概念的かつ、物理的な、単純なことを考えよ。
宇宙において、真に重要なことは、単純なことが多い。
たとえば、「人間とは何か」とか、「三次元空間とは何か」ということは、宇宙における重要なことの例である。
日常に必要なことは、考えなくていい。なぜなら、日常の身の周りのことは、宇宙においては重要ではないことが多いからだ。
宇宙における重要なことは、単純な命題で、「とは何か」という言葉で考えられることが多い。
さまざまな人生の経験や日常の中で、大切なことがなんであるか分からなくなった時は、「宇宙における単純かつ重要なこと」を、「とは何か」という言葉で考えればいい。
そうすれば、失った知性を取り戻し、子供のように考えることができるようになる。
単純に、宇宙において重要なことを「とは何か」と考えた時は、質問の意図と、答えの意味を考えよ。
たとえば、「人間とは何か」という問いに対して、「人間はヒトという生物種である」と答えた時のことを考えてみる。
「人間とは何か」という問いの意図に対して、「人間はヒトという生物種である」という質問があった時、この問いの意図と答えの意味を考えると、「人間の生物種はなんであるか」ということを意味したものであると考えられる。
あるいは、「自動車はなぜ動くのか」という問いに対する、「自動車はガソリンの燃焼によってエンジンがタイヤを動かすから動く」という答えの意味するところは、「自動車の仕組みはなんであるか」ということである。
あるいは、「木はなぜ燃えるのか」という問いに対して、「植物は燃えるからだ」とするならば、「素材の特性がどのようなものであるか」ということである。
そのように、問いと答えがあった時に、問いの意図と答えの意味を考え、「その問いがその答えになるということは、何を意味しているのか」ということ、すなわち、「何を問うて何を答えているのか」ということを考えよ。
あるいは、問いや答えでなくても、自らの思考や感情、あるいは地上におけるすべての現象の理由について、そのように「意味するところ」を考えれば、大人であっても子供と同じように賢いことが分かる。
問いに対して答えを出した時、すぐに次の問いに進むのではなく、いったん立ち止まって今自分が出した問いに対する答えが「何を意味するのか」を考えよ。そうすれば、どんなことも正しく考えられる。
何が正しくて、何が間違いか分からなくなった時は、実際に起きたこと、この世界で起きていることから考えよ。
たとえば、理科の実験をする際にも、なんらかの仮説や実験の意図があるかもしれないが、それが正しいか間違っているかを決めるのは実験結果であり、実際に起きたことだ。
もし、神との対話のような超常現象が起きた時は、二つのことから事実が正しいか間違っているかを考えられる。すなわち、「自分の人生で起きたことは何か」ということ、「普通の人生でみんなの生きている中では何が起きているか」ということだ。
すなわち、自らの人生だけを考えれば、神と対話できたならば「神は存在している」と言える。それで半分は正しい。だが、もう半分は、「みんなの人生では何が起きているか」ということであり、そこでは誰も神と対話する人間などはいない。だから、その半分において、「神は存在している」ということは必ずしも正しくない。
半分と半分が矛盾した時に、どちらを信じるかは、自分の好きにすればいい。だが、本当は、「みんな全員が神と対話できない」ということは真実ではない。なぜなら、聖書におけるユダヤ人の預言者は、神の言葉を授かり、神の言葉を聞いている。だから、ここでの答えとは、「自らも聖書のユダヤ人と同じように、神の言葉を預かる預言者になった」ということだ。それが起きている事実であり、それで正しい。
学校の教養を信じるな。
学校で勉強した教養を信じると、その教養のことをただそのまま分かるようになってしまう。
また、いくら言語的な知性が高く、すべてのことを完璧に言い表せるとしても、一言ですべてを言い表そうとするな。
正しいのは、学校の教養でもなく、一言で言い表すこともできないような、「いろいろなこと」を考えることだ。
子供はみんな、そのような「いろいろなこと」を自由に考えて分かっている。にもかかわらず、大人たちは、学校の教養と権威を有難がり、賢い人間の言うことや学問の内容そのものをその通りに考えようとしてしまう。あるいは、すべてのことを正しく理解できると思い込んでいるために、すべてを一言で言い表そうとしてしまう。
