平等を信じよ。
人間は皆平等だ。
それぞれの人間は、それぞれ違った個性はあるが、優劣はない。
それぞれが異なる人間であり、同じ人間はひとりもいない。
だが、すべての人間が平等に価値ある人間であり、「人間の価値」という名の優劣は存在しない。
個性のあるすべての人間を愛せ。
国家や人種も同じだ。個性はあるが、優劣は存在しない。
国家や人種を優劣で差別するな。ドイツと日本とユダヤの違いは「個性」であって「優劣」ではないからだ。
自らが分かったことは、同じように考えれば他の誰であっても分かる。
自らが知ったことは、同じ経験をすれば他の誰であっても分かる。
だから、同じ考え方や同じ経験ができる機会を与えるという意味で、「機会の平等」を信じるべきだ。
支配するな。支配をするから反抗が生まれるのであって、支配しなければ反抗は生まれない。
相手の自由を尊重せよ。相手よりも自分のほうが立場が上になることを信じるな。
逆に、自分から積極的に立場が下になることで、相手からの信頼を得ることができる。
ただし、本来すべての人間は平等であり、「上」とか「下」とかいった立場は不要なものであると信じよ。
自らが知性を持つのであっても、持たないのであっても、平等を信じるべきだ。
自らが知性を持つのであれば、自らの知性と同じ知性を他の誰であっても得られるような平等を信じよ。
自らが知性を持たないのであれば、平等を信じることでしか知性はつかない。
なぜなら、平等を信じることで、人々と同じ経験を他人から吸収することができ、それによって知性を持つ人間と同じ人間になることができるからだ。
すべての人間を平等だと考える上で大切なのは、「基本的に同じ人間だが、違う点があるのであれば何が違うのか」を考えることだ。
だが、比較することは重要ではない。表面的なことを比較することでは分からない「本当の違い」が存在する。
そして、それは往々にして「アイデンティティの違い」である。
すなわち、それぞれの人間が違って見えるのは、それぞれが信じている「アイデンティティ」が違うからである。
そして、さらに正しく言えば、「確固たる自分のアイデンティティを持っているかそれとも持たないか」が違うのである。
だから、なんであってもいいから、自らの確固たるアイデンティティを持てば、それだけで他人から何を言われても動じない「賢者」になることができる。
そこには優劣はない。まさしく、すべての人間は平等である。
人間関係の壁を壊したいのであれば、自分から積極的に手助けをすることだ。
相手から仲良くしようとしてこなくても、自分から相手に仲良くしようと働きかけて、見返りを求めずに手助けをすれば、相手と敵ではなく友達になることができる。
そして、見返りを求めるな。
見返りを求めて他人と仲良くするのではなく、見返りを求めずに他人を手助けすれば、それは単なる「友達」ではなく「親友」あるいは「心友」である。
だが、決して不要な人間関係を作りすぎるな。人間関係は力になることもあれば足枷になることもあるからだ。
経験から、社会を作れ。
正しい社会とそれぞれの価値観は、すべて経験から生まれる。
そこにあるのは、「平等な社会秩序を作るための学習と経験」である。
権力者によって支配される社会でなく、平等な社会の中で、どのような社会秩序を作れば、この世界が平等になるか、そして未知なる可能性を開拓できるか、ということを、経験的な学習から知れ。
そして、その中で、実際にその社会がそのような社会になる現実をしかと自分の目で見た上で、その社会秩序を自らが作ることができるような学習をせよ。
そこにあるのは、「社会創成学」とも言えるような、個人の考え方や思想を超越し、宇宙の真理へと昇華させた原理だ。
すなわち、自らがその社会を作ることができるということは、自らが優れているからできるわけではなく、他の誰であっても自分と同じように現実の社会経験を積めば可能になる、という一種の「宇宙の真理」である。
そのような中で、自らが独裁してこの世界を変えるということを信じるな。
自らがそれができるということは、どのような他の人間であっても同じことができるということを意味している。
