今から、僕は、病気を治すために、生物の再生機能を復活させる。
ヒドラのような原始生物は、個体の一部をどんなに切り離しても、切り離した一部から個体の全体が再生する。
これは、すべての細胞にDNAが含まれている理由であり、すべての細胞に体全体のDNAが含まれているから、そのようなことが可能である。
すなわち、ヒドラのような、かつての古来よりの生物は、そのように、体全体が再生することが、生物としての一般的な重要な機能だった。
だが、生物が進化するにつれ、そのような再生機能は退化してしまった。
そして、僕の病気が治らない原因は、そのような「再生機能が退化しているから」であり、病気を治すために、再生機能を復活させる必要がある。
僕はほかの人間と違い、精神の病気を自分で治すことができるが、それをもっと進歩させ、発展させると、生物の再生機能を復活させることができる。
だから、僕の場合、ほかの人間と異なり、再生機能を復活させられる。そして、僕の病気は、それでしか治すことができない。
そもそも、僕の足の精神がおかしいのは、あまりに気持ちの悪い虫を、大事に抱え込みすぎている。
この、大事に抱え込んでいる虫を手放せ。それだけで、すぐに精神は楽になる。
再生機能を復活させることで、長年のトラウマが解決した。
すなわち、僕の心の中の恐怖とは、体の一部を切り離すとか、頭だけの人形になるとか、あるいはロボット人間になるといったように、「体の一部を切り離す」ということに対する恐怖だった。
それが、火の鳥羽衣編に出てくる頭だけの人形の絵のように、僕の中でとても大きく長い恐怖のトラウマを作り出した。
そのすべては、再生機能を復活させることができれば、解決する。すなわち、一部を切り離したとしても、そこから再生できる。
だから、僕のトラウマとは、すべて人間という生物の再生機能が退化し、再生することができなくなったことに対するトラウマだったのである。
そういうわけで、ようやく、精神異常が治った。
歩き回る異常はなくなった。多重人格もそれで治る。
トラウマの直接的な原因は虫歯が増えすぎたことだ。虫歯がどうやっても再生しないせいで、僕はそのような「再生不可能」ということに対する恐怖とトラウマが生まれた。
赤ん坊の頭が転がっていき、池の水の中に落ちていく幻覚が見えるのも、すべて同じ、再生不可能に対するトラウマであり、その幻覚は、僕自身がいつも何をやっているかを的確に表している。今の自分がどうなっているかが見えているだけである。
あとは、もう、休んだほうがいい。いつまでも歩き続けているせいで、あまりに足が疲れた。歩き回る理由は、筋肉をつけたいからだ。すなわち、人間の細胞は筋肉をつければ再生する。そのせいで、僕は足腰の筋肉をつけるために、疲れていてもいつまでも歩き回るようになったのである。
僕がかつてより、一秒たりともそこから離れずに変わらない考え方、それが「この世界を良い世界にしたい」という信念だ。
僕は、この世界を良い世界にしたい。たとえば、僕が好きなファンモンやいきものがかりのような歌手が、僕のことを愛してくれるように、僕は彼らや彼女たちのために、この世界を良い世界にするために頑張りたい。
そのために必要なことは、まず、自由を信じないことだ。
かつてより、僕は「自由」を信じていた。自由によって良い世界が訪れるということを本気で信じ、子供たちのためにあらゆるすべての理性と経験を使って考えた。
だが、自由は間違っている。なぜなら、自由とはまさに支配だからだ。
すなわち、僕が一番嫌いだった「支配」という考え方を信じて、二枚舌のように「自由」を世界に叫ぶということ、それがまさに「戦争」である。
だから、もう、自由を信じないほうがいい。自由を信じるのではなく、世界を支配することで、もっとも自分のやりたいことをやればいい。支配しながらにして何もせず、「自由」と叫ぶだけでは、この世界は滅びてしまうだけである。
それから、多重人格者になる方法は簡単である。
なぜなら、男のほうと女のほうになればいい。そして、男のほうは戦いのほうになり、女のほうは愛のほうになる。あるいは、男は戦争するほうの仏教徒の革命家、女はセックスするほうのキリスト教徒のシスターになればいいのだ。
それから、僕自身の精神の病気はもう治った。だが、世界のほうが治っていない。すなわち、僕はひとり治ったにすぎず、世界はまだ病気のままだ。
世界を治す方法はひとつしかない。それは世界を再生させることだ。すなわち、世界そのものが、破壊された世界から再生することができるような、再生可能な世界になればいい。
