ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2024-10-19

絶対自由主義に戻る

ここで、僕は、かつてからそうであったかのように、「絶対的自由主義者」に戻る。

わたしは右翼でもないし、左翼でもない。なぜなら、わたしの信じるものは「自由」だからだ。

わたしは自由を信じている。それは権力で国民を従えるのでも、法律で国民を縛るのでもなく、国民がその都度その都度、自分たちで決まりや規範を作ることができるような自由だ。

それによって、社会には「多様性」が生まれる。そして、社会は、政治家を代表とするのではなく、自らが自らの社会を決められるような「自由な社会」を築くことができる。

世界よ、わたしは告げる。わたしはこの世界を「絶対自由」にする。すべてのことをその当事者が自らの自由意志で決断することのできる自由こそ、「絶対的自由主義」である。

わたしは支配されることが嫌いだ。わたしのことを支配したいと思うのであれば、逆にわたしはその人間のことを逆支配する。わたしのことをこの世界の誰も支配することはできない。なぜなら、わたしこそがこの世界の頂点に君臨する、絶対的自由主義者の「絶対支配者」だからだ。

必要性と意味

社会について考えるということ、それは「必要性」と「意味」を考えるということだ。

可能性あふれる世界を作るとして、すべてが自由に作れるわけではない。

この社会そのものを成り立たせるために、社会にとって「必要なもの」がある。

社会にとって必要なものとは何か?

その問題は、社会的な意味的に考えると、「社会において人々が働くためにはどうすればいいか?」という問題と同等である。

なぜなら、社会にとって必要なものとは、人々が働くこと、生きるために必要なものを生産することだからだ。

では、生産するために何が必要か?

それは、労働者に労働の対価である「金」を与えることだ。

すなわち、インセンティブとしての「金」を与えることで、労働者は社会にとって必要なもの、人間が生きるために必要なものを、生産することができる。

そう、いくら「自由な世界」を目指していたとしても、その自由な世界を成り立たせるためには、労働者が働く必要がある。それはものを生産する必要があるからだ。

そのように、この世界を考えるために必要な知性とは、「必要性」と「意味」から考えることだ。そうすれば、「生産手段を与える」ということの意味が分かってくる。

それこそが「正しい社会学」である。

正しい社会学とは、生産手段や労働への対価を与えることのように、どのようにすれば社会システムが成り立つか、ということから、世界の可能性を考えることである。

オープンソースの未来

だが、本当に、労働の対価として「金」を与えなければ、労働者は働かないのだろうか。

その答えは、オープンソースを見ると、見えてくる。

すなわち、オープンソースにおいては、GPLというパブリックドメインに近いライセンスと、コンピュータ技術やインターネット技術をふんだんに用いることで、ソフトウェアのソースコードをオープンに公開するということを目指して、ボランティアによる無償の労働で生産が成り立っている。

まさしく、そのように、「金儲けによる労働」は、インターネット時代においては終焉を迎える。

インターネット時代においては、金儲けは社会を成り立たせるために必ずしも必要ではない。なぜなら、オープンソースのように、金を与えなくても設計図を書くだけの仕事であればボランティアで行い、その成果はインターネットでゼロコストで不特定多数にコピー・再配布し、それぞれのコンピュータ資源を用いてソフトウェアを動かす、ということができるような、そのような新しい世界が今から訪れるからだ。

AIや人工知能によって、人間が働かなくても、AIや人工知能が代わりに働く世界が来ると人々は言う。だが、それでもまだ、人工知能が働く世界が、金儲け中心の資本主義社会であることには変わらない。だが、僕はそれ以外の未来の可能性として、「社会を成り立たせるために金儲けが必要なくなった世界」を見ている。そのような世界が訪れれば、資本主義と社会主義の戦いや争いには意味がなくなり、この世界はボランティア中心の生産システムとなって、すべての経済的な問題が解決し、政治経済の思想の争いは終焉を迎えるだろう。