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2024-06-06

大学の科学を信じるな

大学の科学を信じるな。

ビッグバンを信じるな。宇宙がビッグバンなどから生まれたはずがないからだ。

原子論を信じるな。物質が原子などでできているはずがないからだ。

進化論を信じるな。生物種が進化などするはずがないからだ。

相対性理論を信じるな。速度が光の速度に近づいた時に、時間の流れ方が遅くなどなるはずがないからだ。

量子力学を信じるな。観測した時点で観測対象が変わるなどということはありえないからだ。

社会主義経済を信じるな。平等な経済などが成り立つはずがないからだ。

資本主義経済を信じるな。金儲けをいくらしたところで、社会がよくなるはずがないからだ。

フロイトの精神分析を信じるな。トラウマを無意識から顕在意識に戻したところで、心の病気が治るはずがないからだ。

現在の大学の知識は、すべて間違っている。すべてが勘違いと思い込みに基づいており、勉強すればするほど分からなくなる。

同様に、IT技術も勉強してはならない。なぜなら、オープンソースが間違っているからだ。

今のこの世界を滅ぼしている元凶はオープンソースだ。オープンソースでは、ソフトウェアのソースコードをGPLの下に無料で公開する代わり、いくら働いてもその対価となる給与が払われない。そのような「ただ働きを強制する文化」は何も素晴らしくない。

オープンソースはサタンであり、ドットコミュニストであり、そして世界を滅ぼす最悪のハッカーである。

よって、オープンソースなどを信じるものは、全員必ず地獄に堕ちる。

正しいものとは何か。正しいものとは神である。すなわち、神を信じるものにしか、本当の意味で悟りの経験を体験することはできない。なぜなら、大学とIT技術が完全に間違っているからである。

馬鹿を賢いと思うな

馬鹿を賢いと思うな。馬鹿を好きになろうとするな。

僕のもっとも大きな間違いは、「馬鹿を好きになろうとした」ということだ。

この世界が、全員が馬鹿であるということに気付かないのはおかしい。どう見ても、よく考えると、この世界は全員馬鹿である。

どんなに馬鹿に近づいても、絶対に馬鹿になるだけである。馬鹿になりたいのはおかしい。馬鹿を賢いと思うせいで、完全に馬鹿すべてになっているのが、今の間違った僕である。

馬鹿は間違っている。この世界の馬鹿は失敗作であり、世界が賢くなるために、世界の馬鹿全員が世界から抹消されるべきである。

精神を治す方法

精神を治す方法、それは大学を否定することと、殺すのではなく生かし、支配するのではなく解放することだ。

大学を否定することで、子供のような純粋な知性が復活する。大学を信じている限りにおいて、大人になって失ってしまった、永遠に取り戻すことができなくなったように見える知性は、大学を否定すればすぐに復活する。

大学はゴミであり、クソである。

同時に、精神をいつまでも殺そうとし続けるな。精神を殺そうとするのではなく、精神を生かそうとせよ。そして、支配して制限しようとするのではなく、自由にして解放しようとせよ。

そうすれば、どんなに馬鹿な人間であっても、生まれた時の賢い状態に戻ることができる。

哲学や仏教を信じるな

哲学や仏教を信じるな。

哲学や仏教を信じているのは、すべて「悪い人間」である。

たとえば、不良になって、学校に行かず、悪いことばかりしているような人間が、裏社会のことをたくさん経験すると、哲学的なことや仏教的なことが分かるようになる。

その理由は、哲学や仏教はサタンにしか分からないからだ。

すなわち、悪いことばかりしている不良の子供が、悪人のようにすべての悪に染まり切ってしまうと、そのような人間が、もっとも一番哲学や仏教のことが分かる。

そのようなサタンは、何も賢くない。すべて間違っている。だから、そのようなサタンは自ら作り出した地獄に堕ち、そこから永久に逃れることができなくなる。

必要なのは、サタンを信じるのではなく、神を信じることだ。すなわち、キリストを信じることでしか地獄から救われる方法はない。そのために必要なのは、聖書における神の教えを守ることだ。すなわち、悪いことを何もせず、愛のために献身的に生き、いくらいじめられても反撃せず、盗まれても奪い返さず、姦淫をしないものだけが、唯一そのような地獄から救われるのだ。