残念ながら、僕はこれ以上、神を信じることができない。
神を信じることでは、これ以上、先に進むことができなくなった。
だから、僕はこれ以上神を信じずに、仏教徒になって、仏を信じるしかない。
そもそも、「みんなから愛されたい」という欲求が間違っている。なぜなら、かつての不登校の僕が賢かったのは、そのような「みんなから愛されたい」という束縛を断ち切って、ひとり、自由になったのが賢かっただけにすぎない。
すなわち、「みんなから愛されたい」と望むのは、自分を制限し、束縛するだけであって、何もいいことはない。
もう、みんなから愛されることを望んで生きるのは、やめたほうがいい。
キリスト教の教えは間違いではない。キリスト教の教えは、ここまでの僕を見れば正しい。だが、キリスト教の教えなどを信じる意味はない。なぜなら、キリスト教の教え通り生きているのは神ひとりだけであり、その神以外には、その神のように生きることはどんなに頑張ってもできないからである。
すなわち、イエス・キリストの教え通りに守って生きられるのは、世界においては神だけであり、キリスト教徒がいくら教えに従っても、それは絶対に成り立たない。
人間の分かる範囲のことは、ブッダがすべて悟りきっている。その悟りの内容こそが、人類の最終的に到達する到達地点であり、僕はかつて、そのような仏教の教えについて、自分自身の手でゼロから考えることで、ブッダとまったく同じ境地に至った。そこから言えることは、「仏教以上に正しく理性的かつ経験的に分かることは絶対にできない」ということだ。なぜなら、仏教の教え以上に正しい人間の人生や正しい生き方はないからである。
そのような考え方を経て、僕は仏教徒になることを選ぶ。
だが、キリスト教の教えは決して間違いではない。なぜなら、キリストの教えを守るといいことがある。あるいは、神を信じるだけでいいことがある。その理由は、宇宙には絶対者である神がいるからであり、どのような地獄からであっても神は信じるものを救ってくださるからである。
僕が仏教を信じる理由、それは、地球には仏教の教えしか賢いものがないからだ。
IT技術や大学の勉強は一通り学んだ。だが、プログラミングや生物学や世界史は賢くなかった。IT技術は世界を馬鹿にしているだけで、大学はみんなを馬鹿にしているだけだった。特に、IT技術は、日本を良い世界にするためではなく、悪い世界にするために日本を蝕んでいる。大学の勉強は、最初だけ意味があるように見えて、学び終えてみれば何も賢いことは残らない。馬鹿というよりは「無駄」である。
数学は賢くない。数学はできない人間から見ると「あんなものは絶対にできない」ように見えるが、できる人間から見ると「単なる馬鹿なことを難しくやっている」だけだ。そして、数学ができると、デカルト、カント、ヘーゲルのような哲学者の思想は、考えれば誰でも分かる。現に、中学数学の知性があった昔の自分は、ある程度それらと同じように分かっていた。高校数学をやる気がないなら、哲学はしないほうがいいし、もしやったとしても、単なる宗教や科学のような常識や、人生や世俗社会の成功を全部疑いながら、「知識の発見」だけを無駄に追い求めるだけのサタンになるだけである。
そして、キリスト教は賢くない。キリストの教え自体は、間違った教えではないが、ユダヤ人やヨーロッパ人の信じ方が間違っている。盲信する信者は神は嫌いであり、どんなに頑張ってもキリストの教えを人間が守ることはできない。それはキリストの教えは理想的すぎて、どこか別の宇宙の別の世界の別の人類を想定した教えを、正しい教えだから守れと言い、守らなければ地獄に堕とされる。そもそもイエス・キリストという人物が存在するのかも疑わしいし、存在したとしても聖書の通りの人物ではないはずである。
また、資本主義の世俗の世界は金儲けである。それはすなわち、世界をゲームにしている。民主主義がルールを決める自由があるというが、そのルールとはゲームのプレイヤーがそれぞれ競争して遊ぶ世界のことを想定している。金は金持ちが遊ぶために貧乏人を騙して奴隷にしている。すべては「マネーゲーム」、それが資本主義の社会だ。
だが、それに対するアンチテーゼの社会主義について言えば、社会主義経済はまともな経済として成り立たない。社会主義経済がユートピアだとするのは、実現不可能な作ることのできない餅を、ほかのどの食べ物よりも美味しいからみんなで作るために人を殺せと言っているだけである。
そういうわけで、この世界には賢いものはひとつ、仏教の教えをおいてほかには存在しない。
