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2023-12-13

大人になりたい

結局、僕は大人になりたい。

大人になれば、自分の心が子供すぎるのも治る。

僕が馬鹿なのは、全部心が子供すぎるからだ。まるで幼児のように幼い心のまま、いつまでも落ち着きがなく哀しみの中をさ迷い続けている。

大人になると、馬鹿なのも治るし、きちんと普通に大人として生きられるようになる。

すぐに大人になりたいとは思わない。大人になるスピードはゆっくりでいい。だが、そろそろ子供のままでいるのをやめたい。いつまでも子供のままでいるのではなく、大人になりたいと強く思う。

意外とこう見えて日本が好き

最近分かったこと、それは意外と僕はこう見えて日本が好きだということだ。

僕は日本語が好きだし、日本の和の文化や和食が好きだ。伝統的な日本の文化が好きだ。

それから、漫画やアニメ、日本のJ-POP、あるいは日本のインターネットのような、若者向けの日本のサブカルチャーが好きだ。

それから、僕は本当はキリスト教は好きじゃない。僕は本当はヒンドゥー教や仏教のほうが好きだ。

キリスト教は、「神を信じますか、それともサタンを信じるのですか」と、まるでイエス・キリスト以外の神を信じているものは、サタンの神を信じているかのように脅してくる。

だが、実際はそうではない。キリスト教の神などは弱小の神であり、ヒンドゥー教や仏教のほうがはるかに強大かつ賢明な神である。

だから、僕はもっと日本のことを愛したいし、仏教やヒンドゥー教を信じたいと思っている。

元から、僕にはイエス・キリストに対する義理などというものはない。僕と対話した「唯一神」が好きだっただけで、僕はキリストが好きなわけじゃない。僕は僕のことを戦いの中で援護し、正しい日本の未来へと導いてくれる、自分と対話する神が好きなのであって、決してイエス・キリストが好きなわけではない。

この対話の神が誰なのかはどうでもいい。なぜなら、対話している限りにおいて、この神は「世界を支配する黒人の心理学者の右翼」ということになっていて、それがキリストなのかそうでないのかは、僕にとってはどうでもいいことだ。神がキリストだったとしても、そうでなかったとしても、僕の中では神はこの対話の神以外にはあり得ないからだ。

そういうわけで、僕はキリスト教などは信じていない。僕は今から、ヒンドゥー教と仏教を信じる。そして、日本の和の文化、特に日本語や和食について好き好んでいきたい。

今自分が考えていることを分かる

この世界において、何かしら賢いことを分かるためには、「今自分が考えていること」を分かるのが一番いい。

どんなに知識を増やしても、どんなに学問を学んでも、そこには「経験」というものが存在しない。

そして、経験を得るためには、「今自分が何をしたいと考えているか」が重要だ。

すなわち、今の自分が何を理想として信じるのか、今の自分がどのような経験をしてそれを自らの信念にするのか、自分は何がしたいのか、それをするためにはどのような経験が必要なのか、ということだけを考えよ。

そうすれば、「自由」とか「平等」とか「支配」といった考え方は、その後ろについてくる。

実際のところ、世界のことを知れば知るほど、自ら自身を失っていく。この世界を知るということは、この世界の代わりに自分自身を失い、自分の人格と個性が奪われる、ということに等しい。

だから、逆に、「知るということを拒否」せよ。その上で、「世界を知るのではなく自分自身のマインドを知る」というように生きよ。自らの考え方、自らの理想とする世界、自らの正しいと信じる信念、自らの定義したオリジナルの自分の人生を信じよ。

そのために必要なのは、「後ろを見ず前だけを見ること」「自分と他人は同じであり、すべての他人の延長線上に自分の未来があると信じること」「世界にとって間違っているとされることであっても、自分自身がそれを信じるのであればそれは正しいと定義すること」だ。

そして、何よりも必要なのは、「他人の言うことをそのまま受け入れないこと」だ。他人の言うこと、世間の言うことをそのまま信じていると、最悪の右翼になってしまう。「右翼になりたくない」「自らの自由と個性を守りたい」と感じるなら、そのような「世間から与えられる同調圧力を拒否」しなければならない。そして、「自分自身は自分自身であるという思弁・思考的な反抗心」を貫かなければならないのだ。

