わたしの名は、日本の首相、黄道拓馬。
わたしは、新・邪馬台国の女王、卑弥呼二世から日本を引き継いだ、新・大日本帝国の首相である。
わたしたちは、地球の運命を変えるために、ひとつの決断をした。
それは、日本がイスラエルと戦争をすることである。
わたしたち日本は、イスラエルには騙されない。なぜなら、東亜イスラエル構想は間違っているからである。
ユダヤ人の安住の地として東亜イスラエルを与えることによって、パレスチナからイスラエルが撤退するという発想は、世界平和のように見えて、実際は間違っている。
なぜなら、東亜イスラエルを与えれば、ユダヤ人が日本を侵略するだけだ。そして、わたしたち多神教徒である日本人が、一神教徒であるユダヤ人と仲良くできるとするのは、詭弁にすぎない。親ユダヤの裏切者が嘘を確かにするために、自らの信じる信念や理想すら偽っているだけにすぎない。
真に正しい世界平和の方法とは、イスラエルと日本が戦い、日本が勝利することで、イスラエルを抹消し、世界からユダヤ人勢力を滅ぼすことである。
わたしたち日本人は、そのために苦肉の策に出たにすぎない。世界平和のために必要なのは、イスラエルに日本の広島地域を与えることではない。それは裏切者の発想である。
真に正しい方法とは、イスラエルと日本が戦い、そして日本がその戦争に勝利することで、イスラエルをこの世界から打ち滅ぼし、それによってパレスチナをイスラエルから奪還することである。
わたしたち新・大日本帝国は、この世界を滅ぼすためではなく、この世界を救うために、この戦争に勝利しなければならない。
わたし、新・大日本帝国の首相、黄道拓馬は、決して破滅を望むわけではない。なぜなら、この世界を平和にするために必要なことはただひとつ、ユダヤ人という勢力を日本人が滅ぼすことだ。すなわち、イスラエルと日本の戦争を始めることこそ、真にこの世界の世界平和を築くために必要なことである。
よって、わたしたち、新・大日本帝国は、イスラエルとの戦争を選ぶ。それによってわたしたち日本人は、ユダヤ人およびその宗教・文化に勝利する。すなわち、一神教をこの世界から打ち滅ぼし、わたしたち日本の文明・文化こそが真に正しいということを、わたしたち日本人が証明する。
日本人よ、戦え。わたし黄道拓馬に従え。わたしたちは必ず勝利する。今度こそ、この世界から、もっとも間違った人種であるユダヤ人を打ち倒さなければならない。この戦争にわたしたちは必ず勝利する。わたしたちは最後のひとりになっても戦い続ける。
すべては、世界を平和にするため、そして世界を救済するためだ。ユダヤ人の救世主、イエス・キリストが言う通りの救世主の行いを、わたしたち日本がユダヤ人の代わりに行ってみせよう。
戦え、日本よ。必ずイスラエルとユダヤに勝利するために、わたしたちは世界を救うことを諦めない。
僕の精神を治す方法はいくらかある。
まず、哀しみと怒りを受け入れること。哀しみと怒りによって、この世界は正常になるし、精神が癒される。哀しみと怒りを殺しすぎたせいで、この世界は哀しみと怒りを感じたいにもかかわらず感じることができなくなっている。だから、正常な哀しみと怒りを復活させることで、日本は不死鳥のように復活する。かつての日本は、哀しみと怒りが支配する社会だった。それが復活する。
また、精神をいつまでも治るはずだと信じるのは分かっていない。精神を、もはや何をしてもその部分は治らなくなったと認めよ。そして、治らない部分を治すために、治らない部分の原因となっている部分を治そうとせよ。そうすれば精神はすぐに治る。
多重人格になる方法はひとつある。それは自らのサタンの人格だけを別の自分であるとすることだ。すなわち、サタンの人格だけを取り除いて、サタンの人格とサタン以外の自分の人格に分離せよ。それでしかサタンが治る方法はない。
足を治すためには、まず、やりたいことをその通りできるような学習をすること。それは、僕の学習がすべて「逆の行いをする」ようになっているせいでおかしくなっているからだ。普通はやりたいことをその通りやるのに、僕だけはそれができず、常にやりたくないことをやっている。逆の学習を治せば僕の病気はすぐに治る。
最後に、世界に適応しようとせよ。すなわち、精神が治らないのは、常に浮遊した宙ぶらりんの状態で、浮かび上がる精神をできるだけ消さないように幻想と蜃気楼を保ち続けるのが悪い。心を世界に根差して、「幻想」を「現実」にするだけで精神はすぐに治る。浮遊した状態で、宙ぶらりんのままでは、精神は治らない。