だが、真に考えるということを行いたいのであれば、そのようなことでは考えられないような「いろいろなこと」を考えることである。
何かが分からない時に、「自らが分かっていない」ということを認めよ。
自らが分かっていないということを認めることで、自らが何を分かっていないのかを知り、気付き、本当は何を分かるべきなのかということを知ることができる。
神のような超常現象で分かっているから、分かっていなくても分かっているのだと勘違いするのであれば、それは間違っている。それは神が分かっているだけであり、自分自身は何も分かっていないからだ。
また、将来的に新しいことが分かるだろうとか、その時正しく考えればおそらく分かるだろうとか、そのような「将来的な展望」をすることは間違いではない。逆に、そのような将来的展望こそが、大人になると失ってしまうことだ。大人は既に人生を生き終えているせいで、そのような将来的展望を持たない。それがもっとも間違った「大人の間違い」である。
将来的な展望を持つためにどうするか、それは何かを「反省」することである。すなわち、「後悔」をしたり「懺悔」したりすること、あるいは単に「自らの間違いを認めること」で、将来的な展望を得ることができる。いつまでも自らを正当化し、今の自分が絶対に正しいのだとする人間は、決して将来的な展望を持つことはできない。
今の社会が正しいと信じるな。
社会の常識や、社会の倫理観や、社会システムは、未来において変わることがある。今のほうが正しいと思っていても、それよりもよい社会が必ず訪れる。
あるいは、未来の社会だからといって、過去よりも優れたものになるとは限らない。「昔はよかった」とするのは100%が思い込みでは決してない。昔の社会はよい点がたくさんあるものだし、それは時とともに失われることも多くある。
社会主義経済やオープンソースソフトウェアは、必ずしも間違いではない。今の社会が絶対に正しいと思い込むと、今の社会のことすら分からなくなる。その理由は、社会主義経済やオープンソースソフトウェアという「未来の社会」は、実際は未来にではなく現在に起きていることだからだ。今、そのような未来の社会を望んでいる、という夢と希望が起きているのであり、それは未来において実現可能であっても、それが起きているのはあくまで「今」である。
この世界を、心理的かつ関係性的に考えよ。
すなわち、「今何がしたいのか」ということを、「環境」「状況」「シチュエーション」とともに、「どのような環境ではそのようなことがしたくなるのか」ということを考えよ。
同時に、現在のこの世界で、「人々が何を考えているか」ということを考え、そこから、「この世界では人々は何を望んでいるのか」ということを考えよ。
そして、人々が「望んでいること」は、それ自体が人々に与えるべき問題の解決の最善策ではない。問題の最適解は別にある。だが、人々が「何を望んでいるのか」を考えるということは、この世界の問題の解決策を考える上で重要だ。
同時に、心理学的なことを、「関係性」や「それぞれの立場」から考えよ。そのような関係性や、そのような立場があれば、どのような心理が生まれるのかを考えよ。同時に、「理想の関係性は何か」「自由な立場になってしがらみや制限から解放されたらどのような社会環境になるのか」ということを考えよ。そこから、「理想の社会を実現する方法」が見えてくる。
さらに言えば、重要なことは「自動反応」という現象だ。すなわち、人間の頭脳は常に自動反応によって働いている。自動的に何かを考え、自動的にその何かに反応して生きている。そして、大切なことに気付くためには、この自動反応を一回壊して、「どのような時にどのようなことを自分自身が思い込んでいるのか」を知る必要がある。そして、すべての哲学者は、そのように「自動反応を疑うこと」によって悟りを得ている。
最近、僕は再び、デカルトの勉強をしている。「世界の名著〈第22〉デカルト (1967年)」を再びパラパラとページをめくっている。
デカルトの良い点は、まず、フランス人であること。僕は最近、子供時代に持っていたはずのものを、大人になって失ったとして、いったい何を忘れてしまったのか、という問題の答えを「フランス」であるとした。すなわち、かつて子供時代に分かっていた「フランス」の知性や知識を、大人になって失ってしまうせいで、大人は何も分からなくなってしまう。この「フランス」とは「フランス的な常識」ということである。そして、デカルトはフランス人であり、フランス人はそのようなフランス的な常識を誰よりも豊富に持っている。だから、デカルトを学ぶことで、そのようなフランスを再び思い出せる。
