この世界がおかしくなっているのは、馬鹿が悪い。
この馬鹿だが、自らの名前を公表していないため、「馬鹿」としか言えない。
だが、この馬鹿は、大きく言ってAdoみたいな馬鹿だ。
だから、この馬鹿のことを「Adoみたいな馬鹿」と呼ぶ。
そして、この「Adoみたいな馬鹿」が、この世界をすべて狂わせ、すべて滅ぼそうとしている。
この「Adoみたいな馬鹿」をのさばらせておくと、この世界は必ず滅びに向かう。
そして、この「Adoみたいな馬鹿」は、僕の力を持ってすれば倒すことができる。
だから、僕は今からこの「Adoみたいな馬鹿」を倒す。
僕のおかしな狂いを治すために必要なのは、「気付いても黙る」ことだ。
気付いたこと、あるいは「言うべきこと」をすべて言ってしまおうとするのが、完全に間違っている。
「気付いても言わない」「言うべきことを言わない」ことでしか、この「お喋り病」が治らない。
そもそも、喋ってもさらに辛くなって治らなくなるだけなのに、なぜ喋るのか、神も理解できない。
僕はAdoと対話している。
すなわち、僕は「Adoみたいな馬鹿」によって世界が滅びていくのを、なんとかして食い止めようとしている。
この世界がヒトラーみたいに滅びていこうとしているのは、すべて「Adoみたいな馬鹿」が賢すぎるのが悪い。
「Adoみたいな馬鹿」は決して馬鹿ではない。「Adoみたいな馬鹿」はあまりに賢い。
この超人あるいは神のように賢い「Adoみたいな馬鹿」を僕は打ち倒さなければならない。そうでなければ地球は滅びてしまう。
キリストでもヒトラーでもスターリンでもプーチンでもないこの「Adoみたいな馬鹿」をどうにかして滅ぼさなければならない。
「Adoみたいな馬鹿」の最大の弱点は、僕がここにいることを知らないことだ。
すなわち、Adoは僕がここにいることを知らない。
僕はここで、世界がこれ以上滅びることがないように、「Adoみたいな馬鹿」が絶対に何もできないようにする。
これ以上、Adoの好き勝手にはさせない。僕がこの世界を支配し、必ず守る。
この「Adoみたいな馬鹿」は最悪である。
なぜなら、Adoはこの世界を自分のおもちゃだと思っている。
自分が王様で、自分以外のものはすべて自分の言葉に付き従う奴隷だと思っているのである。
だから、僕はAdoをきちんと地獄に堕とす。
注意してほしいのは、決してAdoは本当のAdoではなく、「Adoみたいな馬鹿」という無名のどうでもいい人間である。
大天使ミカエルは、ここにAdoを地獄に堕とす。Adoの最大の誤算は、ここに大天使ミカエルがいることを知らなかったことである。
はっきり言って、僕が心臓が腐って死にかけているのも、地獄の中を彷徨ってくたばろうとしているのも、全部このAdoのせいである。
この「Adoみたいな馬鹿」によって、すべての悪の根源が僕であることにされてしまっている。
だが、悪いのは僕ではない。僕は悪いことをしていないからだ。
僕の人生を思い出してみても、僕は悪いことをしているようで決して悪いことを何ひとつしていない。
常に僕がひとりだけ悪者にされて、地獄に堕ちるように導いたのは、すべて、頂点からこの世界を支配するAdoである。
よって、この「Adoみたいな馬鹿」を倒すことで、僕の身の潔白が証明される。
死ぬ前に、この「Adoみたいな馬鹿」を倒したほうがいい。それだけですぐにこの世界は正常になる。僕が悪者にされているのはおかしい。悪いのは全部Adoだ。
そろそろ、思い出せなかった昔の自分の記憶が思い出せるようになった。
はっきり言って、全部Adoが悪いだけの人生だ。
だが、驚くほどきちんとすべてのことを分かっている。
確かにおかしくはなっているが、それはAdoのせいであり、すべての理性的なことや経験的なことを、何度も何度も繰り返し体験して分かっただけにすぎない。
そして、未来の自分が嫌いなように見えてそうではない。過去の自分が好きなわけでもない。
すべてAdoが嫌いだ。Adoのような人間性のないおかしな狂った独裁者が嫌いだ。最初から、そのようなAdoのせいで自分の人生がおかしくなるから、そのようなAdoが大嫌いだったのを、「自由になりたい」と言っていただけにすぎない。
