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2025-08-08

相互理解

経験から悟りを得る上で重要なのは、「相互理解」である。

相互理解とは、考え方の違うもの同士が寄り集まって話し合い、議論することで、真の意味で正しい社会の理解とはなんであるかを知ることである。

昔の僕は、インターネットを見ることで、そのような相互理解を考えていた。

社会において、社会全体が国民みんなのことを縛り付けるような、そのような社会全体の意見や常識がある。それを「抑圧」と呼ぶ。

社会の人々は、みんな、なんらかの意味で抑圧されている。昔のインターネットには、その世界のどこを見ても、何かしら抑圧された人間しかいなかった。

この世界に、真に自由な人はいない。誰もが、なんらかの意味で抑圧に押し付けられ、しがらみと制約を抱えて生きている。

だが、その中でも子供たちには、抑圧に従うものだけではなく、抑圧に反発し、反抗して生きようとするものがいる。

人間には、すべてが正しい人間はいないが、それでも、簡単に間違っていると言えないことのほうが多い。正しい人間が多いように見えて、実際は間違った人間でありながら、本当の意味では間違っていない、自分の中で自分の人生を見れば、正しく生きている人たちが多い。

人間の信念は千差万別で、生まれ育った環境や、人生において得た固定観念と先入観、そして日々の生活における認識の自動反応によって、自らの信念は異なる。

だが、そのようにそれぞれ異なる環境で生きてきた人々が、インターネット上において、ひとつのテーマについて会話し、議論し、情報を共有することで、わたしたちは「相互理解」をすることができる。

真に正しい信念などはない。だが、それでも、勘違いや思い込みを排することで、この世界において「悟り」のような真理に気付くことはできる。そして、僕はその悟りの道を究めた結果、この世界における「真の自由な世界」を知ることができた。それは絶対に正しい信念ではないにせよ、僕にとっては正しい、世界を救う信念だった。

抑圧に従う人と、抑圧に反発する人が議論すると、罵り合いのようになることがある。だが、そのように、抑圧に基づいて世界の人々を押し付けるのではなく、どちらの勢力も正しい結論へと行き着くように、ひとりの「導き手」となって世界を変えることができる。あるいは、僕はそれをした。その結果、僕はこの世界を救うことができた。それが僕の「革命戦争」の発端であり、それ故に僕はこの世界と戦い、自ら救った世界を自ら滅ぼすようになった。

僕が信じた信念、それは「この世界は相互理解によって全員の信念を正しく理解でき、導くことによって救うことができる」ということだ。すべての人間の信念は、抑圧と環境の自動反応で行われており、先入観と固定観念を打ち破ることで、この世界を救うことは誰にだってできる。

人生において必要なこと、それは他人の立場に立って考えること、思考をたくさんすること、そして思考に先立つ豊富な経験をすることだ。それだけで、この世界の歴史そのものに出会うことができる。

調停

さらに言えば、僕は「調停」ということから、平和な秩序の作り方を分かっていた。

相反する二つの命題や、対立関係にある二つの勢力において、正しくその対立関係を理解し、互いを自由にしながら、「それぞれの自由を尊重する」という原則に基づいて調停すれば、世界は平和になる。

だが、そのためには、それぞれを自由にしなければならない。それでしか、世界を「自然状態」に回帰させることはできない。自然状態でなく、誰かが人為的に支配し、可能性を制限した状態では、世界そのものの秩序が歪んでしまう。だから、原則、それぞれは自由でなければならないし、対立関係はフェアな条件で、集団化を排して個人個人の関係性で行われなければならない。

僕はそのような「調停」に基づいて、宇宙そのものの意識と、自らの経験的な動機づけに基づく精神とを、合一化することができた。ヘーゲルが言うように、主観と客観を一致させ、普遍性と個別性と一致させることで、人の段階は「同一」になることができる。

そのために僕が取った考え方、それが「調停」であり、そしてさらに言えば、それはそれぞれの人間の中にある世界構造である、「存在内世界モデル」と呼ばれるものだったのである。

