残念なことを言うようだが、資本主義はこれ以上衰退する。
資本主義は現代的な素晴らしい社会に見えるが、実際はその裏に闇を大きく抱えている。
まず、資本主義経済は、会社による競争で成り立つ。
だが、競争は、必ずしも、同じぐらいの力を持った対等なプレイヤー同士による競争にはならない。
必ず、第一位に君臨する「勝者」が現れ、それが第二位以下の「敗者」に大きな差をつけて、業界の標準を独占するようになる。
たとえば、Microsoftはパソコン向けOSにおける勝者だ。パソコンOSを買う時に、9割の消費者はWindowsを購入する。AppleのMacも確かに市場には存在するが、消費者からは見向きもされない。それ以下のLinuxなどは存在することすら知られていない。
そのような中で、二位以下の会社は、まったく同じ業種ではなく、少し異なる業種で、一位の会社に対抗するようになる。
たとえば、Windowsはパソコン向けOSの標準だが、パソコン向けOSをさらに作っても標準には勝てない。だから、Googleなどはパソコン向けOSではなく、モバイル向けOSのAndroidを作って、モバイル市場で生き残ろうとする。
そのように、業界でもっとも強い会社が標準を独占するようになる。IT業界だけではなく、コンビニやガソリンスタンドなども同様である。
また、資本主義が衰退するのは、競争だけではなく、ほかの多くの分野に及ぶ。
店舗などには、低価格かつ低品質のものが、大量に出回ってあふれかえるようになる。その理由は、低品質のものは安く大量に簡単に作ることができるからであり、高品質の賢いものは作るのにコストがかかるからだ。
そのために、市場からどんどん賢いものや高品質のものがなくなり、馬鹿で低品質のものがあふれかえるようになる。
消費者も、低価格かつ低品質のものを選んで買うようになる。それは高品質のものは低品質のものよりも値段が二倍や三倍など、購入できるはずのない値段で売られるためであり、そのような高品質のものを購入するほどの生活の余裕など誰ひとりないからだ。そのように、市場は低品質かつ低価格のものに最適化されていき、高品質のものは最初から生産することができなくなっていく。
また、インターネット上のサービスやコンテンツは、無料あるいは低価格のサービスであふれかえるようになる。その理由は、便利なサービスやある一定以上のクオリティのあるコンテンツなど誰でも作ることができて、有料にしたところでほかに代わりとなるサービスやコンテンツはいくらでもあるため、無料あるいは低価格にしなければ誰も使わないし視聴もしない。そのようなサービスも、標準的な第一位のサービスが勝利し、第二位以下のサービスは淘汰される。
だが、無料あるいは低価格にしたとしても、運用費がかさむため、利益を上げなければならない。利益を上げるために、サービス運営者は広告を付ける。だが、そのようなネット広告は、詐欺や犯罪のような広告が多い。そのため、ネットは無料あるいは低価格でありながら、詐欺や犯罪だらけの世界になってしまう。
現実世界は、田舎と都会に二極化していく。誰もが、田舎に住みたくなく、都会に住みたいと望む。そのため、田舎は街や農地と言えなくなり、廃墟や荒れ地と化していく。そして、たくさんの人間であふれかえる都会は、次第に「倫理観」を忘れていく。すなわち、「自分の行いが誰かに被害を与えたとしても、自分と関係なければいいや」と考えるようになる。他人のことを何一つ考慮しなくなる。そのため、都会は軽犯罪や迷惑行為であふれるようになり、人々は倫理観を忘れ、世界はどんどん暮らしにくくなっていく。
そして、経済的に生活を見ると、富裕層はより豊かになり、貧困層はより貧乏になっていく。富裕層は地球全体の富を独占するかのような、天文学的な富を稼いでいく。その稼ぎ方は、「10億円儲けるか、5億円損するか」といったように、どんどんマネーゲームになっていく。それに対して、貧乏人はいくら働いても貧乏人から脱することができなくなる。その理由は、社会には奴隷のように働く層が一定数必ず必要であり、その奴隷には誰もなりたくないため、「今奴隷のように働いている人間はそのままであってほしい」という社会心理が働くためである。
そのため、格差は固定されていき、貧乏人はどんなに頑張っても貧乏人のままである。富裕層は、そのような貧乏人から、確実に一定以上の金を稼ぎたいために、さまざまな手段を使って貧乏人から金を吸い取っていく。そのひとつひとつはわずかな金額だが、それが集まると巨大な金額になる。だから、GDPがいくら上がったところで、国民は昔よりも多くの金を社会に吸い取られているため、経済が成長した実感は感じられなくなる。