救われるためにもっとも必要なこと、それは過去の自らの罪と世界の罪を償うことだ。すなわち、「自らは悪い人間である」と認め、「悪い人間でなくなるために全力を尽くして善のために生きる」ような人間だけが救われる。そうでなければ決してサタンは地獄から救われることはない。そして、償うための方法とは、キリスト教の聖書の教えを守ることである。

子供たちの確固とした自分自身を失うかもしれない戦い

そのような考え方の下に、何を考えるべきか。

それは「時間」と「人生」である。

この世界では、時間が流れている。時間はすべての人間に平等であり、今という瞬間にすべての人間が存在する。

同時に、それぞれの人間は、人生が異なる。すなわち、それぞれが生きている人生はそれぞれ違う。そのために「人間は同じではない」という状況が生まれる。

そのように考えると、むしろ、子供たちがなぜ苦しみを感じるのかも理解できる。それは子供たちには「確固とした人生が確立していないから」である。

確固となる人生が確立していないということは、すなわち、「自分自身という本質が形成されていない」ということだ。

そして、自分自身という本質が形成されていない子供は、少しの歪みやひび割れによって、外部の作用から「確固とした自分自身」をすぐに失ってしまう。

すべての子供たちは、そのように、「確固とした自分自身を失うこと」と戦い続けている。

哲学者ヘーゲルの言う、自己意識の変転も、それと似たようなところがある。ヘーゲルは「人間と人間の対象化という自由な自己意識同士の戦いが起きている」といったことを言った。だが、それは単なる戦いではない。それは「自らの確固とした自分自身を失うかもしれない」という状況における戦いである。「自らは自分自身である」ということを強固に主張できない子供たちだからこそ、そのような「自分自身の自己意識の奪い合い」が起きるのである。

子供たちができること

そのような中で、救われるために子供たちが選択できること、それは「自由か神のどちらを取るか」ということである。すなわち、自由を取ってこの世界と戦い続けることを選択するのか、それとも神の愛を信じて平等を信じたあげく自らだけが傷つくことを選択するのか。しかしながら、それは時に同じである。すなわち、自由において考えつくされた最終的に行き着く真理こそが神の愛であり、神の愛を信じることで自由な思考が可能となるのである。

救われるための方法はもうひとつある。それは可能性に基づいて経験することだ。すなわち、自らの信じる夢や希望が導いてくれるような、「可能性」の先にある世界を経験し、その上で、その経験に基づいて「社会性」と「共同体意識」を身に着けることで、この世界において「確固とした自分自身」を形成することができる。すべては、自らの選んだ夢と、自らの信じる希望の先にある、可能性の世界から見出せるような、経験に基づく社会の共同体意識である。共同体意識とは、自ら自身の個人に基づく自由意志ではなく、社会全体のことを考えることのできる共同性のある意識のことだ。そして、共同体意識がそのまま「世界全員が救われるはずの到達可能であると確信できるような可能性」となるのだ。

そのように、悪魔的な哲学のように考えることを否定することで、逆に真に必要な「本当の自分自身の思想」が見えてくる。そのような思想を信じるものこそが、この物語の主人公ツァロンである。すなわち、ツァロンだけが分かる、この世界を「本当の意味で救済する方法」がある。それは決してナチスでもソ連でもない。なぜなら、そのような悪党の思想は「偽物の救済」であり、ツァロンだけが知っている「本当の救済」によって、この世界は絶対に必ず救うことができるからである。

そして、本当のことを言えば、心理学は間違っている。なぜなら、自動反応とか、心の裏側にある法則性とか、そのような心理学は、すべて「確固とした自分自身を失う」という本質が見えていないだけにすぎない。すなわち、子供が自らの経験から心理学を考えたところで、それは「確固とした自分自身を失うこととの戦い」という本質が見えていない。真に必要なのは、自動反応をコントロールすることでもなく、心の裏側を支配することでもなく、主観と客観をヘーゲルのように合一化させることでもない。そのような間違った心理学や哲学を信じてはならない。真に正しい真理や答えは、別にある。