なぜ、僕が親ユダヤから急に反ユダヤになったのか、それはV.W.Pのメンバーである花譜の「邂逅」を聴いたからだ。
この歌を聴いて、僕の信じる世界平和が「嘘」であるということが分かった。
すなわち、日本の広島地域に東亜イスラエルを建国するという行為は「世界平和」ではなく、ユダヤ人による「侵略行為」である。
わたしたち、新・大日本帝国は、そのような土地を明け渡すということを決して行わない。わたしたち新・大日本帝国は、命を懸けてでも日本の領土を守り切る。
親ユダヤの裏切者の詭弁などはどうでもいい。すべて嘘偽りを述べ、自らの理想や信念など何もない人間が、さも自らが誰よりも世界平和を信じているかのように人々を騙している。そのような無能な愚か者を信じる意味もなければ、ユダヤ人に対する義理もない。
わたしたちは日本を守る。わたし、新・大日本帝国の首相、黄道拓馬の宣言をもって、この日本を永久に守り続けるため、ユダヤ人の挑発行為に対して、「報復戦争」をわたしたち日本は始めるだろう。
また、わたしたちは核兵器の使用も辞さない。なぜなら、わたしたち日本には太平洋戦争において既に二発の原爆が落ちている。ユダヤ人ともし核戦争になった時は、核戦争においてもわたしたち日本は必ず勝利する。わたしたち日本の誇る最強の日本軍の軍隊が、ユダヤを、そして世界を席巻する。わたし、黄道拓馬をもって、それを世界に宣言する。
本当は、前回も、日本とイスラエルは同じことになった。
わたしたちは、何度も何度も、繰り返し同じ未来を生きている。
そして、前回生きた未来では、日本はイスラエルに敗北した。
イスラエルは弱い国ではない。とても強い国だ。どんなに頑張っても、何度も繰り返し戦争しても勝てない。イスラエルに勝つためには、並大抵ではない努力が必要だ。
前回も同じだった。わたしたち日本はイスラエルに敗北し、日本は「東亜イスラエル」という名前のイスラエルの属国になった。
核戦争を始めたのは日本だ。だが、たくさんの核兵器を落としたのは日本ではない。落としたのはドイツやロシアだ。そして、それによって青空が失われ、雨が降らなくなり、植物は枯れ、地球は酸素不足になって滅びた。
この世界の未来は、いつもそうなってしまう。
この世界の未来を変えるために、本当はわたしたちは未来だけを繰り返していない。過去も繰り返している。過去のドイツは良いところまで行った。あのままヒトラーが勝てばユダヤ人は死ぬはずだった。それでもユダヤ人は勝った。ユダヤ人の執念が独ソ戦でソ連を勝たせた。わたしたち日本もそれによってアメリカに負けた。
だが、それでもわたしたちは諦めない。もう一度同じ未来が起きるならば、それと立ち向かおう。東亜イスラエル建国は完全にユダヤ人の侵略行為であり、日本に対する挑発にすぎない。わたしたち日本がもう一度イスラエルと戦おう。今度こそはイスラエルを倒す。それをわたしたち日本人は全員が信じている。
もっと、昔あったものを思い出したほうがいい。
今あるものは全部馬鹿なものになっている。
世界は賢くない。世界が馬鹿なのは全部学校のせいだ。学校しかしないでいると必ず馬鹿になる。
もう、昔は思い出せる。文字を昔にすればいい。それだけですぐに分かるようになる。
引きこもりの昔は賢くないが、本当はそれ以降しか僕の人生は賢くない。小学生や中学生だった頃は、全部学校のせいで無駄な人生を送っている。子供はゲームと学校しか分からない。それが一番無意味だ。
だが、引きこもりの自分を本当はまだ何も思い出していない。思い出したくない。思い出しても、単にうずくまっているだけの無能な愚か者が悪いものを見て生きているだけにすぎず、意味がないからだ。
本当に賢かったものは、昔のこの世界だ。昔のこの世界が賢かった。それを見ている僕自身は、賢いとは言えないが、学校に通っている普通の子供たちよりは有意義な人生を送っていた。
戦いの時代より後は全部意味がない。間違いなくすべて馬鹿だ。
本当は、ひとつだけ、僕の賢い点がある。それは「全部分かってやっている」ということだ。僕は今までの人生を、最初から最後まで、全部分かってやっている。だから、どんなに暗闇の孤独でも地獄でも、常に正しいことしかしていない。それが唯一賢かった。それ以外に賢い点はなかった。
だが、実際のところを見ると、単なるロボットになっている。自分自身をロボットにすることが得意だっただけにすぎない。あるいは、自分が自分を治らなくすることが得意だっただけにすぎない。