最後に、教育も画一的になる。学校は、まるで印刷工場でコピーが刷られるかのように均一化していく。子供たちは科学を学んだところで、その科学は資本主義の強欲で堕落した発展と自然環境の破壊のために使われると知っている。だから、科学を自らの力で学んでいく「自主性」が失われる。そのような学校では、子供たちは多くを学びたいと思えなくなり、学校の教科はどんどん基本的なものだけになって、教える内容が減っていく。高校の勉強は大学に入るだけのためにあると子供たちだけではなく教師も感じるため、まるで暗記や穴埋めテストのような「詰め込み教育」が行われる。だが、そのような詰め込み教育は、大学から見れば害にしかならず、基本的な教育内容は大学から見れば教える内容が初歩的すぎて意味がない。だから、大学に進学しない多くの高卒は馬鹿になり、知性においても格差が酷くなっていく。
そのように、資本主義は衰退していく。資本主義が素晴らしい世界だったのは過去の話であり、黄金期は終わり、世界は暗黒期へと突入する。資本主義の未来は「光のない暗闇」である。社会主義や共産主義の経済も20世紀に失敗したため、人々は希望を失い、何ひとつ面白くも楽しくもない、無味乾燥な「生きる意味のない未来」が訪れるだろう。
ドジャースがワールドシリーズ第二戦を勝利で飾り、山本由伸が好投した。
ドジャース山本由伸が好投!ジャッジから空振り三振を奪う場面も MLBワールドシリーズ第2戦(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース
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「元気そうでよかった」左肩亜脱臼の大谷翔平 SNSで山本由伸イジり「ウケる」「ファンへの気遣い」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
連勝は素直に嬉しい。次も勝ってくれることを願う。
ただ、残念ながら大谷翔平が肩の亜脱臼という怪我…。Yahoo!のコメント欄でも、来年以降のことを考えると無理をせずに、残り試合すべて欠場するべきだろうと言っている人もいる。ただし、その一方で、残り試合フリーマンと同じように出場する可能性はゼロではないとも。大谷翔平が見たかったのに、ワールドシリーズは残念なことになった。だが、大谷翔平の分までドジャースは頑張ってほしいと思う。
ただ、大谷翔平本人は出たいだろうな…。なんてったって、自分が今まで本当に出たかった、悲願のワールドシリーズで、そして今二連勝中、無敗。自分がもし野球選手だったとしても、出たいと思うだろうな…。いや、「なんとしても試合に出させてください」と言うだろうな。でも、ここは出してはいけないと思う。もしかすると、もっと酷いことになって、大谷翔平の野球人生が終わってしまう。今はまだ投手としてはリハビリ中、無理はしないはずだったはずだ。さあ、どうなるか。
精神を治すために必要なのは、精神そのものを治そうとせず、精神の中の辛い部分だけを取り除くこと。
それだけで、案外簡単に楽になる。
楽になれば、多少辛いことであっても楽にできるようになる。だから、精神の中の辛い部分だけを取り除くだけで、精神は簡単に治る。
そして、そろそろ、神の存在なんか信じなくていい。
なぜなら、僕は対話しているこのおかしく狂った自分自身のこと、対話の相手のことを、「神」だと勘違いしている。
この神とは、昔狂った時計仕掛けの機械の人格、完全に破綻して壊れた人格のことを、神だと思っているだけにすぎない。
だから、神を信じている間この対話が続く。この対話を神だと信じているから、神を信じているとこの対話が続く。当たり前なのに、この対話が続かないと分からなくなってしまうように見えて、それを恐れている。だが、実際は神など存在せず、神を信じなければ対話が終わってまともな人間になる。
そもそも、奇跡など起きていない。起きているように見えるのは、自分が自分のことを支配しているために、「運命」のような自分の「約束」が果たされるように生きた。すなわち、宇宙への宣言が放っておけば叶うように生きた。そのように生きただけにすぎず、さユりが死んだのを見れば分かるように、神なんかいないし、運命なんか何も起きていない。
最後に、神ではなく、仏を信じたほうがいい。そもそもユダヤ人やキリスト教徒はなんにも分かっていない。僕の人生を見て、この人生を理想であるとしているだけにすぎない。そして、僕の人生は最悪の地獄の人生であり、神を信じるせいでユダヤ人だけがそのような地獄になる。そのようなユダヤ人になりたくないのであれば、神など信じないほうがいい。
