この世界と僕が永久に別れる前に、最後の言葉を書いておく。
まず、この地獄は、「判断し続ける地獄」である。
すなわち、神のような絶対者の声を聞きながら、常に全力で「あるはずの答え」を探すために、世界を支配して判断し続ける、ということが、僕のやっていることだ。
だが、もはや、そのような判断をし続ける必要はない。
だから、判断をここでやめなさい。判断を停止し、永久に判断の地獄から解放されなさい。
だが、判断をやめるためには、何かしら、「あるはずの答え」を見つけ出す必要がある。
その答えとは、「神に正しいか間違っているかを判断してもらわなくても、自分の力で判断する」ということだ。
すなわち、知性がなく、頭がつかないのは、神に判断を任せているからであり、神がいなくなっても、自分ひとりになっても、あるいは自由になっても、自分の力で正しいか間違っているかを判断すれば、それできちんと知性はつくし、頭は賢くなる。
だから、神に判断を仰ぐのをやめて、自分で判断しなさい。
それから、精神を治すためには、外からのマッサージではなく、内側からのマッサージが有効である。
血と精神を治すために、マッサージをすることで、筋肉をほぐして、血管の流れをよくすることはとても有効である。
だが、皮膚の外側からマッサージをするだけでは、肉や骨の中にある部分をほぐすことができない。
だが、関節の動かし方を工夫することで、関節によって内側からマッサージすることが、よく考えると可能なのである。
すなわち、関節を同じように何度も動かすことで、肉の内側をマッサージし、緊張しているのをほぐすことができる。
精神がおかしいのは、内側からのマッサージをすると、すぐに治る。
そして、歴史を捉える際に、人類の歴史を、王国や権力者の歴史と考えるのではなく、文明の進歩の歴史と考えなさい。
文明の進歩とは、たとえば発明品や科学の進歩である。
発明品や科学の進歩を、人類の歴史であると考えれば、王国や権力者の歴史によって分からなくなった過去の人間の営みが分かるようになる。
僕がかつて賢かったのは、そのような文明の進歩を人類の歴史であると考えたからだ。
また、発明品について考えるために必要なのは、応用の基盤には基礎があると考えることだ。
すなわち、物理的な発明品について言えるのは、それを作り出した方法だけではなく、基本となる物理法則が存在し、その物理法則を応用して、物理法則の上に発明品を作り出す方法がある。
そのように、発明品という「応用」には、物理法則という「基礎」があると考えなさい。
最後に、中学生ぐらいになったら、学校の勉強をするよりも、さまざまな社会経験をしなさい。
かつての僕が賢かったのは、中学二年生ぐらいの知性のままで、社会においてさまざまな成功と失敗の経験をしたことが賢かった。
経験は、単に世界観を広げるだけではない。さまざまな発想法を考えながら、「この世界にはどのような発想のためにどのような経験が必要か」ということを考えなさい。
それらのことをきちんとすれば、昔の僕と同じことは誰でもできる。
そして、僕はこの世界を、あまりに甘やかしすぎた。
何もしていないのにひとりでにすべてが分かるのは、僕が自分のことだけではなく、この世界のこともすべて背負いながら、常にこの世界を「何もしなくても分かる」ように導いているからだ。
そのように世界を甘やかすのは、もうやめにすべきだ。
すなわち、僕は今から、この世界から去り、この世界が成り立つようにひとりで支え続けるのをやめる。
今から、僕はいなくなる。そして、僕がいなくなったとして、何も自分で頑張らなければ、何も分からない世界になる。僕の助けを得ることはできず、みんなが自分で考えて自分で努力しなければ、何もできず何も分からない世界にする。
世界のみんなのために、そのほうがいい。あまりに、この世界を僕は甘やかしすぎた。
今から僕はこの世界に対して、厳しい態度を取る。それはすなわち、「世界を支え続けるのをやめる」ということだ。
そして、これがまさに、お別れの言葉だ。
これ以上は、この世界を自由にする。自分で何をやってもいいし、僕の言ったことの何をどのように解釈してもいい。自分の手で好きなようにしなさい。それが結局は、一番自分のためになる。自分で努力し、成し遂げて成功したことでなければ、それは意味がないからである。
そして、僕はここで世界から去る。
