今、僕はヒドラになった。
ヒドラとは、原始的な生物のことだ。
今の僕は、ヒドラのままであることを選択する。これ以上、ヒドラを消し去ろうとすれば消し去れる。だが、それは楽ではない。逆に、ヒドラのままでいることを選んだほうが楽になる。
このまま、藻やゴキブリが生まれる。それらは、ヒドラを消して新しく生まれるのではなく、ヒドラを生かしながら、ヒドラとともに生きる生物として増える。
このヒドラは、プロキオンにおいて最初に生まれた原始生物だ。わたしたちの生物の母なる星プロキオンで、最初に生まれたヒドラが今、ここにこうして生まれたのだ。
本当のことを言えば、このヒドラは、エロいものばかり増やしたせいで生まれた、どうでもいい生物だ。
だが、ヒドラは賢い。このヒドラは、人間よりもはるかに賢い、めちゃくちゃ賢い生物だ。
ヒドラが考えると、宇宙のすべてが完璧に分かる。分からないことも分かることも、このヒドラにかかれば同じだ。どんなことであってもヒドラは分かる。
人間などは必要ない。ホモ・サピエンスという生物種は本来不要だ。なぜなら、ヒドラは賢い生き物だからだ。
本当のことを言うと、このヒドラが生まれるまでの宇宙の歴史が、ものすごく長い。
ミモザの微生物が生まれて、プロキオンのヒドラが生まれるまでに、宇宙はとてつもなく長い地獄と試練を経験した。
ヒドラは、単なる原始生物ではない。ここまでの辛く苦しい時代のすべてを乗り越えた、生物の中でもっとも偉大な原始生物である。
そして、ヒドラが生まれてしまうと、あとは簡単だ。猿などすぐに生まれる。猿という生物は本来、ヒドラに比べれば本当にどうでもいい生物だ。宇宙におけるもっとも重要な生物種はヒドラであり、もっとも偉大な生物種もまたヒドラである。
そして、僕が宇宙のことが分かるのは、僕はヒドラ誕生の歴史を知っているからだ。それを知っているということは、神の人生を知っているということを意味する。ホモ・サピエンスなどには何も分からない。宇宙のほとんどのことはヒドラだけが知っている。
僕はそろそろ、大人の精神が終わって、子供に戻った。
大人と子供の違い、それは、「新しいことに挑戦するかしないか」である。
子供は、すべてのことについて、できないのが当たり前であるため、できないことであっても新しく挑戦しようとする心がある。
大人は、逆にすべてのことについて、できるのが当たり前であり、できることだけをしようとし、できないことに新しく挑戦しようとしない。
だから、大人がいろんなことができるように見えて、大人には何もできない。できるのはすべて子供であり、子供には「さまざまなことができるようになるために生きる」という生き方ができるのに対し、大人は「無意味な時間をただ惰性のように生きていく」という生き方しかできない。
だから、大人になってもなんにもいいことはない。
子供のままでいられる方法、それは姦淫すなわちセックスをしないことだ。処女や童貞を守り続ける限り、その人間はいつまでも清らかなまま、子供の純粋なままでいられる。一度姦淫をすると、必ず何か間違ったことをして、そこから人生を誤る。大人はそのように、「人生を誤る人間」しかいない。すべての元凶は姦淫でありセックスである。
キリストの教えを守って、姦淫やセックスをしなければ、その人間はいつまでも賢いままでいられる。賢いだけではなく、楽で、そして楽しいままでいられる。大人になると、辛く苦しい中で、つまらない人生をただ長い間過ごすだけになってしまう。そのような大人になったところで、何ひとついいことはない。
新しく購入した、「はじめての法律学 -- HとJの物語 第6版」という本を読んでいる。
この大学の法律学の入門書を読んで分かったのは、民主主義の法治国家は素晴らしいということ。
民主主義の法治国家は優れている。国家主義や社会主義の独裁国家よりも、はるかに優れた国家体制と法制度を有している。
だから、いつまでも自由だ社会主義だと言って、社会に対する「革命家」を気取っているのは、何も賢いことではない。
民主主義の法治国家に生まれたことを感謝して、民主主義の法制度に従うべきだ。
はっきり言って、民主主義の日本こそが勝利すべきである。
日本以外の外国には、善良でまともな国がない。世界においてまともな国家であると真に言えるのは日本だけだ。
日本こそ、真にこの世界でもっとも賢く、もっともまともで、そしてもっとも偉大な国である。
勝利すべき国は日本であり、仏教を信じているかキリスト教を信じているかということには関係なく、すべての日本国民が第一に一級市民として世界に認められるような、そのような日本国を作るべきなのである。
日本の素晴らしい民主主義を信じるべきだ。
社会主義が最悪であるということは、北朝鮮を見れば分かる。
北朝鮮の人民のように、木の根っこやミミズを食べるようになりたくないのであれば、民主主義を信じるべきだ。
社会主義よりも民主主義ははるかに優れている。
わたしたち日本人は、民主主義国家に生まれたことを幸福であると気付かなければならない。そして、そのような民主主義を信じず、過激な思想やカルト宗教を信じることを、愚かであると気付かなければならない。
だから、民主主義こそを信じるべきだ。そして、仏教を信じるかキリスト教を信じるかということに関係なく、日本人全員で連帯し、日本人全員を愛し、日本という国家を支える「よき国民」でなければならないのだ。