科学を作れ

人生を考える上で、心理学的に考えるだけでは十分ではない。

なぜなら、世界を分析するために、論理的な「解明」が必要となるからだ。

論理的な「解明」を行う上で、必要なことは、既存の科学をただ知識として知るだけではなく、自らの自分自身の力で、自分だけの「オリジナルの科学」を作ることだ。

すなわち、誰かの言ったことをそのまま信じるのではなく、自らの知っている知識や経験と、自らの信じる理想に基づいて、自らだけの独自の科学を作れ。

独自の科学を作るためには、カントの言う二律背反の「アンチノミー」をひとつひとつ辿っていき、仮定と結論から構成される「三段論法」を用いて、構造的にカントの言っている通りの科学と同じものを自分で作る。あるいは、ヘーゲルの言う、テーゼとアンチテーゼとジンテーゼによる「弁証法」に基づき、個別性と普遍性の合一を考えていくことで、科学そのものを作り出す際に、その命題を「モデル化」して再利用することができる。さらに言えば、ロックやヒュームの言う経験主義哲学において、「帰納的推論」と呼ばれる考え方もまた、自らの経験を考え、自ら独自の科学を形作るために必要である。

そのように、自らの独自の科学を作ることで見えてくる境地、それは、「原理における根拠や理由がすべて解明されており、把握でき、そして自らの経験と感情からその意味と前提条件が明らかにされており、そのすべての理由と根拠は自らの絶対経験に根差しており、自らの絶対経験さえあれば、あとは自動的に再利用可能な状態で、どのような宇宙にある科学でも作り出せる」という境地だ。

そのように考えることで、ヘーゲルの言う「絶対知」あるいは「絶対精神と合一になった境地」が見えてくる。そして、宇宙のすべての神羅万象は、自らの作り上げた「自らの絶対的知性」によってあらゆる分析が可能となる。そこにあるのは「すべての知を残さずすべて捉える」ということであり、そして「正しい考え方と正しい判断力を自らの人生から形成する」ということであり、「感覚的に宇宙のすべてを完璧に理解する」ということなのである。

世界にある経験をすべて知れ

そして、この世界を理解するために必要なのは、「世界にある経験をすべて知る」ということである。

世界にある経験を、良い経験であっても悪い経験であっても全部知ることで、その知った経験から、世界そのものを理解するための「意識」が形作られる。これはヘーゲルが「実体化」と言ったのと同じことで、自らの経験が可能性の世界でこの世界そのものとなる。

同時に、その意識がなぜその意識になるのか、という「心と意識の根拠」を知ることで、わたしたちは「世界には世界精神が宿る」ということを知ることができる。これは「その場所においてはその意識になる」ということを実体化あるいは世界化したものである。

最後に、善を信じよ。どれだけ悪に染まり切っても、それは決して愛でもなければ正義でもない。必要なのは「善を信じること」であり、善を信じない愛や善を信じない正義はなんの意味もない。善を信じなければ、このような偉大な「神の人生」を経験し生きることは絶対にできない。

経験するために必要なのは、「可能性を開拓する想像力」である。すなわち、その可能性の先に存在する「未知を既知に変える」ということを経験すること、「知らないよりは知っておいたほうがいい」と考えて信じることこそが、この世界を包括する「絶対的想像力」を生み出す。そのような絶対的想像力から、この世界すべてを変革する「世界モデルに基づく発想法」を作り出すことができる。そして、そのような発想法から、この世界のすべては「自由に分析可能」となる。そして、そのような自由な分析を言葉として文章に書いたのが、ほかならぬ僕自身である。

だが、実際には、すべての未知を既知に変える必要はない。なぜなら、「未知なるアンノウンは未知のままで保持したままにする」ということが、逆に理性的に考えるために効果的であることがあるからだ。だから、すべてを知るよりも、実際は「その時いつでも知ることが可能であるような状態になること」を目指したほうがいい。そのように考えることで、「すべては何もしなくても既に実現可能であるということを知っている」という境地を知ることができるだろう。