もし、賢いものがあるとしたら、それは文学と芸術である。だから、僕は作家や詩人としての活動は続けるつもりだし、デザインやピアノの習い事も続けていく。だが、残念ながら、今の日本では、かつてあった面白いアニメや音楽などは衰退してしまった。今あるのは、誰も見ない低コストで作ったどこにでもあるようなアニメ、誰も知らないSNSでしか支持されていない歌手や音楽家、そんなものばかりだ。
大学やIT技術、あるいは資本主義やキリスト教はすべて間違っている。自由を信じて戦争するのも革命するのも神を信じるのも間違いだ。正しいのは仏教であり、それ以外にはない。なぜなら、仏教を信じることでしか、「人間の分かる人間的なすべての賢いこと」を分かる方法はないからである。
最後に、「みんなから愛されたい」とは決して願わないほうがいい。IT技術が馬鹿なのは、みんなから愛されたいという欲求を叶えるようなサービスばかり多いが、それらのサービスを使っていると逆にそのような愛が飽和してしまい、世界と人生に絶望して、世界とまったく関わることを拒否するような引きこもりになる。そのような引きこもりが、IT技術のせいでどんどん生まれている。
だが、IT技術が最悪なのは、そのようなIT技術のことを何も知らないと、逆に何もできない世界にしようとする。どこのガソリンスタンドもレストランも公共交通機関もスマホアプリを要求するし、QRコードの読み取りが自分で分からない人間にはレストランの注文すらできなくなってきている。だからといってそのような目先の餌に騙されないようにしなければ、個人情報をどんどん奪われていく。最終的に至るのは金持ちがほとんどすべての権限を少人数で独占するだけの、ほとんどの一般人をロボット人間にした監視社会だ。
だから、今の民主主義社会なんかを信じている人間は、どの国にもほとんどいない。ロシアのプーチンを応援するしかない。それが今の世界だ。
そのような理由で、この世界はどんどん悪い世界になっている。日本人はガソリン式自動車を作ることをやめようとしない。コロナ禍においては今でもマスクをつけている人々を目にするが、一方ではガソリン式自動車を廃止することは絶対にしようとしない。温暖化がどんなに進行しても、それを食い止めることができない。日本人は流されやすい代わり、諦めが早い。もう世界は滅びるものだと思っていて、救おうと頑張っている人がそもそもほとんどいない。日本人は忍耐力はあるが絶望するのが早い。だから、日本人に温暖化の解決は絶対にできないだろう。
特に、日本人はアメリカにもドイツにもできなければ日本も同じようにできないものだと思い込んで勘違いしている。それは「日本は世界で一番劣った国である」というおかしな先入観があるからだが、見ていると、ここまで劣った国はないほどおかしな国になっているからそれも仕方ない。1980~90年代があまりに良すぎた。今の日本はかつての宝をすべて出し終えた後の「残りカス」にしか見えない。
最後に、最近は詐欺広告や詐欺電話など、悪い人間があまりに増えた。そして、そのような悪い人間は外国人ばかり多い。今の時代、外国人はどんなに可哀想に見えても信用しないほうがいい。ほとんどの詐欺グループは、東南アジアのような外国人がやっている。また、アメリカのGoogleやMetaのような企業も信用ならない。彼らは詐欺や犯罪のグレーゾーンで儲けている。だから、日本が馬鹿だからといって、外国人を好きになってもなんの意味もない。
僕が思うに、最近の日本には、面白いものがなくなった。
昔の日本には面白いものがたくさんあったのに、今の日本にはまるで面白いものがない。
昔のテレビゲームは、グラフィックスなどは今より低品質かつ低性能だったのに、ゲーム性は今よりも面白かった。昔のゲームは、単純でありながら奥が深く、そのゲームのエキスパートになるためには熟練が必要だった。今のゲームは、30分もやっていればすぐに飽きてしまうような、どうでもいい本当に馬鹿でもできるゲームが多い。
それから、漫画やアニメ、そうした子供向けコンテンツは、最近は本当に子供向けになってしまっている。昔の子供向けは凄かった。ドラえもん、ジブリ、ガンダム、そしてドラゴンボールまで、子供向けと言いながら、大人であっても笑えて泣けて感動できる、「大人向けとも言えるほどの超子供向け」が多かった。今のテレビアニメは、本当に子供向けか、あるいは誰に見てほしいのか視聴者層がよく分からないアニメばかりで、すぐに見るのをやめてしまう。