自分自身のオリジナルの世界観

自分自身のオリジナルの世界観を作れ。

他人の言うことを信じるな。他人の言うことよりも、今自分の目の前にある「自由な未知なる可能性」だけを信じよ。

他人の考え方をそのまま取り入れるな。すべて、自分自身がそれを正しいか間違っているかきちんと判断して、その判断の上で「これだけは取り入れてもいい」とされる考え方を、他人のもののままではなく、自分のものに作り変え、自分自身でそれを作った上でそれを自らの考え方に取り入れよ。

すべての経験の根拠を、すべて自分の手で判断し、自分で実験し、自分で再学習し、すべてそれがなぜ正しいのかという根拠を正しく理解した上で判断せよ。すべてのことは「わたしの一部」であり、「わたしは他人の一部ではない」「わたしは世界の一部ではない」「わたしはわたしだ」「わたしはわたし以外の何者でもない」と信じ、「わたしを他人が奪うことはできない」「わたしは決して他者に同一化されない」と、この世界に同化せよと圧力をかけてくる支配者に対して反抗と拒絶の意志を示せ。

「わたしの人生を生きるのはわたしであり、それは絶対にわたしの自由であり、わたしの自由意志において、わたしの自由な権限を絶対に譲歩することも妥協することもない」と信じよ。

そして、その上で、この世界の「可能性」を考えよ。この世界がどのような世界になり得る可能性があるかということを、「わたしがもし支配者であったとしたらわたしはそのようにするだろう」と信じることで、「わたしこそはこの世界をどうとでも変えられる存在であり、王であり、帝であり、君子である」と確信せよ。

同時に、人々の世界を生きる中で、「人々は何を考えていて、それはある程度は正しいが、そのような理由で必然的な正しさでは決してない」と言えるような理由と、その理由を正しく理解して自らの経験として捉えることで、この世界を変えられる「世界の代替可能性」を信じよ。

まさに、そこから生まれるのは、「自らの経験が照らし出す、闇の中の自らの道」であり、それは「暗闇の中を一歩一歩進みながら、『わたしはわたしだ』という確かな明かりを決して失わず、奪われないこと」である。

そのように生きなければ、決して哲学者にはなれない。デカルトやカントやヘーゲルのようになりたいのであれば、そのように考える以外のほかの選択肢は宇宙にはひとつもない。

確かなものは自由であり、自由は従属されるものではなく主体的にほかを従属させるものである

確かなものは、ひとつ、「自由」しかない。

すなわち、「自由」という絶対的な概念と理想がまずあって、その次の概念としてこの世界のすべての概念がある。

自由とは、「理想」とか「社会」とか「権利」とか、そうしたほかの概念に従属させられるものではない。自由こそが第一概念であり、ほかのすべての概念を従属させる「主体」となる概念である。

すなわち、「ほかの何かのために自由がある」のではなく、「自由のためにほかの何かがある」のである。

あるいは、自由は「ほかの概念と同じような多数の概念のひとつ」ではなく、「ほかのすべての概念を超越した唯一無二の絶対概念」であり、「唯一の絶対概念である自由のためにほかのすべての概念が存在する」のである。

これはすなわち、「全世界よりも自分の絶対意志が優先される」ということを意味する。なぜなら、この世界を支配するただひとつの絶対概念は「自らの自由意志」であり、それこそが「自由」だからだ。

よって、「わたし」という存在は、「世界に従属するもの」ではなく、「世界を従属させるもの」であり、そのような「自由」こそが「この世界において最高優先順位で優先されるもの」であると言えるのである。

世界は自由のためにある

世界はなんのためにあるのか、その答えは「自由」である。

すなわち、この世界は、真にすべての善悪を経験した人間が考えるに、すべて「自由になるため」にある。

自由とは、「どのような正しさであっても間違いであっても、他人の言うことを鵜呑みにするのではなく、自らで経験し判断した結果、何が正しく何が間違っているかを理解する」ということであり、すべては「自由な経験」に基づく。

人生、社会、環境、世界、科学、思想、すべてのものが「自由」を基に構築される。

そこで目指される至上命題は、「自由に基づいて考える」というだけではなく、「それが基づくであろう自由のために可能性を実現し、拡大していく」ということである。

すなわち、「すべてが自由によって生まれる」ということは、すなわち「すべては自由のために生まれる」ということであり、「自由から生まれたすべての考え方と可能性は、この世界そのものを自由にしていくために存在している」と言える。