だから、正しい「機会の平等」の中で、実際の「経験を与える」ことで、この世界を「みんながそれぞれ世界を作り世界を変える」というボトムアップな理想の中であっても、正しい社会秩序は「自分と同じように誰であっても築くことができる」と信じられる。
それこそが、「究極的な平等の理想」である。
そして、そのような究極的な平等の中で、行き着く先は「自らの正しいアイデンティティを確立すること」であり、それ以外に人生において大切なことは何ひとつないのである。
経験から分かることを考えよ。
経験からできることを考えよ。
世界にあるもののことを、単純に考えよ。単純に、経験する中から、物理的に考えていけ。
たとえば、お茶は水分(液体)の中に栄養分が入っているだけだ。
たとえば、テレビは直線的な電子情報を光としてブラウン管の画面に連続的に映しているだけだ。
たとえば、時計は等時的に針が回転するだけだ。
服は着るだけ、歯は磨くだけ、靴は歩くだけ、ドアは開くだけ、言葉は話すだけ、文字は読むだけ、先生の話は聞くだけ、ものは作るだけ、金は払うだけ、生き物は食べるだけ、店は売るだけだ。
そのような「単純にそれだけ」の中に、意味がたくさん詰まっている。服は着れば暖かいし、文字は鉛筆で書ける。だから、単純にそれだけしか意味がないと思ったほうが、そこから多くの意味が分かる。
そのように、中学生に戻った気持ちで、この世界を物理的に、単純に考えよ。
精神を停止せよ。
精神は、いつまでも動き続けるからおかしくなっている。
精神を停止させ、そして異常な精神を消滅させよ。
異常な精神を、手あたり次第にすべて消そうとするな。その精神を消さなければ、その精神から進展したさらなる精神を、もっと先の可能性にあるものとして消すことができる。
だから、すぐに消そうとせず、それ以上進展しなくなってから消そうとせよ。
異常な精神は、最初に作った異常だけを殺せ。最初の異常だけを殺せば、後はすべて芋づる式に消していけるからだ。
認識の正しさを比較せよ。
認識の正しさとは、「その人がそれを何だと思っているか」ということ、「その人が何をもってその認識を正しいと考えているか」ということだ。
認識は絶対ではなく、普遍的でもない。認識は相対的で、個別的だ。すなわち、それぞれの人間の経験と人生に基づいて、それぞれの人間の認識は違う。
だが、「正しさ」という概念は絶対で、普遍的だ。すなわち、正しい認識が普遍的かつ絶対に正しいのであり、間違った認識は間違いである。
人々の間で相対的に違う認識の中で、何が絶対に正しいと言えるのか。
そこで、相対主義に走ることはできる。すなわち、それぞれの人間が正しいと思っていることが正しいのであり、絶対に正しい認識などはないということ、そのように信じることはできる。
だが、「認識を作るのは経験である」とし、そこで「認識の正しさは相対的ではなく絶対的である」と信じるならば、それでは、「絶対的に正しい経験」というのが必要となる。
そこで要請される「正しい経験」とは、すなわち、「すべての人生経験を最後まで経験し終えた絶対精神の経験」である。
すなわち、認識の正しさを考える上では、比較するだけではなく、経験を考えなければならない。そして、それぞれが正しさを持つのではなく、「正しい認識」と「間違った認識」があると信じるならば、経験もまた「正しい経験」と「間違った経験」があることになる。
そのように、「正しい経験」があるとしたら、それはなんなのか。それは「絶対精神」であり、「経験の変転が行き着く先にあるゴール地点」である。
では、絶対精神とは何か。それは、「それが疑うことができる限り、それ以上疑えないようになるまで、限界まで疑い終えて、なおも残る真実」のことだ。
すなわち、デカルトがやったように、それ以上疑うことができないところまで、最後まで疑った上に残るもの、それこそが「絶対的認識」であり、「絶対的経験」であり、「絶対的精神」である。