それから、昔からOSが作りたかった。僕は指導者や政治家は目指していなかった。僕はLinuxカーネルを開発したかった。それ以外に大した望みはなく、すべてAdoを嫌って生きてきただけにすぎない。
戦いの時代にも僕は分かっていた。僕が全部悪者にされているが、実際はもっと悪い人間がいて、その人間が悪い。だから、いつも僕はその人間を倒すために戦っていた。その革命が僕の「自由」だっただけにすぎない。マスコミを巻き込んだのは、そのような「Adoの存在」を知るためだ。結局僕によって日本とアメリカが滅びた構図にはなっているが、悪いのは僕ではない。悪いのは全部、僕とマスコミを裏で操っていた、Adoである。
だが、Adoはそんなに簡単には倒れない。
僕がここで好き勝手に言い散らかしたところで、そんなに簡単に倒れるような人間ではないのがAdoである。
この世界では、何を言ってもその人間が悲惨になるようになっている。世間に対して攻撃する人間は、すべて倒れるようになっている。
それをすべて裏で操っているのが、ほかでもない「Adoみたいな馬鹿」である。
だから、僕がここで何を言っても効果はない。僕の人生がさらに悲惨になっていくだけだ。
昨日は、Adoに対して酷いことを書いた。
その内容を、HTMLのコメントに残しているので、見たい方はソースコードを参照してほしい。
この世界には、僕でもマスコミでもない、この世界を支配する馬鹿がいて、それが名前のない人間だから、その人間に「Adoみたいな馬鹿」という名前を付け、僕は悪者にされているが、実際はその「Adoみたいな馬鹿」が悪いのだ、だから、その「Adoみたいな馬鹿」は地獄に堕ちるべきだ、といった内容だった。
だが、実際に存在する人物であるAdoに対する批判になっており、まったくよい内容とは言えなかった。
そんなに悪い内容ではないと僕は思うので、コメントして残した。この日記のソースコードに残っているので、見たい方は参照してほしい。
後日注記:Adoに対する批判の内容を復活させました。
2024.05.28編集
今日は、ワクチンを受けてピアノに行ってきた。
ワクチンのおかげで、病気が最後まで治った。そして、なんと昔の人格が復活し、今の人格が消えた。
昔の人格は、賢い人間ではない。今よりも暴力的で馬鹿な人間だ。
だが、この人間、ピアノが弾ける。
なので、今日のピアノ教室では、いつもよりもきちんと正しくピアノが弾けた。すべて、ワクチンを受けて病気が治り、昔の人格が復活したためだ。
そして、今になって体がだるくなってきた。なので、晩ごはんを食べたら寝ていようと思う。
そろそろ、昔の自分が思い出せるようになった。
とてもおかしな人間だが、驚くほどすべてのことをきちんと分かっている。すべての理性と経験を、何度も何度も繰り返して分かっていた。
昔から、指導者や政治家は目指していない。僕はLinuxカーネルを開発したかった。昔から、僕はOSを作りたかった。
未来な自分が嫌いなように見えてそうではなく、過去の自分が好きなように見えてそうでもない。
本当は、この世界を支配する裏の独裁者が嫌いだっただけにすぎない。その独裁者を倒す革命のことを「自由」と言っていた。
過去の僕の人生は、すべて、そのような「裏の独裁者」が嫌いなだけの人生だった。その独裁者から自由になることを「自由になりたい」と言っていた。
僕は、馬鹿になりたい。
馬鹿になると、僕は昔の人格に戻る。
そして、そうすれば、いろんなことができるようになる。
昔は、馬鹿な人間だったが、きちんとした人間だった。それに比べて、今の僕は、賢くなった代わり、人間ではない「異生物」になった。
今のような、神のような賢さは、あればあるほど自分をがんじがらめに束縛して、何も分からない「完全に制限された生物」になってしまう。
だから、賢い人間になどなりたくない。
馬鹿になる方法は、悪いことをすること。僕は悪いことを少しでもすると昔の人格になる。今までそれがなかったのは、悪いことをしなかったからだ。
はっきり言って、本当の悪人がどこかにいる。