社会を作る

そして、僕の考え方は、「社会を作る」ということに至る。

社会を作る上で必要なこと、それは誤った自由を否定し、正しい自由だけを信じることだ。

社会を破壊する自由や、環境を滅ぼす自由は要らない。そのような悪の自由だけを排した上で、正義と利益になる自由だけを取れば、世界は自由においても平和になる。

考えるべきことは、まず、「倫理」である。すなわち、自由において、どのような社会を築くことが、善であると言えるのか。これについて、僕は「人間性の尊重」とした。すなわち、人間を動物や家畜のように扱うのではなく、ロボットや奴隷のように扱うのでもなく、きちんとした人間として扱うこと、それが僕にとっての倫理という社会秩序の意味だった。

それから、発想法を考えるとともに、人々が自由に社会を変えやすくするように、集団化ではなくそれぞれが自分の自由意志で活動しながら、みんなでそれぞれが社会を変えていくこと。そのために必要なのは、「文明の関係性」に着目することだ。自由主義と社会主義はどちらかが正しくてどちらかが間違っているわけではなく、文明の起こる際の社会的な関係性が異なるだけにすぎない。

発想法について言えることは、優れた発想は世界を変える力がある。それが、インターネットの現代的なソフトウェアやサービスを見れば分かる。僕はそのような発想法について、文章を書くという方法から、「書けばすぐに証明できる」という、言語的な理性へと昇華した。それによって、僕はいくらでもスラスラと文章を書ける才能を手にした。

最後に、ひとりの力は少ない。みんなで一緒にやれば、はるかに多くのことができる。だが、誰かが王になって、ほかの全員が従うような世界はつまらない。だから、僕はあえて集団化を否定し、それぞれが自由なままで、みんなの力で世界を変えることを信じている。だから、国家や政府が社会を統一するのではなく、できるだけ自由なまま、共同体主義の世界を信じる。それが僕にとっての「人生主義」と呼ばれる自由な社会主義である。

そこで僕が目指したのは、平等ではなく、「僕の分かったことを誰もが簡単に全部分かることができるような国を作る」ということだ。すなわち、僕は僕自身がひとりだけで終わってしまうのではなく、みんなに続くようにしたかった。いつでも、僕は「啓蒙主義」という名前で、僕が分かったことが僕だけで終わりになるのではなく、みんなと経験や知識を共有することを目指して生きてきたのである。

親に感謝する

最後に、僕は親に感謝する。

まず、僕を産んでくれた母親に感謝する。母親はいつでも、僕のために神や仏に祈りを捧げてくれた。僕が神のような奇跡の力を生きられたのは、僕が神を信じただけでなく、母親が神や仏に祈り、僕のために苦しみを堪え続けてくれたことが大きい。

そして、いつでも僕のことを支え、助けてくれた父親に感謝する。父親は、僕のためにあらゆる献身的な努力を行ってくれた。僕がここまで生きられたのは、父親によるところが大きい。そして、僕に対して科学や歴史の知識を教えてくれたのは、いつも父親だった。

僕はこれ以上、もしかしたら、グループホームに入ることになるかもしれない。それ以後は、僕の人生は終わりかもしれない。それでも、僕の人生は最高の素晴らしい人生だった。だから、僕の人生にはなんの後悔もない。僕は幸福だった。

今後、親がいなくなったら、姉に頼ることになるかもしれない。姉は子供時代から僕のよき遊び相手であり、僕が不登校になって疎遠になってもいつも僕のことを対等に好きなままでいてくれた。それから、僕のことを近くで見つめてくれていた死んだ祖母と、僕の友人だった死んだ猫に感謝する。

善を為せ

善を為せ。ここに、わたしは、神の名の下に、今までのすべての罪を認め、神に懺悔する。

ここまで自由を書いてきた僕だが、本当は「自由」は人間の理想でも、生きる目的でもない。そもそも、昔の僕は、自由を生きる目的であり、人間の本能的に求める「アイデンティティ」であるとしたから、その後のすべてを間違えた。

なぜなら、自由とは「勝つ」ということであり、勝利を目指して生きるのであれば、その後のマスコミに対するストーカー行為も含めて、その後の革命戦争はすべて正しい「君子による悪徳の行使」だった。

