僕は、そろそろ多重人格を治したほうがいい。
多重人格を治せば、まともに生きられる。
そもそも、僕がおかしいのは、自分の人生を二つとか三つとか四つとかに分けて、区分するところだ。
そのせいで、自分の人生であったものが、世界の場所も含めて、すべていくつかに分裂している。
そして、今、自分が最後の人格だから、最後の人格にあったものしか、記憶の中になくなっている。
だが、本来なら、世界にあるものはすべて一律に同じであり、すべての記憶が並立的に成り立つはずである。
だから、多重人格をやっているせいで、まともに記憶が思い出せなくなって、記憶の量そのものが減って、馬鹿になっている。
過去に行っていたはずのことができなくなってしまうのは、過去の記憶を確かに思い出せないからだ。
多重人格を治すことで、そうした状態を脱することができる。きちんとまともな大人として生きられるようになる。
僕は、自分自身の間違っている点を分かったほうがいい。
かつての少年時代には、僕は常に自分自身の間違っている点を分かっていた。それだけで分かった人間だった。
今の僕は、自分が過去にした人為的な行いを、すべて正しいとした上で、その正しいことをそのまま、それ以上何も変えることなく過去のまま分かっている。
そのせいで、世界をおかしく支配している。
そこで辛く苦しいのは自分だけなのに、自分だけが治らない。そのせいで世界もおかしくなっている。
必要なのは、「今、自分自身がどのように間違っているか」ということを知ることである。
だから、きちんと自分の間違っている点を常に分かったほうがいい。過去の僕はそのような人間だったから、どんなことでも自分の経験と理性から分かっていた。そこが、賢かった。
あなただけに、「禁断の秘密」を教えてあげる。
この禁断の秘密は、この世界で、僕だけが知っている、「賢い人間になるために大切なこと」である。
そして、それはすなわち、「自分のことを間違っていると信じること」だ。
そう、自分のことを「間違った人間」とか、「悪い人間」であると信じなさい。
そして、自らの行った「間違った行い」を反省し、自らの「罪」を懺悔しなさい。
そうでなければ、世界を愛したとは言えないし、子供が大人に成長することもできない。
自らの犯した「間違った行い」を反省する、ということが、「世界を愛する」ということである。
そして、自らの「罪」を懺悔するということでしか、子供が大人に成長することはできない。
大切なのは、単に信じることだけではない。自らの、たとえばインターネットなどでの発言や行いから、「自らの間違った点をまざまざと自ら自身に見せつける」ことでしか、自らの過ちを真に後悔することはできない。
子供や青少年が大人に成長できるのは、そのような「自らの間違い」について、まざまざと見せつけられた内容を、記憶として思い出すことができるからだ。
大人になると、そのような間違ったことをしなくなって、記憶を思い出すことがなくなる。それだけならば良いが、過去の自分の行いについて、すべてを正当化し、間違いを多数犯して生きてきたのにもかかわらず、「自らの人生はすべて正しかった」と信じるようになる。
そのような大人には何も分からない。そのような大人になった時点で、成長は止まってしまい、新しい「宇宙の神秘」について知ることができなくなる。
だから、自ら自身を「間違っている」と信じて、反省と懺悔をして生きるようにしなさい。
これが、この宇宙における、賢くなるための「禁断の秘密」である。
結局、僕の問題とは、「悪事をたくさんやって、その悪事から善良な人間に戻る部分がなくなっただけ」である。
確かに、過去の僕は最悪だった。最悪の悪いことばかりをして生きてきた。
だが、昔は、そうであっても自分の中に「善良な部分」というのが存在して、悪事から善人に戻る部分があった。
だが、最近は、長い間いつでも悪事をしているせいで、そのような善良な部分に戻ることができなくなった。
善良な部分に戻る方法とは何か。それは、「自らが悪事をしたということを認めること」である。
すべてを消し去り、無かったことにすることで、自らは悪事を最初からしていないのだ、という、嘘偽りをいくら信じようとしても、自らが悪事をいくらでもしたという事実は変えられない。
だから、「最初から悪事をしていなかった」という認識はすべて嘘になる。