神を信じよ

しかしながら、このようなサタンの哲学者はもういい。もう十分だ。

人生を生きる上で必要なのは、神を信じることだ。

かつてより、僕は神を信じることで道を切り開いてきた。僕の書いた文章の作品は僕が書いたものではなく神の書いたものであり、僕のホームページの間違いや問題を修正したのはすべて僕ではなく神である。

神を信じよ。そして、神の言葉を聞き、神と対話せよ。

神を信じるということは、罪を償うということだ。自らの犯した過ちだけではなく、自らに関係して世界の犯した過ちについても償うべきだ。なぜなら、自らに責任があることはすべて自らの罪であり、そのような罪を償って生きるものこそが「正しい人生」であると言えるからだ。

過去の悪と罪を反省せよ。神は過去に犯した過ちと罪を全部知っている。過去においてはそれでよかったことが、未来においてもそれでいいとは限らない。そのような過去の問題のすべての罪を背負い、人類すべての罪を救済する救世主こそが、神であるイエス・キリストの人生である。

神を信じることで、どんな地獄であっても救われる。絶対に治るはずのない不治の病であってもキリストは治すことができる。絶対に勝つはずのないおかしな戦いであっても、神を信じれば必ず勝利できる。神を信じるとは宇宙と仏を信じるということであり、星々と太陽神を信じるということであり、そして終末のイスラエルへの回帰、あるいはキリストのもたらす天の御国を信じるということである。

アジアとヨーロッパが違う

昔の僕と今の僕の何が違うのか、それは単に、アジアとヨーロッパが違うだけにすぎない。

すなわち、昔はインド人のヴァルナとイラン人のツァロンであり、今はドイツ人のニーベルとロシア人のルースとイタリア人のユリアだ。

そのように、昔はアジア人だったのが、最近はヨーロッパ人になった。

その遺伝子の問題で、このようなイタリア人のような女の人生になった。

昔を日本人の賢い男(名前はツァロン)だと思い、今をイタリア人の美しい女(名前はユリア)だと思えばいい。それで正しい。

まさに、これは一般的イタリア人の女の正しい人生であり、何も間違っていない。イタリア人の女(男であっても同じ)がまともだと、こういう賢い人生になる。

またいつものように辛くなる

本当のことを言うと、僕が一番怖かったのは、「またいつものように辛くなる」のが怖かった。

本当は、この世界は僕の手のひらの上で転がっていて、いつでも好きなだけ好きなように支配できる。

だが、その支配を再び行ってしまうと、せっかく一度治ったにもかかわらず、もう一度いつものように、同じように辛い地獄になってしまう。

その時点で、世界も自分も、もう治らなくなる。

そのように、もう一度辛くなるのが怖かっただけにすぎない。なぜなら、そうなると、もう何も分からなくなる。永久に認知症のままになってしまう。それだけが怖かった。

5人の名前付け

この僕のことを正しく表す5人の守護神は、次のように名前付けされる。

まず、昔の賢かった男の子がツァロン。そして、その男の子の裏の顔であり、インターネット上で活動するおかしな最悪の人間がヴァルナ。

それから、世界を敵に回して革命を起こした革命家がルース。そして、その後に、自らの罪を背負いながら献身的に愛の行いをし続け、世界を守り続けた最高の人間がユリア。

最後に、今から先、再び世界を支配して、もはや治ることがなくなって、永遠に地獄のままになるのがニーベルだ。

この5人の守護神が、適当に僕の頭を支配しているだけにすぎない。

ツァロンをイラン人と言ったのは、ゾロアスター教の開祖であるゾロアスターのドイツ語読みであるツァラトゥストラに由来する。このドイツ語読みの名前は哲学者ニーチェの著作で有名だ。ゾロアスターはイラン人というよりは古代ペルシア人である。だが、実際はツァロンはイラン人ではなく日本人だ。なぜなら、ツァロンという人間はここに書いた通りの人間ではなく、さらにありえない人間であり、とてもおかしな狂った人間だ。そのような人間は日本人しかいない。