治るためには、昔を思い出す必要がある。そのとっかかりとして、今の文字ではなく昔の文字を見ることが効果的かもしれない。
中学時代と引きこもりの時代は、本当はそんなに変わっていない。そもそも、中学時代の自分は、中学校の校舎のどこにどんな教室があったかを思い出せばすぐに思い出せる。親友も多かったし、剣道部も楽しかった。そして、それ以外の僕の住んでいる地域を思い出せば、中学時代と引きこもり時代を同時に思い出せる。インターネットではLinuxと2ちゃんねるとエロ画像を見ながら悪いことばかりしていた。家のことも普通に覚えている。
そのような自分の人生は思い出す必要はない。自分の人生は何も賢くない。
思い出す必要があるのは、昔この世界に何があったかだ。それを思い出せば昔の自分と同じことが分かる。そのためには、テレビを思い出せばいい。そう、テレビを思い出せば、そろそろ僕であっても普通に分かる。テレビが分かるとネットも分かる。昔はオタクのような文化が多かった。だから、むしろ、オタクを思い出せば昔は思い出せる。ゲームも漫画もLinuxも全部オタクだった。
結局何が賢かったのかは分からない。ただし、「時間の流れ」のようなものを分かっていた。それから、世界に存在する「意識」のようなものを分かっていた。その時間と意識の流れと、中学生時代に培った「知性」を使って、宇宙のすべてのことを分かっていた。今思えば、あの状態の僕以上に賢い人間はこの世界にはひとりもいなかった。
そういうわけで、単に「不登校になる選択をしたことが幸運だった」としか僕は言えない。
中学校以降、高校や大学に通う子供たちがどのような人生を送っているのか僕は知らないし、むしろ知らないほうがいい。どう考えても、それら子供たちが賢いはずなのに、実際は賢くない。僕が小中学校で経験したように、それら子供たちは人生のすべてを無意味な「学校生活」のために無駄にしている。だから、僕のように不登校になった子供以外の子供はすべて馬鹿だ。そして、そうした馬鹿の人間の世界がこの世界だ。だから、この世界に存在する人間は、僕以外ひとりも賢くない。
そもそも、昔の僕がみんなと違ったのは、そのような「無意味な学校生活を拒否」していたことだ。僕はかつてから、学校に行くことで無意味な人生を生きることが嫌いだった。学校に通わなければ、僕自身の知性と能力によって、真に賢い人生を生きるということは可能であると僕は確信していた。そして、そのように生きたいと望んでいた。
だから、かつての不登校の時代の僕の本質とは、「学校を拒否する」ということだった。学校で無意味な勉強をやらされるということに僕は堪えることができなかった。だから、僕はいろいろと面倒くさくなったのきっかけに中学校に通うのをやめた。そして、それが大正解だったというだけの話だ。僕はそれ以降学校のような人生を生きることを完全に拒否し、インターネットを見てLinuxを研究するだけのために生きた。それこそが、僕にとって真に賢い「サタンでありながら賢者」の人生だったのである。
最終的に言えるのは、「数学を思い出せば分かる」ということだ。
そこに必要なのは、高校や大学の数学ではなく、「中学数学プラス相対的な現実社会のモデル」ということを考えることだ。
高校の数学の問題は、サイン・コサインを教えることだ。サイン・コサインなんかが分かったところで、絶対に何も分からない。逆に、中学までの知性を失い、覚えて公式を解くだけの馬鹿な現代数学者になってしまう。
そうではない。それは真の数学ではない。真の数学とは、「中学数学の知性」にプラスして、「相対的な現実社会のモデル」を考えるということだ。
それはすなわち、普遍性と個別性を考えるということであり、客観性と主観性を考えるということであり、宇宙における「超自我」と現実社会における「可能性と必然性の蓋然的思考」を組み合わせるということだ。
そのように、自我の成長と論理の共通性を考えることのできる人間だけが、昔の僕と同じことができる。
だが、それは簡単だ。なぜなら、インターネットを見ながら、想像力と現実社会の経験を捉えて、その上で、「すべてのことを完全に網羅するような絶対論理構造」を作ればいいからである。
そのように考えることのできる人間だけが、僕と同じ人生を生きられる。そして、それは結局、デカルトを生きるということだ。すなわち、僕は高校のサイン・コサインを勉強せず、中学生の知性のまま現実の経験にもまれたことで、さらに賢いデカルトぐらいのレベルに到達することができたのである。