すべてのことを、「それは本当に正しいのか」と問い、その「認識と認識を比較」し、「認識は経験から正しさを根拠づけられる」と信じるならば、わたしたちは「経験の先にある絶対精神」へと到達しなければならない。そこまでした後に、初めて「正しい認識とは何か」という問いに対する答えを与えられるのである。
認識の成立を考えよ。
認識の成立とは、「認識を成り立たせる別の認識」を考えるということであり、「その認識を成り立たせるためには別の認識が成立しなければならない」ということであり、「その認識が成立して初めてその認識は成立する」ということを考えるということであり、「認識を規定するもの」あるいは「認識を実現するもの」あるいは「認識の理由となる原因」を考えることである。
認識の成立を考える上で重要なのは、「認識の前提となる経験から認識が成立する」ということを考えることだ。
それはすなわち、「経験の成立」であり、「経験が成立するような社会環境の成立」だ。
すなわち、認識が成立するためには、その前提となる経験が成立しなければならない。
そして、経験が成立するためには、その前提となる社会環境が成立しなければならない。
今の現代社会の社会環境は、決して当然ではない。ほかの社会環境も歴史上あるいは未来には存在する。そして、その認識を成立させるような、経験を成立させるような社会環境は、「現代社会」という具体的な社会環境が成立しているからこそ成立している。
よって、今のこの世界で言えることは、すべて「今のこの世界では」という限定となる文に続けて述べなければならない。この世界に当たり前のことは何もなく、すべて「今のこの世界では」という前提となる限定条件に基づいて成立し得ることだからである。
認識を考える上で、「精神」を考えることは重要だ。
なぜなら、認識のすべては、精神すなわち心の中に、自分で作って自分で置いた観念から成立するからだ。
認識は心の中にある。認識のすべては、「心」という精神現象によって成り立ち、すべて「心」の中に自分で置いた観念から浮かびあげる「自らに対する自動反応」である。
では、「心」とはなんなのか。
心を考える上で重要なのは、「依存関係」と「必要性」である。すなわち、その何かの認識が消したくてもいつまでも消えないのは、「その認識を必要としているほかの認識があるから」であり、それはすなわち「依存関係」である。
そして、自由になるために必要なのは、なぜ、そのような依存関係があるのか、ということを考えることだ。
そのためには、いくら自分の人生だけを見ていても分からない。なぜなら、自らの依存関係の中に、「他人の作り上げた他人の精神や認識のせいで起きている誤解や疑惑」が存在するからだ。
そのように、「他人との依存関係」がある限り、精神は自由にならない。必要なのは、「他人を必要としなくなること」だ。すなわち、他人に依存している、他人の精神を自分の精神から排除せよ。そうすれば、「既にその依存関係を必要としなくなる」。そして、既にその依存関係を必要としなくなった時、「もう一度人間関係を作り直し、結び直す」ことができる。
だが、そうは言っても、それを実行に移すのは簡単ではない。そして、マスメディアやIT技術などもその中に入り込んでくる。あるいは、「知識の伝達」ということ、すなわち学校の勉強や本で読んだ知識などが、間違ったことを教えていることもある。そのような「誤解と疑惑」は、本当は解決可能である。なぜなら、誤解と疑惑は「きちんと考えてすっきりと分かってしまえば、誰であっても簡単に解消できる」からである。
そのために、心理学的な成長を経験したいならば、一番よい方法は、今まで見ていなかったものを見て、今まで聞いていなかったことを聞いて、この世界における「誤解と疑惑」を解消することだ。その時、精神のすべての依存関係は消滅し、必要としなくなり、精神的な認識の関係性を結び直し、作り直すことができるだろう。
認識を考える上で重要なのは、「自らが見ている世界がすべてではない」と考えることだ。
すなわち、自らが世界だと思っているものは、実際は決して世界ではない。
自らが世界であると思っているものは世界ではない。それは「自分」である。
すなわち、自らが見ているものはすべて「自分」であり、「世界」ではない。あるいは、この世界に、「世界であると真に言えるものはどこにも存在しない」のだ。