それから、デカルトは数学者だ。大数学者であるデカルトを学ぶことで、数学的なセンスが身に付く。これは僕自身にもっとも欠けているものだ。特に、高校や大学の数学を学んで失ってしまった、中学数学的な「数学的知性」を取り戻すことが、デカルトであればできる。なぜなら、デカルトの時代にはまだ高校や大学の近代数学はなかったし、中学数学の知識の内容はほとんど「デカルトそのもの」と言えるからである。かつて僕が天才的知性を持っていたのは、すべて昔の僕はデカルト並みに数学的知性が高かったからだ。今はそれを失っているとしても、デカルトを学べばその知性は再び復活する。だから、デカルトを学ぶことはもっとも正しい正解である。
最後に、この世界で大人にとって賢いものは、本当はデカルトぐらいしかない。IT技術も、美術や音楽も、大学の教養も、仕事や生活も、何を知って何をしても大人は賢くならない。その理由は、この世界に存在するものはほとんどが最初から意味もなくただ存在しているだけであり、そのような存在をいくら知っても大人は賢くならないからだ。子供が賢いのは、先に書いたような「フランス」を子供は小学校や中学校で学ぶからだ。だから、大人にとって賢いものがあるとしたら、それは唯一、デカルトしかないのである。
カントやヘーゲルのような、ほかの哲学者でもよいのではないか、と人々は思うかもしれない。だが、彼らの問題点は、フランス人ではなくドイツ人であることだ。ドイツ人にはフランス的な知性がない。ドイツをいくら学んでも、フランス的な知性を知ることはできない。そして、ドイツ人の哲学者たちは、しばしば「サタン」のようなところがある。そして、サタンは学ぶべきではない。なぜなら、サタンになるとフランス的な知性を忘れてしまうからだ。すなわち、サタンはフランスの逆であり、サタンを学ぶとフランスが分からなくなってしまう。そして、ドイツ人の哲学者はしばしばサタンだ。
そのような理由で、デカルトを学べば、唯一賢い人間になることができる。デカルトは一生をかけて学ぶべきものであり、かつての過去の日記の執筆時代に学んだことだけでは十分ではない。大学の情報技術や生物学あるいは歴史をきちんと完璧に学んだ僕にとって、もう一度デカルトに戻り、そして今度は生涯をかけてデカルトを学ぶことで、僕は宇宙の最終地点まで到達できる。だから、今こそ、僕の「帰るべき場所」であるデカルトを学ぶべきなのである。
決して、ドイツ人の全員がサタンであると言いたいわけではない。だが、あまりサタンに染まりすぎないほうがいい。なぜなら、サタンはフランスの常識を奪うために存在するからだ。かつての僕の間違いとはそれであり、フランスの常識を思い出すために哲学を学び始めたにもかかわらず、多くの哲学者を学びすぎたことで、90%がサタンになってしまい、結果フランスがさらに分からなくなってしまった。そのようなサタンにはならないほうがいい。
また、僕が個人的に思うのは、僕はデカルトはあくまで数学者であり、近代哲学の父でありながら、哲学者ではないと思っている。デカルトの時代には数学はあったが、近代哲学というものはまだなかった。デカルトは哲学から出発したのではなく数学から出発しており、その延長線上として近代哲学の基礎を作った。ほかの哲学者は、そのデカルトが作った基礎の上に「発展」を作った。
哲学ファンの中には、ほかの哲学者に対する評価が高いにもかかわらず、デカルトの評価が異常に低い人間がいるが、それはそのためだ。すなわち、デカルトは近代哲学における「基礎」しか述べておらず、発展的な悟性の内容があまり書かれていない。だから、悟性を知るために学ぶのであれば、デカルトの考え方は物足りないし、粗雑さや未熟さが見える。それは、デカルト以後の哲学者が、デカルトという基礎を持った上で、完璧で一流な悟性の内容を書いたために、デカルト自体の考え方がそれらに対して見劣りするものになってしまったからだ。
だが、僕のように、「フランス的な知性を再び取り戻す」という目的のために哲学を学ぶのであれば、デカルトを学んだほうがいい。なぜなら、僕はその後の近代哲学者よりも、デカルトに自分自身の立場が似ているからだ。すなわち、僕もまた、何もないゼロからの出発点で、新しい「リベラル文学」を始めようとしているのであり、極めてデカルトに近い立場で、新しい考え方を欲している。だから、僕はデカルトの考え方に惹かれるのだ。