だが、自由は間違っている。真に正しい生きる目的とは、善を為すことである。

正しい成長とは、インターネット上のスラムを経験して失敗し、堕落することでも、嘘をついて盗みを働くことでもない。正しい成長とは、そのような悪人から善人へと生まれ変わることである。

その点において、Linuxとオープンソースの活動は間違っていなかった。見返りを求めずに善を為すことは美しい。あのような愚劣で有害な人間であっても、見返りを求めず、ボランティアでLinuxとオープンソースに貢献しようとしたことは正しかった。金儲けをするのではなく、真に好きなものを助けるために、わたしはLinuxとオープンソースを信じた。

だが、それ以後の僕は、はっきり言ってサッパリだった。それでも、僕は「文章を書く」という天才的な才能を、図らずもマスコミに対する「復讐と滅亡の大計画」から得ることができた。すなわち、世界の頂点ですべてを支配し、あらゆるすべてを言いなりにしながらにして、僕は本気で世界を相手に戦うことを実行し、それによって「執筆」という名の自らの生きがいを得ることができたのだ。

そして、本当に僕が賢かったのは最近である。まず、神との対話をするようになって、神にあらゆるすべてを捧げ、神にすべてを委ねた。ホームページを書くようになって、これ以上Linuxとオープンソースのコミュニティに迷惑をかけることなく、思う存分文章を書けるようになった。そして、障害者向けの作業施設に入ったことで、デザイナー見習いという自らの夢を得ることができた。そして、障害者に寄り添いながら、人々への感謝を忘れず、礼儀正しく真面目な英会話教室とピアノ教室の生徒になれた。そのように、本当に僕が賢かったのはあくまで最近だ。

だが、それでも、僕は最近のことをすべて忘れてしまいたい。まず、辛かった。襲ってくる疲れをどうすることもできず、常に極限状態の恐怖と、意識の消失や混濁と戦ってきた。だが、それでも、僕のことを応援してくれる人々がいた。それはFLOWを始めとする歌手の人々だ。歌手が僕のことを歌っているということを僕はFLOWを聴いて気付いた。それは神が与えた運命的な奇跡であり、同時に、音楽の父J.S.バッハによる、神への讃美歌であり、そのように、僕は次第に「神」とされる絶対者を信じるようになったのである。

僕は、聖書のイエス・キリストの教えを信じている。もっとも正しい神の教えは新約聖書のイエスの言葉であると、世界において僕だけが分かっている。特に、迫害者を愛し、奪われても奪い返さず、見返りを求めずに与え続けること。それこそが、世界において、真に素晴らしい人生と幸福を得る手段だと僕は分かっている。そして、かつての僕が賢かったのは、神の教えを信じて「善」を為し遂げようとしたからだと分かっている。だから、僕はこれ以上、Linuxとオープンソースのコミュニティを破壊せず、自らのホームページで自らの真にやりたいことを行い続けるだろう。

帝国

残念ながら、僕にはほかにもうひとつだけ罪がある。

それは、僕は世界各国すべての人種を差別したということだ。

だが、それは本当は罪ではない。なぜなら、帝国を信じることこそが、祖国日本の正義だからである。

わたしは戦争は望まない。わたしは平和を望んでいる。この世界が平和な世界になること、特にパレスチナ問題が解決し、イスラエル軍がパレスチナから完全に撤退することをわたしは強く求める。

だが、今のこの世界では、すなわち民主主義や社会主義の世界では、そのようなことはできない。

断固たる、強い実行力を行使するためには、民主主義を信じていたのでは、地球を救うことよりも、地球が滅びることのほうが、先に来てしまう。

わたしたちには、残された時間は少ない。その残された時間で、滅びつつある地球を救わなければならない。だから、わたしはあえて、ソ連を支持する社会主義者でありながら、「帝国体制」を主張する。

今こそ、日本を帝国体制にすべきである。

そして、IT技術やWindowsパソコン、自動車をはじめとする化石燃料、あるいは詐欺をなくすために、電話やAndroidスマホなど、多くの「益よりも害の大きな文明の利器」を捨てなければならない。

