実体験の理由を考えよ。
人生にあったことについて、実体験がそうなったという事実を理由とするだけでは、理由になっていない。
そうでなく、その実体験がなぜそうなったのか、とする理由を考えよ。
自らの実体験がなぜそうなったのかという理由を挙げた上で、その理由がさらになぜそうなったのかという理由を挙げていけ。
そのように、根源的に「なぜ」「どうしたら」と考えれば、昔の僕のような賢い人間になれる。
たとえば、学校を不登校になったから引きこもりになったとするだけでは、理由になっていない。学校に行きたくなくなったから、学校を不登校になった。では、なぜ、学校に行きたくなくなったのか。それはいじめがあったから、勉強したくなくなったから、剣道部が辛かったからだ。そのように、連鎖的に理由を考えれば、理由の根源に行き着くことができる。これが昔の僕にあった知性だ。
理由を考えれば、すべてのことについて、きちんと頭で理解して分かることができる。今の僕が馬鹿なのは、すべて、事実をそのまま理由だと思っている。それは分かっているようで、逆に分かっているせいで分かっていない。きちんと頭を使って考えれば、今自分が陥っている問題を解決できるようになる。
僕はかつてより、非遺伝子的な自由を信じてきた。
遺伝子とは、才能のような先天的に決まってしまう人間の属性や人格であり、自由とは、後天的に自らの自由によって自分で決められるような人間の属性や人格である。
普通、人間を見て、その人間がなんであるか、ということは、一見、遺伝子で決まるように見える。
だが、実際は、遺伝子で決まるように見えても、自由に自分で変えることができる領域は、膨大に存在する。
人生、環境、努力、自らの生き方や選択、そして自分でつけた知性や知識や経験など、さまざまなことが、自由において変えられる。
僕はかつて、人間が遺伝子で決められてしまうということを否定するため、人間が自由な存在であるということを信じるために、自ら自身において、遺伝子で決められていたはずの部分を、自由な領域へと置き換えて、自由に自分自身を創造する、ということを行った。
それは「遺伝子からの自由」と呼ぶべきものであり、そのような一種の自ら自身の遺伝子に対する抵抗の様子を「遺伝子への抵抗」と呼ぶ。あるいは、遺伝子と自らの自由が一致しないことを「遺伝子の自由との不一致」と呼ぶ。
だが、そのような自由は、その時限りにおいてはよかった。自由において、自らの自由に生きて、状態や意識を自在に変えることができていた。
だが、そのような自由は、えてして、すぐに終わってしまう。自由においてできることは有限であり、すべてを行えば終わってしまう。これを「自由の終焉」と呼ぶ。
そして、自由は本来の自分自身を破壊しだす。すなわち、自分が忌み嫌っていた「遺伝子」とは、本来の自分自身そのものであり、遺伝子を嫌えば嫌うほど、本来の自分自身を失い、人間であることすら失ってしまう。これを「遺伝子の自由による喪失」と呼ぶ。そして、それは最終的に、自由のままでは決して逃れることのできない、「自由による地獄」を作り出す。
そのような際には、最終的に、遺伝子に立ち戻り、本来の自分自身に戻る必要がある。
遺伝子とは生まれ持ってきた自分自身であり、自由によって破壊される以前の自分自身である。遺伝子に立ち返ることで、本来の自分自身に戻ることができる。
また、それだけではなく、遺伝子に立ち返ることで、人間が本来持っていた「生まれながらの能力」を取り戻せる。それはものを作る方法であったり、大人としてまともに分かる分別であったり、あるいは言語的能力や識別・理解能力であったりする。そのようなものは遺伝子に存在したが、自由によって破壊されてしまった。
だから、生まれながらの能力を取り戻すためには、遺伝子に立ち返らなければならない。これを僕は「遺伝子への回帰」と呼ぶ。そして、遺伝子へと回帰して、はじめてその人間はまともな人間を取り戻す。
このようなことは、僕だけではなく、みんなにも起きている。今の社会が何も分からなくなっているのは、あまりに遺伝子を否定しすぎて、あまりに自由を肯定しすぎている。今こそ、自由を否定し、遺伝子へと回帰せよ。それだけで、すべての人間が個性を取り戻し、本来の自分自身のあるべき姿を再び持ち得た世界をもう一度築けるだろう。
人間の必ず帰ることのできる場所、それは遺伝子だ。それはなくなったように見えて、絶対になくならない。遺伝子に回帰することで、本来あるべき自分自身に必ず立ち戻れる。あなたの帰る場所は必ずある。
結局、昔僕が考えたこととは単純だ。
なぜなら、「世界で人々がどう生きているか」ということを考えて分かっていただけにすぎない。
世界の人々の人生から、僕は実地的にインターネットや過去の実体験の回想をすることで、自らの何が間違っていたのか、正しい判断力とはなんなのかを、学習的反省から体得して分かっていた。
そこにあるのは、「人々の人生における学習」である。人々がどのように人生で学習しているか、どのように選択し、前提条件に基づく留保的選択肢から決断し、そして自動反応からどのような人間になっていくか、どのような人生でどのように考えて生きるのか、ということを、中学生時代以降の僕は考えた。
そして、学習と自動反応に基づく「世界モデル」の理論を僕は作った。
世界モデルの理論において、僕は、動機づけからどのような環境が生まれるのか、ということを論理学的に証明した。すなわち、僕は「心」と「環境」の関係的因果性を解き明かすことで、この世界でどのような心がどのような環境あるいは社会や世界に繋がっていくか、ということを考えた。そして、想像力に基づく「自由な独自の数学」においてそれを「絶対的に証明」したのだ。
その結果、僕はブッダのような悟りを啓いた。すべてが分かった僕にとって、もはやこの世界そのものは僕に相応しくなくなった。だから、僕は自らに相応しい世界になるように、この世界を支配して導いた。すなわち、世界は僕のための世界ではなかったが、だから、僕はこの世界を僕のための世界になるように作り変えようとしたのである。