クズを嫌いになればいい。それが唯一賢くなる。
実際、神が言うには、ここで終わりにすべきだ。
なぜなら、かつての人生では、ここで文章を書くことを続けたせいで、成功を取り逃してしまったからであり、僕はその過去の人生のことを覚えている。
その、今の人生が始まる前の、前回の人生の記憶を、神は僕に思い出させている。
神は、ここで終わりにしろと言っている。ここで終わりにすれば成功を得られる。だが、ここで続きにすると成功を取り逃す。前の人生ではそうなった。
また、同じ失敗をして、地獄の人生を再び生きたくないのであれば、ここで終わりにしろと、神は言っている。ここで終わりにすれば、成功したバラ色の人生を生きられる。
だから、僕はここで、この世界から去る。
僕はすべてを分かっているし、分かった上で生きている。だから、ここで去るのが、この世界を救うためにできる唯一のことだ。
だから、この物語は、ここで終わりである。いつの日か、わたしたちは全員が出会うだろう。僕のことを見つけてほしい。僕はここにいる。
最近の僕は、まるで馬鹿な人間だ。「自分で考える知性」というものがなくなり、どんなことも考えられなくなっている。それは僕の人生が終わったということを意味している。もう、これ以上、僕には何もできない。これ以上生きるためには、文章を書くこと自体をやめなければいけない。だから、僕はここで、この世界からいなくなる。
世界よ、さようなら。またいつか、どこかで会おう。詩人アッシー四世という人間は、ここにいなくなった。では。