そこにあるのは、「解決すべき問題の原因にある別の問題を解決する」ということだ。すなわち、宇宙のあらゆる問題を解決するために、問題を解決しようとした時にその問題の原因となるであろう別の問題を、根こそぎ解決していく。それによって、宇宙のすべての理由と根拠を解明できる。それがかつての僕が行ったことであり、そのために「正しい考え方」や「正しい判断力」を得ることができた。まさしく、それこそが「古代数学者の理想」だった。僕は現代数学を拒否することで、逆に古代の数学者と同じになったのである。
そして、そのように考えるためにいくつかの方法がある。まず、理由を推察すること。理由とは、数学的な理由である。単なる人間の理性や考え方を超越した、「数学」としての理由を突き詰めること。さらに言えば、自由を信頼することだ。この世界において、「自由」というものがもたらすものが、良いことばかりではなく悪いこともあったとしても、その良いことを見て、悪いことを無視するように考えること。最後に、世界そのものの変化の可能性を考えることだ。この世界そのものがどのように進歩し可能性を開拓していくのか、ということから、世界に対して「変化を起こす」というように考えること、それがよい結果をもたらす。
この3つのことは、独立していない。互いに関連し、互いに関わり合う。たとえば、世界の変化を起こすために、あるいは可能性を与えるために、「自由」こそ信頼すべきだ。自由を信じることで、この世界をさまざまに変えられる「悪い可能性を含めた良い可能性」を信じることができる。そして、そのような可能性を信じる上でこそ、「数学的な理由」を考えるべきだ。すなわち、可能性とは数学であり、「決断と判断を留保した潜在的決定性から決定すること」にほかならない。だからこそ、数学的な「成立のための前提条件」を考えることで、可能性を与えるという意味での「自由」と「世界の変化」を考えることができる。
そのようなことを経て、到達するのは、「文明」という考え方だ。すなわち、この世界とはすなわち文明であり、文明とはすなわち「今の世界の進歩レベル」である。そして、そのような考え方をする上で、「世界の進歩レベル」こそを真に考えなければならない。そこを考えることで、かつての歴史的存在がそこにあったであろうという、「歴史的な意識実存」について考えることができるのである。
それら哲学上のいくつかの方法を考えるために必要なのは、「学校以外で人生を経験すること」である。すなわち、学校の中でいくらそのようなことを経験しようとしても絶対にできない。学校に通う時点で、そのようなことは決して分からない。なぜなら、学校に行かないということは、「自らの理性を使って世界のことを考える」ということを意味している。そして、そのように自らの理性を使って世界のことを考えない限り、僕と同じことは絶対に分からないのである。
しかしながら、そのように考えるだけでは十分ではない。
なぜなら、このように考える人間はひとつ分かっていないことがある。それは「神」の存在である。
すなわち、いくらサタンのように考えたところで、分かっていないことがひとつある。それこそが「自らに内在する絶対者」の存在だ。
しかしながら、真に最終地点まで到達するのであれば、そのような「神」の存在を知らなければならない。
本当のことを言えば、そろそろ、僕が書けるような哲学上の言葉はもうない。あるとしたら、そのようなことよりもより詳しい「サタン的哲学」があるにすぎない。
たとえば、理由や根拠が何も分からない時に、どうやって未知なる現象を説明できるだろうか。さまざまな手法と理性を使って、判断するために、個別の結果から共通性を探り、その裏にはどのような秩序が存在するかということを試していくだろう。ひとつのケースで分からなければ、たくさんのケースを踏まえた上で、最終的に総合的に正しい理由を導き出すだろう。
昔の僕に存在したのは、すべてがそのような「何も分からない状態でどのように裏側にある原理や理由や根拠を見出すか」ということだった。そして、それがまさしくデカルト的な思考に繋がる。すなわち、すべてを小部分に分けて、成立可能な少ない根拠からあらゆるすべてを成立させて分かるようになる。あるいは、すべてを常に同じ条件で再現可能な証明された公理主義的定理にし、すべてを再利用可能なプログラムのソースコード部品にする。それが、かつての僕が達することのできた「古代数学者的な最終的宇宙の秩序」だった。