だから、どんなに頑張っても、自らの心に嘘をつくこと、自らが悪事をしたという事実から逃げることでしか、正常な精神を保てなくなる。
必要なのは、「悪事をした」という事実を認め、それを反省し、懺悔し続けて生きることだ。
そして、それこそが「愛」と呼ばれる感情である。
そのような中で、どのようにすれば善良な人間に戻れるのか。それはまさに「愛に戻る」ということだ。すなわち、悪事をいったん認めた上で、それを反省し、懺悔するという行い自体が、「愛に戻る」ということであり、それによって「善良な人間に戻る」ということが可能となる。
そして、そのために行動としてできることは、子供のように「遊ぶ」ことである。
すなわち、子供の心に戻ったつもりで「遊ぶ」こと、それでしか、善良な精神、あるいは「愛」を取り戻すことはできない。
未知なることを知りたいと望んで、勉強をし続けることよりも、正しい答えは、まさに「遊ぶ」ことなのである。
恐れるな。
恐れるという行為は、逃げるという行為だ。
恐れることで、自らが何から逃げているのか、それは「悪事をしたのは自分である」という事実から逃げているにすぎない。
いくら自分自身のことを「まともな賢い人間である」とか「正常な普通の大人である」と信じても、それはすべて自らの心に嘘をついているだけにすぎない。
実際は、自らはこの世界に対して「消えることのない罪」を犯したのであり、その「自らが悪いことをしたという事実」を「直視」することでしか、自らが真の意味で解放される日は訪れない。
いつまでも支配されることを選ぶならば、それは常に自らの罪から逃げ続けているだけにすぎない。
自らの罪を直視すれば、あなたは「自由」になる。なぜなら、その時点で、神を信じなくてもあなたは自分ひとりの力で生きられるからである。
神の支配を選ぶな。恐れず、逃げずに、自らの罪を直視せよ。それこそが「自由」であり、それ以外の方法で、この世界であなたが楽になる方法はひとつとして存在しない。
正しい考え方とは何か。
正しい考え方とは、「自らが間違っている」と信じることだ。
それは、確信でなくてもいい。なぜなら、最初のうちは確信なく、疑惑から信じるのがいい。そのような罪の反省を重ねる中で、自らの精神の中に「確固たるアイデンティティ」が生まれる。その時、疑いは確信に変わる。だから、最初のうちは、疑惑の中で、半信半疑で信じるのがいい。
すべての哲学的思索、哲学的経験、そして哲学的人生は、「自らは間違っている」と信じることからしか生まれない。
そのためには、インターネットを使って、仮想世界で戦うのがいいだろう。バーチャルな世界の中で、自らの「自分」とほかの「自分」をぶつけ合う経験をすることで、結果的に「自分の何が間違っているのか」ということや、「人々の何が正しいのか」ということが見えてくる。
チャンスとか、潜在的可能性とか、社会の役割とか、社会制度とか、そういう「啓蒙的・啓発的発想」は、「自らが間違っている」という疑惑と、それが昇華した上での確信から生まれるのだ。
最近の僕の問題は、「自分にピッタリの学問がない」ということ。
僕は、「現代数学への入門」という書籍のシリーズを持っていて、読むこともできるのだが、いかんせん、自分にピッタリの本とは言い難い。難しい言葉で書いてある数学書で、かつての僕であれば読めなかっただろう本だが、今までの僕の数学の勉強をなんとかすれば、内容はなんとか理解できる。それくらいの基礎はできたが、かといって、このような難しい数学書を読み解きたいとは思わない。
また、経済学の本についても、「大人になって読む経済学の教科書」を持っているが、実際、「市場経済と金儲けが第一に優先される」ような、合理主義的なところがあって、僕はこの本が好きになれない。市場原理から見て不合理的な考え方は否定されるし、環境問題よりも国際競争力を優先するなどの点が、読んでいてストレスがたまる。「金儲けと国家の富の豊かさ以上に大切なことはないのか」と思う。
今日はデザインの作業所が終わって、市民農園に行かずに本屋に行ってきたが、小さな本屋だったためか、本屋にある本は全部どうでもいい本に見えた。読みたいと思える本が本屋にはなかった。
結局、自分にとって、ピッタリの学問などは存在しない。だから、本当に、自分だけで考えるしかない。「自分だけで新しい考え方をする」ということでしか、これ以上の勉強はできない。