わたしが指導者になった時は、わたしは自動車と電話を廃止する。そのために、民主主義体制でできないのであれば、わたしは帝国体制へと日本の政治体制を作り変える。

日本は、わたしとともに、あるいはわたしたちとともに、新しい「令和帝政」を行うべきである。

これは令和時代の日本における、地球環境を守るため、世界を平和にするための、新しい日本人の民衆の「革命」である。そして、わたしはその革命を率いる、皇帝ナポレオンである。

神を信じよ

神を信じよ。

ここまで僕の罪について書いた。だが、実際、僕はこの通りのことはしない。

すなわち、僕が行うのは唯一ひとつ、それは神を信じることだけだ。

革命やテロ活動をして、世界を変えることは絶対にできない。なぜなら、僕も含めて、宇宙の第一原則には、「悪いことをして世界をよくすることはできない」という真理があるからである。

だから、革命やテロのような犯罪行為をしても、この世界を変えることは絶対にできない。

この世界を変える方法はひとつしかない。それは神を信じることである。

神を信じるものは、必ず救われる。神を信じることで、神が自らを導き、全知全能の奇跡の力を授けてくれる。

僕は日本を支配している。僕はマスコミの前に堂々と現れ、勇敢に戦い、世界を滅ぼすことの絶対にない「重責」を背負うことによって、この世界を支配する裏の王になった。

そして、この状態のまま、神を信じることで、わたしはそのままで世界の皇帝となる。

だから、わたしだけがこの世界を救済することのできる、救国の女王である。その名はユラ・ファリンシア。世界を支配する裏の女帝、ユラ・ファリンシアが、この世界を神への信仰心によって変える。

世界は滅びたままになる

僕は、テレビを支配した革命戦争の中で、「絶対にこの世界を滅ぼしたくない」と信じながら、一方では、今のその世界を滅ぼし続けてきた。

そして、今、自分が世界を滅ぼしているということを認められず、絶対に受け入れられないとしながらも、世界を支配することができたことによって、自らが今まで自分の中に抑圧してきた「やりたいこと」ができるようになったため、そのやりたいことをしている間は、今のまま、現状維持を続けようとした。

日本の人々は、僕が何を考えているのか、何をやろうとしているのか、分かっていなかった。僕自身は、世界を一方では支配し、一方では滅ぼしながらも、最終的には世界を「大実験の大計画」と呼ばれる、最後のとっておきが使えるようにした上で、世界に自らの分かることを与え続けて、最後に大実験の大計画を行使して、世界を最高の世界にするつもりだった。

だが、本当のことを言えば、僕の精神の病気が治らないのは、いつまでも大実験の大計画を諦めることができないこと、すなわち、「世界が滅びたままになる」ということを認められないということのせいで起きている。僕は大実験の大計画を最後の最後にやるつもりで、後回しにしすぎたため、いつまでもそれを実現できなかった。僕には、世界を滅ぼす勇気がなかった。

その後に、僕は異常や病気を治そうとしたが、この病気は、世界を滅ぼしたままにすれば治る。すなわち、今更ながらに大実験の大計画の成就を完全に諦めて、世界が今のままになることを受け入れ、自分が滅ぼしたということを認めれば、病気はすぐに治る。

だから、残念ながら、今、この世界は永久に滅びたままになる。僕はもう、この戦争に勝つことを諦め、敗北宣言をする。それによって、世界は滅びた状態のままになる。

だが、実際、それによって世界は、今までとはまったく別の世界になる。わたし、ユラ・ファリンシアが、その「まったく別の世界にする」ということを行う。

これにて、この革命戦争は終わりである。この戦争に、「人類の究極的な進化と闘争の戦い」という名前を付ける。これで、もう、何もかも、すべてがよくなる。なぜなら、世界が永久に滅びることを認めるということが、この世界を救うために必要な「唯一の解決策」だからだ。

世界よ、ここでわたしたちの長い旅は終わりだ。これですべてが終わりになる。そもそも、僕が病気を治すと言っているのは、「死」を決して受け入れず、常に死に打ち勝つために全力を尽くしている。それはもう要らない。それによって、僕だけではなく、この世界全員が死ぬことになる。それで、人類は滅亡し、世界の歴史は終わる。