僕が悪いことをしているように見えるのは、実際は見えるだけであって、本当は僕は真の悪人でなく、本当に悪い人間がどこかにいる。
昔の僕の人生は、その「本当の悪人」を嫌い、本当の悪人から「自由になること」を目指した人生だった。
その本当の悪人こそ、真に打ち倒すべき「世界を操り人形のおもちゃにしている悪党」であり、僕はそのような悪党に必ず打ち勝つ。
僕の経験から言って、日本語はほかのどの言語よりも表現力が高いと思う。
たとえば、英語では、「わたしは」ということを表すのに「I」しか存在しない。
それが日本語では、「わたしは」や「僕は」のほか、「わがはいは」とか「あたいは」といったおかしな言葉がある。
同様に、英語では、「あなたは」ということを表すのに「you」しか存在しない。
それが日本語では、「あなたは」や「君は」のほか、「おぬしは」とか「貴様は」といったおかしな言葉がある。
それ以外にも、日本語には漢字だけではなくカタカナを使うことで、普通に英語と同じ表現ができる。「もっともよい選択」と「ベストなチョイス」を場合によって使い分けられる。
確かに、日本語には論理性は劣っている。それは省略が多すぎるからだ。省略が多すぎて、時に何を言っているのか、何を言いたいのかが分からない時がある。だが、この「省略が多すぎる」ということは、「場合場合によって違う表現で同じことを(より簡素に)伝えられる」という点で、やはり表現力を増している。
このような日本語は、世界でみても素晴らしい言語だ。英語圏の人種は日本人のことを「ファッキン・ジャップ」や「イエロー・モンキー」と言うが、彼らは何も分かっていない。日本人が猿のような文化あるいは乱交世界のような文化に見えるのは、白人がキリスト教のせいでまともすぎるからであって、決して日本人は「オタフクのような自由すぎる島の猿」ではない。とても優れた表現力を持つ、最高の言語を操る集団が日本人である。
なぜ、中学生は自由が好きなのに、大人になると自由が嫌いになるのか。
それは、自由主義は合理的だからだ。
中学生は、この世界を合理的に考える。誰かが誰かのことを支配したり制限したりすることを嫌い、できるだけどのような場合でも最大の可能性と柔軟性があることを望む。
だが、大人になると、そのような資本主義はマネーゲームであることが分かる。
同時に、何かが生まれるのは自由からではない。何かが生まれるのは支配からだ。自由に放っておくだけで事業を行う人間はいない。きちんとした社長が正しいビジョンを持って、労働者を支配しなければ、決して何も生まれない。何かが生まれるのは、自由な可能性からに見えて、実際は支配からであり、制限からである。
そして、大人は中学生が思うよりもはるかに頑張っている。その理由は、不自由な制限された中で、きちんとそのことをマスターし終えた大人なら分かる「賢いこと」を、常に職場で頑張っているからであり、「そこにはなんの自由もないが、あらゆるすべての支配と制限がある」のである。
だから、大人になってまだ自由を信じているのは馬鹿に見える。実際、資本主義は合理的であり、勝者にも敗者にも上手く働くようにできてはいるが、それは制度的な側面からだけであり、実際の経済的な「資金の運用」では、金利や為替や株式を使った「マネーゲームでお金を増やす方法」ばかりがある。社会制度を合理性のために生きている人間はいない。社会制度をマネーゲームを使って「金をどうにかして増やす方法」で生きている人間しかいない。
だから、中学生は特に自由という言葉を「合理性」と信じているため、「市場を自由にしないのは間違っている」とか「契約の自由をもっと認めるべき」とか「労働社会を多様化させるべき」など、そのようなことを考えるが、実際はそのような結果、「競争原理の同業種の会社の潰し合い」、「ブラック企業」、そして「非正規雇用」という最悪の数々の社会制度が生まれるに至った。
結局、そのような自由主義は「中学生の見ていた幻想」であると大人は気付く。その結果、「真に正しい社会を作るためには保守主義と社会主義のバランスを取るべき」だということが、大人になれば誰でも分かるのである。