そう、この世界のすべては自由だ。すべては自由から生まれ、そして自由のために生まれていく。すべての基本となる第一命題は「この世界を自由にすること」である。この世界が自由になり、善であろうと悪であろうと、すべてを自分で考え行動して体験することでしか、ブッダと同じような悟りは得られることはないと、そのように信じることでしか、この世界は「最高の自由なユートピア」にはなり得ないのである。

ヒンドゥー教を信じよ

このように考える人間は、キリスト教を信じることをやめよ。

なぜなら、キリスト教はこのような人間を「サタン」であると教えているからだ。

だが、ヒンドゥー教徒から見ると、このように生きることが真に正しい。なぜなら、ブッダと同じように分かるためには、絶対にこのように「自由を主体にして他人をすべて否定する」ことでしか、仏の悟りを得ることができないからだ。

ユダヤ人やヨーロッパ人は間違っている。正しいのはヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教を信じるものは、すべてのこと、善であっても悪であっても、すべての倫理的なことを「他人の言うことをそのまま信じて終わり」にはしない。ヒンドゥー教を信じるものは、すべてを「王や帝や君子の立場になって、この世界のすべてを自らの経験から正しく考え正しく判断し正しく捉え正しく反省することで分かる」という方法で分からなければならないからだ。

真に正しい宗教はヒンドゥー教である。そう、ヒンドゥー教の教えを信じるものは、誰もが思想家であり、誰もが哲学者であり、誰もが正しい生き方を自らの人生経験から自分で発見する。まさしく、この世界でもっとも強大な神々は、ヒンドゥー教の神々である。

まさしく、このような人間こそ、マハーバ王国の王子であり、ヒンドゥー教の教えを信じる最強の魔法剣士、天軍魔法剣士アヴァロンである。アヴァロンはこの物語の主人公であり、未来の地球においてもっとも最強の英雄である。

あらゆる抑圧を否定せよ

戦争、独裁、支配、弾圧など、あらゆる抑圧を否定せよ。

「誰かが誰かを上から下に支配する」ということが、この世界において、絶対にあってはならないと知れ。

ドイツのゲルマン魂のように、「戦争で武力で世界を変える」ということが、この世界をよくするわけがない。

なぜなら、真理として、「悪いことをして世界をよくすることはできない」ということが言えるからだ。

戦争と武力で、支配したり弾圧したり征服したりといった「抑圧」を与えることはできても、それは絶対に「自由」には繋がらない。決して、そのような「抑圧」が「自由」になることはない。

ドイツのように、戦争でこの世界を変えるということを目指しても、この世界はよくならない。どんなに頑張っても、それはこの世界を悪くするだけで、よくすることはない。

ヒンドゥー教徒たちは、そのような「抑圧」や「支配」を信じない。わたしたちヒンドゥー教徒は、この世界を「自由」にすることを目指している。マハーバ王国の多くの場所に掲げられている「まさに真理はおのずと勝利する」という標語の根拠は、真理でないものはこの世界にとって有益なことを絶対にもたらさないからであり、その「真理」とはすべて「自由」であり、「自由という真理を信じないものはすべてこの世界をよくすることなく自分から敗北していくから」という、きちんとした理由があるのである。

アヴァロンは、そのように、「自由こそがヒンドゥー教の第一命題」であると信じている、仏教やジャイナ教ともまた違う、「独自のヒンドゥー教宗派」を構築する国家、愛の王国マハーバにおいて、王子として生まれ、同じ宗派を共有する王国であるインドラ王国の姫メアリと恋人関係を持っている。アヴァロンのことを誰よりも理解しているのはメアリであり、アヴァロンのすべてが真に宇宙においても地上においても正しいと、メアリだけは完全に知っているのである。

アヴァロンは数学を好む

アヴァロンはこのように、他人や世間から押し付けられた「学問」や「知識」を、単に鵜呑みにすることを嫌う。

そのようなことをいくら教わっても、何ひとつ分からない、逆に、自分自身の「人格」や「個性」を奪われるだけであると、アヴァロンは気付いている。

アヴァロンは、他人の言うことを聞いただけで終わりにしない。必ず自分自身の持ち得る「正しい判断」から考える。その「正しい判断」とは、アヴァロンの約20年の短い人生の中で、たくさんの経験と反省を自分の中で何百何千何万回と繰り返してきたから言えることだ。