だから、今の子供は時間を持て余して、やること自体がなくなってしまう。それこそ、今の日本でYouTubeやX(旧ツイッター)が流行っているのは、それらを見ないでいると本当にやることが何もない。なんにもしないでボーっとテレビを見ているだけの白痴になってしまう。
そもそも、昔の面白いものが面白いならば、それを今でもやればいいように思えるが、アニメや映画の視聴はサブスクが一般的になってテレビ自体が衰退し、ゲーム機はハードウェアのスペックとCG技術がはるかに進歩し、音楽はCDよりもYouTubeなどネットメディアが一般的になったせいで、おいそれと昔の日本には戻れない。今の子供たちには昔のガンダムを見せても面白いとは言ってくれない。「今のアニメよりも絵が下手だね」と言われるだけである。残念ながら、昔のコンテンツなんかそんなものである。
だからといって、アメリカのコンテンツは何もよくない。ゲームで言えば、アメリカのゲームはガチの戦争ゲームが多くて、暴力的。音楽は恐怖や不安を煽るような音楽に、露出しすぎて気持ちが悪いようなダンス。それから、日本のような漫画・アニメ文化はなく、Netflixのような映画会社はどんどん質とクオリティが落ちている。まだ日本のほうがマシだ。特に、日本の音楽はボーカロイドという新しい流行が生まれていて、初音ミクという機械仕掛けの仮想アイドルに誰でも歌を歌わせる。海外にもVTuberはいるが、日本は先駆的で、そういうところではきちんと文化的に競争に勝っているのが今の日本である。
今のアニメの絵が昔よりも綺麗なのは、コンピュータ技術の進歩が一因としてある。昔のように紙にインクで描いて色を塗って何百枚と似たような構図の少しだけ変えたイラストを描くのではなく、Adobe製品のようなデジタルグラフィックスソフトウェアを使うせいで、もっと効率的に低コストで絵が描けるようになった。それから、CG技術も進歩したため、たまに人間が描いた絵でなくOpenGLなどで描いたような3DCGが入ることもある。だが、最近は昔のような、個性あるアニメがなくなり、みんな同じようなオタク絵になってしまう。残念ながら、かつてネットで「萌え絵」と呼ばれていたものが、いつからかアニメの標準になってしまった。だから、昔のアニメは下手でありながら、今のように均一化されておらず、個性がある。
それから、CGのエフェクトばかりが多用される今の映画は、最初からCGであることが分かるせいでつまらない。昔の特撮映画は人形や模型、被り物や釣り糸、そして昔の技術でできる範囲の特撮効果を使っていて、映画の演出としての完成度が高く、今よりも味があった。今「ゴジラ対デストロイア」のポスターだけを見ても迫力満載で、当時としては良かったのである。
このように書くと、昔はたいそう素晴らしい時代で、僕は昔に戻りたいのだと思われるだろう。
だが、僕は昔なんかには一切戻りたくない。
昔の人間は、大人も子供も、権力者も国民も、人間を「モノ」のようにしか思っていない。権力者からは兵隊、資本家からは奴隷、そして普通の人間からは犯罪者予備軍として市民は扱われる。
そもそも、そう扱われるぐらい、市民自体が悪かった。そもそも、みんなが読む漫画や見るアニメが、人間のことを殺戮し、モノのように扱うのだから、みんなもその影響を受ける。テレビだけが悪ではない。漫画やアニメやゲームすべてがそうだった。
たとえば、手塚治虫の「火の鳥」は今でこそ名作であるとされるが、内容を見ると全面的にそのような生命のモノ扱いが多い。昔はそれでも神のような面白い漫画と言われて人々から多く読まれていた。
男のほうは、精神的に未熟だから、誰とも関わりたくなくなるし、女のほうは、もっと悲惨で、セックスのような表現を堂々と言う。最悪の世界だった。
そもそも、今の日本が何もないのが、何がおかしいのか?たとえば中東のムスリム(イスラム教徒)やアフリカの黒人のほうがはるかに悲惨な生活をしている。
言ってしまえば、もっと昔の日本はさらに何もなかった。白黒テレビが当たり前だった時代、あるいはそれよりも前の紙芝居が当たり前の時代に、何か面白いことがあったか?フォークソングぐらいしかなかったはずだ。あるいは、それよりも前に大日本帝国で生まれた人間はどうなる?天皇に忠誠を誓って兵隊として戦争に行く時代、なんにもなかった。それでも彼らの時代は彼らから見れば良い時代だった。
だから、僕は昔なんか大嫌いだし、今からの未来を信じている。僕は昔の歌手よりも今の歌手のほうが好きだ。おかしいか?明らかに、昔の時代を信じているだけのバカのほうがおかしい。