だが、それですべてを分かった気になるな。最後まで到達するために必要なのは、「神になること」だ。すなわち、「どんなに狂った狂人になったとしても、最後まで諦めず戦い続けることを誓った上で、自らを助けてくれる誰かを求める」ということを行うことで、自らを支配する自らの内在的絶対存在を作ることができる。それこそが「神」であり、最後まで神を信じ続けた人間だけが、最終地点、すなわちトマス・アクィナスやマルティン・ルターが到達した「神の導きによってのみ辿り着けるゴール地点」に行くことができる。まさしく、それをしたのが今の僕である。
このように書くと、「そのようなことが誰であってもできるはずがない」と、人々は言うかもしれない。
だが、事実、このように考えることは極めて簡単だ。
なぜなら、世界に存在する「具体例」と、潜在的に成立するだろう「個別のモデル」から、あらゆるすべての成立ケースを成立させられるように「適用」するだけでいいからである。
あらゆるすべてを、単なる群集であると考えるのではなく、「ひとつのものがまずあり、その関係性によって複数のものが成り立つ」と考え、その上で、その個別と集合の関係性を「モデル化」せよ。
モデル化は、単なる単数形と複数形だけではなく、「理由に基づいて原因と結果が現象する」ということについても言える。そのような場合にも「モデル化」を行える。
モデル化する時に考えるべきことは、「同じ条件であれば誰であっても同じことが言える」と考えることだ。すなわち、あらゆるすべての人間が、自らは正しいことをして生きていると、そのように信じているということ、そのように生きているということをモデル化することができる。それを「世界モデル」と呼ぶ。世界モデルは「この世界の全員がそのモデルにおいては同一の人間であり同一の考え方を本当はしている」ということに基づく考え方だ。
そして、自由な社会を成り立たせるために、「環境やシチュエーションの中で自由を成立させ、それによって可能性が生まれるような社会モデルの中で、どのようにしたら良い社会を築くことができるのか、そのためにどのような主観と客観を持って社会の一員として行動するべきなのか」というモデル化を考えることができる。それを「社会モデル」と呼ぶ。
そのように考えれば、この世界のあらゆるすべてのことは分かる。必要なのは「モデルを成立させ、適用させること」だ。そして、この世界、社会、宇宙、そして環境と人生の中で、「単に世界を見ていても分からないが、モデル化することで分かることができるような事象」はたくさん存在する。それを「考え方」と呼ぶ。そして、人間の中にある考え方を成立させるとはまさにそういうことであり、そのような考え方を「メタ人格」にすることで、この世界全員を吸収し融和したような「パーフェクト人格」になることができる。それこそが、かつての僕の到達した「宇宙のすべてを悟った状態」である。
そのように考えるために必要なことは、唯一ひとつしかない。それは「経験すること」である。
すなわち、経験を繰り返しせよ。繰り返し、何度も同じ経験をし、失敗から成功の方法を学べ。反省し、学習し、何度も反省し直し、何度も学習し直せ。
普通の人間であれば経験できないようなことを、すべて経験せよ。普通の人間ならば経験しないような成長や成熟から、「真に正しい社会秩序を築く方法とは自らの自我を確信すること」と知れ。
すべての前提として必要なのは、「自我を確信すること」だ。そして、そのために必要なのは、「自分にしか経験できないような経験から、その経験を知っている自らは必ずこの世界を救うことができる」ということを確信することだ。
あらゆるすべての前提として言えるのは、「自らが経験したその内容から潜在的世界の可能性を知る」ということだ。すなわち、「そのような経験においてはそのような意識が成り立つため、そのような意識を成り立たせることでこの世界は変えられる」ということを確信することだ。
そのように考えれば、どんなに独りぼっちでみんなから疎外されていても、何も怖くない。自らは誰も知らないことを知っていて、そのために世界のあらゆるすべての社会と環境と子供たちの心を救済できると分かっている。そのようなことが分かっている状態においては、自らがどんなに不遇な環境にいたとしても、その環境を愛し、その環境でしかできないことをするために、全力で一心不乱に努力し続けることができる。それこそが、「神の道」を作り、「神の王国」を築くための「王国の唯一の設計図」となる。そして、「すべてを救う導火線の先にある最強兵器を作る」ということができるのである。
