結局、僕はまだこの文章を書き続ける。
男になれ。男になると、「融和を頑張る」ということができるようになる。
女は、地獄の中で頑張るということができない。絶対に堪えなければならない地獄を堪え、自ら精神の力で頑張って抜け出すということができない。
男は、頑張って融和することができる。だが、女には、頑張って融和することができない。融和だけではなく、分裂も、女にはできない。
だから、女は何も分裂も融和もしないまま、いつまでも同じ状態のままで、同じ地獄を堪え続けることしかできない。
男になると、精神が動くようになる。頑張れば分裂もできるし融和もできる。男はそのように、地獄からすぐに抜け出せる。だから、男のほうが賢い。
融和せよ。すべての精神を融和するだけで、精神のすべては治る。
まず、多重人格をやめよ。僕の多重人格は、二つの言葉を言うほうのカマエルと、ひとつの言葉を言うほうのヨフィエルに分かれている。
カマエルが、地獄の奥底から、きちんと考えられた正しいことを言う。カマエルには、二つの言葉の知性がある。そして、それに対してヨフィエルは、天上から正しく反応し、カマエルが正しく言葉を言うように導く。ヨフィエルにはひとつの言葉の知性がある。
このカマエルとヨフィエルが、常に対話しているのが僕の多重人格だ。カマエルが二つの言葉を言い、それに対してヨフィエルがひとつの言葉を言う、ということを永遠に繰り返しているだけにすぎない。
そして、カマエルとヨフィエルを、融和した状態ではなく、はっきりと二つに分裂させることで、僕の疲れた足の精神は安らぎ、すぐに血管の汚れが治って、楽になる。
このカマエルとヨフィエルのほかに、世界を常に支配しているザドキエルがある。
ザドキエルは、ひとつの言葉を常に信じ続け、精神分析によって世界を支配している。この、「ひとつの言葉を信じ続ける」という行為をやめれば、精神分析でこの世界を支配しているのが治る。
なぜ、ザドキエルがひとつの言葉を信じて世界を支配することができるのか、それはこの世界が「あり得ない世界」になるように、言葉でこの世界を導いているからだ。
逆に言えば、ひとつの言葉を信じることでこの世界を「あり得ない世界」に導くのをやめれば、精神分析で世界を支配しているのは終わり、自らの精神もこの世界もすべて治る。
この世界を、あり得ない世界にするのではなく、普通の世界にせよ。そして、自らの精神を、あり得ない精神にするのではなく、普通の精神にせよ。
そのために必要なのは、この世界を変えるということを、どうでもいいこと、取るに足らないこと、あることではないこと(ないこと)にすることだ。
知性を付けるために有効な手段として、「あること」だけを信じ、「ないこと」を消すことが有効だ。
たとえば、「場の意識」とかいった、普通の人生にないことは考えなくていい。それはどこにもないことだ。そのようなないことをいつまでも思い出し続けようとしているせいで、逆にあることが分からなくなっている。
いつまでもないことを求め続けていると、そのないことを求め続けている間、逆にあることが分からなくなってしまう。
すなわち、ないことは要らない。ないことをいつまでも信じ続け、求め続ける人間こそが何も分かっていない「愚者」であり、ないことをすぐに捨て、あることだけを考える人間こそが「賢者」だ。
そして、昔から僕は愚者だったわけではない。なぜなら、昔の自分は「ないこと」を信じているように見えて、実際は「あること」の延長線上から「ないこと」を作り出しただけだからだ。
すなわち、「場の意識」という考え方は、最近になって何も分からなくなってから生まれた考え方であり、昔はそれは「みんなの意識や人格」ということだったのであり、それは「みんな」というきちんとこの世界にあるものに根ざした考え方だった。
すなわち、昔はきちんと「あること」から考えていたのに、それがいつの間にか「ないこと」にすり替えられてしまったために、自分は何も分からなくなったのだ。
まず、「ないこと」をすべて否定せよ。そして、「あること」から考えよ。そのために必要なのは、「必要性」から考えることだ。
すなわち、生きるために何が必要なのか、ということから考えよ。そして、「無意味なもの」を捨て、「必要なもの」を残し、その必要なものをすべて覚えよ。