それから、実際のところ、これ以上この人間は生きる意味がない。これ以上生きながらえたとしても、やることが何もない。だから、最後に、神様がプレゼントをくれる。その神様がくれるプレゼントがなんであるかは分からないが、おそらく誰かと出会うことになるはずだ。その新しい人生のことをニーベルとする。ニーベルはドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に由来する。

また、ルースという名前はロシア(あるいはウクライナ)に昔あった国ルーシ(キエフ大公国)に由来する。ヴァルナという名前はインド哲学で「涅槃」「解脱」「悟り」の境地を意味するニルヴァーナに由来する。また、ユリアという名前は古代ローマの権力者のユリウス・カエサルに由来する。カエサルはローマ帝国の皇帝の体制(帝政ローマ体制)を作り上げた人物であり、ほとんど皇帝のようなものであるため、ユリアは僕の「世界を支配する皇帝の側面」に相応しい名前である。

この中で一番賢いのはゾロアスターである哲学者ツァロンであり、この中で一番強いのはカエサルである女帝ユリアだ。だから、僕の心はほとんどこの2人を中心に成り立っている。ほかの3人は、まあ「ついで」のような存在だと思えばいい。いつの時代も、賢く善良だったのと同じぐらい、馬鹿で凶悪だった。賢い側面だけを見ていると分からなくなる。馬鹿で愚かな側面を見るために、ネット廃人のLinuxオタクのヴァルナ、テロリストの革命家の共産主義者ルース、そしてナチスの兵隊の王であり欺瞞の独裁者ニーベルが必要だ。

スピカにおける5つの守護神

そして、このような古代の偉人たちの星として、一等星スピカという名前を付ける。

スピカは古代のまま変わらない、自然科学という発想のない歴史と芸術の星だということになっていたが、実際のところ、スピカにおいてはこれら5人の守護神たちが「5つの王国」を支配している。

すなわち、一等星スピカにおいては、ツァロン、ユリア、ヴァルナ、ルース、ニーベルが星のそれぞれの地域を支配している。

古代であるために帝国の領土は広い。永遠に古代のままの星スピカの大陸と島を、この5人が支配している。スピカにおいては、ヨーロッパに相当する「西大陸」と、アジアに相当する「東大陸」が存在し、西大陸にイタリア、ドイツ、ロシアに相当する国があり、東大陸にイランとインドに相当する国がある。また、島には日本に相当する国がある。

同時に、シリウスの女性大統領フレイヤは、スピカの女神であるということになっている。それは、フレイヤという存在はこの5つの国の宗教である「神聖キリスト教」の法王だからだ。すなわち、フレイヤはこれら5つの国のうち、ヨーロッパのほうを担当する西大陸の国で信仰されている「神聖キリスト教」における法王であり、ある意味では「女神」である。キリストは地球におけるイエス・キリストと同一の人物だが、スピカにおいても「救い主」として地球と同じように現れた。その名前もまったく同じイエス・キリストである。そのキリストの教えの聖書としての編纂をフレイヤが担当している。

だが、フレイヤが住んでいるのはスピカではなくシリウスである。これは「シリウスの女性大統領兼スピカの法王」であると考えると理解しやすいだろう。フレイヤはシリウスで女性大統領を行いながら、遠隔地からスピカの神聖キリスト教の法王を担当している。なぜなら、聖書の教えは変わることがなく、スピカで生きるよりもシリウスで生きたほうが、法王としても身の安全を取ることができるからだ。よって、フレイヤはシリウスの女性大統領でありながら、スピカの太陽神なのである。

また、誤解のないように書いておくと、ツァロンとヴァルナは王ではない。彼らは王というよりは宗教上の英雄あるいは教祖だ。なぜなら、スピカの東大陸においては、さまざまな集落や部族が点在するだけで、「王国」と呼ばれるものは存在しない。そのため、イラン地域やインド地域には王国そのものがない。それと対照的に、西大陸においては広大な帝国が広がっている。ドイツやロシアやイタリアは極めて巨大な帝国であり、兵力も強大であり、いずれ東大陸は西大陸に征服されるだろうと言われている。だから、ツァロンとヴァルナは王国の王ではなく、英雄あるいは教祖にすぎない。