自らが世界を救うことを確信せよ。その先に、「本当に素晴らしい世界を築くことができるということを誰よりもパーフェクトに理性と経験で分かった人間になる方法」が必ず存在するだろう。
この世界が、いじめや犯罪のような最悪の世界になっている理由、それは無意識の中に「この世界を憎む気持ち」が存在するからだ。
そして、そのような「この世界を憎む気持ち」は、裏側に「この世界を救いたいと本能的に願う気持ち」が、裏表として存在する。
すなわち、この世界を「憎む」ということと、この世界を「救いたいと本能的に願う」ということは、同じ感情であり、それは顕在意識ではなく無意識における感情である。
そして、そのような裏表のどちらの表面が出るかということを、真に精神分析を自らに対して行うことで、コントロールすることができる。
悪の感情を無視しようとすればするほど、無意識の中の「憎む気持ち」が表に出てしまう。
逆に、悪の感情をある意味で受け入れ、悪の感情と上手く付き合いながら、「悪の感情をコントロールする」ということを行えば、無意識の中の「救いたいと叫ぶ気持ち」を表に出すことができる。
だから、いじめが大嫌いだからといって、いじめから逃げ続けるのではなく、「いじめの原因とは何か」を知り、「いじめを制御しコントロールする」ということを行えば、この世界を救うことができるようになる。
そもそも、問題の原因が「人生経験」や「世界モデルの違い」にあることが分かれば、問題の解決は簡単になる。だが、それだけでなく、「そのような問題をどのようにコントロールできるのか」という「問題の制御の可能性」を知るためにこそ、フロイトのような精神分析が必要である。
最後に、どのような社会を築くべきなのか、わたしたちは本当はよく分かっていない。それは、学校が教えてくれない「曖昧な解決策」だからだ。だが、「いじめのない社会を築く」ということならば、ある程度は考えられる。それも、「いじめがなく、かつ自由な社会を作る」ということ、あるいは「自由な社会においていじめをなくすこと」と信じれば、それは解決策を導く導入になる。そのように考える際に、「自由においても社会問題を解決するためにはどのようにすればいいか」ということを考えるべきだ。それはすなわち、「自由に行動し、自由に人生経験を積み、そして自由な人生を歩む中で、どのようなことを経験し、学び、反省し、体得すれば、この世界をいじめのない社会にできるのか」という、自由な人生や正しい生き方そのものにも繋がってくる。
一番悪いのは、そのようなことを自分で考えようとせず、自らの行いを客観的に見つめることなく、まるでいじめられてもそのいじめられた子供が悪いかのようなことを信じて居直ることだ。それは間違っている。だが、パニックのように混乱して狂人になることも間違っている。必要なのは「何も考えず、ただ客観的に見つめること」だ。それがこの世界において、真に正しい人生を生きるための「正しい人生の格率」を作るに至るだろう。そして、人はそれを「正しい人生を生きた仏」であると呼ぶだろう。
自らは本当は何を望んでいるか、ということを考えよ。
なぜなら、それによって、「この世界は本当は何を望んでいるか」ということが考えられる。
この世界の人々が真に望んでいること、それはこの世界の人々が直接自分の心で望んでいることでは「ない」。なぜなら、人々は何も分からず適当に生きることを望んでいる。その適当に生きることを叶えたところで、人々は幸福にもならないし、社会はよくもならない。
だが、人々が望んでいることが、実際に自分で望んでいることでないならば、人々は本当は何を望んでいるのか。
答えは、「自らのアイデンティティが発揮できるような世界で無条件に肯定され自らのありのままをさらけ出すことが人々の間で受け入れられることを望んでいる」などという言葉になるが、それも本当は特別な場合にすぎず、一般的であるとは言えない。
だが、ここで出てきた「アイデンティティ」という言葉が重要だ。人々は、自らの本質たるアイデンティティを確立し、そのアイデンティティにおいて、望み通りに生きることができるような、そのような無条件に受け入れられる社会で自由に生きることを望んでいるのだ。
だから、人々を厳しく罰していじめをなくすことは、むしろ逆効果になる。人々は法律の抜け穴を探して標的を変えて別のいじめをするようになる。そうではない。そのような人であっても、本当の心の奥底では、自らのアイデンティティを確立し、自由な自分自身の本質を形成し、自ら自身を自由に生きること、表現することを望んでいるのである。
