そもそも、僕の病気が治らないのは、精神の正しい治し方が分かっていないからだ。
正しい治し方をせず、間違った治し方をしているから、いつまで経っても治るはずがない。
だから、間違った治し方をやめ、さまざまな治し方をすれば、精神はそのうち治る。
そもそも、僕が馬鹿なのは、精神があまりに疲れすぎて、まるでゴムのようになっている。
つまり、疲れが慢性的に溜まっていて、肉がゴムのようになっていて、簡単に休むだけでは治らなくなっている。
その治し方はひとつある。それは暖めて膨らませることだ。
すなわち、ゴムのような肉を焼いて柔らかくするのと同じように、ゴムのような精神を暖めて膨らませれば精神は治る。
それで、もう、精神は休めるようになる。そして、休めるようになるだけで、どうでもいい問題はすべて解決する。
要するに、休めない部分を休めるようにするだけでいい。それだけでどんな異常もすぐに治る。
休めるようになれば、それだけで精神はすぐに治る。だから、休めるようにするだけでいい。それさえ分かれば精神は自分で治せる。
だが、もし、病気になり始めて、最初の頃の段階なら、その時休むだけで精神は治っただろう。
だが、ここまでおかしくなってしまうと、簡単に休むだけでは治らない。
すなわち、おかしくなってから多くの時間が経ってしまった精神の異常は、簡単には治らないし、簡単に休むことができない。
だから、そのような精神は、一度本当に焼き直すしかない。精神は、焼き直せば治る。
自由のために戦え。
わたしは革命家だ。
わたしは、革命戦争の大義名分として、「自由」を信じている。
この世界が、真に自由な世界になるためには、戦わなければならない。
この世界を不自由な世界にし、不平等な独裁者が身勝手な支配をするような、そのような「悪党勢力」を打ち倒すために、わたしはひとり、立ち向かい、世界全部を敵にまわしてでも戦い続ける。
わたしの名は、宝玉法志郎。人の呼ぶわたしの名前はホッシーだ。
わたしは戦い続ける。わたしは真に自由こそが正しい理想であると確信している。
この世界を不自由にする存在がもしいたとしたら、それが自分自身であったとしても、わたしはその存在を打ち滅ぼす。この世界を不自由に変える存在がわたし自身だとしたら、わたしはそのわたし自身すら倒し、わたし自身が変えたその世界を滅ぼしてでも、わたしは信じる「自由」の理想に従う。希望が悪ければ絶望を選び、天国が間違いであれば地獄に堕ちることも辞さない。
わたし、宝玉法志郎は、世界を「自由連邦」の支配下に置く。
そして、世界全員が自由を失わないようにしながら、世界そのものが自由な世界になるように、この世界を導く。
わたしは支配を嫌う。だが、わたしは絶対に支配しないわけではなく、ほかの全員が誰ひとり間違った支配ができないようにした上で、たったひとり世界を支配する「善良な支配者」となる。
すなわち、わたしがたったひとり世界連邦(自由連邦・地球連邦)の支配者となることで、わたしはこの世界からあらゆるすべての支配を消滅させ、「完全に自由な世界」を築き上げる。
わたし、宝玉法志郎は、そのために戦う。わたしは、戦うことなしに自由を得ることができると勘違いしていない。自由を得るためには戦う必要があり、単に戦うだけではなく、戦って勝つ必要がある。だが、戦って勝つために、わたしは軍事力を使わない。なぜなら、世界を自由にするために必要なのは、軍事的に勝利することでなく、より別の方法で戦い、より正しい方法で勝利することだからだ。
だから、わたしは文章を書く。そして、ペンの力で世界を支配する。ペンは剣よりも強い。ペンを使って文章を書くことで、この世界は自由な世界になる。それがわたしの戦いであり、わたしの革命である。
このような宝玉法志郎は、実際は共産主義者だ。
なぜなら、宝玉法志郎は、「自由な生産手段を作るべきだ」と訴えるからだ。
宝玉法志郎は言う。
「資本主義社会の本質とは、何か。資本主義社会の本質とは、ものを会社が作って売り、それを消費者が買う、ということだ。
ここで、消費者が自分でものを作ることができれば、消費者はわざわざ会社からものを買う必要はない。だが、実際は、消費者は自分でものを作ることができないから、会社からものを買うしかない。
なぜできないのか、それはものが会社にしか作れないからだ。すなわち、『会社が生産手段を独占しているから』である。そして、それはすなわち、『資本家が生産手段を独占している』ということである。
だが、実際のところ、会社がなければ人々は困る。それはものを作ってくれる人がいなくなってしまうからだ。
だが、会社が生産手段を独占せず、生産手段を公開したとしたら、会社のようなものを維持する必要は、少なくとも国民にとってはなくなる。
すなわち、会社の生産手段をオープンに国民全員で共有することができれば、その時点で資本主義社会は存在する意味がなくなるか、あるいは、資本主義社会とはまったく無関係に、『わたしは自らのことを日本国民ではないと信じて、資本主義社会とは無関係に生きる』という宣言をすることすらできる。
まさしく、その時、わたしたちは、世俗的な資本主義社会から、『解放』され、『自由』になることができる。
だが、実際は、資本主義社会において、会社の持つ生産手段をオープンに共有することは難しい。会社が自らの研究費で開発した技術を、独占せずにオープンに公開することは、会社のビジネス戦略から言って正しいとは言えず、もちろん株主からも賛同は得られない。
だが、それでも、わたしたちが自由になる方法はひとつある。それは、『自由な生産手段を自分で作る』ということである。