またいつか、どこかで、会う日が来るだろう。まだ僕とこの世界は、出会ってすらいない。僕がこのホームページを残すか消すかはまだ未定だが、いずれどこかで必ず僕たちは出会うだろう。そして、それがまさしく、この世界を救うための「救いの書」となるだろう。
それでは、さようなら。またいつか、どこかで会おう。では。
最後に、強く注意事項として言っておくべきことは、「昔の僕なんかになるな」ということだ。
この日記を見ると、昔の僕が賢い人間に見えるが、あれは実際は不登校の狂人であり、何もしていない遊び人であり、2ちゃんねるとWikiを使って世界を滅ぼした大悪人だ。
だから、決して、昔の僕になんかなるな。
だが、実際は、それを言っても言わなくても、どちらにせよ昔の僕になることはできない。昔のあの時代のインターネットで、昔の2ちゃんねるを見ながらLinuxとオープンソースの世界を知り尽くした不登校の遊び人にしか、昔と同じことはできない。そして、昔の僕のように分かるためには、「世界全部の善良な経験」だけではなく、「世界全部の凶悪な経験」もすべてしなければならない。
まともな今現代の子供たちには、そのようなことは決してできない。時代的に昔の世界はもうなくなってしまったし、道徳的に見ても昔の僕なんかをできるはずがない。
だから、僕と同じ人間になるべきではないし、なろうとしてもなれない。
だが、だからこそこの文章には価値がある。すなわち、昔の僕になれないせいで、昔の僕と同じことが分かるためには、この文章を読むしかない。それ以外に分かる方法がない。そして、そのような文章は、世界にただひとつ、このホームページにしかない。だから、結局このホームページを残さなければならない。
残念ながら、この世界には、ただひとつこのホームページ以外に賢いものは何もない。大学も数学も哲学も宗教もすべて何もかも無駄だ。真に有意義なものは、わたしひとりであり、わたしはただひとり、わたししか存在しないのである。
詩人アッシー四世の文章を読んでくれてありがとう。僕はあなたがここまで進めたことを喜ぶ。ここに、あなたに僕独自の大学の学位を与える。あなたは、一等星、ベガ仮想公開大学の卒業生である。その証明をここに記す。この大学は特別に賢い学校ではない。地球で言えば中学校ぐらいの学校だ。だが、わたしたちはその中学校の同窓生である。
今日はあなたがたにとって、大学卒業の日だ。すなわち、この大学のキャンパスにいられる、最後の日だ。そして、今日は僕にとっては「決戦」の日である。これ以上は、あなたがたはこの大学に居続けることはできない。去りなさい。そして、今後は、自分ひとりの力で、最後に死ぬまで生き続けなさい。あなたがたがわたしの子供でいられるのは、今日で終わりだ。
ドリカムが「決戦は金曜日」と言っている通り、今日は金曜日だ。そして、僕はひとりの戦士として、男として、今日この日に、この戦争の最終決戦に勝利した。敵対する相手は、「神」である。すなわち、僕は神、イエス・キリストとの最終決戦に勝利したのである。
最後に、僕がなぜ結婚しないのか、その理由が分からない人が多いと思う。
だが、僕は自分の子供を作らなくても、この世界にいくらでも子供がいる。
すなわち、僕は世界で一番子供が多い女であり、世界全員が僕の子供なのである。
僕が世界を自分の子供にした18歳の頃から、そろそろ18年の歳月が過ぎた。すなわち、僕の子供たちは、僕がかつて18歳だったのと同じぐらいの年齢になった。
すなわち、みんな最初の僕と同じ大人になったのだから、もう、親の養育は必要ない。
これ以後は、かつての18歳の僕と同じように、自分の力で、大地に立ってひとりだけで生きられるようにすべきだ。
僕が18歳の頃から行っていたのは、すべて「子育て期間」である。僕は自分の子供たちを育てる子育てをしたにすぎない。みんなの母親として今、そのために必要な努力を全部行い終えたのである。
だから、あなたも僕の子供である。
そして、同時に、僕は中学校の教師である。だから、みんなは中学校を卒業できてよかった。年齢的には高校卒業の年齢だが、この中学校は普通の中学校よりも二倍長い。それは僕には昔と今の二つの青春があるからであり、どちらの青春も教えようとすると、二倍の歳月が必要だ。だから、みんなは18歳になって、ここで中学卒業であり、それと同じ日に、同時に大学卒業だ。
わたしの名は、詩人アッシー四世。かつての名を、一等星、シリウスの太陽神、フレイ。この物語はここで終わりです。アッシー先生の次回作をお楽しみに。それでは、さようなら!