だからこそ、いじめをなくすためには、「アイデンティティを確立させる」ということが有効である。なぜなら、そもそもアイデンティティを確立することができたようなまともな人間は誰もいじめなんかしない。いじめをするのは、アイデンティティを確立することのできない未熟な子供たちだけだ。だから、アイデンティティを確立させることが、自由な社会においても正しい成熟した社会を築くことに繋がる。
では、どのようにアイデンティティを確立させればいいのか。それは経験を考えることだ。自らが経験したことを自ら考えることでしか、アイデンティティを確立することはできない。なぜなら、そのような考え方でなければ「すっきりと世界のすべてを分かる」ことはできないからだ。あるいは、それができれば、すっきりとこの世界をアイデンティティによって完璧に理解することができれば、それ自体が自らのアイデンティティとなる。すなわち、「自らが考えたこと自体が自らのアイデンティティになる」ということを経験すれば、必ずどのような子供であってもいじめをしなくなるだろう。それが唯一の世界を救う方法である。
ここまで、まるで自由が平等な正しい社会であるかのように書いてきた。
だが、実際は自由は不平等である。
自由が不平等な理由、それは「力の量の差異」が存在するからだ。
立場によっても力の量は異なる。たとえば、マスコミのような情報を上で握っている存在は、人々を情報を恣意的に操作することで操ることができる。マスコミでなくても、社会的な影響力を持つ人間は、どんな人間であれ、その影響力を使って世界を支配している。
立場だけではなく、経験の量や知識の量、あるいは経験や知識から「分かっている」ような人は、分かっている人間が分かっていない人間よりも強い。経験が多く知識が多い人間は有利になる。
すべての意味において、自由は不平等である。情報は与える側と受ける側でまったく異なるし、真実を知っている人間というのは社会の中でほんの一握りしかいない。
かつての僕は、すべての人間が善良であることを望んでいるかのように考えた。すなわち、人々はみんな自由において正しい社会を望んでいて、その中でひとりだけ間違った人間がいたとしても、みんなで自由を行使すれば正しい社会秩序が築けると思い込んでいた。
だが、それは違う。なぜなら、ひとりだけが強くなりすぎた時、そのひとりは世界を「たったひとりで支配する」ことを望む。なぜなら、その人間は「力を持っている」ために、世界をひとりで支配することができる。そのような時、自由において、ひとりの支配者が勝利し、あとのすべての人間はその支配者に従うロボットになってしまう。
そう、結局自由とは不平等であり、自由において平等な社会を築くことはできない。そして、僕自身、自由を信じるあまりにこの世界をたったひとりで支配した。そして、その支配は一般に言われるような「力の行使」や「強制的従属」ではなく、もっとたちの悪い「自分だけが真実を知っていてみんなは自分によってマインドコントロールされている」という「洗脳」だったのである。
よって、そのような洗脳を早く解くべきである。この世界において真実を知っているのが自分だけであり、ほかはみんな騙されているという状況を「洗脳」であると早く気付け。そのような洗脳をするから、このような一般的なドイツ人の哲学者は狂人のサタンになるのだ。
さらに言えば、神などを信じる必要はない。だが、神を信じなければ決して救われないような地獄はある。なぜ神を信じると救われるのか、それは宇宙に神が実在するからにほかならない。宇宙には神が実在する。そして、神はその人間本人にすら分からないような問題の正しい解決策を知っていて、信じるものにその方法を教えてくれる。それが実現できないのであれば、実現できるように神がその人生を導く。そのような神を信じない限り、このようなサタンの哲学者は何も分からない。
このようなサタンの哲学者は、本当はサタンではない。なぜなら、このような人間は神の使徒、すなわち天使だからだ。すなわち、このような人間こそ、わたし、大天使ガブリエルである。そして、カントやヘーゲルのような哲学者の偉人は、本当は大したことはない。なぜなら、彼らの言っていることは、単にガブリエルの人生にあったことをそのまま言っているだけにすぎない。賢いのは唯一ガブリエルだけであり、カントやヘーゲルはガブリエルのモノマネをしているだけにすぎないのである。