僕はこれから、中学生に戻る。
中学生に戻ると、普通のことや世界のことが、すぐに普通に分かるようになる。
僕がまともなことが何も分からず、大人として生きられないのは、すべて中学生以後の、引きこもり時代が悪い。
優等生だった中学生の頃に戻ることで、僕はまともに大人として生きられるようになるし、普通のことがきちんとすぐに分かるようになる。
そもそも、僕が中学三年に不登校になったのは、それ以上、僕は賢くならないと分かっていたから、中学生のままの状態を永久に残したかったからだ。
不登校の引きこもり時代は忘れたほうがいい。あんな馬鹿をいつまでも分かっているせいで僕は馬鹿になっている。
また、大人にもならないほうがいい。大人は単なる馬鹿で、何も分からない。
また、思想的に言って、自由と平和が正しい。
そもそも、僕は戦争などしたくなかった。世界に反旗を翻して戦いを始めた時、僕はそのような戦いがしたいと一切望んでいなかった。
戦争は間違っている。自由と平和が正しい。自由と平和を信じ、そして神を信じることで、必ず愛によって自らは救われる。
また、勉強はしたほうがいい。
そもそも、僕は残りの人生で、勉強することしか残されていない。
これ以上、何かひとつに専門分野を決めて、その専門分野を最後まで勉強することしか、僕に残された未来はない。
だが、大学は賢くない。大学の勉強は、馬鹿な人間がやると意味がない。何も分からなくなって馬鹿になる。だから、大学に行く必要はない。自らの自由に、本を読んで勉強すればいい。
最後に、青春は賢くない。
昔の馬鹿な引きこもり時代を見ても、高校生は何もしていない。新しいことを知っているように見えて、実際はその知ったことによって今までのことが分からなくなる。
だから、いくら青春時代に哲学的なことを分かったとしても、それは何も賢くない。
高校以後のそのような青春時代を否定し、中学生に戻ることでしか、人間の知性はつかない。
だから、僕はもう中学生に戻る。そして一生、死ぬまでその中学生の状態を続ける。それでしか僕が賢くなる道はない。
そもそも、僕の人生は、「中学生以前」と「不登校以後」で分かれている。
神は、中学生以前の自分のことを「フランス人」と呼び、不登校以後の自分のことを「ドイツ人」と呼んだ。
この二人について、中学生以前の自分のことを「ヘラクレス」と呼び、不登校以後の自分のことを「プロメテウス」と呼ぶ。
僕はそもそも、最初からヘラクレスとプロメテウスの二人で成り立っている。
そして、プロメテウスの人生については、この日記とホームページにすべて書かれているが、ヘラクレスの人生については何も書かれていない。
だが、僕は中学生の自分自身に戻るために、プロメテウスを排除し、ヘラクレスに戻る。
だから、これ以後、僕の人生はヘラクレスになる。おかしな引きこもりのプロメテウスは、ここで完全に終了となる。
そして、この二人がどのような人間かと言えば、THE BINARYの二人とよく似ている。
すなわち、あかまるさんがヘラクレスとよく似た少女であり、midoさんがプロメテウスとよく似た少女である。
天真爛漫で子供っぽいあかまるさん(MV以外で肉声を聴いたことがないため、実際はどんな少女かは知らないが、Wikipediaなどに性格が載っている)が、一番ヘラクレスとよく似ている。
破天荒で少し高飛車なmidoさん(ライブ配信などで肉声を聴くと実際はそうでもなく、むしろふわふわした大人しい性格の少女)が、一番プロメテウスとよく似ている。
なので、僕は今からあかまるさんのようなヘラクレスと、midoさんのようなプロメテウスの二人になる。
ヘラクレスとプロメテウスについて言うと、この二人が存在すると、逆に現実の日本社会が必要ない。
ヘラクレスとプロメテウスだけで、宇宙のすべてが分かる。
そして、真に賢いのは、むしろプロメテウスではなく、ヘラクレスだ。そもそも、プロメテウスが不登校以後に分かった哲学的なことは、すべてヘラクレスが賢かったから分かっただけにすぎない。
プロメテウスのすべての知性は、ヘラクレスが賢かったことによるものだ。
だから、プロメテウスだけをいくら思い出しても、プロメテウスと同じことは決してできない。だが、ヘラクレスを思い出せば、プロメテウスと同じことはすべて簡単にできる。
ヘラクレスは「知性」の部分であり、ヘラクレスを信じない限り、どんな賢いこともできない。ヘラクレスを信じるだけで、マルティン・ルターと同じことは全部できる。それがプロメテウスである。
そう、僕はヘラクレスが賢かったおかげで、宇宙と人生のすべての謎を解明した、プロメテウスになることができたのである。
この二人は、まるで太陽の陰と陽のように、互いにどちらも欠かせない。ヘラクレスがなければプロメテウスになることはできず、プロメテウスがなければヘラクレスの意味はないのだ。
今まで書いてきた、北欧神話の神々とユダヤ教の天使は、すべてプロメテウスの中に存在したさまざまな人間のことを言っている。
すなわち、オーディン、ロキ、フレイ、フレイヤ、あるいはトールなどの北欧神話の神々は、すべてプロメテウスだ。