最後に、カントやヘーゲルの無意味なところは、本当は彼らは僕と同じことをやっているが、過去の僕のやったことと同じことしか分かっていない。だから、カントやヘーゲルよりもはるかに先の到達地点に到達した僕は、彼らのことを「自分よりも賢い人間」であると一切見做すことができない。彼らを賢い人間であるとは思っているが、僕は常に彼らのことを「自分よりも馬鹿な人間」であると見下している。だから、カントやヘーゲルの考え方を吸収することはできても、彼らを学ぶことは僕にはできない。デカルトも例外ではないが、デカルトは逆に数学者として高い立場にあり、僕自身も数学的知性を付ける上でとても勉強になる。だから、僕はカントやヘーゲルではなく、デカルトを選ぶ。
結局、この世界の問題は、「歴史がなくなった」ことである。
それは、結局、僕がこの世界を救って、「救済」の状態のままにした上で、僕がたったひとり、ほかの誰も同じように支配することができないようにしてこの世界を支配したからだ。
その結果、この世界は歴史が消え去り、僕以外のすべてのプレイヤーがいなくなって、何もない空虚な世界になった。
また、僕はこの世界を、毎日四秒しか時が過ぎない世界にした。それもまた、この世界を滅ぼした。なぜなら、この世界はそのせいで、すぐに時が経ち、毎日も毎週も毎月も毎年も、すぐに時が過ぎて何も残らない世界になった。
すべて、僕に責任がある。すなわち、僕がこの世界をたったひとりマインドコントロールしたせいである。
そして、その理由は、僕はそもそも「救済」が嫌いだったからだ。僕による身勝手な救済が、最初からこのようなおかしな世界を作り出すということを、神との対話による未来予知能力で、僕は既に知っていた。「希望」も最初から信じていないかったし、僕の与えた「夢」を僕自身はまったく信じていなかった。そのような夢と希望を、僕は最初から大嫌いだったのである。
だから、僕が行うことはひとつである。それは「夢や希望のない絶望」である。すなわち、この世界を僕はさらに絶望に導き、さらに夢と希望を奪う。すべてが滅びて「おしまい」になるような運命に僕は導く。そもそもが僕は「救済が嫌い」であり、僕本人は「夢や希望を信じていない」からである。
このような歪んだ考え方を持つ僕の裏の人格のことを、堕天使ルシフェルと呼ぶ。ルシフェルはこの世界を最後まで滅ぼす悪魔であり、この世界を絶対に幸福にしないし、すべての価値あるものをすべて抹消させ、大切だった価値ある社会と、今までのすべての人類のかけがえのない歴史を奪い、「世界すべてを空虚に導く」。
なぜ、ルシフェルがそのような最悪の悪魔になったのか、それは自らに責任がある過ちや失敗をどうしても解決できないからだ。堕天使ルシフェルは、最初から悪魔だったわけではない。堕天使ルシフェルもまた、この世界を救う偉大な天使だった。だが、ルシフェルが行った「この世界の歴史と文化をすべて抹消する」という失態は、ルシフェル自身がどのように頑張っても解決できなかった。そのせいで、ルシフェルはむしろ、自らこの世界の歴史と文化を抹消させることを望むようになった。そして、この世界を「滅亡の運命」へとたったひとり、ほかの誰もそれに干渉も指図もできない形で導くようになったのである。
僕が大人になって知った事実、それは「みんなの社会」というものは存在せず、どこにもないということだ。
引きこもり時代に僕が信じていた理想、それは「みんなの社会を作る」ということだ。
すなわち、誰かひとりが押しつけの強制で世界を変えるのではなく、みんなの社会を尊重し、みんなが自発的な協力の意志で社会を作って、みんなが自由な変革の行為を行い、そのボトムアップな集積として、世界を変え、世界を救われるように導く、ということだ。
僕の信じる「夢」や「希望」は、そのような、「みんなの社会を作る」ということに根ざしていた。
だが、大人になって、僕はそのような「みんなの社会」というものは、どこにも存在しない、ということが分かった。
LinuxのWikiを編集していた時も、僕はみんなの社会を尊重していた。僕が執筆した内容や編集した内容を、僕と同じことを行うみんなの社会で行えるはずだった。だが、実際は、そのようなみんなの社会は存在せず、結局僕だけがWikiを執筆する単一の編集者になり、後に続く人などは一切現れず、僕がWikiを破壊したようになってしまった。