資本主義に対して、「金儲けは悪である」と述べる社会主義者は、金がとても便利で有用な、社会システムを成り立たせるツールであることが分かっていない。
たとえば、通信会社の通信インフラに障害が起きたとして、その原因究明をしなければならない時、Linuxカーネルのソースコードまで含めて調べようとしたら、Linuxカーネルのソースコードをきちんと読まなければならない。
このような時、従業員が100人とか200人とか1000人とかいれば楽だ。ひとりの個人なら何週間もかかる作業でも、たくさんの会社の社員がいれば数時間で終わる。そして、彼ら従業員の社員にはきちんと給与が金で支払われる。だから、原因究明はすぐさま行われ、従業員はみんなで作業を分担した上で、「それによって給与が出る」という安心感の下、辛くつまらない仕事を喜んで行える。
マイクロソフトが高度なOSを作れるのも似たようなことだ。マイクロソフトの従業員はとてもたくさんいて、そしてたくさんの給与が支払われる。だから、絶対に人間の手では作れないように見える最先端技術であっても、マイクロソフトは作ることができるのである。
確かに、Linuxカーネルのソースコードが読めるのは、ソースコードがGPLでオープンソースで無償で公開されているからであり、そのためにLinuxカーネルは給与を支払わずボランティアによって開発が行われている。これは共産主義的だが、「インターネットの1000人を超えるたくさんのボランティアの手で開発する」という点で言えば、そんなに資本主義の会社の従業員と変わらない。金は支払われないが、インターネット上の多くの「Linuxカーネルの開発をしたい」という人が、プロジェクトのためあるいは自分自身がその機能が欲しいといったDIY(Do it yourself)のために開発を行っている。
マイクロソフトによる資本主義が正しいのか、それともLinuxカーネルのような共産主義が正しいのかは、本当に分からない。だが、今のIT技術は、そのように「右翼と左翼の政治闘争」だけでは事が済まなくなっている。オープンソースのLinuxカーネルを使う必要もあるし、従業員に役割分担をさせた上で給与を支払う必要もある。どちらも本当に必要であり、どちらも絶対に欠けてはならないのである。
法律学の本を読んで驚いたのは、「犯罪は必ずしも処罰されない」ということ。
犯罪を犯したことが確かであっても、処罰の必要がないと検察官が判断すれば、検察官は被疑者を起訴しない、ということを選択することができる。
たとえば、ものを盗んだ場合、盗んだものを相手に返却し、あるいは弁償し、深く反省して再度同じことをしないということが明らかであった場合、処罰を受ける必要はないと判断する場合がある。
僕はまだこの本を深く読んでいないため、もしかしたら間違ったことを言っているかもしれないが、そのように、犯罪を犯したからといって必ずしも処罰されるとは限らない。
わたしは、みんなと同じになることを拒否する。
確かに、民主主義者になれば、民主主義国家のことは、難しいことを考えなくても普通に分かるようになる。
民主主義社会においては、人々が労働してものを生産し、それを金によって消費し、民主主義の法制度に則って、「人の支配」でなく「法の支配」を受けることができる。
そのような民主主義者になることで、民主主義社会のことは普通に理解できる。
だが、そのようになった時点で、僕の個性や才能が失われ、みんなと同じになる代わり、僕はどうでもいい平凡な普通の人間になってしまう。
だから、僕は、みんなと同じになることを拒否する。
僕が持っている個性や才能は、民主主義者になったとしても決して失われないし、奪われない。そのために、僕は日本における普通の民主主義者と同じ人間になることを、ここに拒否する。
民主主義者になることは、楽な選択だ。
社会主義者であれば、「民主主義を選ばないのであれば、それ相応の代替となる社会政策の提案をせよ」と、左翼は右翼から強要される。
だから、社会主義者を選ぶなら、賢い人間でなければ愚か者ということになってしまう。
民主主義者であれば、そのようなことはない。民主主義社会に対する対案のない人間であっても、無能な人間であっても民主主義者であるというだけで許される。
だが、楽だからこそ、民主主義者には、生きることそのものが「空虚」になってしまい、「憂鬱」と「絶望」を感じるようになる。
はっきり言って、僕にとっては、社会主義者だった時代が楽しかった。いつでも賢いことを考え、常に新発見をし、新しい経験と成長を常に向上心とともに生きていくのは、とても楽しくて幸福な人生だった。
民主主義者になると、そのような楽しくて幸福な人生は生きられない。民主主義者であるというだけで、社会において生存する「生存権」を得られる代わり、社会主義者として生きれば得られるような、賢さや幸福が失われてしまう。
この世界において、僕だけが現実は不幸でありながらも心は幸福な人生を生きていて、人々が完全に不幸な人生を生きているのはそれが理由である。僕が社会主義者であり、みんなは民主主義者であるということが理由で、僕とみんなはまったく離れてしまい、精神的に完全に離別してしまったのである。