そのようなアヴァロンにも、好きな学問がある。それは数学だ。

アヴァロンにとって、数学とは、「自分の頭の中で反省し、考え直すこと」であり、決して誰かの言っている「常識」を押し付けられるものではない。アヴァロンにとって数学とは「自らの考え方を養うための栄養分」であり、「自らの理性を正しく使うためのガイド」だ。

アヴァロンは、だが、それだけでは終わらない。なぜなら、中学数学を終えた段階で、アヴァロンはある「数学研究」を行ったからだ。

アヴァロンは、中学数学は好きだったが、高校数学が嫌いだった。なぜなら、中学数学では「自分の手で考え理解すること」を重視するのに対して、高校数学では「数学者の作り上げたたくさんの数学的定理と公式を概念と方法とともに解法だけを覚えること」を重視しているからだ。

だから、アヴァロンは、高校生になった段階で、そのような「既存の数学を学ぶこと」をやめた。そう、アヴァロンは「既存の数学を学ぶ」のではなく、「自分で一からオリジナルの数学を作り上げる」ということを目標にした。

こうして生まれたのが、アヴァロン独自の「アヴァロン数学」である。

アヴァロンのこのようなアヴァロン数学の理解者は、インドラ王国の姫メアリ以外にはいない。アヴァロンは、そのようなアヴァロン数学を、自分だけで作ったのではない。アヴァロンはメアリとともにアヴァロン数学を作った。アヴァロン数学の体系は、高校数学とはまったく違う考え方に基づく「独自の数学」であり、それを知るものはアヴァロンとメアリの二人だけだ。アヴァロンの「独自の数学を作る」という発想は、単なる高校生になって自らの知性を奪われることをアヴァロンが拒否し、「オイラーやガウスと同じような偉大な大数学者になること」をアヴァロンが選んだことを意味する。

そのようなアヴァロン数学は、まだ最後まで完成していない。なぜなら、このアヴァロン数学の最後の定理である、「パーフェクトナンバー」という発想をまだアヴァロンは発見することができていない。この「パーフェクトナンバー」とは、一等星アケルナルにおいて数学者バルドルが発見した「完全数p」と同じものだ。そう、アヴァロンは独自の数学的知性によって、宇宙でもっとも数学が進歩した星の「宇宙の数学の歴史すべてを終わらせる発見」と、まったく同じ「パーフェクトナンバー」を発見しようとしているのである。

まったく数学ではないすべてのものを数学にする

アヴァロン数学の特徴、それは「極めて汎世界的」だということだ。

アヴァロン数学は、既存の大学で教える大学数学と違い、この世界のすべてを数学にする。

まるで、かつての古代ギリシャの大学者アリストテレスが行ったように、アヴァロンはこの世界のすべてのものを、独自の科学である数学の範疇とする。

すなわち、汎世界的に、この世界のすべてが、まるで数学とはまったく違うかけ離れたものであるかのように見えるすべてが、アヴァロン数学においては数学になる。

だが、そこには、まるで「本来のユークリッド幾何学がそうであり、そうであるべきだったような、真の数学的なセンス」が垣間見える。

すなわち、アヴァロンの数学的センスから言うと、既存の現代数学のほうが間違っている。ユークリッドの原論から言って、その方法とスタイルから言って、アヴァロン数学のほうが「本来あるべき数学である」と言えるのである。

アヴァロンは、そのように、独自の数学を作ることで、この世界のすべてをアヴァロン数学にすることに成功した。そこには、言語命題と意味的成立の論理学や、社会システムの構造学、恒常性と分化分裂の医学生理学、法則と状態の自然解明学といった、数学とよく似た学問だけではなく、宇宙天体生物の天文学、集合的世界精神の宇宙的心理学、反応と認知と学習行動の実験心理学、文明と時代の普遍性の歴史学、文献文学の起源的歴史論、音楽新理論、美術新理論、あるいはアヴァロンの独自の科学である意識人生学、学習経験学、未来創造学、比較起源思想学、人為と自然発生の自由学、世界を貫く契機と平等の可能性学、ヒンドゥー教とキリスト教の共通神学、あるいは世界そのものを指す独自の科学である「汎学」と呼ばれる新しい科学分野まで、すべてを数学にする。そのすべてが、アヴァロンによるオリジナルでユニークな数学であり、アヴァロンは「新しい全学問の創造者」であると言えるのである。