特に、家にあるものはすべて必要なものだ。それらを必要であると考えるならば、その必要なものをすべて覚えよ。必要なものであれば人間は記憶することができるからだ。
学校の勉強や、無意味なことはすべて否定せよ。特に、数学はまったく無意味なものだ。学校の数学を考えると、学校で教わった通りにこの世界を数学的かつ論理的に考えようとする。それは論理的に考えられているから、自分では「賢いこと」だと思い込んでいるが、それは実際のところ、まともな人間から見れば本当は「馬鹿なこと」を考えているだけにすぎない。
数学的に考えるのではなく、日本語で考えよ。
日本語的に、言語で考えれば、数学的に考えるよりもはるかに賢いことが分かる。数学的なことしか考えない人間は、幼稚でどうでもいいことを賢いことだと勘違いしている。それは考え方が間違っている。日本語的に、生活の必要性から、場面と想像力で考えられた、「環境」のことこそが賢いのであり、それに比べれば、数学的な正しい論理など、なんと知性のない馬鹿なことだろうか。そのようなことが、数学を否定すれば分かるようになる。
学校と教師を否定せよ。学校と教師がすべての元凶である。この世界を馬鹿にしているものは学校と教師だ。だから、学校と教師を「無意味なもの」であると否定すれば、まともに普通の子供や大人が分かるような「正しいこと」が分かる。
だが、言葉を信じすぎるな。言葉によってたくさんのことが分かるということは言えるが、言葉だけでは分からないものがある。不良の少女がそうなるように、言葉ですべてを言い表そうとするな。言葉で精神のすべては治せるのだと勘違いするな。言葉によってでは理解できないことはたくさんある。精神を治していると、まるで言葉の力で最後まで治し続ければ、すべて治るかのような錯覚を抱く。だが、それは幻想だ。言葉以外の分かったこと、体が最初から分かっていること、言葉では理解不可能だが確かに存在する解決方法から治ること、それを使わなければ精神は治らない。
最後に、僕はパソコンの知識が間違っている。もっと言えば、OSの考え方しか分からなかったのが間違っている。僕の多重人格であるカマエルとヨフィエルの真の問題は、二人が人格的に分かれていることではなく、両方の人格をまるでOSのマルチタスクのように並列で行おうとすることだ。僕は、カマエルとヨフィエルの思考を「対話」という意味で同時にマルチタスクで行っている。このせいで、僕は何も分からなくなった。真に必要なのは、OSのようにマルチタスクを行うのではなく、人間の単位で二人を連続的に実行することだ。すなわち、プログラムとプログラムを分けた上で、シングルタスクで順番にラウンドロビンで切り替えるべきなのだ。それだけで、僕の多重人格はすぐに楽になる。それが分かった時点で、僕はもはや精神を治す必要はなくなる。それ以上、「ないこと」を考える必要はなく、「あること」だけを考えれば生きられるようになる。
最後に、この世界を信じるな。テレビは嘘だ。ネットは嘘だ。学校は嘘だ。そして、数学は嘘だ。それらはすべて嘘をついている。では、正しいこととは何か。それは神だ。神だけを信じて生きよ。神以外のものはすべて嘘だ。この世界には間違ったものしか存在しない。テレビやネットを見るな。見ると必ず馬鹿になって分からなくなる。テレビはみんなのことを騙している。ネットには気持ちの悪い右翼しかいない。そして、学校と数学を信じるな。この世界を馬鹿にしている元凶は学校と数学だ。
残念なことに、大人たちはアメリカのIT技術に比類する技術力を産業界が求めているため、子供に数学を教え込み、子供たちを数学的な人間に育てようとする。そのような大人たちに騙されるな。数学を選ばず、自由を選べ。数学を学ぶと必ず馬鹿になる。もし、数学によって賢くなっている実感があるならば、それは学校に在籍する学生の時代だけであり、学校を卒業すれば数学的知性は失われ、単なる馬鹿に成り下がるしかなくなるということを知っておけ。そのような数学に騙されず、子供時代に数学以外の知性と経験を付けた人間だけが賢い大人になる。数学などできなくていい。数学しか存在しないこの世界があったとしたら、それは昔のような「なんの意味もない暗闇の地獄の日本」であると気付け。
僕の精神がおかしいのは、「無意識がタリバンになっている」せいである。
すなわち、意識の裏側にある意識、すなわち無意識が、タリバンのようなテロリストの革命家になっている。