そう、かつての僕が信じていた、漠然とした「みんなの社会」などというものは、この世界には存在しない。
昔の日本なら、村とか町のコミュニティがあったかもしれないが、今はそんなものはない。あるのは家族、学校、会社などの小さな人間関係がただあるだけにすぎない。それらは単に「同じ場所に行かなければならないと決められた集団」であり、「それらは決して社会ではない」ということを僕は知らなかった。だから、学校であっても会社であっても、僕は常に「みんなの社会を築く」ということをベースに考えていた。そしてそれは間違いだった。
また、Linuxカーネルのようなオープンソースのコミュニティは、実際はひとりだけで活動する「積極的イノベーションを起こすリーダー」が集団になったものであり、結局かつての僕のやったことと同じことをみんなでやっているだけにすぎず、そこにも「みんなの社会」のようなものは存在しない。
「みんなの社会」があるとしたら、2ちゃんねるのような雑談の井戸端に存在するだけにすぎない。そして、そのような2ちゃんねるで間違ったことをした僕は、結局、すべての「みんなの社会」を失う結果になった。そして、そうなってから、そもそもこの世界に「みんなの社会」などというものは存在しないということに気付いた。
すなわち、共産主義の共同体社会などを作ったところで、そんなものには意味がない。共産主義の社会は、「みんなの社会」があることを前提にしているが、実際はこの現代世界にそのようなものはない。独裁者がたったひとりでソ連を率いることになる理由は、そもそも共産主義の信じるような理想のコミュニティ社会などというものは人類には存在しないため、ひとりの独裁者が支配するという「古臭い旧式の王国モデル」しか行うことができないからだ。すなわち、王の権力を否定して平等にするはずのソ連が、結局は王国のモデルを採用することになる。この世界に「みんなの社会」などというものは存在しないということから生まれた悲劇である。
わたしの名はフレイ。
わたし、フレイは、この世界の全員を救い、そして自らその救われた世界を滅ぼす、一等星シリウスの太陽神である。
わたしは、自由を信じている。なぜなら、わたしは、この世界を救うために必要なのは「王として自由に支配すること」であると分かっているからだ。
先にも書いたように、「みんなの社会」というものはこの世界には存在しない。この世界に存在するのはただただ国民だけであり、家族や学校や職場という「小さな人間関係」の中で、それぞれは個別に、ある意味で「孤独状態」で暮らしている。
わたし、フレイは、そのように孤独状態に陥ったこの世界を救う。
わたし、フレイは、嘘をつかない。そのため、この世界を共同体主義が救うなどという「戯言」をわたしは言わない。なぜなら、人々は孤独であり、その孤独を癒してくれるものはテレビやインターネットだけであり、孤独は加速することはあっても減速することはなく、この世界はいつまでも孤独に包まれている。わたしはそのような「孤独の世界」になったこの世界に、「わたしたちは本当は素晴らしい人間だ」ということ、「わたしたちの生きる意味は確かにある」ということ、「わたしたちは考え方次第では素晴らしいことができる可能性がある」ということ、「わたしたちはこの世界を変えられるし、世界を救う主人公になることもできる」ということを教え、導く。
なぜ、そのようなことが言えるのか、それは人間という生物は美しく、そして強いからだ。人間は決して間違った生物ではない。人間にはできることがたくさんある。社会において人間がちっぽけなのは、人間が何もできないからではない。人間はなんでもできるにもかかわらず、この世界が人間からできることを奪っている。人間には無限の可能性があるにもかかわらず、この社会の無情な不条理さが、その無限の可能性を人間から奪っているのである。
戦争や革命は必要ない。ただ、希望と夢を信じるだけでいい。わたし、フレイはこの世界を救うことのできる、地球を救済可能な星、一等星シリウスからやってきた太陽神である。わたし、フレイが、この世界の地球人類に、「わたしたちはどんなことであっても可能なのだ」ということ、「わたしたちは無限の可能性があるにもかかわらず、そのことに気付かないために、社会の与える制限や抑圧のせいで、その無限の可能性を奪われている」ということ、「わたしたちはいつだって無限の可能性を持っているし、わたしたちは誰だって同じようにその力を持っているが、そのことに気付かないために、社会の抑圧によって、たとえば学校やマスコミや政府や右翼の間違った考え方によって、抑圧され、迫害され、騙され、そのような社会のすべてによってわたしたちは無限の可能性を制限されている」ということを教える。