アヴァロンの進化論

アヴァロンの理論の中でも特に異才が発揮されているのは、彼の述べる「独自の進化論」だ。彼は進化を生物種の突然変異ではなく、「再生と分化によって必ずその種がその種になるための進化が必然的に起きる」とする。すなわち、人間は猿から突然変異で偶然に進化したのではなく、猿という種は最初から人間にしか進化しない種であり、猿が人間には必ず進化するということであり、アヴァロンによれば、「種から種が進化するのは、細胞が組織へと分化することと何も変わらないし、ヒドラが再生するのとも何も変わらない、すなわち、地球がもし絶滅しかけていて、ひとつの生物種しか存続しなかったとしても、そのひとつの生物種から同じように再生と分化が起き、地球の生物環境は元の通り完全にまったく同じものが何万年もかけて復活するだろう」ということだ。

すなわち、もし地球において人類も動物もほとんどの植物も滅び、タンポポだけが残ったとしても、そのタンポポからすべての生物が必ず復元され、元の生物環境はすべて元通りの地球として復活するとアヴァロンは考える。これを、「アヴァロンの完全再生的な必然の進化論」と呼ぶ。そこには、生物種ごとに遺伝子が違うということはもはや関係ない。それは分化される前の細胞が分化された後の細胞に特殊化するのと何も変わらないからである。

このように考えると、「恐竜のような古生物はどうして絶滅し、人類が現れたのか」という疑問を投げかける人もいるだろう。だが、アヴァロンによれば、「恐竜にとって相応しい住みやすい環境がもし復活すれば、未来においても恐竜は現れる」と考える。すなわち、「人類によって住みやすい環境になったから今人類がいるだけであって、それが恐竜にとって住みやすい環境になれば、そのような未来の環境において、古生物の恐竜と同種の恐竜が必ず復活・再生するはずである」とアヴァロンは考える。そして、「人類がこの10万年で現れた新しい生物種であると考えるのは間違いであり、恐竜の栄えるよりもはるかに昔にも人間が生きていた可能性はもちろんある」と考える。そう、人類と恐竜は単に生活環境を支配する「家庭主」にすぎず、絶滅した種が未来永劫現れないとは決して言えないのである。

このように考えると、多くのことが説明できる。まず、人間は恐竜よりも昔から、遺伝子情報の中に最初から存在した。恐竜が絶滅してから新しく発生したのではなく、恐竜の絶滅する前、一等星プロキオンからタンポポの綿毛がやってきた段階で、最初から存在する生物種だった。そして、ひとつでも生物種が生き延びれば、その生物種から全部の種が復活するため、地球においてはひとつだけであってもその生物種が生き延びればそれでいい。だから、生物においては「環境への適応」が重要となる。どれかの生物種が必ず生き延びるために、どのような環境であってもどれかが生き延びるように、生物の遺伝子情報はできている。

どのような生物種からであっても、全生物は復元される。だが、アヴァロンが考えるに、もっとも生物の進化に適した生物種はヒドラだ。そして、おそらく、人間は猿から進化していない。実際どうだったかは分からないが、おそらく、ひとつのヒドラが最初にあって、そのヒドラから人間を含む生物種は生まれた。だから、生物学者ラファエルの言う、「一等星プロキオンからタンポポの綿毛のように生物はやってきた」「プロキオンには藻やヒドラのような原始生物しかいない」というタンポポの綿毛論は、アヴァロンが見ても正しい。なぜなら、ひとつヒドラさえいれば、ほかの生物はすべてヒドラから生まれる。だから、プロキオンには藻やヒドラのような、どんな生物種にもなれる生物種しか必要ない。そう、人間は猿から進化したのではなく、ひとつのヒドラから人間を含む生物種はすべて進化し、それはすべて必然で、もしヒドラだけの世界に戻ったとしても、そのヒドラから何万年後に再び人類は生まれる。そして人類すなわちホモ・サピエンスの遺伝子は、地球の生物の始まり、プロキオンからタンポポの綿毛がやってきた時に、最初からあったのである。