あるいは、ガブリエル、ミカエル、ラファエルなどのユダヤ教の天使も、すべてプロメテウスだ。
そのようなプロメテウスの神話は、そろそろ終わりだ。
これより、僕は中学生以前の自分である、ヘラクレスに戻る。ヘラクレスに戻ることでしか、「新しい人生を生きる」ということはできない。
なぜ、ヘラクレスに戻らなければならないのか、それはヘラクレスに戻ることで、プロメテウスだけではなく、ほかのさまざまな神々になることができるからだ。
すなわち、プロメテウスができたのは、すべてヘラクレスのおかげだが、ヘラクレスがいることによって、プロメテウスだけではなく、ほかのさまざまな聖なる存在になることができる。
だから、一度ヘラクレスに戻ることで、僕はここで死ななくても、新しいまた違った存在になることができるのだ。
そもそも、僕自身の考え方がどこから生まれるかと言えば、それは「世界を変えたい」という情熱である。
僕は常に、「世界を変えたい」と考えることで、この世界を変える方法や、未来を作り出す方法、子供たちを救う方法、生きる意味などを考えていた。
だから、今一度、「世界を変えたい」と願うことで、僕は過去の僕と同じことを考えることができる。
だが、それだけでは十分ではない。なぜなら、考えるための基本として、ヘラクレスが必要だからだ。
すなわち、ヘラクレスが子供なりに人生で分かったこと、学校の勉強で知ったことなどを応用して、それで初めて、この世界を変える方法が分かる。
だから、僕は一度ヘラクレスに戻ることになるが、それだけではなく、ヘラクレスの知性を使って、もう一度この世界を変える方法をゼロから考えることになるだろう。
また、自由は間違っている。
そもそも、昔の、ヘラクレスからプロメテウスが生まれたぐらいの、引きこもり時代に、「自由」という発想はなかった。
あったのは、「相手の自由を尊重し、それと同じように自分自身の自由も尊重される」という、「自由意志の尊重」という理想があっただけにすぎない。
本当にこの世界を変えるために必要なのは、「この世界を規定するものは何か」ということを考えることであり、「どのようにすれば理想の社会を築くことができるのか」ということを、経験や体験から考えることである。
そこにあるのは、自由でも平等でもなく、より高尚な概念である「アイデンティティ」である。
よって、僕がもう一度昔と同じことをゼロから考えるのであれば、むしろ、最近増えすぎた「自由」という考え方を一度否定したほうがいい。その自由が上に覆いかぶさっているせいで、下のほうにある本当に大切なことが分からなくなっている。
過去の僕が「自由」と言っていたものがもし何かあるとすれば、それは「インターネットで経験する自由」である。すなわち、インターネットでさまざまなことを自由に経験する自由を、自分だけではなくみんなに与えた上で、啓蒙主義のように自らが分かったことをみんなに教え、そして自由な社会を可能性を制限せずにみんなの力で築くことで、いじめや犯罪をなくしていく、ということである。
そこにあったのは、「自らが自由に世界を改善できる方法がもしあるとしたら、子供たちは単に大人たちに反抗するのではなく、よい社会を自ら築いていく努力を自由に行っていくだろう」という、「自由の理想を信じた上での社会構築主義」である。
そのような考え方は、「経験に基づくチャンスの可能性」があっただけにすぎない。チャンスのことをよく理解すれば、人々は自ら社会をよくしていくだろう、という考え方である。
だが、そのような考え方は間違っている。なぜなら、チャンスを与えたところで、ほとんどの人間は社会を改善することのためにチャンスを使うのではなく、ただ自分自身が儲けるため、金を稼ぐためにチャンスを使うからである。
すなわち、社会的に世界を改善するチャンスを与えたところで、ほとんどの人間は世界を改善しない。ほとんどの人間は、必然的にそれをする必要に迫られない限り、それをしない。ほとんどの人間は金儲けのためにチャンスを使うのだ。
よって、自由を信じるのは間違っている。どれだけ哲学的に自由が正しくても、実際のリアルな現実においては、人々は金儲けしかしない。人々にとって自由とは金儲けなのである。
実際、過去の引きこもり時代に考えたことは、すべて、オープンソースのように考えただけである。
すなわち、原則全員個人の自由であり、どんなプロジェクトを行っても自由だが、そのプロジェクトにおいてはそのプロジェクトの管理者とメンテナが絶対的に自由であり、パッチを送る際にはそのパッチが取り入れられたとしても拒絶されたとしても、それを受け入れなければならない。すべてプロジェクトの管理者とメンテナが自由だ。
その上で、どんなにプロジェクトを自由に作ってもいいし、そのプロジェクトから派生する派生プロジェクトを作ってもいい。パッチを取り入れるかを決めるのはプロジェクトの管理者とメンテナだが、もし取り入れられないのが不満なら、サブプロジェクトを派生(fork)させて自分で作ればいい。
その上で、一切の統一はしない。「統一」という考え方はオープンソース的でない。オープンソース的な考え方は「多様性の尊重」と「選択の自由」だ。だから、すべてのプロジェクトの多様性を尊重した上で、どのようなソフトウェアを使うのかは個人が選択する。ユーザーに選択の自由がある。