すなわち、金儲けのためではない、最初から『自由になることを目指した生産手段』を作り、その生産手段をみんなで共有することで、わたしたちは唯一、資本主義社会の『しがらみと義務ばかりの何もできない支配』から解放されることができる。
だから、GNUやFSFのように、オープンソースやフリーソフトウェアの集団は正しい。この世界を支配する『資本主義社会からの自由』と『資本主義の世俗世界の支配からの解放』を目指すならば、GNUとFSFを支持するべきだ。そして、それこそが真の『オープンソース革命』なのである。」
ここで、主要な登場人物をまとめよう。
まず、新国家社会主義者のエリカは、新・大日本帝国において、女帝となって、まるで平安時代のような古代的な、しかしながら戦いや争いを好まない帝国を作る。彼女はネオ北欧神話を信じている。
次に、エリカに憑りついた悪魔であるリヒャルト・ベルヌは、イスラエルを支配するサタンであり、大悪魔ルシフェルとなって世界人類を最終的には滅亡させようと画策する。
そして、自由主義者であり共産主義者でもある宝玉法志郎は、自由連邦において、「自由な生産手段を作る」ということを信じて、この世界から「支配」そのものをなくし、資本主義社会からの解放を目指す。
そして、この三人は、同じ天軍大創主エリカという人間の中に存在する別人格であり、エリカ、宝玉法志郎、そしてリヒャルト・ベルヌは、全員同一人物である。
このような宝玉法志郎、愛称はホッシーだが、ホッシーは決して、この世界を滅びた世界にしたいわけではない。
ホッシーは、人々を抑圧し、いじめ、疎外するような、「迫害が当たり前の世界」の理由を、「資本主義社会を信じているせいである」と結論付ける。
ホッシーは言う。
「わたしは、新しい自由連邦を、全員が誰からもいじめられず、迫害されることのない、心の平穏と希望を信じ、正常でまともな、人類全員のことを考え、自由と平等を尊重した国にする。
わたしは、自らの信じる『自由』という理想を曲げない。
わたしの信じる自由とは、『ほかの人間の自由を制限しない限りにおいて、自らの自由は最大限尊重される』というものであり、この理想によっていじめや抑圧はなくなる。そして、わたしはこの理想を決して曲げることはない。
だから、わたしの作る自由連邦は、全員が迫害されず、いじめられず、国や政府や役人にとって都合のいい言論や、右翼の抑圧的な言論もすべてなくなり、人々は『真の意味で正しく考えた意見』と『人類全員の自由と平等を尊重した議論』を行うことができる。
わたしの信じる国においては、誰かひとりが自分勝手な支配を行わず、国民はそのひとりの下僕や手下にはならない。
わたしの国において、自由な共同体による評議会により、ひとりひとりの労働者に適切な仕事内容とノルマが与えられ、人々は真に自分に適した『相応しくやりがいのある職業』に就くことができ、そこで得られた利益や成果物は全員に平等に与えられ、同時に、ひとりが強欲に多くのものを所有することなく、全員に社会所有の財産が等しく平等に与えられることによって、わたしは『貧富の格差を完全にゼロにする』ということを実現する。
そのように、わたしは自由連邦を理想の楽園にする。権限や権力を持つのはわたしひとりだけだ。なぜなら、そもそも権限や権力というものが人類にとって『不要』であり、わたしがひとり支配者の地位に就きながら、『ほかの人間が誰も支配できないような支配』を行うことで、この世界から『悪の支配』をなくし、ただあるのはわたしひとりによる『善良な支配』のみになるからである。」
このように書くと、まるでホッシーが、悪党の共産主義者の独裁者と同じ類の人間であると人々は思うだろう。
だが、ホッシーは決して、悪の共産主義者ではない。
なぜなら、ホッシーは単に、旧態依然とした古びた保守的な社会体制を脱したいだけであり、昔からの保守的な日本社会が嫌いなだけだからだ。
ホッシーは、自由を信じている。それは単に、何もしないで放っておくだけの自由ではない。この世界をより素晴らしい、抑圧やいじめや疎外のような「悪が当たり前の世界」ではない、新しい自由な世界にしたいのだ。
ホッシーは言う。
「わたしの目標は、ソ連のように、共産主義国家の連邦を成功させることではないし、資本主義社会を打ち倒すことでもない。
わたしは、この世界において、この世界自体が、それしか選択肢が存在しない世界であるとは考えない。
すなわち、『今までの世界』とは別に、『未来において成り立つだろう今までとは違う世界』もまた、必ず存在するだろうと信じている。
そして、その中でも、『金儲け』という考え方は、脱することのできる古びた考え方であるのではないかと、そのように、わたしは、『旧態依然とした世界を疑う』ということをする。
あるいは、『自由な世界の実現の可能性』というものを仮定し、その仮定した世界が成立する可能性を考えるのだ。
だが、実際のところ、資本主義は悪だ。なぜなら、人々が抑圧やいじめをする原因は資本主義にあり、資本主義を信じている限り、絶対にいじめはなくならないからだ。
資本主義ではない、真に『自由な世界』というものをわたしは考える。
なんなら、そのすべてが実現可能でなくてもいい。実現可能な社会に限って考えるのではなく、『もしかしたらそのような社会も成り立つかもしれない』という、成立の可能性を常に仮定し、その実現方法を諦めず想定し続ける。そこから見えてくるものは必ずある。
だから、わたしはあえて、帝国主義も共産主義も自由主義も、すぐに選ぶことなく、肯定も否定もせず、すべての主義が並立して成り立つことを信じた上で、そのどれかが世界を救うことを期待するのだ。」