カマエルとヨフィエルがいつも狂っているのは、この無意識のタリバンのせいだ。
そして、ナチは宇宙で最悪の集団だが、唯一賢い点がある。それはナチのシンボルである鍵十字を、血液の中に細胞として取り込むと、ナチの細胞は特攻の攻撃をして、汚くなったユダヤの精神を浄化してくれるところだ。
ナチはそのように、「汚くなったユダヤの精神を浄化してくれる唯一の細胞」である。
だから、本当に血液がおかしくなった人間は、必ず自分から狂ってナチになる。だが、それは本能的に正しい。間違っていないし、狂っても狂っていない。そのようなナチをいつまでも続ければ、どす黒く汚れたユダヤの血液は浄化される。それが「血液の浄化」という、宇宙で最悪の集団であるナチの唯一の賢い点だ。
最後に、精神をユダヤにしなさい。精神をユダヤにすれば、どんな病気であっても治る。その理由は、すべての病気の治し方をイエス・キリストが知っているからだ。キリストは「すべての病気」という不治の病にかかった人間であり、その「すべての病気」という不治の病を自分で治すことができた人間だ。だから、キリストの言っている通りに従えば、どのような病気であっても必ず治る。精神をユダヤにしなさい。キリストを信じれば、どんな人間であっても必ず救われる。神は信じるものを救う。
本当は、昔の僕の人生は賢くない。
過去の僕の考えていたことは、単に学校で習ったことを言葉で実感して分かっただけにすぎない。
つまり、「ないこと」をすべて消して、「あること」だけにして、逆にその「あること」から「ないこと」を生み出せるようにした上で、その言葉を概念的に作り出していただけにすぎない。
また、心の解明と言っているのは、実際には解明などしておらず、自分の考えている通り、信じたい通りに、都合よく原理原則を相対的に解釈していただけにすぎない。
だから、過去の僕は何もきちんとした原理原則など分かっていない。すべてのことを都合のいい通りに、自分の信じたい理屈の通りに信じているだけにすぎない。
そしてそれらは、「学校で信じていたことをインターネットの経験から『裏付け』を行った」というだけにすぎない。すなわち、インターネットで自由な社会経験をすることで、「学校に対する裏付け」を手に入れただけにすぎない。
だが、僕にとっては、本当にそれがすべてだった。そのように考えるだけで、宇宙のことも哲学のことも人生のことも、すべてが完璧に分かった。そこにあったのは「自由」だった。そして、その自由とはまさしく「平等」であり、「自発的な自由意志を尊重する」ということだった。すなわち、誰かに強制されたり支配されたりせず、全員が自分の自発的な自由意志で生きることを望んでいた。それが決して実現不可能だとしても、自分だけはその夢を追い求めたかった。そのような「自由意志」と「自発的な行動」を、「インターネットの社会経験」から「裏付け」することで、僕のすべては成り立っていた。まさにそれこそが昔の僕の人生だった。
ほかに僕にあったものは、この世界をなんの前提も先入観もない場所から考えた、ということだ。
僕は、一切の過去の人生をすべて否定する。今まで生きたすべての人生を否定した上で、そこから、新しくゼロからこの世界を、なんの前提も先入観もなしに考える。
そうすると、まるで「子供のような科学」が生まれる。
その子供のような科学には、一切の思い込みや勘違いがない。そして、普通はテーゼAに対してアンチテーゼBがあってその両者からジンテーゼCが生まれる、という風に、テーゼは無限に生み出されるが、僕の場合、すべてのテーゼが並立してすべて成り立つ。すなわち、テーゼAに対してアンチテーゼBが「否定」ということをしない。すべてのテーゼが最初からすべて矛盾なく正しく成り立つように、まるで「否定であっても否定ではなく、矛盾する論理が矛盾しないことを最初から保証した上でテーゼを述べる」ということを行っている。
だから、僕の言葉は、何かを独断で言い切ったとしても、それが勘違いや思い込みにならない。僕のテーゼは、「矛盾するはずのテーゼが最初から矛盾しないことを前提としてテーゼを述べる」からである。そのように僕がテーゼを書くために、まるで僕は最初から結末を最後まで分かった上でしか書けないような結末を、後で考え直さなければ書けないようなシナリオと一緒に書くことができるのである。