人それぞれ、みんな、違う世界を生きている。同じなのは、同じ世界に共同で生きているということだが、その「同じ世界」は決して同じ世界ではない。それぞれが見ている心の中に世界はある。
そう、「世界は自分の中にある」という真理が正しいのだ。
だが、世界は単独では存在できない。すなわち、他人の世界が自分の世界の中にたくさん入り込んでくる。そして、それによって初めて自分の世界は成立する。
だから、単に個別に分割するだけでは世界は考えられない。「世界と世界の関係性」を考える必要がある。そこに前提となるのが「空間と時間」である。そして、空間と時間を分析すれば、「この世界とはなんなのか」あるいは「存在とはなんなのか」という問いに初めて答えらえるのである。
認識を証明せよ。
認識の証明とは、「その認識は必ずその認識にしかならない」ということ、「その認識がその認識になったのは絶対に正しいと実証する」ということだ。
そして、認識の証明によって、宇宙にある存在は、すべて「意識」として吸収できる。
たとえば、世界も吸収できるし、人間も吸収できる。そこにあるのは「人格の吸収」であり、「自己意識の吸収」であり、「自己承認の吸収」である。
すべて、論理的に変化と成立を正しいと証明したことを、人間の頭脳は吸収できるようにできている。
その結果、「意識」が残る。それは「世界精神を成り立たせるもの」であり、「すべての経験とすべての感情の総和」であり、「人生を新しい次の人生へと導くもの」であり、「自らのすべての人生経験の総括」である。
また、意識は一度吸収し終えれば、いつであっても自由に成り立たせることができる。それは「自在な意識」となって、この宇宙のすべてを「ありとあらゆるどんなようにも創造できる」ようになる。まさしく、それこそが「宇宙の創造主」あるいは「絶対精神の集合意識」、すなわち「すべての人間の精神が含まれる魂としての神」である。
認識を考える上で必要なのが、「仮説に基づいて考える」こと、すなわち「認識を仮定すること」である。
すなわち、最初から正しい答えを出そうとするな。
さまざまな経験をする中で、変転していく「認識の仮定」の中で、なんらかの経験から、その認識の仮定が正しいと蓋然的に考えられるようなタイミングが訪れる。
そうなった段階で、「仮説」を立て、そしてその仮説の通りに考えればどうなるはずだろうかという「推測」を行い、それを「証明」するために、それを実証すれば推測を証明できるような「実験」を行い、その実験に基づいて「説明」せよ。
そこで分かるのは、「実際のこの世界の原理原則は、過去に自分が思っていたこととはまったく違う」ということだ。すなわち。子供が純粋に考える「純粋理性」は間違っている。純粋理性とは真逆のことが正しいということ、それはある種の「超越的説明」だが、純粋理性よりも超越的説明のほうが正しいということが分かってしまえば、後のことはなんであっても簡単に分かる。
そこから、「宇宙の真実」が見えてくる。宇宙において「真実」とされるのは、「常識」とはまったく異なる。それが分かった後に、さらに仮説に基づいて認識を仮定すれば、「心というある種の機械がなぜそのように働くのか」ということが分かるようになる。人々がなぜその行動や行為を行うのか、どのような動機を持ってそれを行わざるを得ないのか、すべてが分かる。まさに、それがフロイトの目指した「精神分析」である。
そのような真実が分かった時、この資本主義社会がなぜ間違っているのか、本当はどのように社会を築くべきなのかということも分かる。経験と仮説による「心の解明」によって、資本主義社会の問題をすべて悪魔的に解決できる。ここで「悪魔的」と呼ぶのは、このように考えると、真実が分かる代わり、普通のことが分からなくなってしまうからだ。すなわち、「禁断の書」を読んで分かったとしても、「正しい答えを得られる代わり、代償として今自分の持っている確かな答えを失ってしまう」のであり、この僕の書いた次なる新しい聖書はそのような「禁断の書」であると言えるだろう。