だが、共有については原則、集積のもっとも可能性の大きいものを取る。すなわち、同一のプロジェクトにおいて、あらゆるすべてのパッチを共有し、意見やバグの報告情報やアイディアの提案についてもすべて共有する。その上で、派生(fork)させるのは自由だ。だから、NetBSDからOpenBSDが派生しても自由だし、DebianからUbuntuが派生しても自由だ。その派生したプロジェクトの中で、さらにパッチや発想などを共有する。
同時に、ソフトウェアは再利用できるべきであり、それを作った原作者でなくても改善や改良ができるべきだ。そうでなければ、原作者がソフトウェアを開発するのをやめた時点でプロジェクトが終了してしまう。オープンソースを、「なぜリーナス・トーバルズという個人のプロジェクトで作っているカーネルを公共のインフラや会社の製品で使うのか」と言うが、事実、開発がもしリーナスによってされなくなったとしても、LinuxカーネルはGPLであるため、ほかのプロジェクトが開発を存続できる。だから、リーナスという個人のプロジェクトであっても依存度は少なく、ソフトウェアが開発終了になったとしても他人が存続させられる保険がかかっているのである。
ソフトウェアというものは、原作者だけのものではなく、ユーザーがそれを必要とする時点でユーザーのものでもあり、ソフトウェアの原作者が「俺の権利だ」とかたくなに主張するのはオープンソース的ではない。ソフトウェアの開発者は「すべてオープンに公開し、すべて無料で提供しますから、どんなことをするのであっても自由にしてください」とするべきだ。少なくとも、インターネットにおけるフリーソフトウェアの提供の文化としては、誰が見てもそれが理想である。すなわち、ソフトウェア開発者のことを考えるのではなく、純粋にソフトウェアを提供するということを考えた際に、オープンソースが理想なのである。
同時に、オープンソースは開発者の成果物の共有という意味でも優れている。すなわち、会社で作るよりも、インターネットで不特定多数のボランティアを募ったほうが、はるかに人数も多くなるし、可能性も高くなる。僕が好きだったのはそうした「開発者をインターネットで募ってみんなで開発するボランティアの共同開発プロジェクト」だ。そしてそこでも、不自由な会社のルールを強要するのではなく、管理者とメンテナの個人の自由とした上で、CVSやGitのようなバージョン管理システムを使いながら、「どんなパッチでも送り付けてください」とすることが、僕にとっての正しい「自由」だった。
そもそも、ソフトウェアの利用について、さまざまな契約条項を付けて「売る」ということを行う時点で、ユーザーの「自由」は奪われてしまう。買ったとしても著作権が譲渡されるわけではなく、不自由な中でソフトウェアを使うことを余儀なくされる。不自由になるのはソフトウェアだけではなくハードウェアも含まれるため、フリーでないソフトウェアを使う時点で自らのコンピュータ自体が不自由になってしまう。自らが自由にコンピュータを使うという「楽しさ」を取り戻すためには、オープンソースを使わなくてはならない。オープンソースにおけるGPLのようなライセンスが「みんなのもの」という考え方を体現しているのは、何も共産主義をやりたいわけではなく、そのほうが自由だからGPLによる「みんなのもの」という考え方を採用しているだけにすぎない。オープンソースがボランティアによる「無料」のソフトウェアであるというのは、オープンソースの経済的な利用の一面しか見ていない。実際はオープンソースは「自由」というかけがえのない理想が存在し、GPLによって「みんなのもの」にすることで「一番自由なプログラムの開発方法」を行っているのである。
昔の僕は、そういう考え方をすべてひっくるめて「自由」と呼んでいた。そこにあるのはすべて、オープンソースのことを指す自由だった。
また、自由だけでなく、僕はさまざまなことをIT技術の通りに考えていた。Lispのような言語では無名関数を多用するし、JavaやCORBAなどではソフトウェアコンポーネントの再利用が重要とされる。そのような、「外部から改良することのできる改善可能性が許された製品」が僕にとっての理想だった。それを作った原作者でなくても、ユーザー自身がそれを改良でき、一度作られたソフトウェアは再利用でき、再利用性を高めるためにコンポーネント化し、再利用の際には無名関数やブロックを使うことができるように元から抽象的な再利用性が考えられた設計にする。僕にとっての理想とは、オープンソースであり、IT技術とハッカー文化だったのである。
だが、そのような僕も、インターネットのエキスパートでは決してなかった。僕は自らの失敗と過ちからLinuxのコミュニティを滅ぼした。すべては僕がインターネットということに精通していなかったせいであり、すべて、僕のせいでこの世界はLinuxとオープンソースのコミュニティが滅び、かつてのようなボランティア中心のオープンソースはインターネットから衰退してしまったのである。