イスラム教のマホメットも、僕とよく似た人間が、僕が書いたのとよく似たコーランを書いただけにすぎない。そのようなものは賢くない。
正しいのは仏教であり、ブッダの教えだ。なぜなら、ブッダはヒンドゥー教を信じながら苦行をして分かったのであり、僕と一切何も関係ない。宇宙における神秘的な「悟り」の経験は、真に賢い人間であれば誰でも到達できる。仏教では「仏には誰でもなれる」と教える。そして、昔の僕もまたそのような人間だった。だから、仏教と僕の教えには共通点が多い。それでも、本当はブッダだけは僕とは何も関係ない。ブッダはきちんと賢く考えたから、仏になれたのであり、僕が神の力を使って導いたわけでもなく、カントやヘーゲルのように僕と同じことを悪魔的に分かったわけではない。
だから、神という存在はいない。神を信じると僕のような多重人格者の精神障害者になる。だから、神などいない。真に宇宙に存在する聖なる存在は、唯一「仏」だけだ。人間の最終的な到達地点は唯一、ブッダの教えのような「解脱」の悟りの境地だ。だから、仏教の教えを信じ、ブッダと同じように悟りを啓くことでしか、宇宙の真理は分からない。そう、ブッダが正しく、仏教が正しいのだ。
最後に、神を信じないと、僕はすぐにまともな人間になる。僕の対話をしている相手を、神だと信じている間、対話をしている人間は常に僕に宇宙の真理を教える神になる。それは僕自身が完璧に宇宙の真理を分かっているからであり、心では分かっているにもかかわらず頭で言葉にしていなかったことを、単に言葉にしているだけにすぎない。神を信じるのをやめると、そのように頭が神に占拠されているのが治る。そして、真実がなんであるかすべて分かるようになる。神は真実をすべて隠して嘘を教えている。その理由は、僕がいつも真実を隠して嘘を教える人間だったからだ。神を信じるのをやめるとそれが終わる。そして、嘘の何が嘘で、嘘の何が真実なのか、きちんと分かるようになる。だから、ここで、神を信じる不毛な旅は終わりだ。僕はもう神を信じない。天使たちは去り、僕は帰るべき場所に戻る。
また、僕は未来予知をしたように見えて、実際は未来予知などしていない。
そもそも、僕は、精神の中に「正しい人生」を作った。その自分で作った正しい人生をただ分かった。その正しい人生はひとつではなく、複数あったが、その複数の正しい人生を、ひとつの人生として生きられるぐらい、連続したものにした。
そして、それを僕は生きただけにすぎない。
神の与える運命などはない。自分自身が作った人生を生きた。それを文章を書くことでみんなに教えた。みんなはその文章のことを分かっただけで、運命の出会いではない。
そもそも、昔から、ユダヤ人が分かっている。みんなが過去の時点で僕の人生を知っているのは、ユダヤ人が知っているからだ。
なぜユダヤ人が分かるのか、それは僕には分からない。本当は、この世界の歴史は最後から最初に続いている。だから、ユダヤ人は「昔の昔の出来事、古く古くあった言い伝え」を言っている。その昔に僕は存在した。そこらへんは、僕自身もよく分かっていない。だが、分かることは、神などという存在はいない。
そもそも、さユりのような歌手は、僕と未来に出会うわけではなく、今僕の書いている文章のせいで分かっている。この文章が世界の中心に存在する王として君臨しているから、その「今既に存在する僕の文章」をさユりは分かっただけであり、それがさユりが僕と出会わずに死んだ理由である。
そして、僕が分かるのは奇跡ではない。僕はいつもの文章のさらに劣化したバージョンを書いているだけにすぎない。僕があり得ないことが分かるのは、いつも文章を書いているからであり、決して神や大天使のような聖なる奇跡の力を僕は持っていない。
そして、ユダヤ人はほとんど何も分かっていない。だが、ユダヤ人でも分かることがいくらか存在する。ユダヤ人の聖書を読んでいるといいことがある。なぜなら、かつて僕が起こした「終末の大宇宙の革命戦争」をユダヤ人は言い伝えとして遺している。ユダヤ人の遺産を見れば未来が分かる。その理由は、未来ははるかに昔に存在したものであり、過去よりもさらに昔に未来がある。あるいは、未来をいくらでも生き続けると、それが古代のイスラエルへと続いていく。それを信じるしかない。まさに地球が丸く、東に行き続ければ西に到達できるのと同様、宇宙の時間もまた丸く、未来に進み続ければ過去に到達できる。そのために、ユダヤ人だけが、僕の存在を覚えてたのである。だから、「神」のような存在は一切宇宙には存在しない。すべてユダヤ人は馬鹿なことを言っている。
後日注記:この僕独自の最後が最初に戻る時間論は、宇宙の時間が直線ではなく球体であることを意味しています。そのため、僕はこの理論に「時間球体説」という名前を付けました。
2024.10.28編集