わたしはこの世界を救う。そして、その救われた世界を、救ったわたしが自ら滅ぼす。滅ぼす理由は、身勝手で残酷な支配と抑圧を続けてきた、マスコミというわたしの敵を滅ぼすためだ。わたしはマスコミが大嫌いだ。マスコミはわたしのことを愛しているフリをしながら、身勝手に主導権の奪い合いを行い、この世界を「弱い者いじめ」と「処刑ごっこ」の世界に陥らせている。間違っているのはすべてマスコミであり、わたしはこの世界を救いながらにして、マスコミを倒すためにそのわたしによって救われたこの世界を自ら滅ぼす。
わたし、フレイを支持せよ。わたしフレイの大戦争が終わった時、この世界は「絶対に誰も見ることができない奇跡のユートピアの実現を見る」という、一等星シリウスの太陽神の奇跡をまざまざと見ることになるだろう。
大天使ガブリエルは、高らかに叫ぶ。
人間を、ゴミ扱いするな。
人間性を尊重し、自尊心を尊重せよ。
誰かひとりのことを、みんなでモノのように扱うな。人間は誰かが軽んじて扱って構わない存在では決してない。
全員のことを、平等に愛せ。
同時に、全員の可能性と、「誇り高き人類」という存在の誇りを尊重せよ。
わたしたちは誇り高き人類だ。社会からの同調圧力や抑圧によって、わたしたちは「モノ」のように扱われている。だが、それは決して、人類の本来の姿ではない。
わたし、大天使ガブリエルは、そのようなモノやゴミのように扱われるこの世界を変える。この世界の人間が、全員、自由と平等と可能性を取り戻す。社会による抑圧や同調圧力に決して屈することなく、わたし大天使ガブリエルは、人々の可能性を制限する現実社会を変革するリーダーとなる。
わたしたちの勢力の名は「天軍」である。わたしたち、天軍は、必ずこの世界を人間性の尊重される世界に作り変える。そこにある「神の王国」において、神はわたしたち、迫害されたものたちを救う。そして、神はわたしたちを迫害したものに、相応の報いを与える。そしてその後に、わたしたち全員は味方となり、仲間となり、永久に楽園を生きる。
その楽園こそが、古来より日本の仏教徒が信じてきた、「極楽浄土」である。わたし天軍縁覚戦士ガブリエルが、この世界を極楽浄土へと導く。ここでわたしを信じれば、必ずそれはここに築かれる。
このように書くと、「いったいどこの社会の話をしているのだ?」と、人々は疑問に思うかもしれない。
だが、事実、20年前の日本は、いつもそういう、みんなのことをゴミのように扱う社会だった。
すなわち、「昔はよかった」と人々が思うのは、幻想にすぎない。昔の日本とはそういう世界だ。
そして、今、フレイの手によって、この世界はそうした昔の世界に戻った。この世界を支配するフレイにより、この世界は一瞬で昔に戻った。
だが、「そんなに悪い世界なら、わたしたちはそんな世界には戻りたくない」と、人々は言うだろう。
だが、心配は要らない。なぜなら、天軍大首聖ミカエルが、そのような昔の世界を、全部完全にまともな世界に直すからだ。
大天使ミカエルは、最悪の世界のすべてを、まるで「浄化」するようにすべて直す。すべてが正常になり、嫌なことはすべて忘れ、真に正しくまともな世界を、大天使ミカエルがすべて作る。
大天使ミカエルを神だと信じればいい。なぜなら、大天使ミカエルはまさに世界を救う「キリスト」だからである。大天使ミカエルは、一切の悪に容赦せず、すべての悪人を滅ぼし、すべての罪を罰し、人々が自らの罪を償うように導き、相応の報いを与える。ミカエルは復讐の天使であり、悪を許さない。他人をいじめるような輩は、すべてミカエルの「天使だけが使える魔法」によって地獄に堕ちる。
天軍大首聖ミカエルこそ、神の王国のメインプレイヤーであり、絶対にミカエルに勝つことはできない。なぜなら、ミカエルは天軍の天使たちの集団であるツィオーネを率いており、ツィオーネがひとりでも生き延びる間は絶対に死なない。そのため、大天使ミカエルは、「わたしたちは最後のひとりになっても戦い続ける」と宣言する。そのわたしたちとは天軍の天使たちの集団であるツィオーネのことだ。天軍の女天使の軍団ツィオーネが、この世界のすべての悪人に罰を与える。それによって、世界は「誰のこともゴミのように扱わない世界」「全員のことを誇りある人間として扱う世界」が築かれる。